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2021年3月5日金曜日

2021.03.05 ビバ! インターネット

● この時期,とにかく群れてはいけないのだから,群れるのが嫌いな人にとっては追い風だ。
 ぼくは昨年4月から完全引退してずっと家にいる生活になったので,勤勉な人と同列に並べるのはアレなんだけど,コロナを逆風だと感じたことはない。大手を振って群れない生活をできるんだから,時代が自分に味方していると思っている。

● 会社や役所でも歓迎会だの忘年会だのという宴会がなくなった。そんなことのために幹事をやらされる人がいたのだからお気の毒にもほどがあるというものだが,それももはや遠い昔のことのように思えるのではないか。
 喜んでいるのは若い人たちだけではない。部課長もホッとしているだろう。部下と飲みたくて飲んでたわけじゃない。半ばは責任感からだ。若い人の話を聞いてやれと言われ,しかしその方法がわからず,昔からある飲み会に流れていただけのことだ。

● 昨年は何も困っていないのに10万円ももらえたり,東京のホテルにあり得ないほどの安い値段で泊まれたりと,コロナのおかげでいいことだらけだった。
 10万円はもうないらしいが(なくていいと思う),GoToトラベルは黄金週間前には再開されるだろう。払った税金を取り戻すつもりで,どんどん活用するのがよい。しかも,それが国策に協力することになるのだから,誰に何と言われようと,後ろめたく思う必要などない。

● ともあれ,群れない生活ができるのはコロナの追い風だ。が,もうひとつ,ある。インターネットだ。
 今や,引退後のQOLを決める第1要因はインターネットだ。インターネットを味方につけるか,敵に回すか,敵でも味方でもなく関わりのない存在にするかで,QOLが大きく変わってくる。

● 隣近所との付き合いを大事にしろ,自治会活動に参加することで地域とのつながりを保つことが重要だ,と,つい最近まで言われていた。
 が,この1年間はその自治会活動も事実上の休眠状態になった。その結果,困ったという人はおそらく1人もいないのではないか。自治会など要らないものだということが,誰の目にも明らかになったと言っていいだろう。
 そういうものの比重は大きく低下した。リアルよりもネットの方が,個人の生活に及ぼす影響が大きい。特に,引退後のロートル世代にとってはそうだ。

● インターネットは全世紀末に登場したもので,その以前にはなかった。しかし,今では個人生活のインフラで最も重要なものがインターネットだと言っていいだろう。
 回線が太く速くなって,動画や音声がリアルと同様に扱えるようになった。エンタメの多くはネットで満たせるようになったし,いわゆるコミュニケーションもネットで行えるようになった。
 リアルに比べると,特に個対個のコミュニケーションには限界があるが,限界を取り払って野放図にコミュニケーションするなんてのはあり得ないわけで,じつは限界があるくらいがちょうどいい。

● そこにコロナだ。群れること,移動すること,喋ることが忌避されるわけだから,その欠落を補うものとしてネットの存在感は格段に大きくなった。リモートワークもインターネットがあればこそ成立する。
 そのリモートワークをやらざるを得なくなっている現役世代の人たちは,ZOOMを使いこなして,その予想以上の効用に感嘆する局面が何度もあったのではないか。

● ぼくらロートルはそういうことはない。ZOOMでオンライン飲み会だとかオンライン雑談会をやろうとすればやれるのだろうけれども,群れることが嫌いだった人間があえてそんなことをするはずもないし,声がかかるわけもない。というか,群れることが嫌いな人の知り合いに,そんなことをしようと言いだすヤツはいない。
 だから,ネットの使い方はコロナ以前と変わるところはない。変わらない使い方でも,これがなかったら引退後の家にいる生活にこれほどスムーズに移行できたかどうか。

● 最近の定年組は,現役時代に仕事でパソコンを使っていた。メールもネットも使っていた。
 10年前に辞めていった人たちに比べれば,圧倒的にITリテラシーは高い。ブログにもSNSにも抵抗はないだろう。そうしたものに対して,自分の方から壁を造ってしまうという愚は犯さないはずだ。
 でれば,コロナ禍の今も,家の中にあって,さほどの不自由感もなく,閉じ込められたという閉塞感も持つことなく,ストレスフリーで日々を回せているのではないか。

● というわけで,自分が引退するときにインターネットがあってくれたことが,しみじみとありがたい。ビバ! インターネット!!

2020年11月10日火曜日

2020.11.10 YouTube の恩恵

● 昨夜のこと。YouTubeで村下孝蔵「踊り子」を聴いたんですが,いい歌じゃありませんか。で,歌もだけどこちらの画像もいいじゃありませんか。こんな美人見たことないぞ,誰?
 堀北真希だと気づくまでにけっこうな時間を要してしまったよ。10代でしょうね。この角度だとほぼ完璧じゃないですか。

● 伏し目視線だと誰でも美人に見えるんだよという人がいますか。そんなことはないと思うよ。
 その人的に最も美しく見えるってのはあるかもしれないけれども,あくまでも “その人的に” ってことであってね。右の写真のようにはならんでしょうよ。

● この曲のシングルが出たときには,堀北真希は生まれていないから,後に誰かが作ったもの。プロの仕事でしょ,当然ね。
 テーマは美人薄命。陰を抱え持った存在感の薄い美女。リアルにそんな女性がいるのかなんてどうでもよろしい。堀北真希は見事に応えておりますよ。

● 引退して今は激太りとか言われてますが,そりゃ普通のオバサンになったんだから,太りもするでしょう。いいんですよ,別に。
 女優復帰に気持ちが向けば,短期間でそれなりに仕上げてくるでしょうよ。元がいいんだから。

● でね,フルスクリーンにしてこの曲を聴いてると,画像との相乗効果でね,幸せな気分になれますわ。
少なくとも男性にとって最大の癒やしになるのは,雄大な自然景観とかじゃなくて,こういう画像じゃありませんか,ご同輩。
 これを見るためだけにパソコンやスマホを買っても,損はしないと思いますよ。

● 半世紀前はブロマイドというのがあった。スター(当時の言葉ね。今は使わなくなったねぇ)の写真を印刷したものなんだけど。雑誌の付録に付いてきたり,雑誌本体の中に切り取れるような形で入ってたりしてた。
 で,好きなスターのブロマイドを教科書に挟んでおいたりするわけですよ。そのブロマイドが今ならパソコンやスマホでスクショすればできてしまうんだからね。わざわざそんなことをして,ブロマイドを作ろうとする人はいないと思うけど。

● というわけで,「踊り子」を20回くらい連続で聴いた。っていうか,堀北真希のこの画像をずっと眺めておりましたよ。
 こういうことはさすがに一晩で飽きるもので(飽きなかったらちょっとマズいでしょ),でも,飽きたら飽きたで次がある。

● 今日はJR東海のクリスマス・エクスプレスのCMを数回繰り返して見てしまいましたよ。1988年の深津絵里,1989年の牧瀬里穂・・・・・・。深津絵里,16歳のときですか。
 日本がバブルのときですかねぇ。パソコンは高価でなかなか買えなかったし,インターネットも一般人にはまったく知られていなかったと思うけど,総体としては今よりはるかに勢いがあったし,豊かだった(ぼくは今の方がいいけど)。

● だからこそ,クリスマス・エクスプレスなんていうCMも成立したのかもね。
 CMとしてはとても良くできていて,今でもYouTubeのPVは増え続けているはずだけれども,劇中のカップルはたぶん途中で別れてるよなぁ。そんな感じするよねぇ。ここまで熱烈じゃ長続きはしないよ。

● あと,将棋の故米長永世棋聖のラジオ番組が載ってたりするので,そんなのを聞いたりね。
 欲しいものは YouTube の中にだいたいありますわね。次々にあたっていけばいいんでしょうね。次々に飽きるけど,無尽蔵にあるんだから飽きることを怖れる必要もない。

● 「踊り子」に戻るんだけど,この曲,中森明菜もカバーしてるんですねぇ。YouTube が自動的に表示してくれるだろうから,聴き比べてみるといいですわね。
 同じ曲なのにまったく曲調が違ってしまう。村下孝蔵は過ぎた青春をサラリとふり返っているのに対して,中森明菜の方は現在進行形のドロドロ感が強烈でね。良くも悪くも情念を載せる人だね,中森明菜って。その情念の表現力が並じゃない。

2020年8月19日水曜日

2020.08.19 パソコンやスマホにワクワクしなくなった訳

● 昔はパソコンショップに行くとワクワクしたものだった。近未来がそこにあるという感じで。宇都宮だと戸祭にパソコンランド21があり,馬場町にT-ZONEがあり,駅東にαランドがあった。駒生のコジマに行くのも楽しみだった。
 新製品が出れば見に行ったし,カタログをもらってきて1ページ目から見ていくのもワクワクする体験だった。

● が,今は,そうじゃなくなった。パソコンもスマホも何のワクワクもくれない機械になった。コモディティ化したからだと言われれば,なるほどそうかと思うわけだが,それでは何も説明していないようにも思える。
 とはいえ,パソコンもスマホも,夢を見させてくれないようになってからの方が,ガシガシ使うようになっている。

● なぜコモディティ化したのか,ワクワクしない機械になったのか。誰もが使うようになったからというのが,第1の理由。ワクワクするのは前提として自分が少数派に属しているという自覚があればこそだ。
 第2に,スペックの向上ができることの質的変化と結びつかなくなったからだ。今は5年前のパソコンでもまったく支障なく使うことができる。今世紀の初頭なら,5年というのは文字どおり一世代の違いを意味していたと思うのだが。

● 表計算ソフトもワープロソフトも,夜に出た当初はすごいものができたものだと思わせた。これを使えば,今までやってきた作業を大きく省略できると思わせた。しかも,間違うことがないのだ。自分の能力を拡張してくれるもののように思えた。
 インターネットもそうだ。個人が自分のホームページを持つのはハードルが高かったけれども,ブログができSNSができると,誰もが誰に制約されることもなく,自分が思うことを世に問うことができるようになった。

● 画期的なことだったはずだが,誰もがそれをやりだすと読み手がいなくなった。
 さらに,情報の流通経路がいかに整備されても,凡百の意見はその経路の中で止まってしまう。速度が与えられない。後には徒労感と無力感だけが残る。

● パソコンのスペックがいくら上がっても,パソコンでできることはそのあたりで止まったままだ。
 VR体験をパソコンで味わおうとすれば,最新型のスペックでも足りないのかもしれないけれども,そうしたフロントラインに立っていない多くの人にとっては,スペックの向上がどうでもいいものに見えているのではないか。

● ともかく,パソコンやスマホを見ても昔のようにワクワクしなくなった。パソコンは誰でも持っている,どこにでも転がっている道具になったのだ。
 しかし,それ以上に,スペックの向上が自分の能力を拡張してくれるものではなくなったからではないか。パソコンを使ってもここで止まったままの自分の能力を見る思いがするからではないか。

● 自分はこの程度だったのかという終わった感。それがパソコンやスマホに昔のようなワクワク感を覚えなくなった理由かもしれない。
 昔は,パソコンやスマホに今とは違うステージにいる自分を想像させる力があったのだ。が,今はそれを想像することができない。そして,それはパソコンやスマホが悪いのではない。

2020年8月14日金曜日

2020.08.14 発信手段はどんどん増えるが・・・・・・

● インターネットがあれば誰でも情報を発信することができる,自分のメディアを持つことができる,と言われてきた。
 初期のホームページの時代は,発信するのは企業や行政府や大学といった,法人かそれに準ずるようなところだけで,個人ではなかなかハードルが高かったが(IBMの「ホームページビルダー」なんてソフトがあったけど),ブログが生まれ,SNSができると,そのハードルが一気に低くなった。っていうか,ハードルが消滅した。

● 最近では “note” なんてのもできた。ブログとどう違うのか,ぼくはよく知らないが。
 SNSだけでも,Twitter,Facebook,Instagramの御三家があり,LINEもSNS機能を備え,今ではYouTubeもSNSに数えていいだろう。他に,Mastodon,Snapchat,SNOWとあるのだ。ぼくが知らないだけで,他にもあるのだろう。
 発信方法は多様になる一方だ。テキストから始まり,画像,音声,動画も取り扱えるようになり,今や猫や犬に変身することもできるようになった。

● ブログを書きつつ,TwitterとFacebookとInstagramをやり,さらにnoteにも手を出している人もいるだろう。媒体に応じて内容を変えているのではなくて,同じものを複数の媒体にあげているのではないか。
 なぜそんなことをするのかといえば,読み手を獲得したいからに違いない。しかし,結果は虚しいものでしょう。
 媒体を増やしてみてもダメなのだ。つまり,ゼロはいくら加えてもゼロだからだ。

● 今や,ネットにおいては書き手ばかりで読み手がいない。
 SNSはお互いに書き手であり読み手ではないのかと思うかもしれないけれど,そうではない。他人の投稿など読んじゃいない。読み流して“いいね”を付けているだけだ。
 自分を顧みればわかるはずだ。他人も同じことをしている。

● ブログもSNSもnoteもと,何にでも喰いついているようでは,その時点で終わりではないか。根拠があって言ってるわけではないんだが。
 同じ内容を複数の媒体を使って発信してみても仕方がない。ブログならブログ,TwitterならTwitter,noteならnoteとメインをひとつ決め,補助的にもうひとつ使うくらいでいいのでは。
 Twitterで何十万人というフォロワーを獲得している人が,別の媒体からうちでも何か書いてくれないかとスカウトされて,結果,いくつもの媒体に書いている人もいるかもしれないけれども,当然ながら,一般人のロールモデルにはならないものだ。

● さらに根拠のないことを言うと,SNSの時代もすでに最盛期は過ぎたのではないかと感じることがある。インフルエンサーとかユーチューバーとか,何万人ものフォロワーや何十万ものPVを得て,高収入を得,もてはやされるのも,終わりが近いかもしれない。
 厭きられない人はいないのだ。諸行は巡る。

● 有名になりたい? インフルエンサーになりたい? 無名こそ,最高ではないか。無名は生まれながらにして誰もが持っているものだ。それをムザムザ捨ててどうする?
 金持ちになるのはいい。が,有名になった結果,金持ちになるんじゃ,トータルでゼロだ。“有名で貧乏”は最悪だ。貧乏なら,無名が有名に勝る。
 何が言いたいのかといえば,あなたは(ぼくもだが)最下層ではないということだ。あなたよりも下が必ずいる。なぜなら,あなたもぼくも無名だからだ。ぼくらの下に“有名人”がいるのだ。そういうことだ。

● ネットで無理な演技をしても仕方がない。タンポポがネットでバラになろうとしても無理なこと。
 自分がタンポポであることをそろそろ認めた方がいいんじゃないか。タンポポにはタンポポの咲き方があるはずだから。

2020年3月17日火曜日

2020.03.17 Amazonプライムビデオに復帰 2

● 今夜もAmazonプライムビデオを見た。8日連続。もう習慣になったか。こうなってみると,なぜずっと見ないでいたのだろうと思う。
 ぼくは23時に就寝しているのだけど,何をして23時まで起きていたのだろう。ほんの数日前までのことが,何だか不思議なことに思えてきますな。

● いや,不思議ってことはない。ダラダラとTwitterやGoogleニュースを見ていたわけだ。何もしないで時間を流していたってこと。
 Amazonプライムで映画を見るのはムダではないのかと言われると,そこは何とも言えないのだけど,酒を飲んでずっとPCでネットをザッピングすることがムダであることは間違いない。そのムダを途方もない長い間,続けてきたことも間違いない。

● Facebookをやっている頃は,一層そうだった。ネットを使って自分が何かを発信するようになると,自分が発信したものを何度も見ることになってしまうのだ。そうじゃない人もいると思うのだが,ぼくは自分が出したものに粘着してしまうタイプだ。
 それに対して,強制的に時間制限をかけられるといいのだけど,それがなかなか難しい。それをやってくれるのがAmazonプライムビデオだ。しかも,何らのストレスなしにそれを実現してくれる。

● そのAmazonプライムビデオをある時期からパタッと見なくなったことが問題なのだ。その理由は何か。見たいと思う映画が見えなくなってしまったってことなんだけども,リアルにそんなことが起こるはずはないのだから,こちらの心構え,姿勢に何らかの空白ができてしまったというわけだろう。
 その空白はこれからも繰り返し発生するものだと思うが,可能な限り今の状態を維持して,ネットをザッピングする時間を抑制したいものだ。

2019年11月7日木曜日

2019.11.07 ネットの光と影

● 日清どん兵衛とサントリーオールドの昔のCMをYouTubeで見て,ほっこりしている。昨夜は,AKB48や昔の懐メロを続けて聴いて,良い気分になった。
 こういうものをまとめて見れるのも,ネットの恩恵。いや,便利な時代を生きている。

● ネットのおかげで,お金を使わないでできること,楽しめることが格段に増えた。YouTubeで無料で見られる映像は無限にあるわけだ。
 その中には,たとえばベルリン・フィルハーモニーのライヴも含まれる。娯楽から文化教養まで,バラエティは豊富すぎるほどだ。
 映画だって,年額4,900円を払ってAmazonのプライム会員になれば,最新の映画を除けばほぼ見放題だ。一生見続けても,見られるのはごく一部にとどまるだろう。飽きる前に寿命が尽きるだろう。

● デフレなんだからモノに対してお金の価値があがるはずなのだが,ネットがそこを帳消しにしている。お金がなくてもできることが増えるというのは,お金の価値を下げることでもある。
 お金がないからというのが言い訳にならない時代になりつつある。ある意味,救いのない時代だ。能力,才能,器量の有無があからさまになって,自分に対する言い訳を拵えることも難しくなってきた。

● パソコンもインターネットも,エリートではなくて弱者のためという触れこみで普及していった。役所や大企業のコンピュータールームに鎮座まします権威の象徴のようなでっかいコンピュータじゃなくて,誰でも使える小っちゃいやつ。
 実際には,パソコンもネットも能力格差を拡大する役割を果たした。能力のある人はネットとパソコンを使って,いっそう影響力を大きくするが,そうじゃない大多数の人は,Twitterやブログを与えられたところで,誰にも読まれないゴミの山を作るのがせいぜいだ。

● しかし,その大多数の人たちに対してでさえ,ネットはマネーセービング効果をもたらしたと思う。お金がないというのが言い訳にならないのと同時に,お金に振り回される度合いを小さくしたことはたしかではないか。
 お金がなくても楽しく生きられる。それはあまりに小さくまとまった楽しさかもしれないけれども,人間にはそれが分相応なのだという言い方もできるだろう。

2019年10月4日金曜日

2019.10.04 老後の話相手はスマホ

● 10年後,20年後(生きていれば)は,たぶん,SiriやGoogleアシスタントが徒然を埋めるための話相手になってくれそうな気がする。
 この分野の進歩,変化はとんでもなく速いから(というか,凄いから)2,3年でかなり状況に違いが出ているのではなかろうか。

● 生身の人間の話相手がいなくなっても,スマホと話ができるかもしれないと考えると,それだけで愉快だ。
 スマホと楽しく話をするためには,スマホにこちらのことをよく知っておいてもらわないといけない。自分の趣味,自分の好み,どんなことをしてきたか,何を大事にして今まで生きてきたか。そういうことをスマホが全部知っていて,そのうえで話題を選んでくれたり,応答を決めてくれれば,人生の最終盤を退屈しないで過ごせるのではないか。

● だから,スマホを良き話相手に育てるためにも,自分をそっくりネットに移すというくらいの勢いで,ブログでもSNSでもやった方がいいと思う。
 世界に向けて自分を発信するといった大仰なことではなく,ネットを利用して知らない人とコミュニケーションを図るといったことでもなく,スマホを良き話相手に育てるために,自分の老後のために,SNSやブログを始めてみてはどうか。そうしてずっと継続すること。
 自分をネットに移せばそれでいい。他人様の評価は二の次三の次だ。っていうか,そんなものはどうでもよい。

● 夢物語だろうか。しかし,夢物語というなら,インターネットも個人がコンピュータを持つことも,いや日本語をキーボード入力することすらも,かつては夢物語だった。
 いやいや,夢にもならなかった。想像すらできないことだったから。
 それに比べれば,スマホが話相手になるというのは,だいぶ現実的なものに映る。いや,マジで,老後の話相手を育てるために,SNSやブログを“質よりも量”感覚でやっていこうと思っている。

● SNSやブログで公開するわけにはいかないことも,ネットにあげることは可能だ。たとえば,すべてのメモやノートは Google Keep に書いておく。手帳はGoogleカレンダーを使う。G-Mailをデータの貯蔵庫として使う。
 自分の端末のSiriやGoogleアシスタントは,それをも瞬時に渉猟・分析して,話者としての性能を高めてくれるだろう。
 ま,手書きも楽しみたいので,そこまでするつもりはないけれども,ちょっと以上にワクワクするんだよね。SiriやGoogleアシスタントがどう変わっていくのかを考えるとね。

2019年9月12日木曜日

2019.09.12 友だちがいないということ

● LINEでつながってるのは奥様だけ。奥様の方はぼく以外にも何人かいるらしいが。Viberでつながっている人が1人いる。それだけ。
 メールアドレスを知っている人,ケータイ番号を知っている人も,他にはいない。
 こちらが二度ほどケータイ番号を変えているので,ぼくの番号を知っている人もいないと思われる。過去にはLINEでつながっていた人もいたけれども,これで全部消えた。

● 年賀状も出さなくなった。来ても返さない。ゆえに,儀礼的なやり取りもなくなった。
 それで困っていることもない。ストレスの発生源を減らす効果もあるだろう。むしろ,いいことではないか。スッキリする。

● が,本当の本当にそれでいいのか。たとえば,高校時代の友人E君とのやり取りは復活させたいと思わないのか。U君はどうか。中学校の同窓生の何人かのメアドは知りたいと思わないか。
 その種の情報を得たいのであれば,同窓会の幹事をやるのが一番いい。それは一度やって経験済み。そのときの情報はどうしたかというと,すべて消えた(消した)。

● まぁ,現状で良いという結論になる。そう思わせる最大の理由はインターネットだ。ブログやTwitterでともかく発信しており,少ないながらも反応があり,読んでもらえていると実感できること。
 それがリアルのコミュニケーションに対する欲求を下げている。それは自分でも感じている。

● リアルよりむしろネット上のコミュニケーションの方が重くなっているようにも思われる。ネットでは自分を作り込むことができる。リアルを写す鏡というより,作り込んだ自分をはめこむところがネットであるかもしれない。
 だから,リアルよりネットの方が大事だとも考えられる。素の自分よりも作り込んだ自分の方が重要になる。作り込むという点において,ぼくはまだまだその境地には至れていないが。

● コミュニケーションの核は,相手から刺激を受けることよりも,自分を開陳し,私はこういう人間ですよと伝える方にありそうだ。とすると,その核はネットで満たすことができるのだ。
 反応が少ないことは,あまり支障にならないようなのだ。

● もちろん,ネットがあるから友だちがいないのではない。ネット以前から友だちはいなかった。既存の友人関係を維持することに熱心ではなかった。君子の交わりは水のごとし,というのを若い頃から信条にしていたのでね。
 熱く議論するとか,ちょっとやだなと思ってた。ちなみに,議論の効用はないと思っている。
 そこにブログやSNSがやってきた。ぼくはだいぶ遅れて乗り込んだ乗客だけれども,リアルの友人がいないことのマイナス(もしあるとして)をネットがだいぶ相殺してくれているかもしれない。

● ま,ネット以上に配偶者の存在が大きいかもしれないんですけどね。ただ,何らかの事情があって,配偶者と別の場所で暮らすようになっても,リアルの友人を欲しいとは思わないような気がするんですよね。
 よくいえば,孤独に強い。悪くいえば,非孤独に弱い。ワイワイガヤガヤが好きじゃない。

2019年9月4日水曜日

2019.09.04 Wikipediaに寄付をした

● 成毛眞さんの呼びかけのツイートがきっかけ。っていうか,Wikipediaを見ると,時々,この寄付のお願いがトップページに掲載されることがあった。
 広告を入れないで,無料で使える百科事典を運営しているのだから,執筆者も無償のボランティアだとしても,主宰者がなにがしかの負担をしているのだろう。

● 紙の辞書は新明解国語辞典と新明解語源辞典しか持っていない。あまり使っていない(職場に置いている)。ひと頃,広辞苑をはじめいくつかの辞書がプリインストールされたケータイやスマホがあって,ぼくも使ってみたが,実際にそれらの辞書を使うことはまったくといっていいほどなかった。
 ぼくがWikipediaを使う頻度は多くのネットユーザーと比べて,多い方なのか少ない方なのかはわからないが,紙の辞書よりは使っている。

● つまりはまぁまぁお世話になっている。これを絶やしてはいけない。ので,ぼくも寄付をした。
 したんだが,1,000円。われながらシミッタレだなぁ。許してたもう。あとでもう1回するから。

● ぼくの夢のひとつは株で10億円を作りだすことだ。その株の配当金で悠々と(ノウノウと)生活したい。が,ぼくには相続すべき子がいないので,死ぬまでにその10億円は地元の町役場が所管する奨学基金に全額寄付せねばと思っていた。
 が,ひょっとすると,Wikipediaに寄付した方が,生き金になるかもしれないな。どうしようかな,ぼくの(今はまだ影も形もない)10億円。

2019年8月29日木曜日

2019.08.29 LINEとViberをPCで使う

● LINEとViberのPC版ソフトをThink Pad にインストール。以前は,LINEはChromeの拡張機能を利用していたと思うんだけど,今は単独で普通にインストできるようになったんですね。
 LINEもViberもつながってる相手は1人しかいない。しかも,連絡を取りあいたいと思うのは,だいたいは出先でのことが多い。
 んで,PC版を使うことはほぼないと思うんだけど,PCでも使えるという安心感はあるんですよね。

● ただ,PCの場合はブラウザ(ぼくはChromeを使用)から扱えた方がずっと便利なんですよね。ブラウザとは別にLINEやViberを立ちあげるのは面倒。
 ブックマークバーに登録できれば問題解決なんだけど。できるんだろうか。それぞれのトップ画面をブックマークすればいいんですかねぇ。

● しょっちゅう使っていれば,Chromeのトップ画面にショートカットが表示されるんだろうけど,しょっちゅうは使わない。
 だったらどうでもいいじゃん。そう,かなりどうでもいい問題ではあるんですよ,そもそもね。

● LINEやViberをPCでも使いたいと思うのは,LINEやViberを業務上の連絡ツールとして導入している場合に限られそうだ。そんな会社はあまりないだろう。
 まぁ,でも。PCを使えるときは,PCでやれた方がいい。さすがにフリックよりキーボードの方が快適に入力できるんで。

● LINEやViberで連絡を取りあいたいと思う人の数って,世間的にはどれくらいなんだろう。LINEでつながってるのは奥様だけだ。奥様はぼく以外にも何人かとつながっているらしいのだが。
 よほど親しい人に限定しないと,つながっていることが重荷になるんじゃないか。学校の同窓生や友人,知人ならLINEよりFacebookが適当だと思う。ぼくはFacebookをやめてしまったくらいだから,同窓生や知人程度ならネットでつながっている必要はそもそもないと思っているんだけど。

● ところで。Viberをインストすると,Avast Free Antivirusなんてのも一緒にインストされてしまう。こういうクソ仕様はやめてくれ,楽天。大人の事情はあるんだろうけどな。
 今どき,フリーのウィルス対策ソフトは要らない。標準搭載のWindows Defender で充分だ。少なくとも,フリーのウィルス対策ソフトよりは,Windows Defender が安心できるというものだ。
 それに,こうしたフリーのウィルス対策ソフトは有料制にしろとしつこく誘ってくるのが困る。ヘタすると,うっかり有料制への移行ボタンをクリックしてしまいそうな誘導の仕方もするしな。

2019年7月10日水曜日

2019.07.10 パソコン今昔

● 昔は宇都宮にT-ZONEがあった。パソコンランド21があった。その頃はパソコンショップに行くのが楽しかった。パソコンショップに行くことが娯楽でもあった。秋葉原のラオックスにもしばしば出かけたものだ。
 パソコン関連の書籍もあって,しばしば買ってしまったものだ。Macintoshのカタログを集めるのも好きだった。

● そういう時代だったのだな。スペックは右肩上がり。しかも,急激に。スペックの向上はパソコンでできることが増えることにつながると思うことができた。
 できることがどんどん増えそうで,そうなったら自分の生活はどんなに便利になるだろうと夢を見ることができた。その夢を語る書籍があるとつい買ってしまうというわけだった。

● が,今のパソコンやスマホがそんな夢を見させてくれることはない。でも,気がついてみれば,パソコンやスマホによって(というか,インターネットによって)生活はとんでもなく便利になっていたのだった。
 パソコンやスマホからいろんな情報を取りだすことができる。ニュースはもちろん,音楽も聴けるし映画も見れる。ひと昔前では考えられなかったような映像も見れる。サントリーの過去のCM,外国の風景や名所旧跡。新しい家電やパソコンのセットアップの仕方も動画で知ることができる。

● 何より他とのコミュニケーションが簡単にできるようになった。自分も意見表明も。本当にそういうことが簡単にできるようになった。TwitterでもFBでも。
 そうなったら個人の発信など誰も気に留めなくなるという指摘もあるけれども,ともかくそういうことができるようになったのは,昔にはなかった大きな変化だ。

● これだけのことができるようになるとは,パソコンに夢を見ることができた時代には考えもしなかった。パソコンに夢を見れなくなったのは,夢の多くが実現されてしまったからかもしれない。
 夢を見れた頃のパソコンは,情報を処理するための機械だった。電子計算機の延長だった。ワープロソフトによって文書作成がしやすくなる。表計算ソフトによって手計算が不要になり,しかも検算が要らなくなる。データベースソフトによってリストをデジタル化し,自在に検索できるようになる。
 夢を見れた頃のパソコンソフトの代表はOfficeだった。生産性や効率に資するものだった。プライベートよりは仕事に親しいものだった。

● 今のパソコンは,0と1の計算をしているには違いないが,コミュニケーターであり,映像受信機であり,ライフアシスタントになった。スマホは一層そうだ。
 もはやそれなしの生活は考えづらくなっている。それゆえ,それ以上の夢は見れなくなったということか。

● こういうこともあるかもしれない。夢を見れた頃のパソコンはまだ一部の人が使うものだった。アップルがMacintoshの発売に際して"The Computer for the Rest of Us"と言ったけれども,Rest の背後にもっとずっと多数の非ユーザーがいたはずだ。
 つまり,当時のパソコンは選民意識を刺激してくれるものだったかもしれない。自分はパソコンを味方にしてもっと高みに登る人間だといったような。パソコンが自分の能力を何倍にも高めてくれるという高揚感とともに。

● しかし,今は誰でも使うものになった。行き渡った。今パソコンを使っていない人は(超高齢者を除いて)何らかの信念によって使うことを拒否している人だろう。
 パソコンは大衆化してしまった。大衆化してしまったものに夢は見れない。自動車に夢を見れないのと同じことだ。そういうこともあるかもしれない。

2019年5月29日水曜日

2019.05.29 パソコンとスマホは生活インフラの第一

● お金がなくても困らなくなった(いや,文字どおりに1円もないと,米も買えないし,電気料も払えないわけだが)。つまり,お金の価値が下がってきたということだ。
 お金の価値が下がるとどうなるかといえば,人がお金では動かなくなる。お金のために心ならずもということがなくなる。
 女性にとって結婚が永久就職だった時代があった。その時代は,夫婦の性交も売春の範疇にあったと思う。対価の授受が1回ごとではないというだけの話。
 しかし,“男女雇用機会均等”が進行した結果,その状況は様変わりした。そこに,お金の価値が下落するとあっては,基本,男より女の方が優位に立つのが道理だ。一個の生物体として見た場合は,男より女の方が強いからだ。その強さがそのまま現れる。

● インフレとデフレ。インフレはお金の価値が下がることで,デフレはお金の価値が上がることだと,単純に思っていた。
 現時点ではインフレは過去のものになった感がある。ならば,モノは持たずにカネを持っていた方がよい。より価値のあるものを持っていた方がいいというのは,合理的な選択だ。
 しかし,どうも,そういうことではなくなったようだ。お金は命の次に大切なものとされた時代は過去になりつつあるように思える。

● 日本は貯蓄率の高い国だったが,これもすでに昔のことになっている。経済格差が広がって貯金などしたくてもできない層が増えたからだ,貧困化によるものだ,という声ばかりが聞こえるが,それだけでもないのではないか。
 お金を貯めたら負けだと考える人たちが増えてきたようにも思う。使うためにあるものを貯めてどうするのか,と。

● セーフティネットという言葉もかつてほど深刻味を持たなくなったように思われる。お金の価値が下がれば,お金がない状態の深刻さもかつてほどではなくなる。
 といって,お金の価値がゼロになることはないだろうから,セーフティネットが要らないというわけではない。同時に,価値が小さくなれば,国が国民にお金を配ることにも抵抗が少なくなるだろう。ほぼ確実にベーシックインカムが導入されるとぼくは思っているが,そう考える理由のひとつはそこにある。

● お金に価値がなくなった後,では何に価値が宿るのか。当然,モノではない。モノなどお金以上に余っている。
 不動産でもない。不動産それ自体は何も生まない。使われて初めて意味がある。人口が減る時代なのだから,不動産が使われる機会も減る。不動産に価値はない。

● たぶん,広い意味での享楽ではないかと思う。自分が本当にやりたいことをやること,と言い換えてもいい。横並び発想もだいぶ影を潜めるのではないかと思っているのだが,さてどうなるか。
 したがって,これからの時代を生きていくのに一番困るのは,やりたいことなんて特にないという人たちだろう。

● そうなった前提にインターネットがある。インターネットのおかげでお金をかけずにいろんなことができるようになった。パソコンとスマホは生活インフラの第一。何はなくともスマートフォン。
 スマホは強い人にとっても弱い人にとっても,救いの神だ。強者にとっては,さらに生産性を上げるため,あるいは営業用のツールとして絶大な効果を発揮するだろうし,弱者にとっては息たえだえの状態でも気を紛らわせることのできる娯楽ツールとして。
 ちなみに,ぼくはパソコンに3万円以上を出す気はない。メーカーは相変わらず半年ごとに新製品を出すけれども,昔と違って最新型を追いかける必要はない。型落ちマシンを中古で買えば充分だ。スマホも最新型を追いかけて2年で買い換える時期は過ぎたと思う。

● インターネットと無縁でいる人は,お金の呪縛からなかなか解放されないだろう。依然としてお金第一であり続けるだろう(もちろん,そうじゃない凄い人は昔から存在したけれど,ここではパンピーの話をしている)。
 この一点だけでも中高年には厳しい時代になるのではないか。退職金も支給された,年金も破綻前に受け取れることになった,個人金融資産の8割を押さえている,といっても,単純に喜んでいていいのかどうか。
 生活インフラとしてパソコンとスマホを自家薬籠中のものにする努力をした方がよいと思うが,それをしないまま60歳になり70歳になってしまったのだとすると,もはや手遅れかもしれない。

● が,今の中高年の多くは会社でパソコンを使って仕事をしていたろうから,インターネットにも馴染んでいる。そういう人たちが考えるべきは,お金を貯めないで使うことだろう。流れを止めないで,次の人に回していくこと。
 お金の価値はどんどん下がっていくのだから,お金がない状態を必要以上に怖れないこと。医療費の心配をしすぎないことだな。

2019.05.29 自分がお金がかからない体質である理由

● あまりお金を使わない。まず,お金がかかる趣味がない。ゴルフもスキーもしたことがない。何かをコレクションする趣味もない。
 お洒落をしたいとも思わない。服なんか何だっていいし,すり切れるまで着てても平気だ。格好を気にすることがない。それは他者への配慮を欠くわがままな行動だと言われれば,返す言葉もないが,ともかくお洒落には興味がない。
 旨いものを食べたいという願望もない。外食はするが,吉野家と立ち食いそばで充分だ。たまにラーメン屋にも行くが,その程度のものだ。ご馳走を食べたいとは思わない。
 酒は飲むが,もっぱら家飲み派になった。外で飲むことがまったくないわけではないけれども,チェーンの居酒屋で充分だ。赤提灯が落ち着くタイプでもある。

● したがって,モノを買わない。その分,奥様がせっせと買って下さっているが,それはそれでよいと思っている。
 要するに,贅沢したいという気分が薄い。欲望枯渇症だ。これはつまり,生きる意欲,生命力が弱いということでもあって,あまりいいことだとは思っていないが,ともかく自分はお金がかからない体質だ。

● それはなぜかというに,まぁ,そういう性格だってことなのだが,それを別にすれば,友だちがいないからだと思う。
 人と会うことがない。学生の頃の同級生とはすっかり疎遠だ。現在でも連絡を取りあって会う友人はひとりもいない。職場絡みでも同様。勤務時間外に彼らと一緒に何かをすることは絶無だ。

● 具体的な誰かに会うというのなら,いくらぼくでもすり切れた服は着ていかないだろうし,高い店に入ることもあるだろう。
 毎度赤提灯ということもないだろう。小洒落た酒場に行くこともあるかもしれない。

● では友人が欲しいかというと,まったく思わない。ひとりを苦にしない性格だ。
 正真正銘の天涯孤独であれば事情は違ってくるのかもしれないけれども,現状では一緒に暮らしている配偶者がいる。彼女とは毎日,何がしかの話をする。つまり,孤独ではない。だからこそ,ひとりを苦にしないなどと言っていられるのかもしれないのだけど。

● もうひとつ,インターネットの存在がやはり大きい。お金を使わないのとひとりを苦にしないのと,その両方ともかなりの部分をインターネットに負っている。
 今年は映画を200本くらい見そうだ。が,映画館で見るのはたぶん数回にとどまる。あらかたはAmazonプライムビデオで見る。今年の1月22日にAmazonのプライム会員になって,そうなった。200本の映画を見ても年間4,900円しかかからない。音楽の音源もネットにいくらでもある。無料で手に入る。お金が必要になる箇所がない。
 Twitterでつぶやいていれば,人と話す必要はないなと思う。つぶやくことができないとなると,そんな斜に構えたことは言っていられなくなる可能性もある。

2019年5月9日木曜日

2019.05.09 では,自分はスマホをどう使っているか

● では,自分はスマホ(パソコンを含む)をどう使っているかと思って,ノートに書きだしてみた。ありきたりの使い方しかしていない。大方の人は同じようなものだろうと思って,慰めているんだが。

● まず,Google先生に検索してもらって,ピンポイントで知りたい情報を得ることは当然として,
 1 ブログを書いてアップする
 2 Twitterでツイートする
 この2つは発信といえば発信なのだが,ログを残すという意味合いが大きい。

● あと,ログを残すといえば
 3 (毎日ではないが)睡眠ログを取る
 4 (かつては)自転車の走行ログを取っていた

● もちろん,娯楽に使っている。
 5 Googleニュースを読む
 6 Amazonプライムビデオを見る
 7 YouTubeで動画を見る,音楽を聴く
 8 いわゆるネットサーフィン

● 実用としては
 9 乗換案内で経路を確認する
 10 “ぴあ”でチケットを買う
 11 (滅多にないが)銀行振込
 12 (同じく滅多にないが)ホテルの宿泊を予約する
 13 (知らないところに行ったときに)Googleマップを使う

● コミュニケーションツールとしてはあまり使っていないが
 14 LINEとViberで合計2人の人(うち,1人は配偶者)とやりとりをすることがある。メールでのやりとりは絶無。
 ということは,その2人以外にネットを介したコミュニケーションをしている人はいないということだ。

● 仕事にはまったく使っていない。これは当然で,仕事にプライベートの通信機器を使うのは,基本,御法度だろう。仕事で使っていいのは職場のパソコンのみ。データの持ち帰りも禁止されているだろう。
 ので,仕事以外でスマホですることいえば
 15 (時々)メモをとる。Google Keep を使っている。
 メモはこれに限る。モバイルオフィスやテキストエディタの必要を感じたことはない。メモをとるといえば
 16 カメラを使う
 むしろ,こちらの出番が多い。脳内の妄想はテキストにするしかないが,外部化されていれば写真を撮っておけばすむ。

● ゲームはやらない。以前は将棋とか麻雀ゲームのアプリを入れていたが,削除してだいぶ経つ。
 だいたい以上。ごく平凡なこと。誰もがやっていることだと思う。
 それでも,スマホは夢の器械だ。これでも以前に比べればだいぶ使うようになっているのだ。

● で,考えるわけだ。もっとアッと言う使い方ができないものか。
 たとえばGoogleカレンダーを使えば,スマホのAI機能が強化されるんだろうか。Googleカレンダーにメモ欄はないが,工夫の余地はあるかもしれない。
 そこに,紙のノートに書いているようなことを書けば,こちらの嗜好を細かく把握して,Googleアシスタント(使っていない)がほんとの秘書のようにサポートしてくれたりするんだろうか。

● 止めてしまったFacebook。“友だち”とのどうでもいいやりとりではなくて,もっと役に立つ使い方ができないか。こんなにFacebookへの依存度を高めていいんだろうかと不安になるような使い方はないか。
 が,ログを残すためならTwitterで足りる。コミュニケーションでもなくログでもないFacebookの使い方っていうのはどうもありそうもないかな。

● ほんと,アッと言う使い方を見つけて,時間効果を飛躍的に上げることはできないものか。スマホでもっと省力化、時短を実現できることはないか。
 改善とかではなく,画期的に自分を変えてくれるような使い方。生活を変える必要はないと思っている。今の状態のままで,今やっていることを飛躍的に増やしたいのだ。
 難しいな。スマホは能力不足を補ってくれないから。

● 自分がやっていることはすべて時間消費型の趣味だから,スマホを使ってどうのこうのではなくて,生活を見直して,浪費している時間を削るのが先だってことになる(時間を浪費するのは楽しいんだけどね)。
 秘書を雇ったからといってどうにかなる部分は,そもそもあまりないわけだよね。“画期的に自分を変えてくれるような使い方”をスマホに求めるなんてのは,要は現実逃避だよ。現実とちゃんと向き合わないとねぇ。

● が,これやっといて,とスマホに振れることって,もっとありそうな気はするんだな。

2019.05.09 インターネットとスマホは能力差を拡大する

● ワープロ専用機ができたときから,それを秘書になぞらえる言い方がされた。たとえば,西尾忠久『ワープロ書斎術』(講談社現代新書)に,その言い方が出てくる。
 が,当時はその秘書がやってくれることは,文書の保管と必要に応じて取りだすというくらいのものだった。それだけでもありがたいが。

● 現在は違う。インターネットが普及し,そのネット端末がいつも持ち歩いて使えるスマホになった結果,秘書は何人でも好きなだけ雇えるようになった。
 文書の管理でいえば,ブログにしてクラウドにあげておけば,Googleの検索エンジンを使って全文検索ができるのだ。大量の文書を隈なく探して,必要なものをピックアップしてくれる。そんなことを生身の秘書にやらせたら,嫌気がさして辞めてしまうかもしれないが,ネット上の秘書は文句ひとつ言わずに,しかも高速で処理してくれる。

● ワープロ専用機の時代にも同じことはできた。保存媒体がフロッピーしかなかったから,フロッピーを差し替えなければならないという手間があったのと,検索速度が今とは比較にならないほど遅かったということを別にすれば。
 文章を書くことを仕事にしていた人なら,ワープロ専用機の登場とインターネットがあたりまえになったことを比較すれば,ワープロ専用機の登場により大きい衝撃を感じたと思う。

● しかし,現在の利便性は当時とは比較にならない。端末に縛られなくなった。どこからでも同じ文書にアクセスできる。ゆえに,どこにいても同じ作業ができる。パソコンで作ってスマホでブラッシュアップすることができる。
 インターネットの恩恵だ。昭和に大きくなった老人から見ると,これは途方もないことだ。

● ともあれ。今はスマホでできることが増えた。ぼくはAndroidユーザーなので,Google Play でどんなアプリがあるのか眺めることがある。とんでもない数があって,いったいスマホでできることがどれだけあるのかと唖然とする。自分はスマホ能力のほんの一部しか使っていないなと思う。
 必要なものだけ使えばいい。自分に合わせて使えばいいだけだ。それはそのとおりで,百パーセント間違いない。

● 当然,人によって使い方が違う。その違いが何を語るかというと,スマホは(インターネットはと言い換えてもいいわけだが)個人間の能力格差をさらに増幅する器械だということだ。
 能力のない者がスマホを使うことによって能力ある者に追いつけるなどということはない。スマホを使うと個々の処理能力が大きく増幅するわけだから,元々の能力が格差が何十倍かに拡大されるだろう。

● 人によって使い方が違うというときに,その違いがつまり能力の違いだ。スマホの使い方が能力を作るのではない。能力がスマホの使い方を決めるのだ。
 結果,能力のある人は,秘書を5人も10人も雇っているような使い方をする。中には小さな会社を自分のために作ったのと同じ効果をあげている人もいるかもしれない。

● ここで能力とは,人と関われる力とでも言っておこうか。コミュニケーションがどれだけできるかということだ。
 連絡する,指示するということを含めて,たとえばLINEを使い倒している人は,じつに自分の能力を大幅に拡張しているといえるのではないか。
 つまり,能力とは対人間で発揮されることが多いものだ。そのためにスマホを使っていないとなると,なかなか能力を拡張することにならない。

● SNSをヘビーに使っているかどうかではない。SNSっていうのはTwitterにしてもFacebookにしても,コミュニケーションよりもじつは引きこもるための道具なのではないか。そういう使い方をしている人が多いのではないか,というのがぼくの印象だ。
 っていうか,自分がそうなのだ。Facebookはやめたが,Twitterは今も使っている。しかも,けっこうヘビーに使っている。しかし,ログを残すためだ。コミュニケーション欲求ほほぼない。この態度は引きこもりに近いものだと,自分では分析している。

● 個人のログ,あるいはたんなる意見表明ということならば,特徴ある発信ができる人には,ネット以前から手段は与えられていた。
 それができない人は,ネットによって発信手段は与えられたものの,発信しても誰も読まない(つまり,誰にも届かない)という結果になるだけだ。

● それでも,手段を得たことは大きい。それは実感している。けれども,ぼくのような使い方(多くの人がそうだと思うのだが)だと,能力が拡張したという実感は持ちにくい。
 もともと能力がない場合は,どんなツールができようと関係ないという冷厳な事実があるようだ。

2019年3月26日火曜日

2019.03.26 個対個のコミュニケーション・ツールとしても,スマホってほんと便利だね

● 個(人)対個(人)のやり取りに使っているスマホアプリは,LINEとViber。が,その個というのは,ぼくの場合,両方併せてわずかに2人。個対個のやり取りは煩わしさを生む元凶でもあるので,会社の同僚とか学校の同窓生とか単なる知人とか,そういう人たちとLINEで“つながる”つもりはサラサラない。
 ではあっても,個対個のコミュニケーション・ツールとしても,スマホってほんと便利だね,と今更に言ってみる。

● 即時に届くというのは,電子メール以来,それがあたりまえになってしまったから,別に何とも思わないで使っているけれども,とてつもないことですよ。
 惻隠の情を届けたり届けられたりするのに,こんないいものはありませんよ。

● しかし,便利でハードルがないに等しいほどに低いから,つい過剰に使うということがあるのではなかろうか。つまり,つながりすぎ。
 気をつけるべきは,ここのところだ。君子の交わりは水のごとし,というのは古今を問わず真理であって,濃すぎる交わりは忌むべきもののひとつだ。

● つながりの数が多すぎるのもよくない。LINEの友だちが多すぎる人は,相当な時間を棄ててしまっていないかどうか,顧みた方がいいのではないか。中小企業の社長が仕事に使っているという場合を除いて,LINEの友だちはいいところ30人ではないか。
 FBのMessengerを使っている人も多いと思うが,ぼくには無用のもの。グループ機能など必要を感じたこともない(個対個でやり取りする相手が2人しかいないんだから,それが当然なのだが)。

● 通話も Viber out ですませている。電話って年に数回しかかけないから,通話SIMは要らない。3大キャリアもMVNOも通話料が利益の源泉のようで,通話SIMの利用が端末割引の要件だったりする。が,ぼくのような人間には電話などそもそもが不要だ。
 が,水のごとき淡いつながりしか持たなくてすむのなら,多くの人とつながってみたいとは思う。

● でも,ま,淡いつながりというのは,“つながっていない”に限りなく近いもので,そうであるなら,現状ですでにその状態は実現されているとも言える。

2019年3月13日水曜日

2019.03.13 投稿が消えるSNS

● Snapchatは「写真や動画を個人かグループに送信する」アプリであり,「1秒から10秒の間で閲覧時間を設定」できる。「閲覧している間,受信者は端末のタッチスクリーンを触り続けなければなら」ず,「閲覧時間の終了後,写真はアプリ上から見ることが出来なくなる」(Wikipedia)という,写真共有を主目的としたSNS。
 Instagramに似ているが,見たら消えるというところに特徴がある。類似のアプリにSNOWがあって(消えるからSNOWという名前にしたのだろう),こちらはLINEと同じ韓国生まれ。日本を含む東アジアではSNOWの方が普及しているらしい。

● 見たら消えるんだから,それについてコメントをやりとりすることはできないのだろう。そういうことを目的とするのではなく,「これ,ヨクネ? 笑ってよ」と道化を演じたり,刹那を伝えるためのものなのだろう。
 だから,SnapchatにしてもSNOWにしても,不特定多数に公開するものではなく,限られた仲間内の中でのやりとりになるのか。といっても,不特定多数を相手にそれをやってはいけないということもない。たぶん,それもできるのだろう。

● そうか,今の若者はアーカイヴされるものではなくて,すぐに消えるものに惹かれるのか。ストックにあまり興味がなく,フローがすべてということか。と,とりあえず思った。
 であっても,ぼくは自分の投稿なりツイートをストックしておきたいという欲望(?)から自由になれない。データベース幻想を棄てきれない。

● データベース化するのがいいのか,読まれたらすぐに消えてしまうのがいいのか。こういうふうに二者択一で考えてしまうのが,すでにしてオヤジ思考なのだろうな。
 若い人は多様化を受け容れているのだろう。すぐに消えるものを受け容れたからといって,従来型の残るものを棄てるわけではない(たぶん)。SNOWを受け容れるけれども,LINEも使い続ける(中高年にとってLINEといえばチャットだけれども,若い人はSNS機能を活用しているらしい)。

● ぼくらロートルは,すぐに消えてしまった方がいいものはネットに出さないようにしている(それをしないヤツが,特にFBには多い印象があるにはある)。セーブをかけている。
 それが習い性になっているから,今さらSnapchatやSNOWを与えられても,使いこなすことはとてもできないと思う。

● こうして中高年は時代のメインストリームから離れていくのかもしれないけれど,何でもかんでも若者のマネをしなければいけないというものではない。自分の流儀で進むしかない。そう居直ることにしよう。
 が,自分の流儀が正しいとか,それがすべてだと考えないようにしないとね。そこは最低限だ。中高年はそうなりがちだから,注意しないといけない。

● 多様化とはいっても,重心は消える方に移行していくのではないか。若者の間では。
 つまり,中高年に新しいものは作れないということだ。中高年はそのことにも自覚的であるべきだと思う。

2018年11月21日水曜日

2018.11.21 ネットは垂れ流しのツール

● ネットはネットで,リアル(現実世界)はリアル。あたりまえのことだけれど,両者はまったくの別もの。別なものを同じ使い方で扱ってはうまく行かない。
 で,ネットとリアルでは何が違うのかといえば,ネットは垂れ流すところで(それに最も向いているツールはTwitter),リアルはコミュニケーションの場ということかと思う。

● リアルで自分の思いつきや意見を垂れ流しているだけでは,自分の居場所がなくなる。リアルの面白さは人とやり取りができるということだろう。つまり,コミュニケーションだ。
 いや,コミュニケーションというと,いささか茫漠としすぎるかもしれない。雑談と言い換えた方がいいだろう。リアルの醍醐味は雑談ができることにある。

 たとえば定年で会社を去ると,雑談は減る。それをネットで補おうとするのは,基本的にダメだと思う。
 江戸の仇を長崎で討ってはいけない。リアルの落とし前はリアルでつけないと。

● ネットで雑談ができるか。FBでリアルの雑談を再現するのは無理だ。9割はこぼれ落ちる。書かれた文字だけで雑談をすることは不可能だ。雑談は空間を共有していて初めて可能になる。
 FBであまり連投すると嫌われるから,FBはリアルに近いと言えば言える。でも,リアルではない。事務連絡には向いているが,FBで雑談はできない。LINEも同じ。

● スマホはコミュニケーション・ツールと言われたりするけれど,厳密にいえば間違いだ。そこで言うコミュニケーションは大きく限定されたコミュニケーションだ。お知らせや告知にコミュニケーションの本質はない。
 スマホは便利極まりないものではあるけれども,それはコミュニケーションよりも自分を垂れ流すのにこそ,便利なものなのだ。

● リアルではできない垂れ流しがネットなら可能になる。ならば,ネットは垂れ流すために使った方がよい。双方向のコミュニケーションなどという,昔から言われている絵空事など歯牙にもかけないで。
 というより,ほとんどの人はそのようにネットを使っているのではないか。ブログが登場してその傾向がはっきりし,SNSに至ってそれは怒涛の流れに成長した。これからその流れはいっそう強くなるだろう。

● コミュニケーションしているつもりの垂れ流しでネットは埋まっている。誰かが自分に興味を持ってくれるはずだという根拠のない前提が存在するから,“つもりの”垂れ流しになる。
 誰も自分に興味など持たないのだと自覚したうえで,垂れ流すようにすれば,それが最も賢いネットの使い方になると思う。

● 垂れ流したものが読まれることは少ない。多くの人の垂れ流しの中に読むに耐えるものがどれほどあるか。その大半をスルーしているのではないか。Twitterなら,フォロー返しをするときに,同時にミュートしていないか。たぶん,それはまっとうな対応なのだ。
 だから,自分が同様の扱いを受けても文句を言うつもりは一切ない。そうと決めたうえで垂れ流すのだ。出せばすっきりするのは排便だけではないとしたものだ。

● 垂れ流し以外のネットの使い方は,“検索”に集約されるだろう。良質な情報は検索で引きだす。ネットの使い方は,畢竟,この2つに尽きるように思われる。

2018年1月18日木曜日

2018.01.18 ネットの方がかえって変化が少ない

● FBでは何人かをフォローしてはやめるということを繰り返しているんだけど,ずっとフォローしているのは成毛眞さん。
 その成毛さんが「毎日一定時間FBにアクセスしているのだが,毎日同じような投稿ばかりで飽きてくる。自分だけでも新しいことをしないとSNSを見限ってしまいそうだ」と書いていた。「ネットの方がかえって変化が少ないのかもしれない」,とも(ただし,この投稿はすぐに削除された)。

● こういうことを考える資格があるのは,ネットユーザーの中でも一部のエリートに限られるかもしれない。ぼくがこういうことを言いだすと,おまえこそ「毎日同じような投稿ばかり」しているじゃないかと言われるだろう。
 しかし,ネットの方が変化が少ない,という指摘は,本質をついているように思えてハッとした。

● ネットのテクノロジーや仕組みはどんどん変わってきた。ホームページ→ブログ→SNS。それに伴って,参入障壁がどんどん低くなり,今やネットはほぼ完全に大衆化された。なんせ,ぼくがやっているくらいだから。
 それはイコール,「毎日同じような投稿ばかり」になる過程でもあった。自分のことを棚にあげていえば,大衆が生みだすものって,徹底的につまらない。というより,何も生みだせていない。
 だから,SNSはゴミの山になる。あるいは,不毛な論争(といって褒めすぎだ。口喧嘩と言い直そう)の堆積場になる。

● 大衆の一部が,たとえば東日本大震災のときに,多くの人がTwitterで情報を提供し,貴重な生命が救われたとか,Twitter上に鎮魂の思いが溢れているとか,自画自讃的なことを言いだし,多くの大衆がそれに追随した。
 事実は少し(というか,だいぶ)違ったと思うんだけど,それは別の人がすでに検討しているので,ここでイチイチは言わない。ぼくは,結果として,Twitterは被災地の足を引っぱったと思っている。有事の際は,SNSは流言飛語の温床になるだろう。

● ネットはこれからも変わっていくだろう。TwitterやFBがいつまであるかもわからない。自分のツイートのすべてが,ある日,忽然と消えてしまうことがあるかもしれない。自分のログはSNSというクラウドにあるから安心だと思っていると,手痛いしっぺ返しを受けることになるかも。
 ともかく,ネットはこれからもどんどん変わっていくだろう。大衆化というレベルを超えて,道路や上下水道と同じように,何人もそれなしでは生きていけないインフラになっていくだろう。
 選挙もネットで可能になるだろうし,市役所や町役場の機能のほとんどはネットに移行するかもしれない。印鑑証明も住民票もネットから引きだす。いや,引きだす必要すらなくなって,電子の状態で相手方に渡せるようになるのだろう。

● ネットはこれからも生活を変えていく。それは間違いないと思うし,そうなればネットを使うことは基本的なというより初歩的なリテラシーになる。今以上に誰もが使うものになる。ネットは紙と鉛筆になる。
 が,そうなったからといって,紙と鉛筆の使い手の水準があがるわけではない。SNSがゴミ情報と口喧嘩と流言飛語のたまり場になれば,そしてそれがいつまでも変わらないとすれば,心ある人たちがそっとそこを立ち去ることは,必然的な流れのようにも思われる。

2018年1月16日火曜日

2018.01.16 SNSは是か非か

● IT企業の企画分野で活躍している人の中には,FBへの投稿を頻繁に行っている人がいる。FBの場合,あまり頻繁だと嫌われるとも言われるのだが,そんなものは意に介さず,利用しまくっているという印象。FBを心覚えのためのメモ帳がわりにしている。
 そういう人の場合,内容も多岐にわたる。企画マンってこういうものかという実例のひとつ。

● Twitterのフォロー先も同様に多彩。オピニオンリーダーと目される言論人,報道機関,出版社,アルファブロガーは言うに及ばず,芸能人やお笑いタレント,政治家,同業者などなど。彼(彼女)とは政治的意見や人生観を異にするであろう人たちをもフォローしている。
 SNSからカンファタブルを得ようとしているのではなく,情報収集あるいは考えるキッカケを得たいということだろう。その動機が徹底して貫かれている印象。戦略的にSNSを使っているという感じに映る。
 パンピーは(もちろん,ぼくもその中のひとり),情報収集っていうと“お勉強”を想定してしまうのではないだろうか。彼らの情報収集は勉強といえば勉強のためだろうけど,いわゆる“お勉強”は考えていない(ように見える)。

● 一方,今,藤原智美さんのエッセイ集『あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている』を読んでいるんだけど,藤原さんはSNSをやめたという。
 どちらが賢明なのかはよくわからない。道によって賢しってこともあるだろうしね。

● 自分はSNSを始めてそろそろ2年。面白くて仕方がない時期かもしれない。FBは取りあげられてもいいけれども,Twitterは手放せない感じかな。
 いや,それ以前に“スマホを使いこなしている感”に溺れているのかも。以前はスマホのカメラを使うことはあまりなかったんだけど,今は最も使うのがこの機能になっている。Twitterに載せるために写真を撮るからだ。

● 基本的にはこの趨勢に付いていくべきだと思っている。だいぶ遅れてしまったランナーだけど。昔は良かった的な復古主義の罠に落ちないようにしたいと思っている。

● が,SNSが自分の生活全体に占める割合は圧縮しなければいけないとも思っている。ダラダラとやってしまうんだよね。これまたパンピーはだいたいそうだろうと思うんだけど。ダラダラを切り捨てないとね。
 ところが,ダラダラさせるのはSNSの本質のようにも思えてね。なかなか難しいね。