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2025年4月13日日曜日

2025.04.13 今年のソメイヨシノ

● 4月2日
 東京は五分咲きだったが,北関東の田んぼの村ではようやくほころび始めたところ。
 見ようによっては一番趣がある。清楚。これから爛熟に向かうのだな。

● 4月4日
 だいぶ開いて来ました。四分咲きくらいですかね。なかなかですよ。

● 4月5日
 地元の図書館の一本桜。あとちょっとで満開ですかねぇ。一本桜で日当りがいいのかな。開きが早ような気がする。
 ここは,おそらく,小学校の敷地だったんでしょうかね。

● 4月11日
 満開を過ぎて爛熟の域に入った。人を狂わせる,酩酊させる。ソメイヨシノだけの,年に数日間だけの,特別ボーナスだな。
 むしろ,これは迷惑か。狂わせられるもん。

● 4月13日
 北関東の田んぼの村でも,雨。そろそろ葉桜への道を。
 短い花の一生と言っても,毎年これを繰り返すわけだ。桜の一生は,人の人生よりもはるかに長いわけですよね。

2023年4月3日月曜日

2023.04.03 花の命は短くて

● 地元の公園の桜。この公園は交番の後ろにあって,だからというわけでもあるまいが,利用者がほとんどいない。ここの桜は貸切状態で眺めることができる。
 その桜も散りだしている。爛熟の極み。

● これを年増美人に例えることがあるけれども,桜は散っても来年また咲く。人間はそうは行かない。
 一方で,咲いてる人は,咲いてる期間が桜よりはるかに長い。もって瞑すべし。

● ちなみに,桜のように死と再生を繰り返す人生と,動物のように誕生から死に向けて直線的に進む人生と,どちらが楽かといえば,圧倒的に後者だ。
 桜じゃなくて良かった。輪廻転生などあっては困る。ないと思うが。

● 同じソメイヨシノでも,公園からちょっと離れたこちらは,散りの開始が遅い。日照もあまり変わらないのだが。桜にも早熟と奥手があるんだろうか。
 ただ,こいつは雷に打たれて,幹が途中でなくなっている。そんなのが関係するんだろうかな。

● 春は桜だけではない。桜の後はこういうやつが咲く。春の地上は華やかだね。
 写真だと似た色に見えるが,肉眼ではハッキリ違う。一方はピンク,他方は赤。

2023年3月3日金曜日

2023.03.03 宇都宮城址公園に河津桜を見に

● 宇都宮城址公園に来た。目あては河津桜。去年は4月に来たのだが,もうあらかた散ってしまっていた。ので,今年は早めにと思って。
 まだ少し早かった。しかし,これくらいを見頃とする人もけっこう多いかもね。爛熟の満開はすでに盛りを過ぎた状態と見做す人が。

● けれども,河津桜で花見をする人はいないだろう。花見をするにはまだ寒すぎるということもあるけれども,花見に誘う誘引力が河津桜にはない。
 「ねかはくは花のしたにて春しなん」と西行が歌った花はソメイヨシノであったろう(河津桜は1955年に河津町で発見されたらしい)。河津桜には「あやしうこそものぐるほしけれ」にさせる妖力が欠ける。端正なピンクの花を咲かせるが,楚々としている。ソメイヨシノのような熟女っぽさを発散しない。

● まだ早いとはいえ,けっこうな数の人たちがいる。眠くなるほど,のどかで平和で。ウクライナのこともトルコのことも,遠い遠い向う岸で起きている話。わが事にあらず。叱られるだろうけど。
 11日に桜まつりが開催されるようだ。そのあたりが満開なのだろう。12年前に東日本大震災が起きた日だ。わが家でも屋根は全面的に崩壊し,家具や食器棚は全処分になった。こういうことがないと,自分事にならない。

● 城址公園の隣に豪邸というのは違うけれども,立派なお屋敷があった。ここがナベサダの実家だよ,と教えてもらった。そうか,ナベサダはお城の隣で育ったのか。
 城址公園には,昔,スケートリンクがあったらしい。このあたりも昔とは様変わりしたのだろう。

2022年4月12日火曜日

2022.04.10 春爛漫,ブースター接種

● 春を通り越して初夏。っていうか,熱中症の心配をしなきゃいけないくらい,暑い。外を歩いていると汗ばんでくる。

● 眼を楽しませてくれるものに事欠かない時期でもある。
 敷地内に桜を植えている家もある。これをできるのが田舎。元々の農家って敷地広いからね。
 いや,春夏秋冬,いつでも眼を楽しませてくれるものはあるんだけどね。冬は星座がきれいだし。夏は雲に特徴があるし。

● こうした景色を愛でながら,目的地に着いた。3回目のコロナワクチン接種。
 13:30の予約なのだが,手続きはサッサと進み,13:30になったときには接種まで終わっていた。
 初モデルナだけれども,副反応は心配していない。副反応は若い,特に女性に出るもので,ジジイが副反応を心配するなど滑稽の極みだ。ともあれ,まずはひと安心。
● んで,また,眼を楽しませながら,家まで歩いて戻った。

● 現時点(21:04)で副反応はまったくない。少し寂しい。熱よ,出てもいいぞ,ちょっとくらいなら。

(追記 2022.04.12)

● 寝る時刻(午前3時)になったら,悪寒が。上下の歯がガチガチ言いだした。とっくに押入にしまった掛布団を引張りだした。自分で額に手をあててみたところでは,発熱はなかったようなのだが。
 あと,30分おきに連続3回,トイレに呼ばれた。水分を絞り取られる感じ。これじゃ寝れない。

● 翌朝になると悪寒は収まっていた。これは副反応? いや,めでたやな。
 っていうかですね,ゴメンナサイ。モデルナをナメくさっておりましたよ。

● 11日も起きていられなかった。足元がふらつく。食欲皆無。無理に食べても味がわからない。コロナに罹患したようなものだ。
 熱を測ってみたら7度5分だった。昨夜は,おそらく38~9度の熱がでていたろうね。熱がないわけなかった。熱くなった掌で熱くなった額に触れても熱いと感じないという理屈だろう。

● 11日の夜,ショック療法を試みようとした。が,三口ほど啜っただけで,あとは身体に入っていかなかった。
 寝てるしかないんだけども,寝るにも体力が要るんだなと痛感するわけだ。腰が痛くて,寝ていても楽しくないんだよね。
 昼間しっかり動いて,夜は死んだように眠るという,そういう健康的な睡眠じゃないわけで。

● 12日。どうにか収まった。依然として食欲はないが,こうしてパソコンのキーボードを叩けるようにはなった。起きてはいられそうだ。
 何も食べないで約2日過ごし,熱もずっと出していたんだから,痩せましたよ。これだけはこのまま維持できればいいんだけども,そうはいかないんだなぁ。

2022年4月1日金曜日

2022.04.01 至るところに桜はある

● 右の写真は地元の図書館の一本桜。満開にはまだ。満開前の桜に人は群がらない。満開になるとドッと来て,満開が過ぎると,なだらかに減っていく。
 花は盛りをのみ見るものかは,問題。ぼく一個は,人が群がる満開は避けよという意見。満開の少し前にシフトせよ。満開を追いかけるな。これくらいが見頃ではないか。

● 満開になってしまっては遅いのだ。なぜなら,満開になってしまえば後は散るだけだから。先の楽しみがないではないか。
 満開の少し前なら,これから咲き誇ってさらに華やかになっていくという楽しみも味わうことができるのだ。

● 自宅から歩いて数分のところにある小さな公園。この時期になると,桜って津々浦々どこにでもあるんだなとわかる。人々は桜を愛でないではいられないんだな,と。
 こちらは20分ほど歩いたところの公園。ここにも桜の樹は何本もある。桜なしではすまされない。

● それゆえ,桜を愛でる機会は万人に平等に与えられている。貧富は関係ない。お金があればあるなりの愛で方ができるのだろうが,愛でること自体はお金がなくてもできる。
 お金がなくてもできることはたくさんあって,じつはお金がなければできないことはすぐに飽きてしまうものが多いのに対して,お金がなくてもできることはいくらやっても飽きることがないものが多い
(たぶん)

● 全体が貧しいうちはお金の効用は相対的に大きかったのだろうが,全体的に生活が底上げされてくると,お金の効用は小さくなる。
 大都市ではどうか知らないけれど,ぼくの町だと3万円の家賃で住めるアパートはたくさんある。つましくやれば月に10万円もあれば充分。それ以上のお金はあってもいいが,なくてもどうにかなる。ということになると,幸福の多寡を決めるものはお金ではなく,別の何かになる。

● それがつまり,至るところに桜はあるということだ。と,ぼくは思っている。

2022年3月30日水曜日

2022.03.30 宇都宮の桜-春の訪れを告げるもの

● 宇都宮市明保野公園。ウクライナってどこだっけ的な気だるい穏やかさに満ちている。桜は満開にはまだ少し早い。けど,これくらいが一番いいかもね。鮮度を感じる。
 16,7歳の乙女という感じ。これがあっという間に熟女になって,ババアになって,そして散っていく。が,1年後には乙女に戻って帰ってくる。超速の死と再生のドラマ。
 そのドラマを繰り返しながら,桜の樹は人間よりもはるかに長く,この地球上にとどまっているわけだよね。

● こちらは田川の枝垂れ桜。桜のいわゆる名所ではないけれども,要は自分がいるこの場所が名所なのだと決めてしまえばいいんだよね。名所は自分に付いてくるのだと思い決めてしまう。
 いわゆる名所の桜はガイドブックに写真付きで紹介されているし,今どきはSNSにこれでもかというほどの素人写真が載る。その写真を見てりゃすむわけで
ね。わざわざ行くこともないと思ってるんですよ。

● こちらはついで。宇都宮駅。トワイライトタイム。
 トワイライトって,冬の日が短いとき
には現れないもんね。これも春の訪れを告げる,けっこう強力なアイコンになる。

2020年3月22日日曜日

2020.03.22 宇都宮散歩 JR駅~東武駅

● 21日。これから東京に出かける。のだけれども,何時まで着かなきゃいけないっていう用事はない。急ぐ理由がない。ので,東武電車で行こうと思う。東武の方が安くあがるからだ。
 東武駅まで歩くわけだけど,勝手知ったる大通りは避けて,今まで通ったことのない裏通りを行き当たりばったり歩いてみようと思う。

● 右の写真はJR宇都宮駅近く。田川堤。コロナで重苦しい空気だけども,春は春。
 清少納言は春はあけぼのと言った。さすがの着眼であろうけれども,凡人には春はピンクでありましょう。ここのところの温暖化で,ピンクに染まる時期が毎年早まっているんでしょうかねぇ。

● ときどき,女の人って何でピンクが好きなんだろうと思うことがある。春を思わせるからという理由なら,男にもピンク好きがもっといていいはずだ。いるのかね,男にも。隠れピンクファン。
 ぼくはわりとピンク,好きなんですけどね。シャツとかピンクをわりと着る方だと思う。それでも,女性のピンク好きとはレベルが違うわけで。女の人って何でピンクが好きなんだろうね。

● 宇都宮も大通りから外れて路地に入ると,色々と想像を刺激してくれる空間があって,けっこう面白い。
 東京の玉ノ井とか鳩の町とか元吉原の人形町1丁目とか,そういうところの路地に昔の残り香がないかと思って,何度か歩いてみたことがある。
 かすかな残り香はあるものだ。江戸時代初期の,戦前の,戦後しばらくの間のざわめきを想像してみるんだけども,これはなかなか上手くいかない。

● しかし,かすかな残り香なら,わざわざ東京のそういう場所に行かずとも,宇都宮でも見つけることができるのだった。
 日本がというより世界が貧しかった時代が長かった(今だって未来の人類から見れば貧しいのかもしれないが)。その貧しい時代に生きた人々の残り香。

● 江戸期の吉原の花魁は書を能くし,和歌も詠んだ。女性を代表するインテリだった。男の学者もタジタジになったと聞く。苦界に身を沈めるというイメージからはみ出すものがあった。
 それでも,当時と今と,どちらがいいかといえば,圧倒的に今だろう。という余裕をこきながら,残り香などと気楽なことを言っているわけだ。今はいい時代だ。

● 22日。東京からの復りも,大手町から半蔵門線に乗って,そのまま東武で。
 すっかり安酒場街と化したオリオン通りを歩く。日曜日だというのに,お客が入っているんだよねぇ。もちろん,店によって差異はあるんだけど,ひと頃の寂れ具合が嘘のようだ。印象としては若者が多い。

● ぼく一個の例をとれば,職場の飲み会は昔に比べれば激減している。たぶん,どこでも同じだと思うんだよね。
 にもかかわらず,これだけ入っているというのは,若い人たちが職場抜きで飲んでいるんだろうか。どうも,ロートルにはわからない現象だなぁ。

● コロナはどうするんだよ。クラスタになるかもしれんぞ。どうにかこうにか爆発を防いできた日本においても,蟻の一穴から壊滅するかもしれない。
 といったって,そろそろコロナに飽きてきてる。それが油断というものかもしれないのだが,飽きてきている。

2020年3月21日土曜日

2020.03.21 浅草の喧噪

● 東武線に乗車。曳舟で浅草行きに乗換。浅草に着いた。雷門や浅草寺の方に行ってみるつもりはない。
 隅田川堤。こちらも春爛漫。ムダな活力で溢れている。“ムダな”というのが活力の生命線。コロナに負けてないぞ日本人,と思うのだが,これがいいことなのかどうかは,正直,ぼくにはわかりかねる。

● ただ,ぼくもこうして用もないのに浅草に来ている。不要不急の移動だ。その典型だ。それ油断だろ,と言われれば,そうですねと申しあげるほかはない。

● とはいっても,ソメイヨシノが満開にはまだ遠いけれども,花を咲かせていれば,どうしたって浮き立ってしまう。スマホのカメラを向ける人がたくさんいる。
 三々五々,春の日差しを楽しんでいる。平和という二文字を絵に展開すればこうなるだろうという,典型的な光景だ。

● 欧州ではそれでも外出禁止にしてるんだっけ。日本も紙一重のところで感染爆発を防いでいるのかもしれない。油断がその紙一重を破ってしまうかもしれない。
 では,こうした行楽をやめて,誰もが家にこもっているのがいいのかってことになると,どうなんだろ。手術は成功しましたが患者は死にました,ってことにならないんだろうかな。

● 結局,わからない。わからないから,ぼくはできるだけ通常を維持しようと思っている。

2019年4月6日土曜日

2019.04.06 猿江恩賜公園の桜

● 猿江恩賜公園に行ってみた。というか,横切ってみた。桜は満開を過ぎて散りしきっているときが,最も美しい。美の最高潮は満開の先にある。東京ではまさに今がその時。
 暖かく日差しもたっぷりあって,絶好の行楽日和。多くの人たちが花を散らせる桜の下で,思い思いに過ごしている。

● 見事な桜だ。この程度の密集度,連坦度は,東京では珍しくもないのかもしれないけれども(代表的な桜の名所として猿江恩賜公園が挙げられることはあまりないと思うから),ぼくにはすんげーものとして映る。ここまで桜で埋めるほどに,日本人は桜が好きなのか。
 逆方向に見ると,スカイツリーを背にした桜の群舞。いやはや,絵になるものだ。

● 桜だけではない。チューリップなどいろんな花が植えられている。華やかが華やかの中に埋もれてしまって,それぞれの花が際立たない。
 いや,そうではない。桜が圧倒的に強い。桜は本当に強力無比。花といえば桜。おそらく,日本人に限らず,アメリカ人もフランス人も同じなのではないかと思わせる。

● が,桜には狂気が宿るいう言われ方もある。そうかもしれないと思う。精神に病を抱える人はこの時期をやり過ごすのが大変だという話も聞く。
 季節の変わり目がどうのこうのではなく,どうもこの桜がいけないのではないか。春に桜がなければ,彼ら彼女らの心も平らかさを維持しやすいのではないか。と思わせるほどに,桜の群舞には尋常ならざる空気を感じる。

● 行楽を楽しんでいるかに見える人の中にも辛い思いを抱えた人がいるはずだ。この時期,辛い人,けっこういると思う。
 クリスマス商戦の時期も,その浮き立つ感じについていけない,疎外されていると感じ
る人はいるだろうが,桜はクリスマスのような人工物ではない。ここの桜は人が植えたものではあるとしても,桜そのものは自然に属するものだ。
 その自然がここまで浮き立つと,辛さがいや増す。桜は少しあればいいのかもしれない。

● ここに来る前に地元の図書館に立ち寄った。建物の前に一本桜がある。
 こちらの花はまだ発展途上かに見受けられたが,その一本桜の方が風情があるようにも思える。こちらの襟を正さしめるのは一本桜の方かも。

● ソメイヨシノは挿し木で増やしたので,すべてのソメイヨシノは同じもののクローンであるらしい。環境が変化して,ソメイヨシノが生存できなくなると,日本中のソメイヨシノがすべて消えてしまうことになる。
 猿江公園の桜も地元の図書館の一本桜も,文字どおり全く同じものであるわけで,そのことが何だか奇妙なことに思えてくる。