ラベル テイネ 定年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル テイネ 定年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年4月5日日曜日

2020.04.05 引退した実感がない

● 完全引退して今日で5日目。が,引退したという実感がまるで湧いてこない。しみじみと開放感に浸るといった気味合いもない。黄金週間や年末年始のような長めの休暇に入ったような気分だ。
 自慢にもならないが,仕事に体重を預けてこなかったからだろう。22歳で社会人になってからずっと,自分と仕事の間には距離があった。自分と仕事が一体になったと感じたことはない。

● そうではあっても,ストレスで明らかに体調に異変を来した時期が自覚できるだけで3回はあった。ストレスで甲状腺が切れたことがあったし,足裏を中心に皮膚潰瘍ができた時期が続いたこともある。朝,強い酒を飲まないと出勤できなかったこともある。
 そういうことから開放されたヤレヤレという気分がやって来てもいいのじゃないかと思うんだけども,そういうことがない。

● 気の合わない人たちに囲まれて,何かをやらなければいけないという状況からも解放された。バカから自由になれたのだ(バカなのはこっちかもしれないが)。
 セイセイするはずのことではないか。しかし,これも実感するところまで行かない。
 再雇用というクッション期間があったせいもあるだろう。よく言えばソフトランディングに成功したのかもしれない。

● 以下は別の話になる。
 5日やって,これなら何とかなりそうだという安心感が足元にできつつある。これからのことをあまり心配しなくてすんでいる。
 この安心感はお金からの解放と言い換えてもいいものだ。お金はさほど必要ではない。お金がなくても何とかなるぞ,という。月々の収入は年金だけになるが,それで充分なのだ。年金の他に2千万円の金融資産が必要なんてのは,はっきりウソだと思う(国民年金だけの場合は別だが)。

● ライフスタイルの問題もある。毎週ゴルフに出かけたり,(たとえ接待でも)高級酒場で飲んでいたり,タクシーを常用していたりすると,引退後はギャップが大きくなるかもしれない。
 しかし,そんな人はごく少数だろう。大方のサラリーマンは真面目でコツコツ派だったはずだ。そうでもなけりゃ貧民の代表たるサラリーマンなんかやっていないはずだから。

● 何が言いたいのかといえば,大方の人はソフトランディングが可能だろうということ。
 ぼくは63歳で完全引退したけれども,現状だとほとんどの人は60歳で定年退職し,その後5年間は再雇用され,65歳でお払い箱になる。お払い箱になった後も何とかなるから大丈夫だよということね。
 何だかんだ言って日本っていい国だよ,と思う今日この頃なんですよ。

2020年3月18日水曜日

2020.03.18 “毎日が日曜日”になることへの覚悟が決まらなくて,ウダウダと考えている

● 働ける間は働いた方がいいという意見があって,これがなかなか説得力を持つ。そう考えている人は多いのじゃなかろうか。ぼくもそう思っていた時期があった。
 働くということは単に仕事をするというだけではない。生活が規則正しくなる。毎日,他人に囲まれることになる。これが耐え難い苦痛をもたらす元凶にもなるんだけども,単調に墜ちることを防いでくれる防波堤にもなる。

● 特に若者と接することができるのなら,社会から遊離することも防いでくれるかもしれない。ネットでは得られない類いの情報に接することができる
 そういうものには間違いなく価値がある。その価値を重く見るなら,70歳まででも働けるなら働けばいい。

● 一方で,働ける間は働いた方がいいと考えがちなのは,経済問題を別にすれば,環境の激変を避けたいと身構えるゆえであるかもしれない。
 自由に使える時間で日々が埋まるとなると,自分の人生観,自分は生涯で何をどうしたいのかという根本的なところを考えることを余儀なくされる。定年後あるいは再就職後,いつその幕を引くかは,そこのところにかかってくる。それを無視しては成り立たない。
 特にやりたいことなどないというのであれば,働ける間は働こうとなる。何もしないでボーッとしているのは,働いているよりも消耗するかもしれない。

● もっとも,今どきは,文字どおりにボーッとしていることは難しくなった。インターネットのせいだ。勝手に情報が入ってきてしまって,ボーッとさせてくれないようになっている。
 が,それもボーッとしている範疇でしょうけどね。働くよりも消耗するのはその場合も同じでしょ。

● しかし。やりたいことがないからとりあえず働こうというのも,何か違う気がする。自分が感じる楽しさが働くことの中にあるならいいけれども,そんなことはまずない。今まで働いてきたのだから,そんなことは百も承知,二百も合点のはずだ。
 働くことの中にはない,自分にとっての楽しさを追求してもいいんじゃなかろうか。ぼくらは年金には間に合った世代だ。厚生年金を受給できるのなら,世間ではいろいろ言われているけれども,とりあえず老夫婦が暮らせるだけの費用は賄えるだろう。東京で借家に住んでいるのでもない限り。

● 問題は自分にはやりたいことがあるのだろうかってことだ。自分は何に楽しさを感じるだろうかと突き詰めることだ。
 自分はどうも人づきあいを望んではいないようだ。それがいいか悪いかを評価してはいけない。いいも悪いもない。自分はあまりコミュニケーションの場にいたくないタイプなのだ。それをそのまま受容しないといけない。この歳になってなお,苦手を克服しようなどとするのは,滑稽の極みというべきだ。

● 1人遊びは得意な方だ。人づきあいを避けたいというのは,子供の頃からそうなのだから,勢い,1人でいる時間が長くなる。いやでも1人で時間を埋める方策は身につく。
 読む,聴く,見る,の受動態の趣味は作れている。受動態だからと舐めてはいけない。たとえば,定年になるまで読書をしたことのない人が,暇になったから本でも読むかとなったところで,読めるわけがないのだ。本を読むための体力がないからだ。その体力を定年後に付けようとしても無理だろう。
 老後を持て余さないだけの受動態の趣味をどうにか作ってこれた。これは自分の強みだと秘かに思っている。

● が,働くことを拒否して,すべての時間をそこに注ぎこみたいとまで思っているわけではない。なぜというに,若い頃から職場に体重を預けることはしてこなかったからだ。仕事が自分の最大の関心事であったことはない。といって,では何が関心事だったのかとなると,そんなものはなかったような気がするのだけど。
 受動態の趣味を,やれる範囲でずっとやってきた。その範囲を狭めようとする要因に対しては,基本的に戦う姿勢だったと思う。職業人としては落第であろうが,働き方改革なんぞという言葉を聞くと,時代が自分に追いついてきたと思ったりもする。

● というわけで,これまでもけっこうやってきたのだ。だから,その時間をさらに増やしたいとはじつはあまり思っていないのだ。
 思ってはいないのだけれども,もう人の中にいるのはいいかなぁ,と。苦を遠ざけて楽に没入したいかな,と。だってさ,この世の中にある仕事のかなりの部分はなくてもいいもの,ひょっとするとない方がいいもの,のような気もしていてさ。
 ま,その真偽はさておいて,自分中心の世界,自分しかいない世界に移行しても許される年齢になったよね,と思いたいっていうかね。

● アンチエイジングにはムダが多い。そういうことには興味がない。そこは自然体でいるのがいいと思っている。のだが,精神は若々しくありたい。若々しさの基になるのは好奇心だろう。その好奇心を涵養することは大切だと思っている。
 自律的に,内発的に,それができるかどうか。自信はない。出口治明さんが言う,本・人・旅の3本柱の中で,今日以後の自分がどうにかこうにか維持できるものは本くらいのものか。
 それだけでも維持できればたいしたものだと思うが,好奇心を刺激するに,人と旅を欠いては致命的かもしれない。

● しかし,旅といっても大きな旅でなくてもいいような気はする。「角の煙草屋までの旅」とは言わないまでも,小さな移動も旅に含めていいのではないか。というか,そう考えた方が自分にとって都合がいいので,そう考えておくことにしたい。
 人もそうで,友人は多くなくてもいい。完全に1人というのはどうかと思うが,極端な話,配偶者以外に1人か2人と,年に1回か2回話す程度でもいいとしておこう。
 本(とインターネット)を味方につけるという前提で,旅と人についてはその程度に考えておいてもいいのではないか。わずかな人とのお喋りと小さな移動で,好奇心を刺激し続けることはできると思いたい。

● であるからして,4月以降,誰かとツルんだり,群れたりする可能性はない。もともと,放っておくと群れから離れるタイプなのだし。
 したがって,たとえば老人大学校やシルバー大学校と称される高齢者のサークルに入るなどということは,まずもってあり得ない。群れないと大きなことはできないのかもしれないが,そんな大きなことをやりたいともやれるとも思わない。

● 誰かと一緒じゃないと動けない,何をしたらいいのかわからないというのでは,その歳になるまで何をしてきたのかということになる。歳を取ったからといって賢くはなっていないのが普通だろうが,それでもリスクを覚悟して,1人で見切り発車ができるようになっていることは,年寄りの必須徳目のひとつだろう(ちなみに,必須徳目にはもうひとつある。若い人たちがやることにダメだしをしないということだ)。
 いや,それは取って付けた理屈だ。結局,コミュニケーションにあまり興味がないというわけで,これは持って生まれた性格だ。それがつまり,完全引退を自分に選ばせた究極の理由だ。ぼくは人と一緒よりも,1人でいることが好きなのだ。

● 堂々巡りをしているのだが,働き続けることと,働くのをやめて毎日を日曜日にするのと,どちらが自分に向いているか。本当はどちらを自分は望んでいるのか。
 正直,自分でも判然としないので困るのだが,おそらく後者であろうかという程度のことなのだ。かくなるうえは,せめてKKO(キモくて金のないオッサン)と呼ばれないように,精進しなくてはならぬ。

2020年3月15日日曜日

2020.03.15 4月からの“毎日が日曜日”の予行演習

● 嫌味っぽくなるかもしれないが,今年になって初めて東京に泊まらない週末を過ごした。2日間とも家でグータラした。
 4月からの“毎日が日曜日”の予行演習にはなるまいが,見る,聴く,読むの受動態の趣味で,どうやら時間を埋めることはできそうだ。午前中は家事見習い,午後と夜は受動態の趣味。
 つまり,朝ご飯を作って(ただし,炊飯器で飯を炊き,ネギと油揚げの味噌汁を作るだけになりそうだ),洗濯物を干したり,家の周りの雑草を抜いたり,3日に1回は掃除機をかけたりして,午前中を過ごす。

● 午後はWALKMANで音楽を聴きながら図書館まで歩いてみたり,線香と百円ライターを持って墓参りに行ったり,Amazonプライムで映画を見て過ごす。
 そんな感じになるか。これで1,2ヶ月やってみて,それで行けそうならずっとそれで行く。映画も本も楽曲も無尽蔵にあるわけだから,見る,聴く,読むで時間を埋めるというスタイルに飽きない限り,5年や10年はそれで行けるだろう。
 それで行くならお金はかからないので,年金だけで経済的には足りる。

● 夕方は1週間に1回はカレーを作りそうな気がする。コーンとエンドウ豆とニンジンの冷凍ミックスだけのカレー。糖尿病だから朝食を食べたら,昼は抜く。夜はこのカレーだけを食べる(ご飯は食べない)。
 おそらく,ストレス激減によって,アルコールは身体が欲しなくなるだろう。いやはや,健康的なものだ。

● あとは自転車をどうするか。キャンプツーリングで日本一周くらいはやりたいものだが,踏み切れるかどうか。
 老後の暮らしにその程度の彩りは添えたいものだと思うが,ここは踏ん切りがつくかどうかだけの問題。踏ん切りがつくかどうかは,面倒くさいをなくせるかどうかの問題でもある。

● 休みに家でダラダラするのもいいわね,とホテル奉行の相方が言う。そりゃそうだ。お金を使って東京に泊まるのをいつまでも続けるわけにはいかないし。
 お金を使ってする遊びは必ず飽きるものだと思っている。東京にもホテルにもまだぜんぜん飽きないけれども,このまま続ければいずれは飽きる。
 飽きる前に家暮らしに切り替えるのが賢いやり方だ。飽きてないんだから,たまに行く東京はキラキラを湛えたまま,ぼくらを迎えてくれるはずだ。

2020年3月4日水曜日

2020.03.04 完全引退まであと27日

● サラリーマンを辞める日が近づいている。4月になったら,41年に及んだ暗黒時代にやっと別れを告げることがきた,とTweetするんだろうかなぁ。
 でもって,4月が1週間も過ぎると,いや,3月までは良かったよ,と言いだすのかもしれない。

● 足りないと言われながらも,年金がある。満額出るのはしばらく先になるけれども,月額で13万円くらいは出るのじゃないかな。相方は来年度も働くと言っているので,経済的な心配はない。
 っていうか,相方に養ってもらう感じか。医療保険については,彼女の扶養家族になるんだろうかなぁ。ので,病気をしないようにしないとな。お金を使わないようにしようと思ってますよ。

● 下着を含めて,洋服は一生分あるような気がする(流行だの何だのはどうでもいいとして)。だから新たに買う必要はない。家もある。だましだまし使えるだろう。ローンはない。
 当初は相方も一緒に辞める予定だったので,ぼくの年金13万円だけでやりくりすることになるはずだった。それでもできないことはあるまいと思っていた。

● 今どき,健康で文化的な最低限度の生活を営むのに,お金が果たす役割はかなり減じている。インターネット効果だ。
 そのネットも格安で使えるようになった。ぼくなんか,スマホは月額1,050円で使えているし,自宅の無線LANも数千円。パソコンやスマホは一度買えば数年は使えるわけだし,しかも,スペック的には数年前の機械でもさほどに支障は来さないレベルになっている。
 それに加えて,Amazonプライム会員の会費が,年額5千円足らず。それだけで,映画は居ながらにしていくらでも見られる。音楽もバレエ公演もYouTubeでただで視聴できる。

● 昔ながらの図書館もありがたい存在だ。ただで本が読める。図書館にある本はそっくり自分のもので,専門のスタッフを雇って管理してもらっていると思えばいい。実際,自由に読めるわけだから,そういうことなのだ。
 昔と違うのはCDでしょうね。パソコンでリッピングできるようになったから,クラシック音楽を聴くにはネットより図書館でCDを借りた方が話が早い。一生かかっても聴ききれないほどのコレクションが短時日のうちにできあがる。

● 人づきあいは好きではない。仕事絡みの人間関係は職場を共にしている間だけでいい。若い頃からそうしてきた。ので,完全引退に伴って失う人間関係などというものはない。仕事絡みの人間関係は必要悪であって,最初から存在していなかったも同然だ(ただし,ごく少ない例外はある)。
 だから,抜け落ちた人間関係をFacebookで補おうという発想はない。ネットで個対個のコミュニケーションを図るのは,そもそも間違いだと思う。SNSもそういうふうに使うものではない。

● ではどう使うのか。ひとつには社会の窓としてネットを扱う。ニュースをはじめ,情報を得るためのツールとしてネット以上のものはない。特に,Twitterはそれに向いている。
 もうひとつは,不特定多数に向かって,言いたいことを言うために使う。といって,ぼくのような人間に是非ともこれだけは言っておきたいなどという主張はない。たいていのことはどうでもいいと思っているからだ。
 ので,不特定多数はイコール自分ということになる。独り言を言うためのツールだ。独り言とログを残すためにTwitterを使っていきたい。写真も保存できる万能のメモ帳,スクラップブックとしてTwitterは秀逸だ(Twilogの併用が条件)。
 それを誰かに見てもらうことができて,時々,リプが付く。人間関係なんぞというものは,その程度でいいのではないか。

● 家で,しかし地域活動はしないで,淡々と生きているには,以上で充分だ。それ以上の装置は要らない。
 逆にこれは要らないのじゃないかと思う装置は,固定電話とテレビだ。固定電話は芳しからぬ企業の営業ツールにしかなっていない。それをこちらの費用負担で維持しているようなものではないか。現状では固定電話がないと光ファイバーも接続できないのだろうから,ネット接続もモバイルルーターにするのが正解かもしれない。

● テレビは,完全引退後は見ることになるかもしれないという予感がないではない。家に大型モニターが3台もある。いや,やはり見ないか。NHKの受信料を払っているのがもったいないな。
 車も処分する予定。相方が使っている車だけで足りる。なんせ,ぼくは通勤をしなくなるのだから。ぼくが乗っているのは13万㎞以上の走行距離になっている。今月中に廃車するかな。

● 問題は自転車。引退後に自転車に復帰するかしないか。自転車で日本一周くらいはやりたいと思っているが,初期費用が40万円くらいかかるか。出せない額ではないだけに,ちょっと悩んでいる。
 引退生活を始めてから考えればいいと思うが,自転車旅行じたいに相方が反対することはないと思う。喜んで送りだしてくれるんじゃないかな。帰って来なくてもいいよとは言わないだろうけどね。
 彼女が勤務している間に年金を使わせてもらってやってしまうか。

● 外で酒を飲む歳ではすでにない。ギャンブルはもともとやらない。東京のホテルに泊まるお金はなくなるが,もう充分に堪能したような気がする。
 お金を使わないでできる1人遊びをいくつか持っておくことが最大の老後対策になることを,けっこう若い時期から思っていた。隠居という言葉に憧れていた。
 準備に怠りはないつもりだ。その隠遁生活にやっと入ることができる。楽しみといえば楽しみだ。

2020年2月27日木曜日

2020.02.27 定年後が長い件

● 今は忙しいからできないけれども,定年になって暇ができたらアレもやりたいコレもやりたい,やりたいことはたくさんある,という人がいるかもしれない。
 しかし,忙しいからという程度の理由でやらないでいられるのなら,そのアレやコレは本当にやりたいことではないのではないか。つまり,定年になっても暇ができても,やらずに終わる公算が大きいのではあるまいか。
 本当にやりたいのであれば,忙しくてもやれる範囲でやっているものだろう。我慢してやらないでいるなんてできないものだろう。

● だから,あと数年で定年とい50代の人が,仕事以外に何もしていないのだとしたら,それは危機的な状況だと思う。もしそうなら,危機感を持たなければいけない。
 いや,立派なことをやっている必要はないと思う。自分が好きなもの,夢中になれるものなら,何でもいい。他人や世間様に評価してもらう必要など端からないわけで。
 何でもいいんだけれども,何もないというのは,少し以上に困った事態になる。

● 定年後は長いのだ。残念ながら現役中にそれがわかるほど,人間は賢くない。いや,知ってるよ,現役時代の総労働時間を超える自由時間が定年後にはあるんだよね,会社のライフプランセミナーで教わったよ,と言う人もいるかもしれないが,それは頭で知っているだけだ。
 頭でなら誰でも知っている。が,身体でそれを実感できるようになるのは,実際に辞めた後のことになる。

● できれば定年前に辞めたいよ,定年までやれば充分だよ,それ以上サラリーマンを続けるなんてとんでもないよ,それじゃ俺の人生何だったんだよ,と言いたい人もいるだろう。
 残念ながら,それも現役だからこその発想だ。実際に定年を迎えて,その後の途方もない長さを実感した後に同じように考えることができるのなら,その人はある意味,人生の達人であるかもしれない。

● 会社や役所はお金もくれるがストレスもくれる。とりわけ,人間関係という煮ても焼いても喰えないストレス源を提供してくれる。人生はまさしく苦であることを思い知らせてくれるのだ。
 しかし,50代のオッサンに20代の娘さんと話す機会も提供してくれていたのだ。会社に行けば自分の身の処し方を自分で考えなくていいという省エネ環境も与えてくれていたのだ。
 朝起きなければならない理由も作ってくれて,決まった時刻に電車に乗って出かけるという規則正しい生活を保証してくれてもいた。同僚や取引先という交際相手まで用意してくれていた。

● 定年後は自由を手にすることができるんだけれども,それは会社が提供してくれていたものを手放すこととバーターだ。それらを失った跡を何かで埋める必要は必ずしもないだろうし,埋めないでいられるのが理想だと思うのだが,たいていの人は埋めずにはいられない,あるいは埋めるものだと思っているだろう。
 だから,たとえば会社時代の同僚や後輩とFacebookでつながろうとしてみたり,同期生との飲み会を画策してみたり。

● やめておくがよい。組織を去った者に組織が冷たいのは,先輩諸氏を見ていてよくわかっているはずではないか。先輩諸氏にあなたが示した態度を,後輩があなたに示すのだ。それだけのことだ。
 同期生と飲んだところで,出てくる話題は昔話だけだ。昔話のつまらなさもよく心得ているではないか。想像できてしまうではないか。同期生との話がそれなりに刺激になっていたとしても,それは互いが現役でいたからだ。

● ではどうするか。誰かと一緒にではなく,自分独りで,埋めるなら埋める,埋めないで空白を味わうなら味わう。それを基本にすべきだ。
 自分独りが原則だ。独りで遊ぶ,独りで学ぶ,独りで作業する。できるのであれば,現役のうちからそう心がけておくのがいい。職場にあまり体重を預けてはいけないのだ。

● 定年になってからでは遅すぎる。たとえば,定年になったら本でも読もうかとしたって,そんなことはできはしない。本を読むには体力がいる。その体力がないのでは,意欲だけあってもどうにもならない。
 かといって,その体力をつけるには定年後では遅すぎるのだ。結局,読書に進むことはしなくて終わる。ことは読書に限らない。
 つまり,定年になった時点で勝負はついている。この冷徹な事実は受け容れるほかはないだろう。

● 本が読みたくて図書館に行くなら,堂々と行けばいい。弁当持参もいいだろうし,近くの店で昼食を摂るのもいいだろう。その程度なら支出もしれたものだ。
 が,暇でやることがないから図書館に行って新聞でも読もうかというのはダメだ。ダメではないのかもしれないが,そこに楽しさはない。

● よく言われるような,会社の次は地域での付き合いに力を注げ,あなたの経験が役に立つ局面がある,ただし昔の自慢はするな,という助言を真に受けてはいけない。地域活動,自治会活動に自分を向かわせることにはまったく賛成できない。少なくとも,ぼくはそういうものをやる気はない。
 理由は単純で,地域活動を是として現にそれをやっている人は善意の人だからだ。申しわけないが,善意は馬鹿と表裏なのだ。善意と善意が対立してしまうと,馬鹿なだけに,収拾がつかなくなっていたずらに消耗するばかりだ。

● ぼくもあとひと月で毎日が日曜日になる。ぼく一個に関していえば,インターネット(パソコンとスマホ)と図書館と少しのお金と歩ける足腰があれば,この先もやっていける。
 趣味のひとつが音楽を生で聴くことなんだけど,4月からは東京まで聴きにいくことは経済的に厳しくなる。少しの預金はあるので4月早々からそうなるというわけではないが,基本的には地元に向かう。その代わり,地元開催分を取り落とすことはなくなるだろう。その方がPVも増えるかもしれない。
 ストレスが減るので,自ずと禁酒にも至るのではないかと思う。いや,逆にストレスフリーの状況で酒も煙草も嗜みたいとも思うのだけど,さてさてどうなるか。そんなことを考えると,4月からが楽しみだ。

● 定年を迎えた時点での自分のポジションを同期生と比べて,自分は上手くやったとか,職業人としては失敗だったとか(ぼくはこれに該当),まぁこんなものかとか,色々と思うところがあるだろうけれども,そんなことはどうでもよい。「現役時代の総労働時間を超える自由時間が定年後にはある」ことを実感すると,これまでの人生はリハーサルで,本番はこれから始まるのだと自然に思えるようになる。
 まだ始まっていないのだから,成功も失敗もないのだ。現役時代に受刑経験があったとしても,理屈は同じだ。そんなものはすべてチャラである。御破算で願いましては,だ。

● しかし。仕事以外にやっていたことがまったく何もないというのはダメだ。それだけはダメだ。膨大な自由時間を持て余すことになるだろう。そこには小さな喜び,小さな幸せがない。
 独りで遊べるもの,たとえば詰将棋を解くというのでもよい,盆栽でも絵を描くのでも家庭菜園でも山芋掘りでも何でもよい,そうしたものを現役のときからひとつかふたつ,自分につないでおく必要がある。

● それから,これも大事だと思うのだけど,インターネットを自分の味方につけること。世界に向けて情報を発信するなどと力むことはない。ネット上の“絆”なんぞは基本的には絵空事だ。そういうものに期待してはいけない。
 受信専用でかまわない。ネットは映画館であり,コンサートホールであり,図書館であり,美術館であり,ビジネスセンターであり,あなたの私書箱であり,場合によってはあなたの秘書にもなる。
 電車の時刻や乗り継ぎも言いつければ調べてくれるし,航空券やホテルの予約もしてくれるし,そんなに時を経ないで暇つぶしのための話相手にもなってくれるだろう。

● ネットの恩恵は享受すべきだ。そのためには,自分には要らないなどと言ってないで,スマホを持つべきだ。初歩的なレベルでかまわないから,デジタルリテラシーを身につけておくこと。
 もっとも,この部分は会社や役所に強制されて,否応もなく身につけている人が多いだろう。とすれば,それもまた会社のありがたいことのひとつだったことになる。

2017年1月20日金曜日

2017.01.19 世間の目から自由になって,やりたいことをやらなきゃ

● 自分は組織に体重をかけてこなかった。職場の付き合いにも重きを置いてこなかった。
 組織というのは,忠誠を尽くす対象ではなくて,自分に合わせて活用するために存在する。と悟って,そうしてきたわけでは残念ながらないけれど。
 したがって,いずれ迎えるはずの定年退職も,それに伴う喪失感はほとんどないだろう(と思っている)。

● そうはいっても,長らく属してきたわけだから,知らず知らずのうちに,組織の色に染まっているだろう。組織から去って,そのあとに何もないというのでは,いくら組織に寄りかかっていなかったといっても,ポツンとした淋しさを味わうことになりそうだ。
 今までの人間関係から切り離されても,そういうものとは関係なく,やりたいことがあるというのも大事だ。しかも,すでにそれをやっているのでなければならない。

● 退職して時間ができたら始めようではなく,できる範囲ですでにやっていること。ここのところは,特筆大書すべきだ。
 時間ができたら始めようと思っているだけで,只今現在はやっていないのであれば,それはそんなに好きなことではない可能性が高いからだ。おそらく,暇ができてもやらないで終わるだろうからだ。

● 好きなことがあって,すでにそれをやっている人は,退職後の生活プランなんて簡単にできる。今やっていることを拡大するか深化させればいいだけだからだ。
 社会の役に立ちたいとか,そういう立派なものでなくてもいい。というより,かっこつけの要素がわずかでもあってはダメだ。自分の欲望に忠実でありたい。世間がどう思うかは考慮の外に置かなければならない。
 むしろ,年寄りの冷や水と言われるようなことをまったくやらずに朽ちることになっては,年寄りになった甲斐がないというものではないか。

● 以下,自分がやりたいと思っていることを書く。
 クラシック音楽を中心にコンサートの類にはできるだけ出かけたい。その感想をブログに綴ることも続けていきたい。
 自分の書くものが,ステージに立つ人たちの背中を少しでも押すことができれば本望だが,そういうことがなくてもいい。楽しいと思うからやる。楽しいと思わなくなったらやめる。

● 読みたい本もたくさんある。若いときから年を取ったら読み返そうと思っていた本もあまたある。が,それを読み返す機会はないかもしれない。
 なぜなら,新しい本が次々に出るからだ。それを読んでいくだけで手いっぱいになるはずだ。その手いっぱいを味わえるだけ味わっていきたい。
 とりわけ,空海や道元の仏教書をゆっくりと読んでいければと思う。

● 自転車もまともなスポーツバイク(ツーリング用の自転車でもいい)に買い換えて,ブルベに挑戦したい。200㎞,300㎞,400㎞,600㎞。SRの称号を手にするのだ。
 300㎞までは何とかなりそうな気がしている。が,400㎞の壁を越えられるかどうか。ちゃんと鍛えないといけないんだがな。

● で,SRになったらブルベはスパッとやめて,自転車で日本一周の旅に出る。自分でルートも速度も自由に決められる。ザッとしたルートはすでに考えている。
 息子と二人で走るのが,いうならひとつの夢だった。その夢は叶うことはないけれども,時間を贅沢に使って日本の各地を回ってみたい。
 テント泊を基本とする。週に一度はビジネスホテルに泊まる。テント泊でもスマホは必要だろう。そのバッテリーを充電する必要がある。そのためのホテル泊だ。

● 仕上げは世界一周だ。仕上げというより,ブルベや日本一周は準備作業だ。自転車での世界一周など今では希少価値はなくなったけれども,老齢になってからの自転車行はひょっとしたら目立つかもしれない。死ぬまでに一度くらいは目立ってみせないと。
 ただし,相方から反対されたら,世界一周も日本一周もやめる。その反対を押してまでやるほどのものではないと思っている。

2016年10月4日火曜日

2016.10.04 定年が楽しみだ 2

● 日本の組織(に属する人たち)は,いったん組織を離れた者に対しては冷淡だ。退職後,元の職場にやってくる人は何人か見たことがあるけれど,何でそんなことをするのかと思っていた。来なけりゃよかったと後悔するに決まっているではないか。
 そりゃ,役員になって辞めたような人は邪慳にはされないかもしれないけれども,歓迎はしてないよとわかる振る舞いをされるはずだ。歓迎などされるはずがない。

● それでいいのだ。老害というのはたしかにある。ある年齢になったら隠居して世間に口出ししないのが,老人のたしなみの第一にくるものだろう。
 今の若い衆はどうとか,昔はどうだったとか,美化された記憶と実態以上の英雄にしてしまった自分を世間に晒すのは,どう言いつくろってみても,ウスミットモナイと言うしかない。

● だから,ぼくも辞めたらそれまでいたところとの接触は一切持たないつもりだし,そうしてもらった方が相手もありがたいだろう。
 同期も含めて,仕事で一緒だった人たちとの付き合いは断つ。というほど,気張っているわけでもない。もともと,そういう関係をぼくはほとんど持っていないわけだから。

● 今までの鬱陶しさをリセットできるのが定年だ。リセットできるだけでもいいのだが,定年後の時間を使ってやってみたいことはいくつかある。
 その多くは,できる範囲で今でもやっているのだが,そのために圧倒的な時間を注げる期間がもうそこまで来ている。だから,定年は楽しみだ。

2016年9月30日金曜日

2016.09.30 定年が楽しみだ

● できることがいくらあっても,仕事ができなければすべては無に帰する。男とはそういうもの。将棋の米長邦雄さんの言葉だったか。
 ぼくは無に帰する存在のひとつになるわけだな。

● 養老孟司・隈研吾『日本人はどう死ぬべきか?』に次のような発言が登場する。
隈 サラリーマンが迎える定年というのは,死へのステップの一つ前みたいな感じがありますね。というか,ほとんど死と同義語かもしれないですね。養老 以前に会った福島県庁の人は,県庁を定年になて辞めた後,十年以内に半分が死にます,と言っていました。それも,なんとなく分かりますよね。生きがい,張り合いがなくなってしまうんですよ。(p74)
● 本当だろうか。サラリーマンにとって定年は死への序曲なのだろうか。
 いや,そうなのかもしれない。サラリーマンの多くは,仕事第一でやってきた人たちだろう。

● 家庭だの地域での付き合いだのと言われても,仕事あっての家庭であり地域であって,逆ではないというのが,彼らの本音であるだろう。
 ワークライフバランスなどというのは,頭でわかるだけのシロモノに過ぎない。現実を見ろ,そんなことは言ってられないじゃないか。

● という人たちにとっては,仕事はたしかに「生きがい,張り合い」であって,定年は否応なしにそれを一気に奪う,「死へのステップの一つ前」の出来事になるのかもしれない。
 そこまで仕事に体重をかけてやってきた人を,ぼくは尊敬する。皮肉でも何でもない。大したものだと思う。自分がそのようにできなかったから,いっそうそう思う。

● ぼくは定年が待ち遠しくて仕方がない。定年になって時間ができたらやりたいことがたくさんあるからというよりも,この鬱陶しさとサヨナラできるからという,わりと後ろ向きな理由によるところが大きい。
 あまり仕事に体重をかけてこなかった。仕事を通じてできた友人もいないし,恒常的に飲んだりしている仲間もいないし,私淑する先輩もいないし,そういったものを欲しいと思ったこともない。
 だから,定年で失うものはまったく何もない(収入がなくなるということはあるけれど)。

● 一方,定年で得られるものはある。時間と自由だ。
 ぼくには孤独が寂しいという感覚があまりない。孤独はつまり自由ではないか。
 人づきあいなど,自由の制約要因でしかない。だから,孤独は望むところだ。