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2022年2月9日水曜日

2022.02.09 餃子と納豆

● 餃子購入額は宇都宮と浜松が首位争いを繰り広げていると思っていたのだが,宮崎市が首位に立った。総務省の家計調査の結果。
 この調査では餃子の皮と具材を買ってきて,自分で餃子を作るというのはカウントされないだろうから,厳密に言えば曖昧さは残る。が,自分で作る人が宇都宮にはベラボウにたくさんいて,宮崎と浜松には極端に少ないということでもない限り,実態をほぼ正確に反映しているものだろう。

● 宇都宮には強力なコンペティターが現れた。浜松と宇都宮のデッドヒートも面白かったのだが,宮崎が入ってくるとさらに盛りあがるかもしれない。三強の方が形としては安定するでしょ。
 餃子の街・宇都宮は街おこしの際立った成功例で,この種の成功は最初にやったものが成果のすべてを得る。二番手,三番手では,なかなか盛りあがるまい。
 という意味では,宇都宮にとっては餃子はもう用済みというところもある。あえてトップを狙う必要はないところに来ている。が,旗を振って盛りあげていくのだろうし,その方が面白い。

● でも,浜松と宮崎の皆さん,皆さんのところには餃子以外にも旨いものがたくさんあるでしょう。そこが宇都宮とは違うところなんですよ。
 流通網や技術が発達しているから,海なし県だからといって新鮮な魚が食べられないというわけではないんだけれども,これというものが栃木県にはない。郷土料理的なものがね。
 浜松の鰻は別格としても,宮崎には冷や汁がある。それに相当するものが宇都宮にはないと思うんだよね。

● 「しもつかれ」は悪くはないけれども,あの料理は下野(栃木県)だけではなく,群馬,埼玉,茨城,福島にわたるエリアで見られるものだ。しょっちゅう食べたいものでもないわけでね。
 蕎麦でもラーメンでも旨い店のいくつかをぼくも知ってはいるけれども,蕎麦もラーメンも全国一区の国民食だから,地域の代表にはなりにくい。佐野ラーメンが健闘しているけど。

● 納豆といえば水戸だ。が,“納豆の水戸,購入額の日本一は奪還ならず またしても東北勢に苦杯” という。水戸市が最後に1位をとったのは16年で,それ以後は福島市,山形市の東北勢に首位を明け渡したまま。
 であっても,「納豆といえば水戸」は微動だにしない。逆にいえば,首位の福島が納豆を使って何かしようとしても,なかなか難しかろう。

● でも,ここでも思うんですよねぇ。福島や山形で納豆がたくさん食べられているのはわかる。生産にも適するんだろうと思う。
 けど,水戸は納豆以外に旨いものに事欠かないんじゃないか。むしろ,何で水戸が納豆なんだ? 納豆購入額で水戸が首位に返り咲けないのは,むしろ当然でしょ。そんな必要,ないもん。

● しかし,これも煽った方が面白いのはたしかでね。納豆喰えや,というのをエンタテインメントにした方が,幸せ度があがりますわね。

2018年8月8日水曜日

2018.08.08 宇都宮は洋食消費も日本一

● 右は今日の下野新聞。
 宇都宮市民は外食が好きなのかね。外食くらいしか楽しみがないというわけでもあるまいがね。

● おそらく,イタリアンが多いのかと思うんだけど,洋食に行くのは安いからだよね。
 和食は高い。そんなにしばしば行くわけにいかない。行けるとしても,蕎麦くらい。その点,洋食は安く腹を満たすことができる。

● ただ,“洋食”の多くはどこが洋なんだよと思わせるよね。範囲が広すぎてとりとめがない。コロッケだのカツレツだの。ご飯を皿に盛って,それを箸で食べるという。たいていは味噌汁が付くんだし。洋食と和食の境目はかなり曖昧。

● この統計は回答者に文書で答えさせているんだと思うんだが,回答票に書きこむ時点でけっこう間違いが発生しているかもしれない。
 でも,まぁ,そうした間違いは一様に起こるんだろうから,宇都宮が洋食消費で日本一というのは間違いないと考えていいだろう。

● で,自分を振り返ってみる。「御茶呂」は洋食屋の老舗のひとつなんだろうけど,前回行ったのは37年前だ。では,洋食は食べていないのかというと,全然そうではない。
 純然たる和食の店以外はすべて洋食屋だと言ってもいいくらいだろうから,いうならファストフード以外は洋食ばかり食べている。

● 範囲が広い分,洋食に餃子ほどのインパクトはない。宇都宮は餃子で勝負すべし,と思うなぁ。

2018年6月9日土曜日

2018.06.09 「住めば都の高根沢」の迷惑

● 「住めば都の高根沢」というプロモーションビデオができたようで,だいぶ前から,宝積寺駅の改札口の隣にあるディスプレイで再生されている。
 それは別にいいんだけれども,今日は駅のホームの拡声器から大音声でエンドレスに流されていた。これはどうなんだ? ぼくは公害レベルの騒音だと感じたんだけれど。

● 駅のホームには多数の人が集う。電車を待ちながら静かに本を読みたい人がいるだろう。「住めば都の高根沢」ではない自分の好きな楽曲をiPodやスマホで聴きたい人がいるだろう。友だちとお喋りに興じたい人がいるだろう。ボーッとしていたい人がいるだろう。
 この大音量とエンドレスは,そういうことを一切許さない凶暴性を帯びる。暴力を超える暴力だと感じた。普通,暴力の対象は個人だが,これは多数に一気に働きかける。働きかけられた側には,それを防ぐ術がない。無抵抗を余儀なくされる。

● ひょっとしたら,スヤスヤと眠っている乳児を連れた母親だっているかもしれない。その母親と乳児にとって,この大音量ははっきり拷問である。
 そういうことに思いが及ばないのだとすれば,いくら何でも想像力の欠落がすぎる。

● 「住めば都の高根沢」をホームで流すことをやめるわけにはいかない事情がもしあるのであれば(可能ならば,やめてもらいたいのだが),音量を抑えてもらいたい。
 歌を聴くには,それに適した音量というものがある。それを超えた音量にしてしまっては,歌を殺してしまう。
 その適切な音量からさらに一段絞ることだ。駅のホームでは利用者が思い思いに過ごす。その“思い思い”を邪魔するようなことが絶対にあってはならない。
 過ぎたるは及ばざるがごとし,ではない。この局面では,及ばざるは過ぎたるに勝れり,が正しい。

● それでなくても,駅には“騒音”が多いのだ。1番線に下り列車が来るだの,危険だから黄色い線の内側に下がれだの,列車遅れまして申しわけございませんだの。
 それらのアナウンスは,意味がゼロではない。だから我慢もする。しかし,駅のホームで大音量の「住めば都の高根沢」を聞かされることを我慢しなければならない理由は何か?

● しかも,「住めば都の高根沢」は高根沢町へ移住してねという内容なのだから,町内で流しても何にもならないではないか。町外でプロモーションをかけるのでなければ意味がない。
 宝積寺駅には町外の居住者もやってくるからか。たしかに。が,その人たちの大半は通勤時間帯にやってきて,退勤時間帯に帰って行くだろう。したがって,その時間帯に流すのでなければ,これまた意味がない。
 が,混みあうその時間帯にこんなものを流したら,苦情が殺到するのではないか。苦情がこない時間帯を選んで流しているのだとすれば,何のために流しているのかわからないことになる。

● じつははるか昔に,これと似たような状況に遭遇したことがある。40年も前になる(国鉄だった頃)。岡山県の某駅で,当時ヒットしていた山口百恵「いい日旅立ち」をやはりエンドレスで延々と流していたことがあったのだ。おそらく,その某駅だけじゃなくて,全国のそちこちの駅で同じ現象が見られたのではないか。
 ぼくは山口百恵のファンだったけれども,エンドレスで延々というのには辟易するしかなかった。なるほど,国鉄の現場は頭を使うことを極端に忌避するのだなと思ったことだった。
 まさか40年後に同じ情景に出遭うとは思わなかった。

● こういう馬鹿以前の試みを,JR側が発案したとはさすがに思わない。思わないが,ここは発案者に対して,民間企業の矜恃を示してもらいたい。
 民間企業の矜恃とは何か? 利用客の方を向いて仕事をするということだ。

2018年5月24日木曜日

2018.05.24 那須クラシック音楽祭

● 那須クラシック音楽祭実行委員会からプログラムが届いた。ファンディングが成立したのは,慶賀の至り。
 期間は9月の1ヶ月。会場は主催者がオーナーを務める弦楽亭を中心に,那須町のあそこやここ。

● ぼくが漠然と思っていたのより充実の内容。弦と管に分けて,“ジュニア音楽コンクール”までやるのだ。
 大ホールにガサッと集めてというのじゃないから,それを踏まえると料金も控えめ。ホテルなどが出資する無料コンサートもあり。

● ここまで準備が整えば,第1回の音楽祭は半ば成功したも同然。じつは整っていなくて,アナウンスを先にしちゃってる部分もあるのかもしれないけれど,そうであってもここまでくれば大丈夫だと思う。
 第2回以降につながるかどうか。そこがわかる人は現時点では一人もいない。わかっているのは,1回やればいろんなノウハウが身につくということだけだ。

● ところで。主催者側にも会場を提供する側にも無料コンサートの費用を負担するホテルにも,地場者がいない。革新を起こすのはいつだってよそ者だ。
 だから,よそ者が住みつきたくなるようなところにはポテンシャルがある。栃木県だと那須と益子。

● 不思議だ。那須も益子も交通の便がいいわけではない。他の町と何が違うんだろ。
 那須にはよそ者が住み着くけれど,塩原にはそれがない。高原はよくて山あいはダメ? 益子にはよそ者が来るけれど,真岡には来ない。益子には陶芸という文化・芸術の代表が集積しているから? そういう単純な話?

● そんなのはわからないけど,外に向かって開かれているというか,よそ者を受け入れる素地がないとダメでしょうね。
 従来の居住者が強固すぎるつながりを作ってしまってて,よそから来た人をはじくようなところはダメなんだろう。自治会加入率が100%に近いようなところもダメだろうね。閉鎖性が強すぎる。

● 地域振興ってそこに都会を持ち込むってところがどうしたってあるから,すでに強すぎる絆(ありていに言えば,相互監視)が存在するところは,まずその“絆”を壊さないと出発点に立てないだろう。
 那須にしたって益子にしたって,最初から今の那須や益子ではなかったはずだ。開拓者がいたんだろう。地元の抵抗や嘲笑を受けながら,自分の周囲に小宇宙を作っていった人が。

2018年3月26日月曜日

2018.03.26 地域振興にジジイは口を出すな

● 右は今日の下野新聞コラム。自転車の魅力を紹介している。

● その自転車で街興しをするという鹿沼の試み。地域の魅力を発掘するのは,だいたいヨソモノ,ワカモノ,バカモノと相場が決まっているらしい。長くそこに住んでいる人には,あたりまえになって見えないものが多いのだ,と。
 このコラムにおける仕掛人も,ヨソモノでありワカモノだ。

● 自転車の魅力というか可能性はまだ発掘され尽くしていないかもしれない。この2つ(ヨソモノ・ワカモノ+自転車)のコラボは何ごとかを生むかも。
 ただし,だ。レンタサイクル的なものが成功した例はあまりない。無料にしてもダメだ。どうしても安物の自転車にしてしまうのが一因かとも思うんだけどね。あと,メンテが行き届かないこと。
 自分の自転車で来てくれる人を増やせるといいんだが。その方向での企画らしいが。

● 1日に100kmを普通に走るヘビーユーザーというか,スポーツライダーを捕まえるのは無駄なこと。彼らは走ることそれ自体に興味と快感を感じる種族であって,彼らにとって風景だとかグルメだとか地域の魅力だとかは二の次三の次なのだ。食べものなんて,コンビニで調達できるもので充分なのだから。
 そこまでは行かないんだけど自転車が好きという人がターゲットになるんだろうか。

● ところで。役所や企業を定年退職して,次は地元に貢献したいと動きだす人たちが一定数いるようだ。彼らのFBやTwitterを見ると,一生懸命に考えて動いていることがわかる。そこに私心はない。地元を良くしたい,自分の知見や経験を役立ててもらいたい,と思っている。
 しかし,そういうものをぼくは一切認めない。リアリズムに徹すれば,そうなるしかない。

● 過去の長い人はダメなのだ。その人の考え方,価値観が形を成したのは,おそらく昭和40年代。そこで形を成してしまったものが,現在の空気に適応できるはずがない。
 現在や近未来が求めるものに対応できるはずがないのだ。個人の資質には関係なく,そうなのだ。
 なぜなら,彼らに理解できるものは過去だけだからだ。決着がついている過去をモノサシにして測る癖を脱することができないからだ。

● 現状を維持するものを生みだすことはできるかもしれない。が,現状をブレイクスルーするものを生むことを彼らに期待することは間違っている。彼らが自分にそれを期待しているとするなら,自身を相対化できていないからに過ぎない。
 ヨソモノ,ワカモノ,バカモノに任せて,手を引くのがよい。邪魔をしないのがよい。それが彼らにできる唯一の地域貢献だ。

● では,過去の長い人は何をすればいいのか。自分の好みや興味に没頭することだと思う。年を取るとこんなに素晴らしい時間を過ごすことができるのだよ,と範を示すことだ。若い人たちに多少なりとも憧れを抱かせる生き方をすること。
 本が好きな人は読書に没頭すればいい。やはり本を好きな若者の誰かが,その姿を見て羨ましいと思うかもしれない。2人か3人でいいのだ。大向こうに受ける必要はまったくないのだから。
 旅行が好きな人は旅行に行けばいいのだし,釣りが好きな人は釣りに出かければいいのだし,自転車が好きな人は自転車に乗ってればいいのだ。難しいことは何もない。

● そのためには,他者や地域と関わるより,自身に専念するのがよい。いや,他者にかかずらっている暇などないはずだ。
 もし,老いてなお,自分固有の好みや興味がないというなら,あってもそれを追求するだけの体力や集中力を欠いているなら,選択肢はただ一つ。消え去るのみ。
 そこで消え去らないで,他者や世間にもの申してしまうのは最悪だと心得よ。昔話は何も生まないのだ。聞かされる方は迷惑なだけだ。

● しかし。自分固有の好みや興味がないという老人がいるんだろうか。
 体力や集中力も,若い人と競う必要はないのだ。70歳には70歳の,80歳には80歳の,体力と集中力があるのではないか。
 1冊読むのにひと月かけたっていいではないか。たくさん読んでいると自慢するのが目的ではないのだよ。

2018年2月26日月曜日

2018.02.26 下野新聞の高根沢町特集

● 右は今日の下野新聞。高根沢町の広告特集。
 この宝積寺駅東口のちょっ蔵広場の景観はかなりいい。高根沢町の顔になっている。電車で通勤,通学している人にとっては,毎日利用するところだ。
 言うなら,それまでそこに存在していた“自然”を使って,人工的に作りあげた景観。古い大谷石蔵を取り壊すのではなくて,それを素材にして新たな空間を作りあげた。

● 町をアピールする場合,どうしても特産品,名産品に偏る。あるいは(もしあれば)名所旧跡とか。
 名産品にいたっては,ゼロから作ろうとする場合すらある。高根沢町だと焼きちゃんぽん。
 これはねぇ,そろそろ失敗だったと総括すべき時期に来ているのじゃないか。あまり引きずらない方がいい。なぜって,旨くないもん。思いつきの域を出ていない。
 思いつきから始めるのはいいんだけど,見切り千両という言葉もある。相場だけの話ではないはずだ。

● ゼロから作るんだったら,できあがったものが圧倒的な魅力を放っているのでなければならない。何でもいいんだけど,とにかく圧倒的でなければ。
 個人的にはさくら市の氏家うどんには可能性を感じている。モノがいいからだ。
 ただし,あと一段の企業努力が必要。つまり,もっと安くすること。今のままではなかなか販路は拡大しない。売れなければ存在していないのと同じこと。だから,あと一段の企業努力。

● 街おこしというときには,文字どおり街が問題なのだ。名物や特産品,名所旧跡ではなく,街の魅力度をどう上げるかの勝負なのだ。
 従来型の観光資源をどうこうする話ではないのだ。

● その典型が東京だ。国内最大の観光地は東京。定期観光バスで圧倒的な集客を誇るはとバス。そのはとバスは名所旧跡を回るものは少ない。というか,東京に江戸以前につながる観光資源はさほど多くはない。
 東京という街の魅力だ。商業施設の集中。食堂,レストラン,屋台の連たん。そうしたものが放つ魅力。

● だから地方は大変なのだ。それでも,街の魅力を付加すること。その典型的な成功例が宇都宮市の餃子だろう。餃子は宇都宮の名物だったわけではない。
 が,知恵者がいて,餃子にスポットをあてた。宇都宮を餃子の街にした。ヨソから餃子を食べに宇都宮に来るのだ。宇都宮の街に来る。そこが肝要。

● 街おこしという手法がそもそも有効性を持つのか。どこも同じようなことをやっている現状は,壮大な消耗戦に過ぎないのではないか。
 何もしないでいると不安だからという消極的な理由で,そもそもやらなくてもいいことをバタバタとやっているだけなのではないか。
 と思うこともある。座して死を待つのが最善の策かもしれないんだよね。実際に街が死ぬことはないわけで,底に着けばいやでも何かが変わっていくだろうから。底に着く前に変えようとするのは,膨大なエネルギーの浪費を強いられそうにも思える。

● 高根沢に関していえば,名物をゼロから作るのは民間(たとえば朝日屋本店)に任せればいい。公共から出てきたものはだいたいダメだ。生産者の都合しかカバーしていないから。
 高根沢町の魅力,ヨソから人を呼べる魅力,は何か。まだどの市や町もやっていないことで,高根沢がやれることは何か。

● ぼくにわかるはずもないが,住民のひとり一人がヨソから人を呼べる人になるといいんだよね。もしそうなったら最強だよね。
 たとえば,高根沢に住んでいるAさんに会いたいという人がヨソからやってくる。Aさん宅で会ってもいいんだけども,そこはちょっ蔵食堂を会議室代わりに使うことにして,ちょっ蔵食堂で待ち合わせる。BさんもCさんも同じようにする。
 それだけでわずかながら賑わいが生まれる。そうなったら凄いんだが,街おこしよりも難しいわなぁ。

● でも,そういう魅力的な人って,高根沢にもいるよね。あるいは,ヨソから高根沢に働きに来ている人の中にいるよね。

2017年1月26日木曜日

2017.01.26 只見線の復旧が決まったようだ

● 右は今日(1月26日)の朝日新聞。只見線の不通区間,復旧させることに決まったようだ。もう一度只見線に乗れると思うと嬉しい。鉄道ファンとしては,素直に歓迎だ。
 しかし,利用者が1日50人。地元負担は年間2億1千万円。利用者1人あたり420万円。どうなのか。復旧させるべきなのか。

● 限界集落を振興させようと,自然に衰退に向かっているものに棹さしてはいけないのではないか。むしろ,寂れるに任せて,早く住民ゼロにした方がいいのではないか。
 人を集めて居住エリアをコンパクトにした方が,ライフラインも短くてすむし,省エネでエコだし,住民も住みやすくなる。その方向に導くべきなのではないか。

● 会津若松市長の「使わない鉄道を復旧させたとなれば問題だ」との指摘は,まったくそのとおりだろう。只見線の復旧が地域振興の起爆剤になるかといえば,かなり疑問だ。今までは只見線があっても過疎化が止まらなかったわけだろうから。

● ただ,こういう現象って,そのまま住民ゼロってところに行くものなんだろうか。それとも,どこかで底つきがあるんだろうか。
 外部から移り住む人が出たり,人がいないことが逆に魅力になって若者が集まるなんてことがあるような気もする。

● けれども,そうなるとしても,地元育ちの爺婆(特に爺)が静かになった後になるだろうな。申しわけないけど,彼らが元気なうちは,よそから人が入ってくることはないだろう。
 つまり,彼らはルールの決定者であるだろうからだ。そんなのがいたんじゃ窮屈でしょうがないわけで。

2016年10月22日土曜日

2016.10.21 宇都宮は自転車の街


10.17
● 10月17日から3日間,「輪都の軌跡 ジャパンカップ25周年」と題する連載記事が,地元紙(下野新聞)に掲載された。
 その記事によれば,宇都宮が「輪都」になったのは怪我の功名だったようだ。競輪を誘致したかったのに,前橋に敗れて,仕方なくロードにした,と。
 当時,ロードは日陰の存在で,脚光を浴びていたのはトラックレースの方だったんですね。中野浩一がまだ現役でいた時代ですか?

● ともかく,失意(?)のうちにロード環境の整備にかかった。しかし,この25年間でロードは自転車の日向の存在になった。自転車人口も大きく増えた。
 ヒルクライムなど,25年前にもあったのかど
10.18
うかぼくは知らないけれど,今じゃ「坂バカ」という言葉が普通に使われるようになっている。


● 公道に自転車レーンが引かれるようになったのは,最近のことだ。これも宇都宮は早い方だったのだろう。
 しかし,大通りには自転車レーンはない。車の交通量も多いから,歩道を走る自転車が多い。自転車レーンがあろうとなかろうと,自転車は車道の左端を走るのが原則であるぞ。

● 宇都宮市は「自転車の街づくり」も進めるとしている。前橋市,高崎市,水戸市と組んで,北関東ブルベも始めたし,LRTの導入も「自転車の街づくり」と無関係ではないような気がする。
10.19
 自転車だけで何もかも上手くいくわけではないだろうけれども,うまくすれば一躍,日本の最先端の地方都市に躍りでることになるのではないかと,期待もしている。
 何と言っても,ぼくも自転車乗りなので。

2016年4月2日土曜日

2016.04.02 高根沢名物(?)焼きちゃんぽんを食べてみた

● 宝積寺駅東口にある「ちょっ蔵食堂」で,高根沢名物(?)の焼きちゃんぽんを食べてみた。高根沢の町おこしの目玉のひとつにしようと,町当局は考えているようなのだが。
 キャベツ,にんじん,イカゲソ,ほうれん草,もやし,豚肉,カマボコ,椎茸,赤ピーマン。具は以上。そこに紅ショウガ。
 麺はどこぞの製麺屋の麺を使用していると思われ。700円。

● 自分で作ろうと思えば作れるだろう。秘密はない。普通に旨い。率直に言うと,一回食べたら気がすんだ。

● ぼくの薄い理解によれば,この焼きちゃんぽんは町の投げかけに応じて,高根沢高校の生徒さんたちが考案したものだ。
 ならば,まずは高根沢の住民が自ら食べて機運を盛りあげれば,その機運に誘われてよその人たちが食べに来てくれるだろう。いきなり,町のフラッグになるわけはない。

● ただね,もう少し,基本的な味をブラッシュアップしないとリピーターを獲得することは難しいのではないか。
 たとえば,「みやこ家」さんのような麺を売ることを本業にしているところで,この焼きちゃんぽんを扱うことは考えにくいように思う。

● 正直な話,宇都宮の餃子だって,特に旨いわけじゃない。が,宇都宮の餃子は滅多にない成功例になった。
 ちゃんぽんは餃子ほど何度も食べたくなるかどうか。一回食べたら気がすんでしまうようではダメだ。って,今頃になって初めて食べたぼくが言うようなことではないけれど。

2016年3月25日金曜日

2016.03.23 高根沢の焼きちゃんぽん,氏家の氏家うどん

● 高根沢にはもうひとつ,官民一体となって(どちらかといえば,行政主導か)進めているプロジェクトがある。食に関するもので,その名も「焼きちゃんぽん」だ。
 高根沢高校の生徒さんたちの考案によるらしい。

● 現在,町内のいくつかの店でメニュー化している。申しわけないんだけど,ぼくはまだ食べたことがない。今度,「元気あっぷむら」に行ったら,絶対に食べてこようと思っている。

● お隣の氏家には「氏家うどん」ができた。できたっていうか,うどんはどこにだって昔からあるものだけれども,それをブランド化するっていう発想はどこから出てきたものか。
 氏家の在住者に訊くと,麺はそれぞれの店で打っているのではないかとのこと。氏家のスーパーでも氏家うどんが販売されている。地元の製麺屋が作っているもの。

● 氏家うどんに関しては,ぼくも何度か食べたことがある。駅前の「ワカゾー」という居酒屋で,焼きうどんを。
 不味いはずがない。うどんなんだから。が,どこが氏家うどんなのかっていうのが,正直わからなくて。今度,店主に店で打っているのかどうか訊いてみるとしよう。氏家うどんの特徴は何なのかも。

● 高根沢の焼きちゃんぽんに戻る。何せ食べたことがないんだから,どうにもならない。ただ,「高根沢通信」っていうのがあって(誰が作っているものか),宝積寺駅東口のちょっ蔵広場に行くと置いてある。
 それによると,基本の色は緑らしい。緑色のちゃんぽん。小松菜のペーストを使っているからのようだ。そうじゃないのもあるんだろうけどね。

● 喰ってみないと始まらない。麺類は麺そのものが最も肝要で,そこを自分の(敏感とはとてもいえない)舌で確かめてみたい。

2016.03.23 高根沢町の「まちなか再生」-宇大生の提案

● 今日の下野新聞の記事。今回の記事は,成案を町長に報告したという内容。実際には,以前から彼ら(宇大生)の活動ぶりが町の広報誌に載ったりしてた。
 若い学生に提案を求めるって,高根沢町だけじゃなくて,よそでもけっこう行われていて,ある種の流行のような感じも受けるんだけど,高根沢町の場合は,学生が町に住みこんで調査を進めたらしい。学生の入れ込みようが特徴か。

● どれだけ有効な提言なのかはわからない。が,ずっと地元にいた人にはあたりまえだったことを,あたりまえじゃないという視点で取りあげてくれているかもしれない。
 いい意味で常識に染まっていない若者の提言なら,その可能性がいっそう高まるか。

● しかし,すれてしまった年寄りは,どうせなぁと思ってしまう。諦めがいいというか,先が見えるつもりになっているというか。
 ぼくにもそのケはありすぎるほどにあって,自戒せねばと思っている。思っているんだけど,自戒が効いたことはあまりないな。

● 一気に画期的に変わるような劇薬があるはずもない。あったとしても劇薬を服用するのはいいことなのか。
 地道に少しずつ。見えないくらいのわずかな変化を重ねていくしかないものだろうし,そのキッカケを若い学生さんが作ってくれているのだ。

2016.03.17 まちなか元気News

NO.6
● 「栃木県まちなか元気会議」が発行しているこのフリーペーパー,宝積寺駅東口のちょっ蔵広場の「ちょっ蔵食堂」に置いてある。
 ま,ほかにも置いてあるところはあるんだろうけどさ。

● NO.6は芳賀町と那須烏山市。
 芳賀といえば,まず“にっこり梨”。もちろん,芳賀以外にも梨園はたくさんあるけれど。梨でも苺でも同じだと思うんだけど,スーパーなんかでは売られているのは,熟する前に収穫して,流通過程に乗せてから擬熟状態になったものだと聞いたことがある。

● そうではなくて,植わっている状態で完熟したのを食べてみないと,その果物を味わったことにならない。
 となると,ぼくが味わったことのある果物は,苺とサクランボくらいになってしまうか。

NO.7
● 那須烏山市の名物は,山あげ祭りと烏山和紙(程村紙)。それから,どういうわけだか烏山というと蕎麦が出てくる。十割蕎麦の店とかあるのは知っているんだけど,そうか烏山といえば蕎麦なのか。

● NO.7は矢板市とさくら市。
 矢板市の刀工が紹介されている。玉鋼から一振りの日本刀を紡ぎだす。たぶん,職人は彼ひとりしかいないんだろうな。
 さくら市からは指輪職人が紹介されている。希少価値があるんだろうな。

● 矢板の果物はりんご。北部の長井地区が産地。ここのりんごは旨い。さくら市の果物っていうのは特にないか。旧喜連川町の穂積にはやはりりんご園があったと思うけど。

● というわけで,小さな冊子だけれども,わりと楽しめる。