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2021年10月14日木曜日

2021.10.14 「いろり庵きらく」で勉強した

● 宇都宮駅構内の「いろり庵きらく」でミニソースかつ丼セット。660円。丼ものって,ご飯が旨いことが第1条件。ご飯が旨いとバクバク行ける。
 で,ご飯が旨いんですよね。ここの丼ものはね。といっても,ここで注文する丼はミニ豚丼セットと今回のミニソースかつ丼セットのどちらかになることが多いです。

● ソースかつ丼,自分で作れないかと思うんですよね。ご飯に千切りキャベツを載せて,カツを乗っけて,味噌ダレをかけるだけなんで。
 しかし,なかなか簡単には行きませんかね。味噌ダレが問題かぁ。

● あと,これも自分で作れないかと思ってね。胡麻坦々肉つけそば。旨そうじゃないですか。肉汁つけ麺は普通に作るんだけど,これは少々手間がかかりそうですかねぇ。
 あ,ぼくが作る肉汁つけ麺っていうのは,豚ひき肉と長ネギを炒めて,そこに市販の麺つゆを希釈して,白だしを少し加えて,煮立てるだけのものです。あとは,うどんかそばを茹でて,冷たい麺を熱いつけ汁で食べる。それだけのものです。

● 今日はけっこういい光景に出会えたので,記録しておこうと思うんですがね。
 爺様が「ご馳走さん」と言いながら食器を戻した。ここまでは普通にある話。ぼくも言ってますよ。しかし,この爺様には先があったんでした。
 店のスタッフは「ありがとうございました,またお越しくださいませ」と声をかけるわけですよね。マニュアルどおりに。普通,それは聞き流すじゃないですか。店を出てから聞こえてくることもあるし。
 けれども,この爺さまは,それに対して,明るくハキハキと「ハイッ」と答えたんですよ。何と可愛らしい。

● これ,いいな,と思って。この天真爛漫は素晴らしいぞ,と。歳を取ると子供に戻ると言われるけれども,この戻り方はもって範とするに足るな,と。
 ぼくも真似しようと思った。が,言えなかった。達人の境地に一足飛びには行けないものだよ。

2021.10.14 芸能界の元気な人たち

● 73歳,現役,まだまだ稼ぎます。それだけの能力があり,努力もしてます。
 奥さんが和由布子だもんねぇ。絶世の美女で11歳年下。それだけの魅力があったんでしょうなぁ。過去形にしてはいけないのかもしれないんだけど。
 しかも,子供を3人も育てあげている。偉い。立派。それだけでも大したものなのに,73歳でなお稼げる。オスとして最高品種。

● ほかには,郷ひろみとさだまさしが毎年,全国ツァーをやってますな。女性ではこの人が目立つ。
 歳を重ねてもキーがブレない人たちでしょうね。要するに実力派。郷ひろみはデビューしてからの努力の仕方がハンパなかったですもんね。
 実力派というと,松田聖子は全国ツァーをしない。ホテルのディナーショーを戦場に選んでいるんだろうか。

● この業界はスター歌手1人にたくさんの人がぶら下がっているんだろうから,スターである彼(彼女)がその人たちを食べさせなくてはいけない。疲れたからもう辞めるよ,とはなかなかいかない事情もあるんでしょうね。
 けど,それだけのはずもない。辞めたくないという思いが前提にあるだろう。本当にイヤなら,どんな事情があっても辞めるはずだからだ。

● こっちはもっと凄い。御年88歳ですよ。怪物くんと呼びたくなるでしょう。これはチケットを買うね。来年1月に聴きに行くね。
 ま,渡辺さんは芸能界の人間ではないけれども,ジャズやクラシック音楽の世界でも怪物はけっこういる。おそらく,どの世界にもいるのだと思う。芸能界は目立つというだけで。

● 人生100年時代と言われても,100年も生きなければならないとなると,長生き地獄を目の当たりにすることになるかもしれない。文字どおりの意味で,人生長きがゆえに尊からず。
 これ以上に平均寿命が伸びても仕方がない。寿命が延びることの限界効用は,下手すると0を下回ってマイナスになるかもしれない。
 が,健康寿命を延ばす算段は重要だ。こういった人たちを見ていると,そのために一番いいのは仕事を辞めないことだと思えるが,それができる人は一部の選民に限られるようだ。

2021年7月6日火曜日

2021.07.06 定年退職しても趣味に費やせる時間は退職前と同じ,という法則がある

● 完全引退して1年と3ヶ月が過ぎた。物心ついて以降,一番安穏と生きている。ストレスというものとはほぼ無縁。わざわざ求めればストレスも得ることはできるけれど,そんなことはしないのでね。
 ストレスも人が運んでくるわけだ。刺激や楽しみも人が運んできてくれるんだろうけどさ。
 で,その人付合いをほぼ一切していないので,ストレスなどあるわけがないということね。

● サラリーマンをしていた40年間も,仕事がらみの付き合い以外に,付き合いというものをしたことはあまりない。したがって,仕事を辞めてしまえば,付き合いは何も残らない。
 そうなることはわかっていて,そのようにしてきた。後悔などあるはずがない。20代や30代にはしばしば会っていた友人もいたが,今,会ってみたいとは思わない。そもそも,噛み合う話はできなくなっているだろう。

● 今年の4月からは相方も仕事を辞めて家にいるので,誰とも話をしないで1日が終わるということはない(4月以前だって,それはなかったわけだが)。
 人と話すのは,その程度で充分じゃないかと思っている。

● ところで,かつては定年退職してずっと家にいるようになった夫族を “濡れ落ち葉” や “ワシ族” と揶揄する言葉があった。
 ウィキペディアによると,「払っても払ってもなかなか離れない様子から転じて,​主に定年退職後の夫が,特に趣味もないために,妻が出かけようとすると必ず「​ワシも(付いて行く)」と言って,どこにでも付いて来る様子を指すようになった」とあるんだけど,このワシ族ってのは実在したのかね。自分はそうだというロートル君や,私の夫がそうだという奥さんはいるかね。
 今どきの小学校の運動会では,徒競走でもみんなで一緒にゴールするのだ,という話と同じで,実在しない都市伝説的なものじゃないのかと思ってるんだけどねぇ。
 面白いというかウケそうな造語だけれど,ワシ族の定義に該当するロートル君が1人でもいたかねぇ。考えにくいんだけどね。ダンナさんにずっと家にいられるのは,奥さんとしては嫌だろうなとは思うんだけどさ。

● ま,そんなことはどうでもよろしいのだが,ひとつ,やっぱりな,と思っていることがある。
 仕事をしなくなり,通勤時間もなくなったのだから,自由に使える時間が大幅に増えた。簡単な算数だ。当然,そうなるわけだ。
 けれども,自分の趣味というかやりたいことをやるという,その時間は,サラリーマンをしていた頃とほぼ同じなのだ。浮いた時間がそっくり消えてしまっているのだ。

● あるいは,したいことをしている時間そのものは長くなっているのかもしれないのだけど,アウトプットの質量が以前と同じなのだ。見事なほどにそうなのだ。
 仕事をしているときには可処分時間が限られていたから自ずと集中できた,ということなのだろうと考える他はない。本当にそうなのかどうかはわからないけれど,とりあえず,無難な説明としてはそういうことになってしまう。

● 相方には申しわけないけれど,彼女が家にいるようになった今年の4月以降は特にそうだ。何もしないうちに1日が終わりかけている,と気づくことがしばしばある。
 要するに平和なのだ,という言い方でもよいと思うのだけどね。

● さらに,定年退職してなお,効率だの生産性だの生きがいだの他者との繋がりだのっていう,いわゆる世間一般の規範から自由になれないようでは話にならないという気もする。
 ぼくなんか,退職した後も図書館に行ったことなんか一度もないよ,何やかやと忙しくしているよ,というジジイには絶対になりたくない。
 社会貢献なんて言葉を口にするようになったら,生き恥を晒しているのと同じだから,どうか俺を殺してくれ。

● 趣味や好きなこと(≒嫌いじゃないこと)とはいえ,それに費やす時間を倍にして,アウトプットも倍にするという,そんな単純な発想でいいんだろうか,とも思うよね。
 では,現状でいいのかと言われると,どうも答えに窮するところがある。いいのだと割り切れているわけでもない。何とかしなきゃという意識がどこかにある。

● たとえば,もっと本を読まなきゃとかね。実際,若い頃は1日中本を読んで過ごせる老後が待ち遠しいと,痛切に思っていたんだけどね。
 その老後がやっと来たのに,本は読めなくなっている。ひとつには単純に視力の問題がある。
 音楽だっていつまで聴けるかわかったものではない。こちらは聴力の問題がある。ぼくの母親はまだ生きているが,聴力をほぼ失っている(眼はよく見える。口も達者だ)。ぼくもそうなるかもしれない。

● まぁ,しかし。読む,聴く,観るは,図書館とインターネットのおかげで,お金をかけずとも好きなだけやれる。ありがたい時代に老後を迎えたことを感謝しつつ,もう少しそれらにあてる時間を増やしたいかなと思う。あと10年ほどは。
 そのあたりが,ま,結論めいたところかなぁ。

● そうだ。家事見習い的なことに時間を割いている。料理をするようになった。調味料についても少しは詳しくなったよ。
 ただ,サラリーマン時代に仕事に費やしていた時間をそっくりそちらに振り向けているわけではないのでね。けっこうな時間が毎日消えていくのは変わらないんだ。

2021年6月28日月曜日

2021.06.28 カッコいい爺さま

● 午前中だったが,蒲田から上りの京浜東北線に乗車。ドアのたもとに立っていた爺さが何気にカッコよくてね。
 70歳を超えていると思うんだけど。バイブルサイズのシステム手帳とスマホを裸のままで左手で持っている。その姿が何だかカッコいいのだった。
 無理なく現役感を漂わせている。飄々とした現役感。職人の中には70歳を過ぎていてもそういう男がいる。気負うでもなく偉ぶるでもなく,淡々と職人としてそこにいる,という感じの男がいるじゃないですか。

● けれども,組織で仕事をしてきた男で,そういう空気感を醸しだしている年配の男性は,まずもってお目にかかることがない。
 京浜東北線の彼も,個人商店的なところの店主が雇われ人なのだろう。大きな組織で,彼の年齢で現役ならば役員をやっていることになるが,そういう下卑た風情はまったく発していなかったから。彼,大森で降りて行った。

● 若い女性の “カッコいい” には,東京ではしばしば出くわす。銀座線か丸の内線に乗ってみれば,そういう溌剌女子を何度も見かけて,わが身と対比してため息をつくことになるだろう。
 が,爺さまの “カッコいい” は,東京といえどもそうそう見るものではない。いいものを見たという思いが残った。

● 東京でもそうそう見ないというわけだから,“カッコいい” 爺さまというのは,“カッコいい” 若い女性よりも稀少性がずっと高いということになる。
 価値というのは稀少であることによって発生する。美人に価値があるのも数が少ないからだし,オリンピックに人気があるのもそのレベルで競技できる人が圧倒的に少ないからだ。世の中にある価値のすべては稀少価値であると言っていいだろう。

● で,“カッコいい” 爺さまの稀少価値はかなり高いというわけだ。なら,それを目指してみたらどうか。何を “カッコいい” と思うかは,人によって同じではないので,まずそこをよく考えてみるのがいい。
 それがまた,老け込む速度に対するブレーキにもなるだろう。よく考えて,実践してみることだ。わかったか,俺よ。

2020年5月22日金曜日

2020.05.22 老いても勢いを保つために75歳まで働く・・・・・・

● 年寄りにできる最大の社会貢献は健康でいることだ,と言われることがある。病気だ介護だとなると現役世代の負担を増やす。医療費も介護費も現役世代の人たちが負担してくれているのだ。
 とにかく健康でいること。それが年寄りにできる最大の社会貢献だよ,と。それ以外の年寄りの社会貢献願望は,たいていの場合,社会の迷惑だよ。

● では健康でいるためにはどうすればいいか。働くことだ。これは出口治明さんが著書で語っていたこと。
 60歳で定年になったからもう仕事はしないよ,もう65歳だからいいよ,っていうんではなくて,働ける間は働く。それが健康寿命を伸ばす一番の方法だ。

● 人生100年というのはさすがに少ないだろうけれども,90年はすでにリアルになりつつある。60歳で仕事を辞めてしまうと残り30年をどうするのだ?
 いや俺は75歳でいいよ,もうたくさんだよ,という人も多いと思うんだけれども,そういう人には,あんた,75歳になったら自殺するつもりですか,と問わなければならない。
 自殺なんてできる相談じゃないでしょう。なら,90歳までもたせなきゃいけない。好むと好まざるとにかかわらず(ぼくも90年は長すぎると思うけど)。

● 年金で生活できるかできないかという話ならば,たぶんできるだろう。田舎に住んでしかも持ち家だということならば,年金だけでもやっていけるはずだ。経済的にはどうにかなる。
 しかし,それでいいのか。30年も年金だけで暮らすことには,経済とは別の問題があるのではないか。お金的にはそうだとしても,お金の問題じゃないよね,もっと大事なことがあるよね,ということ。

● 何と言えばいいのか。“勢い”を保つという問題があるのじゃなかろうか。60歳で定年退職して,何もしなければ勢いはどんどんどんどん下がってしまう。その状態であと30年も生きるってのはどうなのよ。
 たとえば20代や30代の女性が,自分と酒を飲んでくれる,この人とだったら一緒に飲む時間を使ってもいいと思ってくれる。そのために一番必要なものは,おそらく勢いなのではないか(もちろん,女の人が一緒に飲んでくれるというのはあくまで1つのたとえだ。一番わかりやすいたとえだと思うので使ってみた)。
 年を重ねたからといって賢くなっているわけでもあるまい。勢いがなければタダの爺だ。タダの爺に他者への誘引力などあるわけがない。

● 勢いを自分に保ったままにしておくための,一番いい方法はおそらく仕事をしていることではないか。
 勢いを保つ(可能ならば増やす)ための方法は,仕事だけではない。それは当然だ。自分の好きなことや趣味にいそしむこと,さらには若い頃にやっておきたかったのに事情があってできなかったことを老いてからやるのも,勢いを生じさせるかもしれない。
 勢いを生む方法はいくつもある。が,多くの人にとっては仕事をするのが最も手っ取り早い方法かと思う。

● ので,健康寿命を延ばすために仕事をするという側面(あえて消極的な側面と言っておく)と勢いを保つために仕事をするという側面(積極的な側面)の2つがある。
 どちらが大事かと言うと,健康であればこそ勢いもあるわけなので,どちらも大事なんだけども,強いて言えば勢いの方かなぁ,と。

● 自分が現役だった頃から,いずれ年金は70歳が支給開始年齢になるだろうと言われていた。ざけんなよ,70歳まで働けっていうのかよ,と思ったものだ。
 しかし,実際に辞めてみると,ここから先が長いのだと実感する。よっぽど人間関係を苦手としていて,人嫌い,対人恐怖を抱えていたのであれば,定年までに散々苦労してきただろう。その先も同じ思いをすることはない。
 けれども,そうでもない限りは,75歳まで働くっていう構えを持っているべきかなと思う。実際に75歳まで働くか働かないかは別の問題だけども,人生90年がリアルになってしまった以上,そのように構えていた方が勢いを落とさずにすむ。勢いを保ったままあの世にジャンプできる。

● 75歳から後期高齢者になるわけだけども,その75歳までは働く,そこから先が老後だ。と,先日読んだ『老後の運命は54歳で決まる』で著者の櫻井秀勲さんは語っていた。それを思いだしたのだ。
 ま,ぼくも63歳で仕事を辞めてしまって,よくいえば悠々自適の暮らしを4月から始めたんだけど,それでいいのかと問われれば,正直よくわからない。

● ウチに来てくれないかって話があれば,また仕事をしてもいいかなと思う(そういうプロポーズはないと思うけどね)。
 一方で,自分は仕事から切り離されたところで勢いを作ってみせるぞ,という気持ちもあってね。っていうか,仕事よりも今のポジションの方が,自分にとっては勢いをつけやすい環境じゃないかとも思っていて。

2019年11月22日金曜日

2019.11.22 若宮正子さんの素敵さ

● 某所でこんなのを見つけた。日銀に事務局がある金融広報中央委員会が出している啓発誌というんですかね。となれば,読む価値なし?
 それがそうでもなくて,若宮正子さんのロングインタビュー記事があったんですよ。“世界最高齢のアプリ開発者”と騒がれた人ね。

● その若宮さんがこう仰っている。
 よく,『70歳になったら人生を振り返って自分史を書こう』などといわれますが,70歳で自分史を書くのはまだ早いと思います。むしろ,自分のコンテンツをいかに増やすかに時間と労力を使ったほうがいい。大切なのは自分史よりコンテンツ作りです。それに,ブログやフェイスブックに今日あったことを書いていけば,それが蓄積されて結果的に自分史になるので,あたらまって人生を振り返る必要なんてないのです。
● 自分史を書くだの,終活だの,アホかいな。コンテンツを増やすとは,守りに入らない,戦線の縮小を考えない,ということか。整理なんかしないでもっと散らかせ,ということか。
 たしかにね,終わりに向かって着陸しようとするよりも,ワシャワシャやってたら突然パタッと終わりが来た,っていう方がいいかもしれないね。

● 84歳になってこう語れる人がいるという事実に励まされる。いるだけで社会を賦活できる人って,最も良質な社会貢献をしているといえるだろう。
 真の人間国宝とはこういう人。つまり,存在しているだけで,何事かを社会に放射できる人だ。

● ぼくもね,戦線縮小を考えているわけですよ。現役時代にはやっていて60歳になってやめたことのひとつは,年賀状を出すことだ。60歳になったことだけが理由ではないのだが,年賀状のやりとりはやめることにした。
 来ても返さない。返してしまうと次の年にまた来てしまうからだ。自分も出さないし,誰からも来ないというのがいい。まだ,そうなっていないが,あと1年か2年でそうなるだろう。
 しかし,これはそのままでいい。SNSがここまで普及すれば年賀状のやり取りなど何の意味もない。

● あとは何だ? 同窓会に出なくなったことか。それもそのままでいい。戦線縮小とは別の話だ。
 あとは? う~ん,あまり変わってないか。変わるとすれば仕事を完全引退する来年4月以降ということか。どう変わるかちょっと楽しみだが,仕事の有無ごときで大きく影響されてたまるか,とも思っていてね。影響されるんだけどさ。

● やりたいことがあるなら,現役世代のときからできる範囲でやっているのでなければいけない。
 定年になったら,退職したら,隠居したら,というのは,つまりはやりたいことは特にないということなのだ。その時点で勝負はついている。悪いけれども,先はない。

● なので,ぼくも仕事以外に,あるいは仕事中に仕事をサボってやっていることを,おおっぴらにやりたいと思っているけれども,そうはいっても制約要因がある。
 ひとつは経済的なもの。給料がなくなって年金に変わる。可処分所得は確実に減る。自分がこれまでやってきたことのあらかたはさほどにお金のかからないものだが,中にはかかるものもある。
 東京のホテルに泊まってアーバンリゾートを満喫するとか,東京にコンサートを聴きに行くというのは,したくてもできなくなるだろう。年に数回,外で酒を飲むことがあったが,それも厳しくなるかもしれない。

● ふたつめは,家事見習いを始めなければならないことだ。ぼくの場合は奥様は引き続き仕事をなさるので,ぼくが主に家事をやることになる。
 家事なんてのは,頭を使えば,どんなにかかっても1日2時間で終わるはずだが,家事を楽しむということになるとその限りでない。
 自分がどうなるか。少々楽しみでもあるのだが,使える時間は多少制限されることになる。

● しかし,制約といってもその程度のものだ。仕事がなくなるので,他が変わらなければそれだけで戦線は縮小することになるが,それを埋める手立ては一応,準備できてるつもり。
 どうなるか,4月以降が楽しみだね。

2019年11月20日水曜日

2019.11.20 久しぶりの外飲み

● 酒はすっかり家飲み派になった。酒を飲むためだけに外に出ることはなくなった。ホテルのラウンジで飲むのも家飲みの範疇だ。

● 昔は外で1人で飲んだものだった。1人で飲むときこそ,外で飲むべきだと思っていた、家で1人で飲むのはアル中のイメージに結びつきやすいというか,あまり健康的とは言えないと思ってた。家で飲んだ方が安いけれども,安いからといって家で飲むのは感心しない。
 当時から休日にわざわざ飲みに行くことはなかった。仕事帰りに飲むのが専らだったので,外で飲んで家に帰って,そのまま寝るという生活をしていた。
 ちなみに,職場の飲み会は飲むのに数えない。

● それが変わったのは,やはり結婚が契機でしょうね。それでガラッと変わったというわけではないけれども,加齢がだんだん外で飲むのを億劫にさせた。
 家で飲んでる分には,最終電車に間に合うかとか,ホテルに泊まるとか,そういう心配をしなくていい。酔ったらそのままゴロンと寝ればいいだけだ。

● 外で飲むのがつまらなくなったということもある。1人で飲みに行って,カウンター席に座って,大将や女将と話をする。そういうことがつまらないと思うようになってしまった。
 ほかのお客さんが話しているのを聞いているのもつまらない。毎度毎度,同じような話だし。結局,床屋政談なんだよね。

● 若い頃は,酒場のカウンター席に座ること自体が社会勉強だと思っていたのだと思う。酸いも甘いも噛み分けているスナックのママは人生の先生だ,と思っていた。先生にいろいろ教えてもらおう,と。
 こちらが歳を取ってくると,そこのところが薄れてくる。店を出たあとの彼女たちの生活ぶりも具体的に想像がついてしまう。それでは先生にならない。

● チェーンではない居酒屋の商売は難しくなっているのではないかと思う。まず,料金面でなかなかチェーン店に対抗できない。割高になってしまいがちだ。
 チェーン店は画一的だ。画一的というのは悪いことばかりではない。客とすれば,事前に予測可能になるからだ。初めての土地であっても,出てくるものも値段も既知なのだから,安心感がある。
 しかも,チェーン店の品質管理はかなりのレベルで,ヘタな個人経営の店より旨いものが出てくる。

● そういう中で,流行っている個人経営の居酒屋には,チェーンにしてしまうと必ず抜け落ちる何物かが店内に満ちているように思う。
 その何物かのかなりの部分は地元客や常連客が作っているもので,したがって,ヨソ者には入りづらさにつながるかもしれないのだが,そこを押して入ってみると,いい店であることが即座に理解できるという具合だ。

● というわけで,久しぶりの外飲みなのだ。宇都宮は県庁近くの「庄助」。この店も久しぶり。3年ぶりくらい。大将は最近亡くなったらしい。そんなに高齢ではなかったと思うが。
 で,大将と店を切り盛りしていた,若干歳は喰っているものの,3人のお姉さん方が名跡を継いでいる。

● メニューにも変化がある。かつての看板メニューだったオコゼの唐揚げはなくなっていた。いや,この日はたまたま仕入れがなかっただけなのかもしれないけれど。
 しかし,まぁ,居酒屋の肴とすれば,充分以上の品数といっていいだろう。

● 旨くて安いのは基本。居酒屋は富裕層やインテリではなく,大衆のためにあって,大衆が支えているのだ。うなるほどのお金を持っている大衆はいない。
 安くて,家ではなかなか食べられない味。それを1つや2つではなく,いくつも揃えておく。何事によらずプロは大変だな。

● マグロのブツもいい部位から取っている感じだね。ハイボールがグイグイ進んで困る。
 もつ煮。コチュジャンを使った辛味噌が添えられているが,それだけでは辛さが足りないので,ぼくは七味を振りかける。さらにハイボールが進む。
 ショップカードに使われているのがゆず味噌で,ゆずの中身をくり抜いて味噌を詰めて干す。それを薄くスライスしたもの。これに合うのはやはり日本酒だろうと思って,最後に日本酒の燗を1本飲んだ。

● ところで。上述のような理由で,1人で飲むのだったら外に出る必要はない。外で飲むのは誰かと同じ時間を過ごすためだ。
 とはいっても,同じ時間を過ごしたい相手などそうそういるものではない。逆に,ぼくと一緒に時間を過ごしたいと思っている人も,たぶん数人しかいないはずだ。是非にという限定を加えると,1人もいないかもしれない。

● 還暦を過ぎた爺さまとしては,若い人と接する時間はすこぶる希少で,したがって大事にしたいものだ。
 勤めていれば,若い人と接する時間は自動的にできるわけだが,その環境にいるだけではダメだ。仕事絡みでは,彼がこちらに見せる表情は限られたものになるからだ。上下関係を介在させないことが望ましい。

● その若い人が女性であればなおいい。最も良質な時代との接点を持てることになるだろう。
 しかし,問題が2つある。ひとつは,若い女性であれば誰でもいいというわけではないことだ。もうひとつは,こちらの方がシリアスなのだが,若い女性が爺に興味を持つかという問題だ。普通は持たないはずなのだ。
 だから,興味を持ってもらうことは端から諦めるしかない。数ある爺の中には例外もいると思うが,自分がその例外だと思ってはいけない。

● 興味を持ってもらわずとも,こいつだったら時間を使ってやってもいいと思ってもらえれば,御の字というものだ。
 では,どうしたらそう思ってもらえるか。たぶん,万古不易の方程式はない。方程式はないけれども,かなり緩やかな括りはできるかもしれない。ただ,それをも明確に示す能力は自分にはない。

● 今回,アキレタト○エが付き合ってくれた。ありがたいこってす。二次会までつきあってもらった。どうして一緒に飲んでくれるのか本人に訊いてみたいものだが,訊いたことはない。
 大した話をするわけでもないが,自分の中で何らかの組み替えが起こっているはずだと思う。効果は一時的だとしても,組み替えが起こることが事の本質で,それがあるのとないのとでは,水が流れているか一箇所に留まっているかくらいの差ができる。
 一箇所に留まっている水は腐る。ボーフラが湧いてくる。

● ゆえに,年に2,3回,一緒に飲んでくれる若い女性の友人を持っていると,生活が固着しなくてすむのではないか。
 可能なら,そういう友人が数人いると天下無敵の爺になれるだろう。つまり,一緒に飲んでくれる若い女性の友人1人は,同年代の同性の友人百人に匹敵するかそれ以上だからだ。

● そういうことだから,費用は当然こちら持ち。あたりまえの話だが(ただし,アキレタには奢られ下手なところがある)。
 仕事を完全引退して年金生活になると,それが難しくなるかもしれない。その場合,金の切れ目が縁の切れ目になるだろう。むしろ,そうでなければならない。
 そうならないために,つまり金の切れ目を作らないために,打てる手がないか,目下考え中。

2019年5月21日火曜日

2019.05.21 来年3月で仕事は完全引退するつもり。なのだが・・・・・・

● すでに定年退職を迎えたかこれから迎えようとしている爺諸君。定年後はどうするつもりかね。再雇用で働き続けるつもりですか。それともサッサと足を洗いたいと思っていますか。

● じつは,かく申すぼくも一兵卒としての再雇用で3年目を迎えるんですよ。年金が満額支給になる65歳までは希望すれば再雇用が継続する。
 が,3年やって来年はどうしようかなぁと思ってまして。

● 周囲を見回すと,3年くらいでやめる人がけっこう多いようなんですよね。中には65歳までやってさらに再就職先を探して70歳まで仕事を続けている人も,ぼくの知り合いの中にいる。
 彼は50歳を過ぎてから子供ができたので,まだまだ稼がなければいけないという事情もあると思うんですけどね。

● 自分はそういうことがないので,わりと自由はきく。で,どうしようかなぁと思っているわけですよ。
 人生百年時代を迎えて,最も大事なことは寿命と健康寿命の差を短くすることだと言われる。いつまでも健康でいるためにはどうすればいいか。一番いいのは働くことらしいね。おそらくそのとおりだと,ぼくも思うんですよ。
 社会とのつながりを保っていた方がいいという意見もあって,そのためにも仕事を継続するのが最もいい,と。これまた,そのとおりだと思う。

● 一方で,60歳から75歳までの15年間は“黄金の15年”だとも言われる。後期高齢期に入ると何が起こるかわからない。そこは想定外になる。
 が,75歳まではだいたい元気で,体も(若者のようなわけにはいかないけれども)動く。その黄金の15年をむざむざ仕事に費やしていいのか。そういうことですよね。

● この狭間で揺れるわけね。ビシッと自分で決められない。黄金の15年でやりたいことがあれば格別,それがない場合は特にそうだ。
 やりたいことがないというのは,この時代,不幸になる第一要因かもしれない。

● 自分の場合は読む,見る,聴く,の受け身の趣味はあるけれども,それは正直,今までだってそれなりにやってきている。
 毎日が日曜日になれば,その量を増やすことができるのは確実だと思うんだけど,さてその限界効用はどれほどだろうか。

● そのあたりのことで決めかねているわけだけども,決められないのはどっちでもいいからなんだとも思うんですよ。どっちでもいいのでなければ,迷わず選べるはずだから。
 気分としては辞めたいんだよね,もう。仕事に燃え尽きたというわけではない。仕事に燃えたことなど一度もないから,燃え尽きることもない。
 飽きた。疲れた。そういうことだと思っている。飽きてしまった人間が,職場に居座るのは,たとえそつなく仕事をこなしていたとしても,職場にとっては迷惑だろうしね。

● 経済的なこともある。厚生年金が満額でるのは,65歳の誕生日を過ぎてから。まだ年金の請求手続きはしてないんだけど,13万円程度かな,今もらえるのは。そこから少額といえども税金が引かれる。国保税もね。
 金融庁の報告書じゃないけれども,それで無職の老夫婦が暮らしていけるのかという話ね。自分より10歳若い奥さんも一緒に勤務先を退職する意向なので。が,多少の蓄えもあるわけで,ソフトランディングはできるだろう。

● 問題は経済ではなくて,完全引退したあとに,さてやりたいことがあるのかということだ。
 じつは,現役世代もそうなのではないか。特にやりたいこともないからサラリーマンを続けているっていう人もけっこう多いんじゃないのかね。とにかく仕事をしていれば時間を埋めることができる。仕事に代わる時間を埋める術がないという。
 日本人は勤勉と言われるけれども,消極的勤勉の人が多いかもしれない。消極的勤勉だと,どうしたって受け身になるわね。

● ともあれ。そこが定年後は先鋭に出てくる感じはある。と,ウジウジと書いているのだが,方向性としては来年3月限りで完全引退するつもり。
 受け身の趣味しかないと外に出なくなるかもしれず,それだけは避けなければと思っている。

● ついでに申せば,民生委員だとか自治会の役員だとかを頼まれるかもしれない。そういうものは断々固として断る。
 地域との接点などというものはこれまでもなかったし,今後持ちたいとも思わない。地域の役に立ちたいとか,世間にもの申したいとか,そういう発想はない。

● 要するに,何て言うんだろ,仕事は完全引退するけれども,人生を引退するわけじゃない。人生に関しては死ぬまで現役でいたい。自治会の役員なんて退役軍人がやればいい。そもそも自治会なんてなくてもいいものだし。
 それゆえ,人生について生涯現役でいるための具体的方策いかん,ということが問題のすべてだ。“やりたいことがないのは不幸になる第一要因”というのはそういうことだ。

2019年4月19日金曜日

2019.04.19 ジジイは若い女性に向かうべし

● 男性は若い女性に目が行きがちで,女は若い方がいいと思っている,と女性は思っている。で,人生の辛酸をなめて経験値を深めた女を敬遠するのは,自分に自信がないからではないのかというお叱りをいただくことがある(ぼくがではなく,男性一般が)。
 この意見には一理ある。いや,二理も三理もあるかもしれない。

● が,ぼくが向かうとすれば若い女性だ(ぼくの年齢からすると,30代は充分に若いことになる)。理由は次の3つだ。
 第1に,年配の女性を見ていて,経験値が魅力になっている人はあまりいないように思えるからだ。バカのまま年だけ重ねたという女性がほとんどではないか。男も同じだが。

● ほとんどの人は毎日毎日同じことを繰り返してきたはずだ。同じことを何千回何万回と繰り返して,今日に至っている。ゆえに,経験のバラエティは極めて少ない。
 経験の総量は海ほどもあるに違いない。しかし,1人の人間が経験できるのはバケツ1杯分くらいのものだ。
 それゆえ,経験値の限界はかなり低いところにあるのではないかと思っている。バケツ1杯分の水でもって海を論じがちなのが,年寄りの通弊だ。それをつまり,バカと呼ぶのだ。

● 人には言えないような,辛かったこと,恥ずかしかったこと,悲しかったこと,自分を責めずにはいられなかったこと,そういう経験は誰でもしている。死んでしまおうかと思ったことのない人は,むしろ少数派かもしれない。それでも大方の人間は笑って生きている。人間ってなかなかのものじゃないか。
 しかし,笑えてしまうのも事実だ。時間薬が効くからだ。そのように人間はできている。時間薬が効いたあと,その死んでしまおうかと思ったほどの体験が,その人に何らかの深みを残しているかどうか。じつは,ぼくは疑問に思っている。
 経験は人を賢くしない。これが理由のひとつめ。

● ふたつめは,同年代よりも若い女性に向かう方がはるかに難易度が高いからだ。どうせやるなら,難易度の高い方にチャレンジするのが面白い。
 普通,20代や30代の女性が50代や60代の男性を相手にすることはない。洟もひっかけないのが普通だ。そもそも,彼女たちにすれば,ジジイやオジンなど男の範疇に入っていないだろう。
 仕事で上司-部下の関係にあれば,仕事に必要な範囲で口もきくだろうけれども,その前提をはずしてもなお,口をきいてもらえるジジイやオジンがどれほどいるか。

● そこをどうにか,この人なら相手になってもいいと思ってもらわなければならない。この人になら時間を使ってもいいと思ってもらわなければならない。
 そのためにどうすればいいのか,どうあればいいのか。そこを色々と考える。考えるだけではどうにもならないが,それでも考えることはいいことだ。
 若い女性に向かう方が難易度が高いということ。理由のふたつめはこれだ。

● 三番目の理由は,それが勉強になるからだ。何だかんだいって,若い人は今の時代の空気を吸っている。これが大事なところだ。
 ぼくなんかが考え方や価値観の骨格を形作ったのは,昭和40年代だ。その頃に思春期を迎えたからだ。その時代の空気の中で自分の骨格ができた。

● 考え方や価値観の骨格ができたあとに,バージョンアップをしてきていればまだしもだが,そんなことはしていない。大方の人たちも同じだろう。
 その骨格のまま何十年か生きてきた。その骨格を尺度にして物事を測るという水準から一歩も出ないまま,馬齢を重ねてきた。重ねていうが,それをバカと呼ぶのだ。

● つまり,ぼくらは(少なくともぼくは)今の時代の空気を呼吸できていない。時代に添えていない。若いしかも女性と接すると,そのことを痛切に知らされる。自分と相手の段差に驚く。
 その驚きがつまり勉強だ。ある程度の年齢になったら,年上よりも年下から学ぶ方向に舵を切るべきだろう。年下から学ぶ方が難しい。難しい方を選択しなければいけない。

● ぼくらは所詮はバカなのだと思う。バカでしかあり得ない。そういう存在なのだろう。
 そうではあっても,バカであることに抵抗しようじゃないか。バカに居直っていたのではどうにもならないじゃないか。
 その抵抗の方法として,若い女性と接する機会を増やすのは,考え得る方法の中で最善のものだと思う。
 当然ながら,若ければ誰でもいいというわけにはいかない。僭越ながら,相手は選ばなければならない。年寄りでも若くても,バカはバカで,バカと付き合っている時間はないのだ。

● ババアやオバンも若い男性と接する努力はした方がいいと思う。同年代の男と昔話に興じるのは楽しいだろうが,それだけでいいのか。
 ただし,それはジジイが若い女性に向かう以上の困難を伴う。若い男性はジジイ以上に若い女性しか眼中にないからだ。針の穴を通すコントロールを発揮するのは最低限だ。できなくはないはずだと思う

2019年3月17日日曜日

2019.03.17 年寄りよ,ああ年寄りよ,年寄りよ

● Twitterで面白い記事を発見した。藤原智美『この先をどう生きるか』(文藝春秋)を紹介するもの。見出しは「老人はコールセンターにすがりつく…。肩書を失ったエリートほど“寂しい老後”が待つ現実」。
 自分もそういう年齢になったので,他人事ではない。良記事だと思ったので,ご紹介に及ぶ。ただ,ぼくはいかなる意味においてもエリートだったことはない。

● 「今は仕事で大きな成功を収めていても,孤独と無関係そうなエリートほど“寂しい老後”が待っているかもしれない」というわけだけどね。老後って寂しいものなんじゃないの。
 寂しくない老後を送った人なんていたんだろうか。昔の3世代同居があたりまえだった時代だって,同居だからこそ,寂しさを先鋭に感じるってことがあったんじゃないのかね。

● 「現代の老人たちはネットが大好きだ。総務省の2016年度の調査によると,60代のネットの利用率が75%に達し,さまざまなトラブルに遭う高齢者が増えている」とのこと。
 「エリートな人生を歩んだ人ほど,自己評価が高い」「有能な自分が騙されるはずがないという思い込みを生む。そこへ詐欺師から「あなたの豊富な人生経験を見込んで正しく導いてほしい」という“エリート心”をくすぐるメッセージが届くと,コロッと騙されてしまう」。
 ごめん,これ,たんなるバカだよ。バカの比率は,エリートでもノンエリートでも同じようなものだ。ノンエリートにも同じような詐欺は舞い降りているはずだ。騙される比率もさほど変わるまい。

● 老いると交友関係が減り,したがってコミュニケーション能力が落ち,詐欺に逢いやすくなる,というのは身につまされる。他人事ではない。
 かといって,現役世代がそんなに賢いかといえば,これはどうなんだろうね。彼らが大きな詐欺に遭わないですんでいるのは,日中,家にいないからという,それだけの理由による。違うかね。
 とはいえ,加齢に伴う判断力の低下というのは明らかにある。そこにつけ込まれて被害を受けることは自分にはない,と言い切る自信などない。

● 「アダルトサイトに関するトラブル相談は,60代が最も多く,次いで70代なのだとか」というのも,これで老人を代表させてしまうのは,老人一般に申しわけない気がする。
 「アダルトサイトに依存してしまった高齢男性が,息子夫婦が心配して家を訪れても,われ関せず無心で動画を延々と見続けるエピソードが記されている」らしいんだけど,これの何が問題なのだ。どうして「恐ろしい…」のだ。
 いいじゃないか,アダルトサイトを見続けるくらい。その先を勝手に妄想して,ひっかき回す息子夫婦に問題があると思う。

● 「コールセンターにすがりつく」老人や「コールセンターで暴言を吐く老人」は困ったものだ。メーカーのコールセンターが老人福祉施設の機能を担ってしまっている。こういう例はわりと多いと思う。じつは昔からあった。
 コールセンター側で対策を立てるしかないでしょうね。バカは治らないから。電話番号を記憶させておいて,その番号をブロックできるようにするとかね。そうするとバカは騒ぎだすだろうけれども,自社社員を守るために,その程度のリスクはとるべきだろうよ。

● そういう「暴走老人」を「虚栄」だけで説明するのは,ちょっと無理じゃないかと思う。要するにバカなのだ。「虚栄」はバカを顕在化させるきっかけのひとつにはなるかもしれないけれども,暴走の究極にあるのは虚栄ではないと思う。
 さて,これに対する対策はあるか。バカが治らないものである以上,対策はない。暴走の被害を受けるのは,立場的に反論できない位置に置かれる,デパートやショッピングセンターのスタッフが多いのだろうが,あんたに売る商品なんかねえよと啖呵を切ってもいいと会社側が認めれば,問題はだいぶ解決する。
 そうしちゃえばいいじゃん。バカはバカとして扱わないとつけあがるばかりだ。その被害を従業員に負わせて何の手も打たないようでは,経営者なんか要らないだろう。

● 「豊かな老後を過ごすためには,孤独を避けなければならない」というのだが,これには2つの反論が可能。ひとつは,「豊かな老後」って何なんだってこと。もうひとつは「孤独」は老後の本質なんだから,避けようはないということ。
 したがって,この命題は無意味だ。正しいか間違っているかではなくて,無意味だ。

● 「しかし打算で作った友など役に立たない」。あたりまえだ。友はできるものであって,作るものではない。
 「ちまたでは孤独を賛美する書籍が数多く出回る。しかしこれも藤原氏に言わせるとアテにならないという。孤独を賛美している人ほど,強靭な精神力を持つ作家や思想家の傾向にあり」「老後の途方もない「寂しい孤独」に勝てる人は少ないのだ」という指摘も,そのとおりだろう。
 しかし,難しかろうが何だろうが,孤独を敵に回しては老後は成立しない。孤独は克服すべき敵ではなくて,相和すべき友だちだ。

● と,ぼくはどうしても突き放してしまいたくなる癖がある。いけないところだ。しかし,藤原さんはそこで放りだしたりしない。「だからどうするべきか」を述べている。
 「1つは書くことだ」。「書くことは,一人でいることが多く他人に言葉を発する機会が少ない人ほど必要な,自己との対話になります。孤独は書くことで救われる。私はそう考えています」。
 賛成だ。これは決定打かもしれない。今まで書く習慣がなかった人が,老いてから書くようになれるかという問題はある。しかし,そういう方法があるということは知っておく価値があるし,その程度には自分を変えようと慫慂することは許されると思う。

● “書く”は孤独と相和すための最もいい方法だ。少なくとも,Facebookを始めてネット上の友だちを作ろうなとという試みに比べれば,格段に格調が高い。
 Facebookを始めましたという人には,ある種の軽薄さを感じる(といって,ぼくもやったことがあるんだけどさ)。人がやっているから自分もという,流行の尻馬に乗った感じを与えるからだろう。Facebookの流行はもう過ぎていると思うのだが。

● 「もう1つが,「土台の心」を作り上げる「暮らし」を充実させること」で,つまり「しっかり家事を行うことで生活の基盤を強く」することだ。「暮らしの充実は,心の充足につながる」というわけだ。
 これも至言だと思う。老後問題は男性問題だ。と言っては言いすぎになるが,男性にとってよりハードルが高いのは間違いないだろう。女性は世間という広いフィールドでずっとやってきている。男性は自ら仕事に逃げることを選好してきた。その逃げ場がなくなったわけだから。
 まずは拠って立つ場所である“家内”を耕さなければならない。

● しかし,そういうことができるくらいの人は,そもそも暴走老人にはなっていないかもしれない。結局,老後をどうするかというのを老いてから考えても手遅れだということだ。
 老いを実感できる50代になったあたりから,ポツポツと考えて,それを実践している必要がある。本当に老いてからその実践が役に立つかどうかはわからないが,それでもそうしておく必要がある。

● 基本,年寄りは世の中に対して慎んでいなければいけないはずだ。モノを申してはいけない。今までの経験を活かして社会貢献したいなどというのは,社会にとっては最も迷惑かもしれない。
 年寄りが彼の考えの骨格を作ったのは半世紀以上も前の話だ。それをそれをそのまま平成も終わろうとしている現在に適用するのは,そもそもが無理筋だ。時代が変わっても変わらない原理原則など,ないと思っていた方がよい。
 ゆえに,50代になったらモノを申さない訓練を始めていなければいけない。

● 書くことと家事だな。他人事と思わないで,ぼくも憶えておこう。などと暢気に構えているのは,この2つは何とかクリアできていると思っているからだ。
 この本は年寄りにではなく,中高年の男性に充てられた本なのだろう。ので,ぼくが読んでももう遅すぎるのかもしれないんだけど,これから読んでみようと思う。

2018年11月4日日曜日

2018.11.04 トリスのハイボールで幸せ気分

● 相方が作ってくれた厚揚げの味噌田楽で,トリスのハイボールを濃いめに作って,静かに独酌。これ以上は望まないなぁ。
 こういうので充分っていうか,こういうのがいい。高価な料理は要らないや。高級なウィスキーも要らない。誰かオゴってくれるんだったら,食べもするし,飲みもするけどさ。

● 今この時間にも,銀座のクラブで飲んでる人がいるんだろうけど,たぶん,その誰よりもぼくの方が平穏さに満たされていると思うぞ。
 何というんだろうかなぁ,憂いがない。このままお迎えが来てもOKだ。老いてこういう酒が飲めるようになるとは,長生きはしてみるものだ。

● いやいや,まだ途中経過の一瞬ではあるんだけどね。この先何が起こるかはわからない。80歳になってから孫に殺される人だっているんだからね。
 棺桶に入るまで人の一生は定まらないというのは,じつにもってそのとおりだと思う。死の直前まで有為転変はあるものだと思っていないと。老いは必ずしも人生の安定を意味しない。

● しかし,この瞬間は穏やかの極みにいる。気になるのは,自分のこの状態を保つために,あるいは自分がこの状態に至るために,周りの人に負荷を押しつけてきたのではないかということだ。
 特に家族ということになるが。自分より弱い者に対して,自分のこれまでの対応ははたしてどうだったか。

2018年6月29日金曜日

2018.06.29 電車で席を譲られた件

● 宇都宮線で人身事故があったらしく,宇都宮駅のホームはかなりの混雑。下り列車も遅れていた。そのせいか,車中もかなりの人口密度になった。
 それはいいんだけど,男子高校生に席を譲られそうになったんですよ。某県立高校の坊主頭の高校生。部活帰りなんだろう。22時を過ぎていたんだけど,こんな時間まで部活かぁ。大変だなぁ。

● ま,そういうことは置いておいて。必死こいて彼を押し留めたよ。大丈夫だよ,次で降りるしね,と。とにかく,そのまま座っていてくれ,頼むよ,お願いだよ。
 立ってるのが辛そうに見えたんだろうか。違うな。単純に年寄りに見えたんだろうな。認めたくない現実だなぁ。でも,過去にも何度かあったんだよな。

● いろいろ考えてしまったよ。
 まず,実年齢相応に見えたのなら,いくら何でも席を譲られる年齢じゃないんだよ。まだまだね。
 ということはだ,実年齢以上に年寄りに見られたのか。だとしたら,悲しすぎないか。悲しいを通り越していないか。

● 疲れた風情を外に出してはいけないね。このとき,ぼく,べつに疲れていたわけでもないんだけどね。疲れていないのに疲れているように見えるってのは,やっぱり,悲しすぎる事態だなぁ。
 服装も影響するかもしれないね。若々しい恰好をするというのはかえってミットモナイことがあるけれども,チャンとした恰好をするのは大事なことかもね。

2018年6月20日水曜日

2018.06.20 徒歩で本州縦断した75歳

● 右は3月2日の下野新聞。
 徒歩で山口県下関から青森の大間まで,徒歩で縦断するという記事だ。それだけならニュースバリューはないのかもしれないけれども,75歳つまり後期高齢者がそれをするというので,記事になったのだろう。
 でも,これ,二番煎じはダメだよ。よし,じゃあ俺もと思っても,もう記事にはならないかもよ。おそらく追随者がけっこう出そうな気がする。結果,高齢者のこうした行為じたい,さほどに珍しいものではなくなるだろう。

● こういうのを称揚するのが,いまだに世間の趨勢なのだな。なぜかといえば,世間のマジョリティが高齢者というか年寄りになっているからだと思う。75歳でこれだけの元気があって健康なのは素晴らしい,と年寄りが賛美するという構図なのではないか。
 若者はこういう動きをどう眺めているんだろうか。いや,眺めてなどいないかもしれないんだが。

● 誰もがそうなれば老人医療費は大きく減殺され,現役世代の負担も減る。が,この行き方は何かが違うような気がする。うまく言えないのだが。
 配偶者をここまで自分の杖にしてはいけないとか,そういうことではない。それは夫婦の問題で,外部の人間が口を出していいことではない。

● そういうことではなくて,何かが違うような気がするのだ。だいたい,なぜこれが新聞記者の知るところとなったのだ。ひっそりとやればよいではないか。私的な行為をお祭りにしちゃダメだろ。いやいや,本人が望んでそうしたわけではないんだろうけど。
 この方はすごいと思う。自分もあやかりたい。とは思うんだけれども・・・・・・
 ところで,奥さんは20歳も年下なのだな。この方が元気なのは,それが一番の理由なのではないだろうか。

● 右は今日(6月20日)の朝日新聞(栃木版)。羽根田さんが計画どおりに,下関から青森県の大間﨑まで,徒歩で本州縦断したという記事。
 計画どおりで1日の誤差もなかったのは,計画にゆとりを組みこんでいたからだろう。それと,計画が緻密であったこと。
 65歳でホノルルマラソンを完走しているんだから,体力と運動神経に恵まれた人なのだな。そういうDNAの持ち主。

● 75歳になって「毎日の積み重ねが大事」と言えるとは,呆れ果てた爺さんだ。普通は,今さらもう遅すぎる,と投げてしまうお年頃ではないか。
 やはり,大した人なのだろうな。自分がやりたいことをやる。若者がどうだ,自分以外の年寄りがどうだ,そんなことに右顧左眄しないのだ。そのこと自体が大したものなのだ。

2018年6月12日火曜日

2018.06.12 インスタは若者の聖域として残してあげよう

● 右は今日の下野新聞。インスタ人気を受けて,AIを使った高機能カメラを搭載したスマートフォンが発売されるよ,と。
 でもさ,高機能カメラのスマホをひっさげて,中高年がインスタになだれ込んできたら,若者には迷惑だろうなぁ。ウェイブは若者から始まって中高年に浸潤していくもので,その逆はあり得ないわけだけど,インスタは若者の聖域として残しておいてやりたい。

● インスタは40歳以上は立入禁止でいいのじゃないか。ジジババにはFBという玩具があるじゃないか。FBの中をウロウロしてればいいじゃないか。
 そのFBだって,最初は若者の楽園だったのだ。それをオズオズと眺めていたジジババが,自分にも使えそうだとわかると大挙して押し寄せて,結果的に若者を追い出してしまったのだ。

● どうやってみたってジジババの容姿がインスタ映えするなんてあり得ないんだし。現実を直視しようよ。40歳を過ぎたら,男も女も自分の容姿をSNSに晒しちゃダメだよ(プロフィールの写真だけにしとかないとね)。それって,公共の福祉を損ねるよ。
 たぶん,例外はあるんだけれども,自分がその例外だとは思わない方がいいよ。だいたい滑稽な結果になってるよ。知らぬは本人ばかりなりってね。

● そもそもインスタ映えって,写真に嘘をつかせる=見栄をはる,ってことだもんね。若者がやれば可愛らしくても,ジジババがやると薄汚くなるだけだ。
 だから,インスタぐらいはせめて若者に残しておいてあげようよ。

● ひょっとすると今のFBがそうなのかもしれないけれども,ジジババがユーザーの過半を占めるようになると,ワクワク感が失せるんだよね。つまらなくなるんだよ。あんまり頭の良くない目立ちたがりの常識人って,最高につまらないわけで。
 つまり,頭が良くないっていうのも,目立ちたがりっていうのも,常識人っていうのも,それがジジババの圧倒的多数だからね。多数派はつまらない(退屈)に決まってるんだよ。つまらない人たちが席巻しているところからは,若者は逃げだす。
 おまえがその典型じゃないか,おまえが言うな, っていう話だけどさ。

2018年4月16日月曜日

2018.04.16 歳をとっても若い人

● 右は今日の下野新聞。70歳を過ぎてから蕎麦打ちを始め,83歳で4段を獲得(蕎麦打ちにも段位もどきがあることを初めて知った)。
 分野を問わず,超高齢者が活躍している記事を見ると,サッと反応してしまう歳になったのだなぁ,とちょっと悲しい。

● この方のすごいところは,20歳も年下の男性から教えを乞うことができたことだ。70歳を過ぎてから始めているんだから,そうならざるを得ないわけだけれども,できない人,多いんじゃないかな。
 男性の場合,相手が女性であれば,年下であっても嬉々として教えてもらうことはできる。男は単純にできているからな。が,年下の男性からとなると,仕事であればまた別だけれども,けっこう抵抗を覚える人が多いんじゃないかと思う。

● この方,見た目も若い。83歳には見えない。見た目が若いってことが,つまり,若いってことなんだよね。考え方の柔軟度とか,運動能力とか,体力とか,活動性とか,そういうものを総合したものが見た目なんだと思う。
 外見と中身を分ける考え方は,少なくとも高齢者には適用できない。外見がすべてだ。

● っていうか,高齢者に限らず適用できないね。内面の最も表層が外見なのだ,とはよく言われることだけれども,そのとおりだと思う。
 外見がオバタリアンと化した女性は,100%の確率で正真正銘のオバタリアンだからね。オッサンもまた同じ。少なくとも,ぼくはまだ例外を知らない。

● それ以前に,外見を通さないでダイレクトにその人の中身を認識することはできないわけでね。外見を通して中身を推測する,外見に現れたところの中身をみる,そういうことしかできないはずだ。
 中身と外見を分けて考えてしまうのは,少々以上に幼稚であるのだろう。

● もちろん,ここでいう外見というのは,容姿とかファッションセンスとは別のものだ。いや,センスは含まれるかもしれないけど,美人だとかイケメンだとかというのとは別ものだ。
 10代や20代前半の若い男性は,笑っちゃうほどそうしたルックスに弱いものだが,しかし,そこ止まりだろう。30歳を過ぎてもそうしたものに惹かれるのは,根が幼稚だからだ。そういう男を相手にする女性はまずいないとしたものだろう。

● しかし,ではどうすれば見た目を若く維持できるのかとなると,年下を師とできる柔軟さを持ち,努めて外に出て,身体を動かして足腰を鍛え・・・・・・となるわけだから,見た目が大事と言ったところで,それだけでは何の情報も付け加えたことにならないんだけどね。
 っていうかね,この記事で紹介されている滝沢さんは,83歳にしてはあまりにみずみずしい。そのみずみずしさを保っていられる要因は,もって生まれたもの(DNA)なのかもしれないなと思う。

2018年3月26日月曜日

2018.03.26 地域振興にジジイは口を出すな

● 右は今日の下野新聞コラム。自転車の魅力を紹介している。

● その自転車で街興しをするという鹿沼の試み。地域の魅力を発掘するのは,だいたいヨソモノ,ワカモノ,バカモノと相場が決まっているらしい。長くそこに住んでいる人には,あたりまえになって見えないものが多いのだ,と。
 このコラムにおける仕掛人も,ヨソモノでありワカモノだ。

● 自転車の魅力というか可能性はまだ発掘され尽くしていないかもしれない。この2つ(ヨソモノ・ワカモノ+自転車)のコラボは何ごとかを生むかも。
 ただし,だ。レンタサイクル的なものが成功した例はあまりない。無料にしてもダメだ。どうしても安物の自転車にしてしまうのが一因かとも思うんだけどね。あと,メンテが行き届かないこと。
 自分の自転車で来てくれる人を増やせるといいんだが。その方向での企画らしいが。

● 1日に100kmを普通に走るヘビーユーザーというか,スポーツライダーを捕まえるのは無駄なこと。彼らは走ることそれ自体に興味と快感を感じる種族であって,彼らにとって風景だとかグルメだとか地域の魅力だとかは二の次三の次なのだ。食べものなんて,コンビニで調達できるもので充分なのだから。
 そこまでは行かないんだけど自転車が好きという人がターゲットになるんだろうか。

● ところで。役所や企業を定年退職して,次は地元に貢献したいと動きだす人たちが一定数いるようだ。彼らのFBやTwitterを見ると,一生懸命に考えて動いていることがわかる。そこに私心はない。地元を良くしたい,自分の知見や経験を役立ててもらいたい,と思っている。
 しかし,そういうものをぼくは一切認めない。リアリズムに徹すれば,そうなるしかない。

● 過去の長い人はダメなのだ。その人の考え方,価値観が形を成したのは,おそらく昭和40年代。そこで形を成してしまったものが,現在の空気に適応できるはずがない。
 現在や近未来が求めるものに対応できるはずがないのだ。個人の資質には関係なく,そうなのだ。
 なぜなら,彼らに理解できるものは過去だけだからだ。決着がついている過去をモノサシにして測る癖を脱することができないからだ。

● 現状を維持するものを生みだすことはできるかもしれない。が,現状をブレイクスルーするものを生むことを彼らに期待することは間違っている。彼らが自分にそれを期待しているとするなら,自身を相対化できていないからに過ぎない。
 ヨソモノ,ワカモノ,バカモノに任せて,手を引くのがよい。邪魔をしないのがよい。それが彼らにできる唯一の地域貢献だ。

● では,過去の長い人は何をすればいいのか。自分の好みや興味に没頭することだと思う。年を取るとこんなに素晴らしい時間を過ごすことができるのだよ,と範を示すことだ。若い人たちに多少なりとも憧れを抱かせる生き方をすること。
 本が好きな人は読書に没頭すればいい。やはり本を好きな若者の誰かが,その姿を見て羨ましいと思うかもしれない。2人か3人でいいのだ。大向こうに受ける必要はまったくないのだから。
 旅行が好きな人は旅行に行けばいいのだし,釣りが好きな人は釣りに出かければいいのだし,自転車が好きな人は自転車に乗ってればいいのだ。難しいことは何もない。

● そのためには,他者や地域と関わるより,自身に専念するのがよい。いや,他者にかかずらっている暇などないはずだ。
 もし,老いてなお,自分固有の好みや興味がないというなら,あってもそれを追求するだけの体力や集中力を欠いているなら,選択肢はただ一つ。消え去るのみ。
 そこで消え去らないで,他者や世間にもの申してしまうのは最悪だと心得よ。昔話は何も生まないのだ。聞かされる方は迷惑なだけだ。

● しかし。自分固有の好みや興味がないという老人がいるんだろうか。
 体力や集中力も,若い人と競う必要はないのだ。70歳には70歳の,80歳には80歳の,体力と集中力があるのではないか。
 1冊読むのにひと月かけたっていいではないか。たくさん読んでいると自慢するのが目的ではないのだよ。

2018年2月21日水曜日

2018.02.21 押しつけがましく暑苦しい

● 右は今日の朝日新聞「天声人語」。懐かしき立て看について語っている。

● 興味がないのに目に入ってくる。これが音だったら騒音っていうんだよね。
 立て看やポスターは景観を壊すことが多い。「押しつけがましく暑苦しい」のは,それだけで充分な罪だと思うが。その罪を贖えるだけの立て看なんてあるのかい。

● が,立て看の書体は独特だった。立て看には立て看独自の美学があったのかもしれない。
 立て看は大学の風物詩のようなものだ。若い頃をすごした場所とそこに立て看が醸す独自の雰囲気が,ノスタルジアを掻きたてる。それが立て看独自の美学なんぞということを誘発するのかもしれない。

● 「押しつけがましく暑苦しい」のは,立て看だけじゃない。オヤジやジジイは立て看よりも暑苦しい。だから,その存在自体が罪なんだよ。困ったものだな。
 いや,ほんとにねぇ。50歳や60歳の男がFacebookのタイムラインに自分の写真を掲載するって,何を考えているのかと思いますよ。それ自体,公共の福祉を損ねる行為だろうに。

● でも,それは沃野でもあるんですよ。押しつけがましさや暑苦しさを払拭できれば,それだけで世の娘たちに好かれる可能性が激増するんだから。付け入る隙はいくらでもあるってことですよ。
 付け入ってもしょうがないと思ってしまうのが,安きに流れるということで,それをつまり老化というんですよ。

● ということで,もう少し頑張ってみましょうや,ご同輩。

2018年2月10日土曜日

2018.02.10 最も価値が下落したのは年寄り,特にジジイ

● 昨今,魅力を失ってきてるものはいろいろあるな。
 まず,平均寿命の長さ。平均寿命の限界効用はすでに大きく逓減している。平均寿命がさらに延びたとニュースで聞いても,それがどうしたってなもんだ。香港に抜かれた? イイじゃねーか別に。

● それから,豪邸。今どき豪邸に住みたいなんぞと考えるのは,よっぽど貧乏に育ったか,損得計算もできない馬鹿に決っている。
 総じて,豪華絢爛は魅力なし。黒塗り車も嘲りの対象に変わりつつあるか。

● 黒塗り車が嘲りの対象になりつつあるのは,それが年寄りの象徴だからでもある。つまり,一番価値が下がったのは年寄り,特にジジイだろうな。
 黒塗り車でゴルフなんてのは,ジジイのシンボル。洟もひっかけられない。

● 数が増えすぎたのと,退くことを知らないのが,価値が暴落した理由。なぜ退かないのかといえば,自分の考え方のすべてがとっくに時代に取り残されていることを自覚できないからだろう。
 生涯現役なんて老害の元凶なんだよ。社会の迷惑だよ。トットと消えろよ。というのが,現役世代の本音だろうよ。ぼくもそう思っていたもん。

● 最も問題だと思うのは,彼らジジイが,いい年こいてもなお,若さをもって良しとする若さ第一主義からまったく脱却できないどころか,いよいよそこにこだわろうとするところだ。
 この浅薄な価値観って,いったい何なんだろう。死を認めたくないというところから来るのかね。死を受容できない,と。
 だとすれば,一番肝心なところから目をそむけて,営々と馬の年齢を重ねてきたということだぞ。

● 老いてなお,若々しくあることを価値の優先順位の第1位に置いているのが歴然としているジジイって,ほんとに迷惑だし,哀れだ。
 案山子がアルマーニを着て歩いてみたってしょうがねーだろーと思う,今日この頃なのでした。

● とはいうものの,だ。若くありたいという思いから自由になるのは至難だ,ってことはわかるんだよね。
 死の受容の問題のほかに,広く文化というものは若者から勃興し,それが上の世代に浸潤していくもので,逆は絶対にない,ということがある。年寄りは文化を生みだせない。
 年寄りのライフスタイルを象徴的にいうと“いいものを少し”となるだろう。主には食生活について言われることだが,その“いいもの”を作るのは,たいてい若者だ。
 文化の近くにいたいという潜在的欲求があるのかもしれない。

● そのジジイの一員としての自分が,さてではこれからどうしていくか。若く装うことはしないでいられる自信がある。世間にしゃしゃり出ないでいられる自信もある(っていうか,そんなの面倒だもんね)。
 のだが,若者とのつながりは保っていたいよね。彼らからパワーを分けてもらうっていうんじゃなくて,世間知らずになることは避けたいと思うからだ。世間に口を出すつもりはないけれども,世間がどうなっているのかは知っていたい。
 新聞やテレビからはその情報は得られない。SNSにも少数の賢者と大量のバカしかいないので,中間がわからない。

● そのためには若者に嫌われないジジイでありたい。媚びるのではなく,自然体でいて嫌われないという。
 そこがつまり,ぼくの課題のほとんどすべてだと言っていいと思っている。

2018年1月24日水曜日

2018.01.24 もはや老後だ。これからやってみたいことがあるか?

● 寿命が延びて老後が長くなっている。65歳定年制になるとか,70歳まで働くとか,そういうことになるんだろうから,“仕事をしなくてすむようになった時期=老後”とすると,そんなに老後は延びないということに,いずれはなるのかもしれない。
 が,只今現在は,22歳から60歳まで働いたとして,38年。60歳から先,38年生きる人はさすがに少ないだろうけれども,にしても20年は生きなきゃならない。

● 時間で測るともっと凄いことになる。現役時代の労働時間は1日10時間程度が平均だろうか。年間2,000時間といったあたりじゃないかと思う。38年間で76,000時間,3,167日,106月,8.8年。
 労働時間は一生の間で9年に満たない。このほかに,通勤やつきあいの時間があったわけだけど。
 同じように老後を迎えても,睡眠や食事や家事を除くと,自由に使える時間は多くて1日の半分,12時間程度だろう。だとしても,20年で87,600時間になる。

● これをどう使うか。それがつまり,老後の問題の大宗だ。時間でいえば老後の方が長い。
 ただし,活力に満ちた壮年期は会社なり仕事なりに奪われている。会社や仕事から解放されたときには,体力や反射神経や頭の回転は衰えている。
 それは定年前に自覚する人が大半だと思うが,その衰え方は一定ではないだろう。加速度が付くと覚悟しておかないといけない。そういう前提で老後の時間に何をするかだ。

● 若い頃,というか最近まで,電車でフラフラとそちこちへ行っていた。見たい場所があるわけではない。歩いてみたい街があるわけでもない。お目あての名物があるわけでもない。
 けど,何日も電車に乗り続けていた。「青春18きっぷ」のせいだ。

● そんなことに若い時期の多くを費やしてしまった。よほどモテなかったに違いない。
 あるいは,酒にお金をつぎ込みすぎて,それ以上のことをする経済的な余裕がなかったのかもしれない。「青春18きっぷ」で遊ぶのが手一杯だったのかも。
 そのあたりは,自分のことなのにはっきりとは憶えていない。でも,そういうことをまたやってみたいと思っていて,三つ子の魂じゃないけれど,趣味とか好きなことっていうのは,基本,若い頃のままですね。
 逆にいえば,ある程度の年齢になってから飛躍が起こることはまずない,ということですね。

● だから,老後に何をするか,あるいは何ができるか,は,定年になった時点で勝負が付いているということだ。60歳になってから,何もないところに家を建てるのは不可能だからだ。
 やりたいことがあって,それを現役のときからできる範囲でやっているのでなければいけない。

● たとえば,時間ができたら本でも読もうと思っている人は,時間ができても本は読めない。本を読むにはけっこうなエネルギーと根気が要る。
 還暦になってから身につくとは考えない方がいい。せいぜい,毎日図書館に通って,新聞や雑誌を読む程度に終わるだろう(それが悪いということではない)。

● 見るとか聴くといった受け身の趣味なら,誰にでもできそうだと思えるかもしれない。が,これまたそうはいかない。還暦過ぎに,それまでまったくなじみのなかったクラシック音楽を聴けるか,歌舞伎を見れるか,といえば,答えはノーだろう。
 美術館巡りもそうだ。二,三回でもう止めたとなるだろう。見る目がないんだから,絵画や彫刻を見たところで面白いわけがないのだ。
 映画ですら,映画館で見るという習慣がなかった人が,定年後に映画館通いができるかといえば,やや疑問符が付く。たとえ娯楽映画であっても,家でテレビを見るようなわけにはいかないのではないか。

● 仕事人間では困るというのはここのところだ。サラリーマンの転職希望者に,あなたは何ができますかと訊くと,具体的なスキルではなく,部長ならできますとか,主任ならできます,と答える人がいるという話が,ビジネス書に載っていることがある。
 おそらく,実話ではないだろうが,実際には転職後に部長や主任が務まることは稀だろう。仕事のノウハウはその会社や役所でしか通用しない。しかも,いつまでも通用するとは限らない。
 だから,財務省の官僚の天下りでも務まっている銀行の頭取なんていうのは,そもそも誰でも務まるポストなのだろうと考えておけばいいのじゃないか。
 仕事人間であるというのは,期間限定・職域限定のノウハウを溜めることしかしていない,ということだ。そういうヤツは放っておくしかない。ガキじゃないんだから,それくらいわかってろということだ。

● これ,自分にも跳ね返ってくる。おまえは老後を「青春18きっぷ」で過ごすしか能がないのか,とね。悲しいけれど,そうかもしれん。
 あとは自転車だな。ジャイアント(→なぜジャイアントかというのは,こちら)のロードバイクを買う方向で,相方と調整がすんでいる。問題はひとつ。最近,めっきり自転車に乗らなくなったこと。特に昨年4月以降はバッタリと乗ってない。
 でも,ま,死ぬ前に一度はロードバイクの乗り味を体験したいし,自転車が変われば乗るようになるかもしれないからな(ならないかもしれないけど)。何せ,手元にある安物はブレーキがまともに利かないんだから。

● 自転車で日本一周くらいはやってみたい。若い頃にやっておけばいいんだろうけど,若い頃はそういうことに頭が向かなかった。それをバカというのかもしれない。自分はいろいろとバカだった。
 そのバカゆえの欠落を,老いてから埋めたいと思っている。いろいろと妄想は逞しくしている。その前にまず,自転車に復帰しなくちゃいけないわけだが。

● あとは今までやってきたことをそのまま続けていくことになる。その先に何があるのかといえば,たぶん何もない。いや,“たぶん”はいらない。何もない。
 寿命がいくら延びても同じことだろう。人生に自分なりの区切りをつけるというのは,おそらくできないことだ。つけられると思っているとすれば,それは幻想の最たるものではないか。

2017年11月17日金曜日

2017.11.17 図書館に退職した先輩がいた

● 平日の金曜日。休暇を取って,宇都宮市立東図書館に行ったんだけど。
 先輩のAさんを見かけた。さほど親しくもなかった人なので,声をかけることはしなかった。
 Aさん,定年退職して,5年が経つはずだ。おそらく,再就職も卒業して,毎日が日曜日になっているのだろう。

● だから,平日の午前中から図書館。でも,幸せそうには見えなかった。読みたい本があって図書館に日参しているなら,もっと張りがあるはずだと思った。
 やること(やりたいこと)がないから,暇をつぶすために図書館を利用しているというふうに見えた。使える時間はふんだんにある。が,その時間を持てあましているような。
 図書館ならお金もかからないから,そこで時間をうっちゃってこよう,と。図書館じゃなくてもいいんだけど,無難なところで図書館かな,と。

● これはいけない。図書館通いがいけないのではなく,やりたいことがないというのが。本人にとってもだけれども,この張りのなさというのは,周囲にも浸潤して,場のテンションを下げてしまう。
 暇つぶしなんだから,気が入っていない風情なわけで,そういう人はAさん以外にもけっこういる。平日の図書館はそうした老人のたまり場になっている感がある。

● ぼくも引退に片脚を突っこんでいるので,他人事ではない。
 退職後に在職時の人間関係が続くわけはない。退職時で切れる。それに気づかずにか,気づいていてもなおなのか,職場にやってくるOBがいる。それだけはやってはいけないと若い頃から思っていた。

● 企んだことでもないんだけど,ぼくの場合は,退職で失う人間関係などない。元々なかったんだから,失うはずがない。あまり職場に体重を預けてこなかった。悪くいえば,斜に構えていた。
 友だちがいない状態には慣れている。何をやるにしても「一人」が前提だ。食事をするのも,酒を飲むのも。それで失うものがあるとは思わない。
 だから,退職後は会社に代わる人間関係を構築せねば,という発想もない。まず人間関係ありき,友だちがいなければ何をしても楽しくない,人の間に生きてこそ人間じゃないか,というのは,考え方の根本が間違っている。

● したがって,問題はただひとつ。毎日が日曜日になったときにやりたいことがあるか。当然,そのやりたいことというのは,一人でできることでなければならない。
 こういうのは,毎日が日曜日になりました,ではやりたいことを見つけましょう,は通用しない。遅すぎる。その時点でゲームオーバーだ。
 やりたいことはそれ以前に存在している必要がある。現役の頃から,できる範囲でそれをやっていなければいけない。

● この点に関して,自分に盤石の自信があるわけではない。やりたいことがあっても経済的な問題はつきまとう。
 けれども,多少の成算は持っている。

● 問題は唯一,健康の維持。ただし,そのために何かやっているかといえば,まったく何も。健康はすべての大元だけれども,あまり健康,健康と神経質になっては,かえって健康を損ねる。
 良寛和尚が仰るように,死ぬる時節には死ぬるがよく候,ということだと思っている。