2022年4月1日金曜日

2022.04.01 至るところに桜はある

● 右の写真は地元の図書館の一本桜。満開にはまだ。満開前の桜に人は群がらない。満開になるとドッと来て,満開が過ぎると,なだらかに減っていく。
 花は盛りをのみ見るものかは,問題。ぼく一個は,人が群がる満開は避けよという意見。満開の少し前にシフトせよ。満開を追いかけるな。これくらいが見頃ではないか。

● 満開になってしまっては遅いのだ。なぜなら,満開になってしまえば後は散るだけだから。先の楽しみがないではないか。
 満開の少し前なら,これから咲き誇ってさらに華やかになっていくという楽しみも味わうことができるのだ。

● 自宅から歩いて数分のところにある小さな公園。この時期になると,桜って津々浦々どこにでもあるんだなとわかる。人々は桜を愛でないではいられないんだな,と。
 こちらは20分ほど歩いたところの公園。ここにも桜の樹は何本もある。桜なしではすまされない。

● それゆえ,桜を愛でる機会は万人に平等に与えられている。貧富は関係ない。お金があればあるなりの愛で方ができるのだろうが,愛でること自体はお金がなくてもできる。
 お金がなくてもできることはたくさんあって,じつはお金がなければできないことはすぐに飽きてしまうものが多いのに対して,お金がなくてもできることはいくらやっても飽きることがないものが多い
(たぶん)

● 全体が貧しいうちはお金の効用は相対的に大きかったのだろうが,全体的に生活が底上げされてくると,お金の効用は小さくなる。
 大都市ではどうか知らないけれど,ぼくの町だと3万円の家賃で住めるアパートはたくさんある。つましくやれば月に10万円もあれば充分。それ以上のお金はあってもいいが,なくてもどうにかなる。ということになると,幸福の多寡を決めるものはお金ではなく,別の何かになる。

● それがつまり,至るところに桜はあるということだ。と,ぼくは思っている。

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