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2019年9月11日水曜日

2019.09.11 Facebookへのノスタルジー(?)

● 2年と数ヶ月捏ねくっていたFacebookをやめてから1年と2ヶ月が経つ。時々,再開することを考える。その都度,打ち消しているが,元のIDで再開できるようにFBが取扱いを変えれば,ひょっとして再開するかもなぁ。

● いやいや,ないな,やっぱり。Google+がなくなり,FBもアメリカではユーザー総数が減少に転じているらしい。アクティブユーザーに限ればいっそうそうだろう。
 おそらく日本でも同じじゃないか。若者離れを中高年の参入が補ってトータルで増えているというのは,どうも嘘っぽい。やめた人がIDをそのままにしているから,見かけは増えているというだけのことではないか。

● かつてのFBブームでサイトをホームページからFBに移した団体もある。元に戻してくれないかと思う。FBじゃ見れる人が限られてしまうだろうよ。
 自分のようにFBを捨てた人間からすると,いずれFBも消えるんじゃないかと思ってしまったり。

● そうならないためにFBがやるべきことは3つある。
 第1は,個人情報を売らないこと。ユーザーが非公開に設定した情報は誰に対しても非公開にするということだ。診断アプリ業者に売っていないか。

● 第2は,その診断アプリをユーザーのタイムラインに表示することをやめること。個人情報を抜き取るための餌だとは,よほどのバカを除いて,誰もが知っていることではないか。
 なら,最初から表示しなければよい。つまり,個人情報抜き取り業者から広告料をもらうなということ。

● 第3は,お節介をやめよということだ。まず,“知り合いでは?”を表示するな。してもいいけれど,ユーザーが非表示に設定できるようにして欲しい(→ できたんだっけ)。
 次に,バースデーメッセージ。こんなものは誕生日を迎えた当人に届けば用が足りるはずだ。なぜ,身も知らぬ人へ充てたバースデーメッセージが自分のタイムラインに流れてくるのか。これも,最低限,非表示に設定できるようにしてもらいたい。
 もうひとつ,“このイベントに興味があると言っています”だ。友だちの中にも濃淡がある。で,たいていは,彼(彼女)がどのイベントに興味があるかを知りたいと思うほどには,彼(彼女)に興味がない。ので,これも非表示設定ができるようにして欲しい。

● で,FBがそうしてくれたとして,しかも元のIDで再開できるようにもしてくれたとして,FBを再開するか。
 冒頭に戻るわけだが,どうしようかなぁと考えはするにしても,実際に再開することはないだろう。どんなSNSにも向き不向きがあるんだよね。ぼくはFBには向いていなかったと思うのでね。

2019年4月25日木曜日

2019.04.25 Facebook雑感

● ぼくは2年ほど捏ねくってFacebookをやめた人間だが,Facebookが悪いわけではない。使い方に問題があった。というか,Facebookに向かない人間がFacebookに手を出した結果だ。
 2年も捏ねくってしまったことを悔いているが,Facebookに恨みはない。よくできているツールで,楽しく使っている人も多いはずだ。

● SNSはFacebook,Twitterのほかにも多数あって,それぞれ鎬を削っていると思うのだが,そのいずれにも向き不向きがある。
 したがって,自分には向かないと思ったらすぐにやめることが肝要だ。使い始めたばかりでまだFacebookを使いこなしているとは言えないから,もう少し使い込んでみよう,などと考えないで,すぐにやめること。使い込んだところで,見える風景が変わってくるなんてことはないから。

● Facebookの日本語版ができてからまる10年になる。最初に飛びつくのは若者だ。中高年にはその種の瞬発力はない。様子見を決め込むか無関心だ。
 それが3年経ち5年経つと,これなら自分もできそうだとなって,ジジイとババアが大挙して参入するようになった。そうなると,先にいた若者たちは逃げだすことになる。
 Facebookはそうなって久しい。現在のFacebookのメインユーザーは中高年,ジジイとババア,だ。40代,50代,60代,そして70代。

● だったら安心だと思う人もいるだろうし,それじゃつまらないと思う人もいるだろうが,ともかく,そういうことになっている。
 生活文化は若者に発祥し,時間とともに上の年代に浸潤していく。逆はない。その若者たちがFacebookから去っているとなると,次は中高年がその後を追うことになるかもしれない。

● Facebookにある“情報”はその99%がゴミだ。およそどうでもいいことをやりとりしている。
 いわく,昼飯に何を食べた。誰さんとどこそこでお茶してる。雑誌で紹介されていたお店に来ている,さすが評判どおりで感心した。テレビでオリンピックを観戦中,羽生君,感動をありがとう。
 というもの。売れっ子タレントでもあれば,昼に何を食べたかは付加価値のある情報かもしれないが,あんたがどこで何を喰おうがどうでもいいわ,そんなこといちいち報告するな,てなものだ。

● したがって,Facebookを始めることは,そのゴミの山に分け入っていくということだ。
 しかもだ。自分もゴミしか出せないと思うべきだ。ゴミじゃないものを出せる人など,まずいない。百人に1人もいないだろう。千人のうちの3人か4人ではないだろうか。
 ゴミの山に分け入って,しかも自分もその山にゴミを加える役になるというのが,Facebookを始めるということだ。

● リアルのコミュニケーションも同じだ。どうでもいいことをやりとりしているから,コミュニケーションがコミュニケーションたり得ている。もし,どうでもいいことではないことをやりとりしなければならないとしたら,大なり小なり緊張を強いられることになる。場合によっては胃が痛くなるような局面になるだろう。
 どうでもいいことのやりとりだから,コミュニケーションは快適なのだ。Facebookでもそれは同じ。
 快適さを求めれば,勢い,やりとりされる内容はゴミになる。自然の道理というものだ。
 Facebookがゴミの山になっている理由の第1は,ゴミじゃないものを出せる人など滅多にいないことだが,第2の理由はここにある。

● が,リアルの音声は発するそばから消えていく。記憶には残っても,声は残らない。対して,Facebookは文字でやりとりをするから,消えずに積みあがっていく。
 それを些細な違いと思うか,大きな違いと受けとめるかは,やはり人によるだろうが,Facebookではゴミがゴミとして残り続ける。

● リアルのコミュニケーションは声で行う。声はそれ自体,多面性を持つ。何を喋っているかだけではなく,どう喋っているか。抑揚や速度。声はけっこう多くの周辺情報を含む。
 しかも,喋っている相手の表情や仕草もわかる。そこから読み取れるものは膨大だろう。リアルのコミュニケーションはその膨大な周辺情報に助けられて,誤解を生むことはあまりない。まぁまぁ的確に伝わるし,相手の意図のとおりに受けとめることができる。

● Facebookでは文字のみが伝達手段になる。周辺情報はない。個体個のコミュニケーションが文字だけで成立するか。
 文字だけで意を尽くすのはかなり難しい。こみいった話はする気にならないだろう。結果,あたりさわりのない話になる。コミュニケーションに快を求めようとすれば,要らぬ誤解を生まないことがその第一歩だからだ。これがゴミを増やす第3の理由。

● ゆえに,すでにリアルで友だちになっている,知り合いになっているという前提があって,それを補完するためのツールとしてFacebookを使うのが本筋のように思う。
 Facebookの基本設計もそうなっていると思う。Facebookはそれに徹するといいのかもしれない。“友だち”を5,000人まで登録できたり,“知り合いでは”と見ず知らずの人を紹介するようなことをやめると,Facebookのインターフェイスはもっとすっきりする(“友だち”の上限は100人でいいのではないか。あとは,フォローに回ってもらえばいい)。
 リアルを前提にするわけだから,リアルの関係を壊してしまうような投稿をFacebookでするわけにはいかない。それがまたFacebookがゴミの山になる理由にもなるわけだが,この理由でゴミが増えるのは仕方がない。

● リアルをリセットして,ネットのみの交際をするためにFacebookを使うのは,実際はそういう使われ方の方が多いのだと思うが,あまり上手くいかないのではないか。
 特に多いのが,会社を定年退職する(した)のを機に,Facebookを始めるというパターンだ。職場絡み,仕事絡みの人間関係が失われる。それをFacebookで補おうという発想。それを推奨する人もいる。やってみる価値がないとは言わないが,うまく行かないことが多いと想像する。

● リアルの人間関係が上手くいかないからネットで理想的な関係を構築しようと,Facebookに活路(?)を求めるのは初歩的な誤り。そういう人は,そもそもがFacebookに向かない人だと思う。リアルですらそれをできない人が,ネット上でできるはずがないのだ。 
 Facebookにはお節介な機能が多いこと(友だちが彼の友だちに宛てたバースデーメッセージが自分のタイムラインに表示されるのを遮断する方法がない,など)や閉塞感が鬱陶しいことも,Facebookを難しくする理由を作っているけれども,それは二義的な問題だ。

● Facebookに限らないが,SNSの隆盛が定着すると,個人情報の保護というやつも,抜本的な見直しが必要になるだろう。なぜというに,保護するも何も,ユーザーが自ら進んで個人情報を開示しているからだ。
 実名と顔写真と居住地を晒している以上,電話番号を突きとめるのは容易なはずだ。住所も地番までわかる。いちいち電話帳にあたらなくても,投稿だけで番地の特定まではできるのではないか(見る人が見れば)。
 さらに,勤務先や勤務先の住所までわかるだろう。性格や趣味もわかる。食生活も推測できる。1週間なり1月なり1年間の生活パターン。何をどのくらい買っているかという購買行動。休日は何をして過ごすことが多いか。そういうことも丸わかりだ。
 収入の多寡や生活水準,頭の良さまで把握される。一般人のそんなものを個々に把握しようなどという暇人はいないだろうけれども,把握しようと思えばできる。

● しかも,Facebookにおいては,プライバシーを隠そうとする人は信用されない。実名ではない名前,顔写真ではないイラストや写真,そういうものを使っている人は,それだけで心証が悪くなる。
 Facebookのほとんど唯一の功績は,実名主義を根づかせたことにある。実名では言えないようなことはネットでも言ってはいけないのだ。そういうことはノートにでも書きなぐっておくのがよい。

2019年4月1日月曜日

2019.04.01 Facebookがつまらない理由

● “Facebook つまらない”で検索をかけるといくつもの記事がヒットするわけだけども,その中のいくつかを読んでみた。「Facebookがつまらない理由 最近のFacebookについて思うこと」にほぼ尽くされていると思うのだが,もっと低次元からFacebookがつまらない理由をウダウダと述べてみる。

● FBななぜつまらないのか。第1に,ネット上のコミュニケーションがそもそもつまらないものになりがちだからだ。
 第2に,FBはコミュニケーションツールとしてしか使い途がないからだ。それ以外の使い方をするのが難しい。どうしてもといえば,非公開に設定したうえでやるしかない。が,誰かが見ているという感覚は欲しい。それがあった方が張りが生まれるからだ。

● ここでホテルを思いだす。ラウンジで仕事か遊びかわからないけれども,パソコンをいじっている人がいる。けっこうな数,いる。そんなものは部屋でやったらいいのにと思う。
 が,部屋で1人でやるより,誰かがいるラウンジでやりたい。これはよく理解できる。人は人恋しさを内包しているのだ。
 受験勉強だって自宅でやるより,大勢の仲間(ライバル?)がいる図書館の学習室でやった方が捗るような気がする(気がするだけだろうが)。1人遊びでも自宅の庭より公園でやりたくなることがある。
 かといって,ラウンジでパソコンをいじっているところに,誰かに話しかけられるのは迷惑だ。ぼくはそういうことをしたことがないのでわからないのだけれども,たぶん,迷惑だと思う。

● SNSに何ごとかを書きこむのは,ラウンジでパソコンをいじるのと同じようなものだ。
 人がいるところで1人でいじっていたいのだ。人を感じながら1人で気ままにいじっていたいのだ。人と話をしたいからラウンジにいるのではない。

● FBはそれを許さないところがある。話をしろとしつこく勧めてくる。
 FBが想定しているほどのコミュニケーションはごく少数の人とやればいいものなのであって,ネット上に友だちが100人,200人という世界でその疑似形態を作ったところで,それを維持するのは苦痛でしかないだろう。

● FBはGoogle検索を受け付けないし,自分の投稿はFB上の友だちにしか表示されないから,人を感じるといってもその範囲が限定される。
 かつ,その“誰か”との関係が濃密になりがちだ。FBでコメントを無視するのは難しい。

● FBに溢れているのはおおよそがゴミだ。FBを始めるというのは,ゴミの山に分け入っていくのとほぼ同義だ。自分が発するのもゴミなのだから,そこはお互い様ではある。
 ところが,ゴミを素材にやり取りまでするのは,じつにもってバカバカしい。FBはそのやり取りを強制するようなお節介な機能がいくつもあるというわけだ。やり取りに特化しているのがFBの特徴だと言えるわけで,だからつまらないのだ。

● それ以前にネット上に不要な友だちを作ることのバカバカしさにも多くの人が気づき始めている。ネット上のコミュニケーションはつまらないものだ。つまらないと言っては言いすぎなら,虚しいものだと言い直そうか。
 そのつまらなくて虚しいものをメインにしなければならないとあっては,FB離れは必然のように思われる。若者はあらかたFBから離れたようだから,次は中高年が若者の後を追う番だ。

● ぼくはFBはなくなると思っている。現時点でいったん使ったIDで再開することはできない仕様になっているようだが,それをかなぐり捨てて再集客を試みても,状況は好転しないだろう。
 ので,現状でFBを推奨する人,FBは楽しいと思っている人の多くは,タレント-ファンの構図で,自分をタレントになぞらえている人ではないか。つまり,裸の王様というかバカというか。

● 実名主義が問題なのではない。匿名で,実名では言えないようなことをネットで放言するのは,みっともないことこの上もない。むしろ,実名主義を日本にも根付かせたことは,FBの功績の1つに数えていいのではないか。
 ネットで濃厚なコミュニケーションを実現させようとしてもうまくいかないことを証明したのも,FBの功績だ。

2019年3月25日月曜日

2019.03.25 Twitterはやめられない

● Facebookはやめたけれども,Twitterはやめられないでいる。なぜやめられないかというと,Twitterでtweetするのは,相手のいない雑談をしているような気分だからだ。
 ぼくの場合,仕事を完全引退すると(ひょっとすると1年後かもしれない),話相手は配偶者だけでになる可能性が高い。リアルの話相手はそれで充分だと思うが,配偶者では話相手にならない話題をtweetする。そういう効用がある。

● Twitterは独り言をつぶやくのに適したネット上のツールで,今のところ,これは手放せない。
 独り言といっても,tweetするのは虚空に向かって言葉を発するのとはだいぶ趣を異にする。どこの誰かは知らないけれど,何人かには届いているという実感が持てる。

● Google+はサービスをやめ,FBもひょっとしたらその後を追うのではないかと思わないでもない。近い将来の話ではないが,いずれそうなりそうな。
 先駆者の若い人はあらかたやめているだろう。次は中高年が去って行く番だ。文化は若者から発祥して,それが上の世代に浸潤していくものだとすれば,FBを始めるのもそうだったように,FBをやめるのもまた,これから上の世代に浸潤していく段階だと思えぬでもない。

● Instagramにはぼくは興味がない。芸能人がファンサービス・ファン獲得に使うにはいいかもしれないと思うが,始める人はすでに始めていて,ここから先さらに大幅にユーザーを伸ばすことにはならないと見る。
 FBに続いて衰退に向かうのではないかと推測する。インスタ映えという言葉は半ば死語になっている。今,この言葉を使うのは少し恥ずかしくないか。
 FBもInstagramもアカウントはそのままにしていて,事実上使うのをやめている人がかなりの数いるのではないか。主催者発表の数字は大本営発表であるというのは,この分野でも同じだろう。

● マストドンもひと頃騒がれた後,どうなっているのだろう。500字まで投稿できるといっても,500字もあったのでは,そもそも読む対象から外されてしまうのでは。長い文章は本で読めばいいので,SNSではなかなか。
 500字を書くくらいなら,もうひと踏ん張りして,ブログにした方がいいような気がする。ブログなら長いものだと読む側も思っているだろうからだ。マストドンはSNSとブログの鵺的な存在という印象。まったく使ったことのないままで言っているわけだが。

● 結局,残るのはTwitterだけのような気がする。140字という字数制限(といっても,140字といえば400字詰め原稿用紙で7行分。けっこう長いのだ)と無言フォローで問題ないというのが,Twitterの生命線。つながりとも言えないかすかなつながりが,Twitterの空間に広さと開放性を与えている。
 FBには濃密感があって,これが鬱陶しい。LINEもおそらく同様だろう。鬱陶しいのはリアルだけでたくさんだ。

● で,このTwitterが娯楽にもなり得る。こちらの気持ちが落ちこんで活性度がかなり低下しているときでも,Twitterなら使える。
 それゆえ,放っておくと始終Twitterに触っていることになりかねない。その取扱いには工夫と克己が必要かもしれない。
 が,FBはアカウントを消してだいぶ経つけれども,Twitterは当面持続という方向。

2019年1月2日水曜日

2019.01.02 SNS雑感 2

● TwitterやFacebookを始めるときに読んだSNSのガイドブック的な本の中に,“SNSやブログを複数やる場合,ハブとなるのはFBが相応しく,Twitterではダメだ”という記述があった。
 FBには自分がやっているサイト名をいくつでも入れられるが,Twitterはひとつしか記入できない。ゆえに,FBをハブにして活用すべし,という理屈だったように記憶している。

● が,この理屈は,すでに有名人になっていて,いくらでもお客を呼べる人向きのものだろう。正確にいうと,その潜在力を持っている人に向いたものだと思う。
 ぼくはそうではない。かつ,多くの人は,自分がそうだとは思わない方がいいだろう。

● FBで友だちが500人いるとしても,自分の投稿をいつも見てくれる人は,下手すると1割もいないのではないか。友だちになってはいるけれども,フォローを外されている。
 自分もそうしているはずだから,これはわかりやすい話のはずだ。

● 加えて,FBはGoogleの検索を拒否する。FBユーザー以外は閲覧できない。そういうものをハブにするわけにはいかない。
 ぼくを含む多くの人にとっては,そもそもハブという考え方を採用する必要もないだろう。

● Twitterと違って,FBには140字制限はない。いくらでも長文を書くことができる。ところが,FBでも140字を超える投稿はあまり多くない。多くの人がスマホでエントリーしているからだと思っていた。
 もちろんそれもあるんだろうけれども,多くの人が長文は歓迎されないことを知っているからかもしれない。

● 長い文章はなかなか読んでもらえないようになったらしい。おそらく,供給が劇的に増えたからだと思う。書き手が増えた。読み手は増えない。
 読む側とすればザッピング的に読むしかない。Twitter的なものがいい。短文を読み飛ばしていく。FBだって長いのは喜ばれない。
 だから,ブログも読まれなくなっているのではなかろうか。トータルのPV数が百万を超える個人のブログはたくさんあると思うけれども,これから同じ内容のブログを書き始めても,百万PVに到達するのは今までの10倍はかかるのでは。

● SNSはコミュニケーションツールと言われる。が,コミュニケーションツールとしてのSNS(の総量)はこれ以上増えないような気がする。たとえばFBが寂れて,他の何かが勃興することはあるだろうけれど,総体はもう増えない。
 コミュニケーションにも適正濃度があって,すでにその適正ラインをオーバーしているように見えるからだ。LINE疲れとかFB疲れとかではなく,コミュニケーション疲れがけっこう広範に出ているのではあるまいか。
 年がら年中,コミュニケーションにうつつを抜かしているわけにはいかないだろう。

● ぼくらがリアルのコミュニケーションでやりとりしている情報の99%はおよそどうでもいいことだというのが,SNSの普及で明らかになった。それがSNSの効用の最たるものではないかと思うほどだ。
 FBやTwitterに溢れているものがそうだから,ふと足をとめてリアルを振り返ってみると,何だ,リアルも同じじゃないか,と合点するという意味だ。

● つまり,FBやTwitterはどうでもいいことで満ちている。やれ昼食に何を食べた,やれ誰それさんとお茶している,やれ箱根駅伝を見ている(感動をありがとう),やれTVで知った評判のお店に来ている。
 バカか,おまえは,と言いたくなるもので満ちている。売れっ子のタレントや,今でいえば将棋の藤井七段のような人なら,昼に何を食べたかが付加価値を持つ情報になるかもしれないが,おまえが何を喰おうとどうでもいい,そんなことをいちいち流すなボケ,と言いたくなる。

● というわけで,SNSはゴミ情報の集積地だ。SNSを始めるというのは,そのゴミの山に分け入っていくことなのだ。
 ここで大事なことがある。自分もまた,ゴミしか吐きだせないということだ。どう頑張ってもゴミしか出せない。ゴミを増やすことしかできない。

● 特にLINEがそうなのだが,ハードルが低い。というか,ハードルはない。
 ゆえにチャチャッと書きこみがちなのだが,文字だけで個対個のコミュニケーションを維持するのはかなり難しい。要らぬ誤解を招く。面と向かっているのであれば起こりようがない誤解が起きる。
 その誤解を招いたことで落ちこむのなら,LINEなどやらない方がずっと賢い。

● FBにしろTwitterにしろLINEにしろ,向き不向きがある。とりあえず始めてみるのはいいと思うが,自分には向かないと思ったらすぐにやめることが大事だ。
 無理はしないこと。無理をしてまで続ける価値はない。

● リアルのコミュニケーションを振り返ってみれば明らかだけれども,どうでもいいゴミをやり取りしているから,コミュニケーションはコミュニケーションとして成立している。どうでもいいことではないことをやり取りしなければならない状況は,快適とは言い難い。
 SNSでも事情は同じであって,もしFBを始めてみて,楽しい,これは自分に合っている,と思ったのなら,それはどうでもいいことしか吐きだしていないからだし,どうでもいいことしか受けていないからだ。
 それがいいことなのかどうかはわからない。良くないとしても,コミュニケーションが目的ならば,そうなるしかない。

● コミュニケーションにも適正濃度があるとするなら,そもそも,SNSをコミュニケーションツールとする考え方を捨てたらどうか。コミュニケーションなどリアルで充分ではないか。
 SNSはひとり遊びの道具にする。勝手気ままに使うのがいい。自分を垂れ流す場がSNSだ。
 垂れ流しているんだから,反応や評価は求めない。自分が望む反応を期待してはいけない。いや,もし反応があっても無視するくらいがちょうどいいと思う。

● SNSにすり寄るのではなくて,SNSを自分に引きつけて使うのだ。大げさにいえば,それが自立するということではないか。
 群れの中に身を置いて,群れない使い方をする。

● だったら,EvernoteやGoogle Keepに書けばいいじゃないかと言われるかもしれない。が,群れの中に身を置いた方がいい。ほどよい緊張感が得られるからだ。その緊張感が垂れ流しを長続きさせてくれる。
 端末のハードディスクやSDカードに溜めていくよりも,SNSに上げた方がデータが毀損される可能性も低くなる。そういうところを含めて,SNSのいいとこ取りをすればいいと思う。
 で,垂れ流すのに最も向いているのはTwitterだろう。その場合,Twilogを併用することは必須。溜まったデータの取り回しが楽になる。自分のツイート全体に対して検索をかけるのも,Twilogの方がやりやすい。

2018年10月31日水曜日

2018.10.31 iPhoneは年寄りの心の友になる

● 相方がめでたくiPhoneXRのユーザーになった。その相方,Siriを知らなかったようだ。ので,教えてあげたんだけど。大きな声で命令(?)していた。めでたく使えるようになったようだ。
 今朝は,ピアノの鍵盤を入れてと言っていた。Siriは「それは無理です。入りません」と答えるかと思いきや,ちゃんと鍵盤アプリをインストールしてくれたようだ。

● 歳をとった人の話し相手になってくれるかもしれない。現状ではお喋りはとても無理だけれども,Siriはどんどん進化していくのだろうから。
 リアルのコミュニケーションが減ってきたときに,Facebookが代用になるかもしれない。ぼくはやめてしまったクチだけども,うまくやれば代用品として使えるかもしれない。

● Facebookはゴミの山で,Facebookを始めるっていうのは,そのゴミの山に分け入っていくことだ。けれども,それはリアルのコミュニケーションでも同じこと。
 どうでもいいことのやりとりがつまりコミュニケーションであるわけで,どうでもよくないことをやりとりしなければならないとなると,大なり小なり緊張感を強いられるはずだ。ときには胃が痛くなるような局面もあるだろう。どうでもいいことをやりとりするから,コミュニケーションは快適なのだ。
 どうでもいいことをやりとりするという点では,Facebookとリアルに変わりはない。

● そこにSiriが話し相手になってくれるとなれば,iPhoneがあれば老後はだいぶ紛れるのではないか。iPhoneは年寄りの心の友になる。
 AndroidのGoogleアシスタントはどうなんだろうか。どうなんだろうかって,ぼくのスマホにも入っているのだから,試してみればいいだけだな。

● SiriにしてもGoogleアシスタントにしても,使い手の情報をたくさん参照できれば,それだけ気の利いた対応ができるはずだろう。
 スケジュールがぜんぶiPhoneかiCloudに入っていて,撮りためた写真もiPhoneに保存されていて,何をするのでもiPhoneアプリを使うようにして,テキストでも何でもiCloudに保存しておくようにすると,Siriって賢いやっちゃなってことになるんだろう。

● SiriはだからiPhoneのヘビーユーザーを作る。ぼくらはますますスマホから離れられなくなる。AppleやGoogleは今よりも多くの個人情報を収集できるようになり,ビッグデータが充実する。いいことじゃないか。っていうか,いい悪いを論じてみても仕方がない。
 個人情報をさしだすことに抵抗はないのかと言われれば,ぼく一個は特段抵抗はない。わざわざぼくを特定して,ぼくの行動や好みを詮索するような暇人は,世界中探してもいないと思うからだ。

● ワープロ専用機が出たときにも,パソコンが出たときにも,これで誰でも秘書を持てるようになったと言われたものだ。そうだったとしても,だいぶ仮想的な秘書だった。姿は見えない,声も聞こえない。
 けれども,Siriは声で話すのだ。性別や方言を選べるのだ。リアルの秘書にだいぶ近づく。

● 紙の手帳やノートだって,声を持たない秘書かアシスタントのようなものだ。ぼくは,目下のところは,そっちの秘書をメインに使っていこうと思っているけど,リアルに近づいた秘書にも魅力を感じる。面白い時代に生きていると思っている。

2018年10月9日火曜日

2018.10.09 Google+ がなくなる

● ネットのニュースで知った。驚く人はあまりいないだろう。いずれこうなることは誰にとっても想定の範囲内。いずれ来ると思っていたものがとうとう来たか,という感じ。
 サービスを開始したときは,Facebookが大きく先行していた。よほどのことがなければ逆転は難しい。そのよほどのことは起きなかった。

● ブログはGoogleのBloggerを使っているので,その流れでSNSもGoogle+から入った。2ヶ月くらいだったかな,Google+をいじった後に,TwitterとFacebookに移った。
 Facebookのコンセプトは明解だった。友だちを作って,友だちとのコミュニケーションを楽しむ。ほぼ,それに尽きる。Facebookでできることは広範にあると思うんだけども,基本は友だちとのコミュニケーション。「いいね!」やコメント,シェアもそのための手段だ。

● その分,Facebookには閉鎖性を感じた。フォロー(するだけ)という形で友だちの外に出ることはできるんだけども,Facebookユーザーの外にでることはできない。
 タイムラインの流れも遅い。頻繁に投稿する人はそんなに多くない。文字数の制限がないのに,ごく短い投稿が多い。スマホを使っているからだけれども,これだとFacebook本来の面目はだいぶ損なわれるような気がする。

● けれども,長文投稿は歓迎されない気配がある。連投も嫌われるのではないか。そんなところでも気を遣わなければならない。
 友だちに正面切って反論するのも憚られる。逆に,反論される可能性の高い,先鋭なというか,とんがった意見は投稿しづらい。友だちを戸惑わせてしまうからだ。
 そうしたものは歓迎されない空気がある。場を乱さないような,あたり障りのない,正論的な,したがって情報量を持たない,投稿が横溢している。

● それらを互いに発信しあい,受信しあって,「いいね!」をしあって,愚にもつかないコメントをしあって,仲間内から一歩も出ずに,同じループを回っている。
 友だちの友だち,そのまた友だち・・・・・・というふうに6回ジャンプを繰り返すと,世界の誰とでも接触できるという理論? が出たことがあった。が,そんなものはまったく現実的ではないことは,Facebookを少し体験すればすぐにわかる。

● 2年半ほどFacebookにかかずらってみたが,結局,これという使い方を見いだせないまま,Facebookからは退くことにした。数ヶ月前にアカウントを削除した(完全には削除されていないようなのだが)。
 しかし,自分には向かなかったが,Facebookは良くも悪くも性格がはっきりしている。

● 対して,Google+は茫洋としていて,こういうものだと大きく掴むことができない。Facebookだと,友だち申請→承認,というひとつの儀式というか関所がある。これがFacebookの性格を大きく規定しているのだが,Google+にはそういうものはないようだった。
 Google+は字数制限のないTwitterなんだろうか。

● Twitterのキーワードはフォローだ。そのフォローは無言フォローが原則だ。フォローするかしないかは自分で決められる。相手方の承認を得る必要がない。
 Twitter人気の理由の大きなひとつは,この敷居の低さにあると思う。

● その代わり,TwitterはSNS的な色彩は薄いような気がする。誰かがコメントをしても,それに対して返信しなければいけないという縛りも感じない。
 フォロー返しという言葉はあるけれども,それが暗黙のルールにまでは行っていない。そこも各人の勝手たるべしという空気がある。勝手にフォローすればいいし,フォローされたからといって義理を感じる必要もない(感じてもいい)。それぞれが勝手にやっている。
 字数制限があるためか,連投したければしたいだけどうぞという感じ。タイムラインの流れも速いから,連投されてもどんどん流れていく。留まらないから邪魔にならない。

● 総じて,Twitterの基調は自由さにあると思う。では,Google+にそうした解放感があるかというと,どうもそうではない。けっこう,構えさせるところがある。投稿する前に推敲させる雰囲気というかな。そういう重さがある。
 結局,Google+はユーザーに何を提供するつもりだったのか。どう使ってもらいたかったのか。

2018年7月29日日曜日

2018.07.29 Facebookをやめて丸4日

● Facebookをやめて丸4日経過。いわゆるFB疲れでやめたわけではないので,多少の禁断症状が出るかと思ったけども,そんなものはなかった。
 FBを懐かしむこともない。スッキリちゃんりん。

● スマホ中毒にさせるのは,ゲームとSNSらしい。ぼくはゲームとは無縁なのだけども,ムダにスマホやパソコンの画面を見ている時間があった。
 あったというか,その時間が長すぎた。のべつ見てしまうのだ。何とかしなければとずっと思っていた。

● その初手がFBをやめてみることだった。いわゆる放置はできない。放置が効果的なのは,それこそFB疲れか,FBに興味を失った場合に限られる。
 ぼくはそうではなかった。やめると決めても,そのままにしておけば3日の後には舞い戻ってしまうことは明らかだ。

● ので,FBに退会宣言(?)を投稿し,絶対に戻れないように自ら外堀を埋めて,自分のFBアカウントを削除したのだ。
 だから,やめたあとはそれなりの喪失感があるのかと思っていた。ところが,それがない。

● シンプルライフという言葉がある。最近では断捨離やミニマリズムという言葉も。その対象はモノだけではないだろう。習慣や人間関係も見直しの対象だ。
 実際のところは,生きている限りは,シンプルライフは絵餅であり続ける。その絵餅を理想ともいう。理想は現実にならないから理想なのだ。シンプルライフもそういうもののひとつだ。
 が,見直す作業は続けた方がいいのだろう。掃除と同じだ。どうせまた散らかるのだからと掃除をやめてしまうと,どうなるか。

● FBをやめるという掃除は,今のところ,わずかながら効果があるようだ。のべつスマホを見るという状況からはやや脱却できたように思える。
 それで足りなければTwitterもやめるつもりなのだが,目下のところ,その必要は感じていない。

● というわけで,時喰虫のひとつを退治できたと思う。FBを時喰虫と認識するということは,かける時間ほどFBに意義を感じていなかったというわけか。そうでもあるが,そうではない。
 要は,のべつスマホをチェックしてしまうのが時喰虫の所以なのだ。これは必ずしもFBの罪ではない。主には使い手の問題だ。ぼくは上手く使えなかったので,FBから離れることにしたというに過ぎない。

● ただし,“友だち”はぼく亡き後も,変わらずにFBを楽しんでいるだろうな。自分が死んだ後も,世界は昨日と変わらずに淡々と続いていく。
 あと,見直すべき習慣は晩酌だね。これで帰宅後の夜の時間をだいぶ(ほとんど)失ってきた。晩酌を捨てるというのが,次なる課題。これはFBをやめるより難しいかもしれない。

2018年7月25日水曜日

2018.07.25 Facebookを退会

● 自分のログをネットに残しておいて,時々参照するだけなら,ブログとTwitterで充分だ。FBは要らない。
 Twitterにもグループチャット機能が追加されている(上限20人)。となると,FBでやっていることはそっくりTwitterでもできる。大半のFBユーザーにとってそうだろう。
 Twitterには140字の壁があるわけだが(その壁がいいのだという意見,多数),140字をいくつも連ねてツイートすることができるのが基本フォームになった。壁が事実上消えたともいえる。

● それなのにFBをやめないでいるのは,コメントのやりとりや「いいね!」が付くことに快感を感じているからだ。これは間違いない。
 この快感に抗することはかなり難しい。コミュニケーション欲というのは,人のかなり奥深いところにあるもののようだ。

● “おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざ”であって,ぼくらパンピーはSNSでだいぶ腹がふくれないようになったことだろう。
 その代わり,ネットには雑音が溢れることになった。でも,雑音を発し,雑音を受けながら生活していく権利は認められるべきだよね。

● 第一,リアルのコミュニケーションがそうなのだ。雑音に近いどうでもいいことをやりとりするから,コミュニケーションがコミュニケーションたり得ているのだ。どうでもいいことのやりとりが快を生む。
 どうでもいいことではないことがらをやりとりするのは,多少なりとも緊張感を随伴する。場合によっては胃が痛くなるような思いもする。

● しかも,じつは雑談こそが高度に脳を機能させるのだという。頭がいい人とは,誰とでも雑談できる人のことをいうのだろう。
 ただし,これはタイムラグが生じないリアルの雑談,ライヴとしての雑談の場合であって,FBのコメントのやりとりまでそれに含めてはいけないだろうね。

● ともかく,どうでもいいことのやりとりは楽しいものだ。FBにはどうでもいいこと以外はあげるべきではないと思っている。多少ともシリアスなものは自分の中に秘めるべきであって,そういうものまでFBに垂れ流してはいけない。
 しかし,物事には限度というものがあるらしい。FBではたやすくその限度を超えてしまうきらいがあるようだ。どうでもいいこと以外はFBにあげてはいけないと思っているのに,一方でどうでもいいことの洪水に少し悲鳴をあげたくなってきた。自分に関していえば,どうでもいいことを発しすぎる。

● FBには様々な機能があって,自分はその可能性をほとんど引きだせていないのだが,引きだすには引きだす側に力量が要る。自分にはその力量がまるでない。
 力量がないのは別に悪いことではない。100メートルを9秒台で走れないことは悪いことではない。それと同じだ。
 が,何度目かの“FBやめようか症候群”が来ている。今の使い方で使っているのでは,単に時間のムダだと思えてきた。

● なんだかんだ言って,FBは面白くてですね。それが仇になって時喰虫なんですよ。
 SNSは時間を決めて使うべしという,たったそれだけのことがなかなかできないんですね。

● 長々と述べてきたけれど,以上はそれなりにFBに配慮したものだ。少し本音をいうと,次のようなことがある。
 ネットでつながるのもいいんだけど,そのつながり方は行きずり的なものでいい。その方がネット的。
 となると,Twitterのゆるさが望ましい。FBは囲い込む感じがあった。リアル類似な閉塞感のようなもの。

● Twitterにはそれぞれが向いた方を向いて,勝手に何かやっている感がある。そこが大事なところだ。
 その過程で,反発を含む交流が生まれることもあるのだが,交流とか絆とかつながりが第一義になってしまうと,概してつまらなくなる。人の投稿なんか読まない,自分で好きなことを書いて発信するためだけに使っている,という人がもっと増えると,かえって面白くなるのではないかと思う。

● FBはその交流が主目的のSNSだから,放っておくとつまらなくなりがちなのだ。“さぁ皆さんご一緒に”的な,〇〇会的な,求心力が顔を覗かせることがあるような気がする(考えすぎかもしれないんだけど)。求心力は多少なりとも強制の色を含むものだ。
 交流は,多様性を生むよりも多様性を制限する方向に作用することが多い。拡散ではなく収斂に向かう。そんなものはサラリーマンなら毎日体験していることだろう。FBから若い人が逃げだし,中高年の巣窟になるのも納得できる。

● あと,FBにはネットリテラシーの最低限に到達できていないユーザーがわりといる。診断アプリの占いの結果を嬉々として投稿するのがその代表だけれども,中にはそういうアプリ広告に「いいね!」を付けたりシェアする大バカまでいる。中高年って,ほんとどうしようもない。そんなのが「友だち」にいると,危なくてしょうがない。
 日本語を読めない人もいる。この投稿になぜこういうコメントが返ってくるのかと思うことが何度もあった。たぶん,読めていないのだ。部分に引っかかって,全体を掴めていない。
 そういうのにつきあわされるのは精神衛生に良くないのだが,FBではそれを余儀なくされることがある。

● やめるのであれば退路を断つのがよい。FBが公式に表明している退会手続きでは,外枠が消えるだけで中身は見えない形で残ってしまうらしい(利用停止になるだけ)。
 完全退会のやり方がネットにいくつもあがっているので,それにしたがって退会手続きを進めようと思う。

● というわけで,突然ですが,FBをやめることにしました。今までお付き合いいただきましてありがとうございました。
 この期に及んで何なのですが,Twitterにも出没しておりますので,よほどお暇な折にでも(そんな折はないと思いますが)覗いてやってください。

2018年7月21日土曜日

2018.07.21 Facebook雑感3

● Excelでできることを100とすると,自分が使っていのはそのうちの4か5,などとよく言い合っていた。ひょっとすると,1か2かもしれない。
 たいていの人はExcelでマクロを組むこともやっていないだろう。なぜかと問えば,自分には必要ないからという答えが返ってくるに違いない。
 が,もしマクロを組んで処理することを覚えたら,何でこんな便利なものを今まで使わないでいたのか,と後悔するかもしれない。

● 必要あるかないかは,じつは自分でも意外にわからない。そのうえ,対象物をよく理解しないままで判断している。
 自分には必要ない(だから興味を持たない)というのは,たんなるズボラかもしれない。

● もっとも,MicrosoftでExcel開発を担当している人間でも,Excelのすべての機能を知っている人はいないと言われる(本当かどうかは知らない)。モジュールに分けてチームを作っているから,他のモジュールまで完全にわかっている人はいないのだ,と。

● Facebookでもホーム画面の左側に表示される項目を見ると,とんでもなく多様な使い方ができるのだと思われる。募金を集めることまでできるのだ(集まるかどうかは別にして)。
 けれども,ぼくを含めてほとんどの人は,タイムラインに何ごとかを書いてアップする,友達のタイムラインを読んで「いいね!」やコメントを付けるところで終わっているだろう。あとは,Messengerで連絡を取り合といったところ。
 何でも入れられる巨大な箱に石ころを1個か2個入れて,コロコロさせているのが,大方の使い方だろう。もちろん,ぼくもそうで,なぜかといえばそれ以上は自分には必要ないから。

● しかし,少数ながら,Facebookのこれだけの機能をうまく使って何かできないかと考える人もいるに違いない。
 実際に“何か”を始めている人もいるだろう。

● しかし,Facebookには問題がある。
 Facebookを使っていると,自分の裸を見られているんじゃないかと思うことがあるんだよね。誰にって,Facebook社に。
 何を投稿したかをすべてフォローして,その人が興味を持ちそうな広告を出してくる。Facebook社が追跡しているのはFacebookの投稿だけではないようなんだよね。Twitterやブログや,その他,ぼくがネットに発したものすべてを把握しているようなんだよなぁ(Facebookに限ったことではないけれど)。

● それじゃあ目くらましの投稿をしてやろうかと思って,その種の球を投げてみると,それは目くらましだと見通されているような。
 感心するほどだ。なかなかやるなぁ,Facebook。

● ネットを多様に使っている人は,それらをすべてFacebookに集約できないかと考えたことがあるのではないか。が,それはやってはいけないことだ。Facebookがいつまで存在するかわからないからだ。
 パソコンのソフトはどれが一つしか使ってはいけないと言われたら,たいていの人はExcelを残すと思う。パッケージソフトならそれでいいのだが,SNSはその一つが残るとは限らない危うさがある。

● ほんとにさぁ,このままではいけないよねぇ。何とか策を考えないと。
 抱え込むだけ抱え込んで,他には渡さん的な強欲はダメだよ。ユーザーが“公開”設定で上げているものは,Google検索を許してやりなよ。
 他にもいろいろありそうだぞ。直した方がいいところ。

● だって,このままだと年寄りだけのサークルになってしまうぞ。ほんとに年寄りだけになったら,年寄りも離れていくぞ。
 女性は男性を呼び寄せるが,その逆はない。若者は年寄りを呼び寄せるが,その逆はない。
 それゆえ,若い女性のユーザーを増やすのは焦眉の急だと思うのだが,Facebook社がその努力をしているとは思えない。

● 弊社にはInstagramもございますから。若い方々にはそちらを中心にご利用いただいておりますから。
 と言ってみたって,Instagramにも中高年(の特に女性)が怒涛の勢いでなだれ込んでいるようだし,Facebookを逃げだした若者がそっくりInstagramに移っているわけでもなさそうだ。
 このままではInstagramの隆盛だっていつまで続くか。

2018年7月17日火曜日

2018.07.17 Facebook雑感2

● 今のネットでの発信状況は,発信者1に対して受信者1になっているのではないかと思っていた。ブログやSNSの普及で誰もが発信者になっているから,読み手がいない,と。
 が,FBでも毎日投稿している人は少ない。週1くらいが圧倒的多数。完全に休眠した人もいる。
 ということは,まだ“発信者<受信者”が成立しているのかもしれない。

● 書くことの障壁はだいぶ下がったように思えるのだが,まだそういう現実にはなっていないのか。FBでも140字を超える投稿は少ない現状を見ると,さらにそうかもしれないと思う。
 かといって,長文が短文より面白いというわけではないし,短文に慣れたネットユーザーに長文を読んでもらうのは難しいかもしれない。

● ぼくはInstagramの世界は知らないのだけども,FBもTwitterも写真がメインで文章は添えものになっている。写真と文章では情報量がまるで違うから,この流れはおそらく変わらないと思われる。
 今後,“発信者=受信者”さらには“発信者>受信者”となることもあるのかもしれないけれども,発信の手段は文章よりは写真,さらには動画がメインになるのだろう。

● パソコンのハードディスクに溜めていくのと,ネットに公開するのとでは,持続のモチベーションがだいぶ違う。というか,一度公開して誰かに読んでもらえる快感を知ってしまうと,単にハードディスクに溜めていくやり方には戻れない。
 FBについて色々と文句を言っているが,それでも止めることができないでいるのは,そこに理由がある。受信するだけならとっくに止めていたかも。

● ともあれ,まだ書き手よりは読み手の方が多いようだ。正確には,頭数は同じかもしれないけれども,書いている時間よりは読んでいる時間の方が長いという人が,現状では多いと思われる。
 そういう間は,自分のようなものでも発信(垂れ流しといった方が正確)の余地はあるのかなと思っている。

2018年7月13日金曜日

2018.07.13 Facebook雑感

● Twitterのツイートはフォロワーの枠を超えて,読まれるときにはかなりの数の人に読んでもらえる。FBも同じなんだろうか。直接には“友だち”にしか流れないはずだが,“友だち”以外にも読まれているんだろうか。
 Twitterはフォロワーの外側が見えやすいのに対して,FBは“友だち”の外側が見えにくい。“友だち”以外の“いいね!”が付けば,“友だち”の先があることが体感できるんだけど,そんなことは滅多にないしね。

● 自分自身も,TwitterやFBでフォローの枠を超えて検索をかけたことが一度もないので,このあたりがわかりにくい。
 ただ,FBはGoogleの検索にかからないので,閉じられた世界だという趣が強くなる。公開制限なしで投稿したところで,届く範囲はFBユーザーの枠内にとどまるわけだから。

● FBにはそれゆえのFBの良さがあるのだと思うのだが,“友だち”が“いいね!”すると,その“友だち”の“友だち”にまでは確実に広がったものが,今はFBの仕様が変わって,その広がりが遮断されている。
 結果,FBの閉鎖性が際立つことになった。その枠内でコミュニケーションを楽しむことがFBでできることの大半だとすると,なんだかFBはつまらない。

● FBで“友だち”になるならアクティブユーザーがいい。“友だち”が数百人もいるのに“いいね!”が10とかいう例もある。
 投稿がつまらないからというのが第一の理由だろうけど,“友だち”の多くがFBを休眠しているのではないだろうか。そういう“友だち”をいくら増やしても仕方がない。

● 一方で,FBのようなものにその意味での効率を求めるのは間違っているような気もする。ゴミを抱えながら総体を増やしていくしかないのかも。
 ぼくの数少ない“友だち”の中にも,FBを毎日更新している人はひとりもいない。みんな,ゆっくりやっている。ぼくのようにのべつFBやTwitterを開いて,時間を喰われて困ると言っている人は,そんなにいないのかもね。

● しかし,FB,このままでいいのか。最低限,Googleの検索を受け入れたらどうか。
 現状では最大限,FBユーザーにしか読まれないのだ。そのユーザーもかなりの勢いで減っているのではないか(サイトを閉じる人は少ないだろう。面倒だから。が,放置を決めこむ人は日々積み重なっているはず)。
 いや,もともとそんなに読まれるはずのない投稿ではあるのだが,広がりの枠を最初からはめられているのとそうでないのとでは,気分が違う。

● ぼくもそうなのだが,ログ代わりにFBに投稿している人もいると思う。日記代わり,業務日誌代わり。
 というか,そういう人の方が多いのではないか。人を喜ばせようとか驚かせようとか,そういうことのために投稿するのじゃなくて。
 そういう人はFBにあげて終わりじゃなくて,FB以外のところに同じものを作っておいた方がいいんじゃないかと思う。FBは消えるかもしれない。サービス停止というのが現実にあるんじゃないかと思うようになっている。

● Twitterには140字の制限があるが(今では,事実上撤廃されたと言えなくもない。分割投稿を前提にしたフォームになったから),FBでも140字を超える投稿はあまりない。ほとんどの人がスマホで投稿しているからだろう。
 ともかく,そういう状況なら,同じものをTwitterにもあげておいた方が安全ではないか,と思う今日この頃。

2018年7月6日金曜日

2018.07.06 Facebookの過疎化が止まらないらしい

● いろいろと理由はあるだろうけども,ひとつには「いいね!」の取扱いを変更したことが効いているかもしれない。
 かつては,Aさんが「いいね!」した投稿がAさんの“友だち”全員のタイムラインに表示されていた。
それがなくなったのは,かえってスッキリしたようにも思うし,従来のやり方だと「いいね!」と「シェア」の区別が曖昧になるという問題もある。
 が,「シェア」までする人はあまりいないだろうから,情報拡散のためのツールとしては,FacebookはTwitterに大きく遅れを取ることになった。

● もともと,Facebookは情報を取るあるいは情報を発信して拡散させるためのツールではなく,仲間内でワイワイ盛りあがるためのものだろうから(したがって,Facebookの醍醐味はコメントのやり取りにある),目的にそって純化したのだとも言えるんだろう。
 ただし,それによって利用者が減るとなると大問題だ。減少傾向が続けば,減少に加速度がつく。SNSの場合,それは致命傷だ。ひょっとすると,Facebookは消えるのかもしれないと,最近,思うようになった。

● ぼく一個は,「いいね!」の取扱いは元に戻した方がいいという意見。
 それよりも,ハッピー・バースデーの取扱いを何とかしてほしい。なぜあれを当人の“友だち”全員にばらまく必要があるのか。当人に届くだけでいいではないか。あれ,かなり迷惑なんだよね。
 ひょっとすると,それがウザいというんで,Facebookを離れる人もいるんじゃないかと思うほどだ。

● 情報を取るならTwitterが便利。Facebookでもフォローはいくらでもできるんだけど,140字制限が効いているのか,Twitterの方が気持ちよく情報が取れる。
 そのTwitterで著名人というかオピニオンリーダーをフォローしてたんだけど,しばらく前にその8割を解除し,今回,残りの2割も解除した。つまり,Twitterから情報を取るということ自体をやめた。

● 遠慮なく言わせてもらえば,オピニオンリーダーのツイートもつまらないものが多い。そりゃそうだ。いくら彼らでもいつでも面白いことをツイートできるはずがない。
 付き合うのは時間のムダ。情報は彼らが書いた本から摂取すればいい。

● リアルタイム性を追求しなければならない情報は,ぼくの場合はないという結論。災害があって帰宅難民になったようなときには,情報のリアルタイム性が問題になるのかもしれないが,平時に有事体制を維持するのはムダが多い。

● 結局,TwitterもFacebookも情報を取るために使うのではなく,日記代わりにログを残しておくという使い方になる。従来からそうだったけれども,情報を取ることをやめた結果,それが際立つようになった。
 中には,リツイートばかりしている人もいるんだけども,大方のTwitterユーザーは,ぼくと同じではないかと想像する。自分から発信はするけれども,人のツイートは読まないというタイプ。

● そういう人ばかりになると,誰も読まないツイートがTwitter上に溢れることになるわけだが,それはそれでいいと思う。
 誰も読まないツイートを垂れ流す大衆とと多くのフォロワーを集める著名人の二極構造。日記代わりに使っているだけの大衆と自分の意見を拡散できる著名人。Twitterはそのどちらにも応えてくれるだろう。

● そうなると,TwitterとFacebookの両方を維持している必要はないかも。どちらを残すかといえば,迷う余地なくTwitterだ。

2018年6月12日火曜日

2018.06.12 インスタは若者の聖域として残してあげよう

● 右は今日の下野新聞。インスタ人気を受けて,AIを使った高機能カメラを搭載したスマートフォンが発売されるよ,と。
 でもさ,高機能カメラのスマホをひっさげて,中高年がインスタになだれ込んできたら,若者には迷惑だろうなぁ。ウェイブは若者から始まって中高年に浸潤していくもので,その逆はあり得ないわけだけど,インスタは若者の聖域として残しておいてやりたい。

● インスタは40歳以上は立入禁止でいいのじゃないか。ジジババにはFBという玩具があるじゃないか。FBの中をウロウロしてればいいじゃないか。
 そのFBだって,最初は若者の楽園だったのだ。それをオズオズと眺めていたジジババが,自分にも使えそうだとわかると大挙して押し寄せて,結果的に若者を追い出してしまったのだ。

● どうやってみたってジジババの容姿がインスタ映えするなんてあり得ないんだし。現実を直視しようよ。40歳を過ぎたら,男も女も自分の容姿をSNSに晒しちゃダメだよ(プロフィールの写真だけにしとかないとね)。それって,公共の福祉を損ねるよ。
 たぶん,例外はあるんだけれども,自分がその例外だとは思わない方がいいよ。だいたい滑稽な結果になってるよ。知らぬは本人ばかりなりってね。

● そもそもインスタ映えって,写真に嘘をつかせる=見栄をはる,ってことだもんね。若者がやれば可愛らしくても,ジジババがやると薄汚くなるだけだ。
 だから,インスタぐらいはせめて若者に残しておいてあげようよ。

● ひょっとすると今のFBがそうなのかもしれないけれども,ジジババがユーザーの過半を占めるようになると,ワクワク感が失せるんだよね。つまらなくなるんだよ。あんまり頭の良くない目立ちたがりの常識人って,最高につまらないわけで。
 つまり,頭が良くないっていうのも,目立ちたがりっていうのも,常識人っていうのも,それがジジババの圧倒的多数だからね。多数派はつまらない(退屈)に決まってるんだよ。つまらない人たちが席巻しているところからは,若者は逃げだす。
 おまえがその典型じゃないか,おまえが言うな, っていう話だけどさ。

2018年5月18日金曜日

2018.05.18 Facebook雑感

● 友だちが「いいね」した投稿を表示しなくなっている。いずれ復活するのだろうと思っているのだが,今のところはその気配がない。
 したがって,情報を拡散させるためのツールとしてはだいぶ弱くなっている。拡散させるためには「シェア」しなければならないわけだから。「いいね」ボタンをクリックするのと,シェアするのとでは,明らかに後者の方が障壁が高い。

● 「いいね」の対象記事が自分のタイムラインに表示されないのは,ありがたくもある。これ,どちらがいいのかは,ぼくには判断しかねる。
 ただ,「○○さんがこのイベントに興味があると言ってます」を表示してもらうよりは,「いいね」の対象記事を表示してもらった方がありがたいかな。

● FBの機能はてんこ盛りだ。が,ほとんどの人は,投稿と「いいね」とコメントとメッセしか使っていないだろう。それでいいのだと思う。
 それ以上の機能を多用すると,だいたいは嫌われるんじゃないか。うるさい!ってね。

● それ以上に気になるのは,占いをはじめとする診断アプリが依然として猖獗をきわめていることだ。
 ぼくの場合だと,“昭和○○年生まれの人は,今年大きく人生が転換します。特に△月生まれの人は2ヶ月以内にその転換が訪れます。詳しくはこちら”というのが表示される。4月当初から同じものが出ている。ひと月半経っても“2ヶ月以内”は変わらないんだけどね。
 それを「いいね」したりシェアする人の数も減る気配がない。ネットリテラシーを決定的に欠く人が相当数いる(中高年に多いはずだと思っている)。ネットリテラシーを欠くと,その影響は本人にとどまらず,他人に迷惑をかけてしまうことになる。

● あと,広告の表示だ。表示される広告を見ていると,FBが追跡しているのはFBに投稿したものに限らない。
 GoogleアカウントでFBにログインしているんだけれども,スマホ(Android)じたいをGoogleアカウントで使っているわけだし,パソコンもブラウザはChromeなので,同様にGoogleアカウントが基本になる。そうしなければ,不便でしょうがないという程度にはGoogleに依存している。
 その結果どうなるかというと,TwitterにツイートするとFBに表示される広告がそれに沿ったものに変わる。アマゾンのサイトに行って,何かの商品を参照すると,FBの広告がそれを反映する。
 具体的に実害はないんだけれども,あまりいい気分のものではないよね。

● ちなみに,FBに表示される企業の広告に「いいね」すると,その「いいね」は半永久的に使われるからね。その広告に載っている商品に限定されず,半永久的に。
 3年後や5年後,10年後の当該企業の広告にも「××さんがいいねしました」と表示され続けるんだよ。これまた,実害はないと思うけれども,「なんだ,こいつ,こんな商品をいいと思ってるのか」と思われるかもよ。
 一時の気迷いで半永久的な禍根を残してしまう可能性があるってことね。

● それやこれやを考えると,無料の代償はけっこう高いのかもしれないねぇ。

● Twitterには140文字という制約がある。FBにはそれがない。が,140字を超える投稿はFBでもかなり少ない。スマホを使っている人が多いからだろう。
 日本語の140字は相当に広い空間でもあるのだろう。400字詰め原稿用紙で7行分だもんな。かなりの長さだよね。

● そこで考えなければならないことは,あまり長いとスマホでは読むのも大変だということだ。基本,長文投稿は嫌われると思うべきだろう。ぼくなんかはFBではわりと長さを気にせずに書いてしまうんだけど,よくないね,これはね。
 FBでも簡潔を旨とすべし。難しいけれども,簡潔にしてなお意を尽くす文章を追求すべし。

2018年4月20日金曜日

2018.04.20 SNS雑感

● TwitterもFBも使い方は人それぞれだ。それでいいわけだ。決まった使い方などない。自由に使えばいいわけだ。
 たとえば,自転車を趣味としている人は自転車のことしか書かないとか,音楽をやっている人は音楽のことしか書かないというのが,けっこうあるようだ。ブランディングというと大げさだろうけれども,最もアピールしたいことに特化した使い方。

● 一方で,何でもありという人もいる。ぼくもその派に属する。日記のようなもので,その日の出来事ややったこと,食べたもの,思ったことを時系列であげている。
 TwitterもFBも写真が使えるのだから,日記として使う場合でも,より詳細な記録を残せるだろう。

● そうした使い方をすると,まとまりがないというか,とりとめがないというか,散漫というか,ツイート(投稿)の水準が揃っていないというか,そういうものになる。特に,FBではこんなもの書くなよと言われることもあるかもしれない。
 が,そうしたバラツキはあっても,全体として自分の水準や性格が現れたものになっているだろう。

● SNSはリアルの交際と同様に(ひょっとするとそれ以上に)飾りや気取りはそれとバレる。飾る人だ,気取る人だ,とバレてしまう。リア充自慢も自慢だとわかってしまう。
 知らぬは本人ばかりなり。お里は知れるものなのだ。ここは隠しようがない。SNSでは自分の素が晒される。そういう意味でSNSは怖いものだ。
 その怖さに無頓着だと損をする。場合によっては取り返しのつかない結果を招くことがあるかもしれない。バレバレなのにバレていないと思って演じているなぁ,と思えてしまうのに,時々出くわす。

● ぼく一個は,サラリーマンの場合は,仕事のことは書かない方がいいと思っている。職場の誰かを告発することが目的でもない限り,仕事や職場のことはSNSにはあげないと決めておいた方がいい。
 書いてはいけないことを書いてしまうかもしれないからだ。何が書いてはいけないことなのかは,事前に決まっているわけではない。書いて問題になった後に,書いてはいけないことだったのだとわかるのだ。というか,書いてはいけないことだったことにされるのだ。会社とか世間というのは,そうしたものだろう。

● が,その怖さよりも,自分を晒すこと,自分を語ることの快感の方が勝るのだろう。少なくとも,ぼくはそうだ。その誘惑にはなかなか抗しがたい。
 ここまでSNSが普通になると,個人情報の保護というのは,もはや過去のものになったと考えるしかない。自分から積極的にばらまいているんだから,それはもはや保護するに値しない。個人情報の保護,思えばはかない寿命であったな。

2018年4月7日土曜日

2018.04.07 Facebookに「いいね!」が表示されない状態が続いている

● Facebookで友だちの「いいね!」が表示されない状態が続いている。友だちが数百人もいると「いいね!」なんか表示されない方がいいんだろうけど(もっとも,そういう人は閲覧用の“リスト”を作っているでしょうね),友だちが少ない人はスカスカ感が漂うことになる。
 いずれ唐突に復活することになるんだろうけど,その場合,友だちの「いいね!」を自分のTLに表示するかしないか,選べるようにしてくれると嬉しい。

● ぼくなんかは友だちは16人しかいない。それでも「いいね!」が鬱陶しいと感じることがあるんですよね。その場合,友だちのフォローを外すしか方法がないというのもちょっとなぁと思うので。
 と言いながら,遠慮なくフォローを外すんだけど,自分も外されているだろうなぁと思うのはあまり気持ちのいいものではない(勝手なんだけど)。だから,「いいね!」を表示するかしないか選べるといい。
 FB上の友だちでも自ずと濃淡ができるので,その濃淡に応じた取扱いを可能にしてほしいんだよなぁ。現状では濃淡に関係なく画一的な扱いしかできないわけで。

● けれども,FB運用の基本はむやみに友だちを増やさないことだよね。形だけの友だちを作らないこと。
 16人しか友だちがいないのに偉そうなんだけど,友だちリクエストの3分の2は蹴飛ばしている(出会い系FB版としか思えない女性からのリクエストがけっこうあるねぇ)。いったん友だちになった人を削除するのも,あまり躊躇しない方(ただし,こちらからリクエストした場合を除く)。

● 芸能人とかオピニオンリーダーとか政治家とか,すでに有名な人は限界の5,000人に近い友だちがいて,それ以外にフォロアーが万単位でいるだろう。
 けれども,FBユーザーのほとんどは無名な市井の人のはずだ。自分も含めて,そうした人たちにとってFBは情報拡散の手段にはならない。ならないというと言いすぎかもしれないけれど,少なくとも向かない。FBのタイムラインに書いたものは,Googleの検索をはじくんだから。

● 情報拡散とか情報収集の手段としてではなく,“友だち”という閉じた世界の中で,コメントのやりとりをするのがFBの唯一の面白さだと思う。“いいね!”じゃなくてコメントだ。
 とすれば,コメントを入れたくならないような人が友だちでいてもしょうがないし,それ以前に友だちからコメントをもらえるような投稿をしなければしょうがない。言うは易く行うは難し,だけれども。

2018年3月7日水曜日

2018.03.07 FBの面白さ

● FBの面白さが少し見えてきた。FBについては,ぼくの評価はわりと消極的なもので,いずれはやめるんだろうなと思っていた。
 FBはリアルを補完するものだと思っていたのだ。リアルで知り合いじゃない人とFBでつながっても仕方がない,それが基本だろう,と。

● 頑なにそう思っていたわけでもなく,実際には早期の段階から,リアルでは会ったことのないFB上の「友だち」がいた。が,基本はリアルを補完するもので,したがってFBの世界は閉じたものだと考えてきた。
 自分の投稿は「友だち」のタイムラインにしか表示されないわけだから,どうしたって閉じた世界だなと意識することになる。

● けれども,リアルの世界ではまず知り合う機会のない人たちとも,FBでは知り合えるのだった。何を今さらということですな。
 で,そこがFBの面白さなのだと思う。自分の世界にはいなかった人。自分の友だちの世界にもいなかった人。そういう人とFBでは知り合えて,メッセージを交換することができるのだ。

● 大事なことは,“公開”にして投稿しているなら,「友だち」以外のFBユーザーが読んでいるかもしれないことを忘れないことだ。
 どういう理由で自分の投稿に辿りつくかはわからなくても,そういう人がいるかもしれないのだ。事実上のフォロアーが隠れているかもしれない。そういう前提で投稿を続けることだと思う。

● どういう人と自分は「友だち」になりたいのか。それを事前に考えてもムダだ。実際に出会ってみて初めて,その人と友だちになりたいと思うものだからだ。
 リアルでもFBでもそれは同じ。出会ってみなければわからないのだ。だから,自分のタイプを事前に決めてしまって,それに合わない人は排除していくなどという,ティーンエイジャーの女子がやりそうなことをやってはいけない。そこはオープンでいる方がいい。

● ただし,こういう人とは「友だち」になりたくないというのは,事前に決めておくことができる。ぼくの場合だと
 地方議会の議員や首長,その他政治を業としている人
 「友だち」の数が無闇に多い人
 同じ職場の人(FBでは仕事の話はしないことにしているので)
 マスコミ関係の人(ただし,これはかなりの範囲で例外を認めてよい)
 何年も投稿していない人,他人の投稿に“いいね”やコメントを付けるだけの人

● というわけだから,リアルな知り合いとしか「友だち」にならないと頑なに決めてしまっては,FBの良さは活かせないかもしれない。
 かといって,どんどん友だち申請をして「友だち」をあまりに増やしてしまうと,FB疲れの現象に見舞われるのではないか。時間もエネルギーも有限なのだから,FB上の交友も有限になる。だいたい,FBばかりやっているわけにはいかない。

● ごくサックリいうと,普通の一般人なら,「友だち」は50人程度が適当なのではないか。いずれもがアクティブ・ユーザーだとした場合だ。もっとも,あるラインに達すると,加速度的に「友だち」が増えてしまう段階はあるだろうけど。
 一番いけないのは,「友だち」を増やしたいあまりに誰かれかまわず「友だち」になってしまうことだ。質を担保する努力を怠らないことだ。質は,彼(彼女)のタイムラインを見ればおおよそわかるだろう。

● FBのスタート時点ではリアルの知り合いのFBユーザーを見つけて,そこから「友だち」を作っていくしかないだろうが,それでもリアルの知り合いを網羅するなどということは考えない方がよいと思う。
 リアルと同じで,FBの交友関係も変化するのが普通のはず。リアルだと疎遠になったり,場合によっては絶交するなどということも起こるのだが,FBにそれはない。フォローを外して彼(彼女)の投稿が自分のタイムラインに流れないようにするだけだ。
 結果的に,FBの交友関係の変化は,「友だち」の数が単純に増加するという形で現れるだろう。

● が,例外はある。申請を受けて「友だち」になった人を数ヶ月後に「友だち」から削除したことがある。フォローを外すだけでは我慢できなかったのだ。
 けっこうな歳のジジイだったが,たまにどうでもいいことを発信する。じつにどうでもいいことだ。もちろん,本人はそれをどうでもいいこととは思っていないのだろう。
 他人の投稿は読んでいる気配がない。皆の衆,ワシの言うことを聞け,みたいな。
 FBに落ちているゴミだと思った。ので,遠慮なく削除。そこを事前に見抜けなかったのは迂闊といえば迂闊。

● 友だち申請をブロックしたことももちろんある。出会い系のFB版とおぼしき女性からの申請だったり,外国人からの申請だったり。
 なにせぼくは出会い系を楽しむ趣味もお金も体力もないのだし,日本語しか読めないのだ。
 で,ぼくの「友だち」の中にも,そういう女性を「友だち」にしている人がいて,何だかなぁと思ってしまう。実害がないので放ってあるんだろうけどね。

2018年2月20日火曜日

2018.02.20 FBの使い方は依然として試行錯誤中

● 特にTwitterとの切り分けが悩むところ。FBのタイムラインへの投稿は,Google検索にひっかからないわけだから,情報の受発信に使うには不向き。情報の受発信にはTwitterが向く。
 FBは基本,閉じた世界で,“友だち”とのコミュニケーションを楽しむもの。

● とはいっても,いわゆるオピニオンリーダーと目される人たちの中には,FBをメインに使っている人もいるので,そこはFBでフォローするしかない。
 そうした友だち申請をするには畏れ多すぎる人たちについて,フォローしてはやめるを繰り返してきた。現在のところ,成毛眞さん,疋田智さん,仲野徹さんの3人をフォロー中。これはこれで落ち着きそうな感じ。
 いや,正直なところ,FBを使っている理由の半分は,成毛さんをフォローするためだ。

● FBではほとんどの人が,自分中心主義というか,自分周りのことを書いている。そうならざるを得ないわけで,FBはリア充自慢をするのに向く構造になっている。
 それを免れるには,世間の事象に対する意見を述べることを投稿のメインにするしかないが,それで読ませる投稿にするには,相当な力量が要求される。何か言えばマスコミ的正義から一歩も出ないような人が,FBにマスコミと同じことを書いたところで仕方がない。

● こういったことはTwitterでもブログでも同じことではあるんだけれども,TwitterのフォロワーとFBの友だちでは,だいぶ風合いが違っていて,そのため“FBは閉じた世界”感が強くなる。
 ぼくらのリアルのコミュニケーションも,自慢と人の噂話(陰口)とどうでもいいことのやり取りでできあがっている。だからこそコミュニケーションがコミュニケーションたり得るのであって,どうでもよくないことをやり取りしなければならない局面は,多少なりとも緊張感をはらむものになる。

● しかしねぇ,仲間内でどうでもいいことを言い合って,互いに「いいね!」し合ってっていうのが,すこぶる幼稚に映るのも事実。
 いくらリアルもそうなのだからといっても,FBは文字に残ってしまうのでね。

● “友だち”とのコミュニケーションを楽しむといっても,その“友だち”の数をむやみに増やさないのが,FBを運営していく上での基本になるだろう。いかにして繋がるかではなくて,いかにして繋がらずに済ませるかの方が重要。
 人によってFBの使い方に濃淡があるのは当然だが,そこを踏まえても,投稿に対して“いいね”の数が平均して友だち数の2割を割り込んだら,無用なつながりが多すぎるのだ。

● ぼくの友だちは14人で,これはいくら何でも少なすぎるけれども,自分のリアルを反映した結果なので仕方がない。しかし,それでもどんどん友だち申請して,友だちを増やしてみても,いいことは何もないと思う。
 特に,地方議会の議員や首長と友だちになるのは,絶対に不可。友だちが多すぎる人(おおよそ500人以上)と友だちになるのも不可。

● というわけで,FBはけっこう面倒くさい。上に書いた3人をフォローするためだけに用途を限定しようかと思わないでもない,今日この頃。
 ただ,FBでコメントのやり取りをする中で,ぼんやりと思っていただけのものに形を与えられることがあるんだよね。そういうときって,けっこうな快感を感じるんだよ。
 だものだから,やめちゃおうかと思っても,踏みとどまってしまう。

2018年1月28日日曜日

2018.01.28 個人情報に関するリアルとネットの乖離

● 今,世間で最も厳しく守られているのは,個人情報だと思うんですよ。それは個人情報なのでお答えできません,って。
 でもさ,一方でFacebookでは本人が自分の個人情報を公開しているわけですよ。実名と顔写真をはじめ,出身地や居住地,誕生日から学歴まで公開してる。

● 投稿を読めば,仕事や趣味もわかる。好みの食べ物やどこで買い物してるかまでわかる。交友関係はもちろん,家族構成も収入も推測できる。もっというと,性格や仕事への熱意もおおよそわかる。
 ぼくでもその程度はわかるんだから、見る人が見れば,丸裸にできるよ。

● たとえば,ぼくについて言えば,以下のようなことはすぐにわかるはずだ。

 毎朝,出勤途中にコンビニに寄って,その日の昼食を買っているんだな。あまり食を重んじてはいないヤツだな。けっこう外食してるけど,ラーメンばっかりだ。やはり食を軽んじてるな。
 土日は休めているようだ。さほど忙しい仕事はしてないんだな。Facebookの投稿もけっこう早い時間帯にやっているから残業もあまりしてないようだしな。
 Facebookは2016年に始めているのか。年齢を考えてもかなり遅い方だ。新しいものにすぐに飛びつくタイプではなさそうだな。
 ほほぉ,音楽が好きなのか。そこにつけいれば,何かの売り込みに使えるかもしれんぞ。
夫婦だけの二人暮らしか。ペットの話は出てこないんだが,どうだ,このあたりから何か攻め口はないか。

● ま,ぼくのようなパンピーについて,いちいち分析を試みるような暇人はいないだろうけど,これじゃさ,個人情報の保護なんて言ってみたって,何の意味もないよね。本人が進んで公開しているわけだから。

● 個人情報に関するリアルとネットの甚だしい乖離。情報発信というと聞こえはいいけれども,それはそのまま自分を曝けだす行為でもあることへの無防備性。
 困ったことに,投稿はしていなくても,Facebookを開設していながら投稿していないというそのことが,何事かを雄弁に語ってしまう。

● リアルとネットのどちらに本音はあるんだろうか。おそらくネットの方でしょう。
 個人情報の保護なんて,人々はほんとに望んでいるんだろうか,ってことだよね。セールスの電話がウザいから,電話帳に自分の電話番号は載せないでくれ,といった程度のものじゃない?
 なんかさ,やる必要のないことを多額の税金を使ってやっているような気もするんだよねぇ。

● いや,リアルでも無防備な分野がある。ポイントカードを作っている人は相当いると思う。これなんか,100円につき1円の割引と引換に個人情報をそっくり売り渡しているようなものだ。クレジットカードもしかり。
 まともな会社なら“悪用”はしないだろう。ビッグデータの1粒になるだけだ。おそらく,具体的な問題になる事例は少ないだろう。が,個人情報を差し出していることには違いない。

● 結局,本人が同意していればいいわけで,その同意がないのに公開してしまうのがいけない,というのが着地点になる。あたりまえすぎる結論。
 したがって,個人情報の漏洩が問題になるのは,主に市役所や町役場などの公共セクターになる。とすると,現時点できちんと棲み分けはできているということか。