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2024年9月2日月曜日

2024.09.02 大学なんか行ってもしょうがない

● 右の写真の冊子は書店に置いてあるやつ。㈱フロムページって,大学のCMを一手引受でやってるとこなんですか。
 ぼく一個は,今の大学の半分以上はなくてもいい(ない方がいい)大学だと思うがな。高校生とその親を搾取しているだけだと映る。

● 搾取に加担する側の人は,高卒と大卒では生涯収入が云々と言うけれども,本当にそうなのか,よくチェックしないとね。
 もしサラリーマンになるなら,ほとんど変わらんでしょ。学歴以外の理由で差はつくけど。

● 特に人文系は大学なんかに行くとかえってバカになるんじゃないか。バカ製造機と言ってもいいくらいのものだ。
 あたら貴重な若いときを大学なんかに捨てるべきではない。どうしても行きたければ行ってもいいけれども,大学の都合に合わせすぎない方がいいと思う。

● 勉強できるのは学生のときだけなのだから,できるときにしっかり勉強しておかないと後悔するぞ,と言う人がいる。が,そんなのはウソだ。
 勉強なんかしたくなったときにすればいいのだ。そのための手段はネットにいくらでも転がっている。年齢制限もない。

● それを言うなら,若いときにしかできないことは勉強以外にもいくらでもある。たとえば,恋愛だってそうだ。
 恋愛するにも能力がいる。恋愛能力だ。その能力は若いときがマックスで,加齢とともに衰える。
 恋愛が絵になるのはこれから生殖期を迎える,あるいは生殖期にある若いときに限られる。黄昏流星群はたしかにあるけれども,マナーとして人目を忍んでもらいたい。傍から見ていて,少々見苦しい場合があるからだ。

● それに,勉強というのは,勉強だけしているよりも,仕事を抱えながらやる方がハカが行くものだ。
 1日のすべてを勉強だけて埋めるのは,効率が良さそうでいて,じつはあまり賢いやり方とは思えない。

● 医者になりたいのであれば,大学の医学部に行くよりしょうがない。理系の研究者になりたいのであれば,ともかくも実験設備が整っている(であろう)大学に進むのが現実的な選択だろう。
 が,座学ですむもの(文系学部のほとんど)は大学の授業を聴くより,独学の方が効率がいい。学部卒のレベルに達するだけでよければ2年もあれば充分だろう。
 そもそも,座学ですむものなんかどっちに転んでも大したものじゃない。

● 大学は友だちを作るところだと言う人もいる。友だちと青春する場として大学は最適だ,学生時代の友人関係は一生続く,社会人になってからできた友人ではそうは行かない,と。
 しかし,これも言われるほどではない。ぼくは卒業後に学生時代の友人と会ったことは一度もない。彼らの消息も知らない。

● たしかに社会人になってから友人はできにくいし,できたところで人事異動や転勤があると,そこで切れることが多い。友人の多くは仕事を介在してできるものだろうからだ。
 が,どっちにしても,一生続く関係などないと思うべきだ。そんなものがあったら気持ち悪いじゃないか。

● 勉強はインターネットの普及で独学がしやすくなった。独学できないようなヤツが大学に行ったところで,それこそ仕方がないじゃないか(学生の多くはその仕方がないヤツなんだけどね。大学の図書館を一度も利用したことがない学生がかなりの数いるだろう)。
 社会人になってからできた友人が学生時代のそれに劣るとも限らない。

● なら,さっさと社会に出た方がいいぞ,という結論になる。
 勉強が嫌いか苦手ならなおのことだ。勉強だけがすべてではないことを理解するには,社会人になってみるのが一番いい。
 学校にいる期間を延ばすことのメリットは,ぼくには思いつかない。

2022年7月12日火曜日

2022.07.12 新浦安を散歩

● 現時点で新浦安は駅の周辺100メートルくらいしか知らない。まさに駅前を点として知っているに過ぎない。せっかく新浦安に泊まっているのだから,せめて点から短くても線にしてみよう。
 というわけで,駅から海が見えるところまで歩いてみた。シンボルロードと呼ばれる駅から伸びている道路をまっすぐ行くだけだけどね。

明海大学
● 駅前のイオンを過ぎると明海(メイカイ)大学。このあたりは明海(アケミ)1丁目。
 明海大学の実質的設立は1988年。国内唯一の不動産学部がある。1992年にできた。すでにバブルの破綻が明らかだった頃のはずだが,設立準備を進めているときには,バブルがはじけた後に土地神話が崩壊するとは誰も思っていなかったろう。
 難関資格の1つである不動産鑑定士は仕事がなくなっていると聞く。学生は集まっているんだろうかと気になるところだが,少なくとも定員割れは起こしていないようだ。

● 首都圏の私立大学としてはかなり広い。埋立地で広い土地を確保できたからだとは容易に想像できるが,グランドも含めて施設は整っているように見える。
 道路とフラットで,キャンパスを塀で囲んだりしていない。東大に代表されるが,大学ってのは刑務所と同じで塀で囲まれているものだ,と思っているのは少し古いのかもしれない。
 街に対して開放されている造りにするのが,けっこう前から当たり前になっているっぽい。北千住の東京電機大学がその代表だが,他にもいくつか思いつく。

● 学内食堂で生ビールも飲めるらしい。そういう時代になったのかとも思うのだが,学内で飲酒っていうのはどうなのよ。
 ありなんですかねぇ。ビールを出す時間は夕方以降とかに制限されてはいるんだろうけどね。

● 道路を挟んだ対面には,ホテルエミオン東京ベイ。ここまで来て泊まる人がいるのかと思ったのだが,それはぼくが歩いているからだ。
 東京ディズニーリゾート・パートナーホテルになっている。バス送迎すれば舞浜はすぐそこだ。
 後刻,相方から,私も泊まったことがあるんだよと聞いた。昔,幼かった息子とディズニーランドに来て,帰るつもりがもう1泊してこうかという気分になって,このホテルに泊まったんだよ,と。
 アップグレードでかなりいい部屋に泊まれたという。温泉があるらしい。

● ここから海まではけっこうある。途中,多いのは高層アパートだ。集合住宅群だ。将来の幽霊屋敷を膨大に作ってしまったんじゃないか。大丈夫なのか。
 これが定番ではあるのだが,人口は減少期に入っているんだからね。頑張って子どもを4人産む夫婦がポコポコ出たくらいでどうにかなる問題じゃないからね。

● 海が近づくと再びホテルが現れる。ディズニーホテルなんですね,これ。大きなのは東急。
 柵の向こうに広がる海は,もちろん東京湾。海から後を振り返ると,松林になっている。海岸に三保の松原を造ろうとするのは,日本人のDNAですかねぇ。

● 明海大学まで来ると,授業を終えた学生さんが三々五々,キャンパスを出てくるところだった。塀で囲ってないから,キャンパスからそのまま公道に出る。
 長らく見られなかった風景だ。こういうあたりまえの景色が消えていたのがコロナ禍というものだった。
 人が集うこと,群れること,語らうこと,共に飲食することを,コロナは禁止していたのだ。相当に異様だ。自己の判断で群れることを拒否するというのとは違う。群れることを許されなかったのだ。
 どうやら正常に近づいてきた。コロナウィルスの状況が同じでも,もっと早くこういう景色を取り戻すこともできたような気がするが,今さらそれを言っても仕方がない。

● というわけで,このコースはバスも走っているが,新浦安駅から散歩するのにちょうどいい距離かも。

2022年7月3日日曜日

2022.07.03 大学に価値はない

● 通信制を含めて最も学費が安くてすむ大学が放送大学だと思う。もし,高校しか出ていなくて,学歴コンプレックスがあるという人がいれば,この大学を卒業するのがコンプレックスを払拭するための最良の方法だ。
 何だ,大学なんか出たって仕方がないんだな,とわかるためには実際に大学を出てみるのが一番いい方法だから。

● ただ,ぼくが知っているのは文系の世界に限られる。理工系(医学系も)は実験を伴うから,放送大学では対応が難しい。理工系の概論的な授業はあるが,本格的にやりたければ一般大学に行くよりしょうがない。
 文系に限っていえば,ほとんどの大学は放送大学よりもっとしょうがないからね。放送大学を卒業できるんだったら,卒業できない大学なんてないから。

● それでも学ぶのに最適な場所は大学ではないことがわかるはず。正直,放送大学は役割を終えたと思う。
 では,最適な場所はどこか。今,自分がいるところ。独学が最も効率がいい。そういう時代になったと思う。
 そういう時代になったについては,やはりインターネットの効用が大きい。視覚と聴覚に訴えてくる動画が,多方面にわたって,溢れるほどにあるようになった。

● 価値とはすなわち稀少価値のことだから,稀少性がないものに価値はない。ネットに溢れるようになった以上,知の価値はダダ下がりに下がるしかない。
 正確には知そのものではなく,知の伝達者,知に群がる人たちの価値が下がったということだ。

● もしぼくが中学生か高校生で,現在の世間知を備えていたとしたら,大学には行かない。さっさと就職すると思う。幸いにして少子化のおかげで労働市場は売手市場だ。人手不足だ。
 就職したいえで,仕事に人生を捧げるなどと馬鹿なことには走らず,独学の途を探るだろう。それでも並の専業大学生が4年間かけて卒業するときの水準に到達するだけでいいなら,2年もあれば充分だと思う。1年でいいかもしれない。

● 逆に言うと,たかだか大学(学部)や大学院で聞き齧った程度のことを,これが私の専門ですなどと言うのは,私は世間をなめていますと言ってるようなものだから,控えておくのが賢明だ。
 世間では,そういう人に対して,馬鹿だ,使えないやつだ,と評価するだろう。つまり,世間は正しい判断をするものなのだ。

2021年8月19日木曜日

2021.08.19 院は最高の自己投資か?

● 人の商売の邪魔をする気はないけれども,嘘はいけない。社会人が趣味で,あるいは好きだからという理由で大学院にいくのはいい。けど,それ,投資にはならないでしょ。
 サラリーマンが大学院を修了したからといって,それだけで昇進させたり昇給させたりするほど,会社はバカじゃない。100万円を1,000万円にするのが投資だと定義するなら,大学院に行くことが投資に該当する可能性は120%ないと言っていいだろう。

● では,経済的な見返りではなくて,自己啓発,自己成長に資するのが投資なのだとして,大学院に行くのは自己投資だと言えるだろうか。
 これも否。社会人が大学院で勉強する程度(低度)のことがどうして投資になるのか。まともな大人なら誰でもわかっていることだろう。

● 若いうちに行く理系の院なら格別,何事にも手遅れということがある。自己投資になるような変革を大学院に期待するには,大方の社会人は歳を取りすぎている。ひょっとすると例外もあるかもしれないが,自分がその例外に該当すると考える人は,端的にバカと呼ばれるべきだ。
 自己投資と言うには,大学院という場の限界,その場に乗っている人が年齢的にタイミングを逸している問題,の2つが邪魔をする。
 
● 売上が立たずに窮地に陥ってる大学側の撒餌にその気にさせられて,ウカウカと乗ってる時点で大衆性が過ぎる。私はバカです,どうそ搾取して下さい,と言ってるようなものではないか。意識高い系(≒バカ)って一番の鴨だと思うのだが。
 たとえどんな仕事をしているにせよ,大学院よりは仕事や職場の方が学べるものは多いのじゃないか。そこで学べないほど学習能力の低い人が大学院に行ってみたとて,そんなものは逃避にすらならないだろう。いい歳をして大学院なんぞに行って,時間とお金を溝に捨てるような真似をするのはいかがなものか。

● 本当に勉強したいんだったら,制度疲労で破綻しかけているような大学や大学院に目を向けるのではなくて,インターネットを広く眺めてみたらどうかと思う。
 独学といい,自学自習といったって,結局は誰かに教えてもらう,導いてもらうことになるのだけれど,その誰かは大学や大学院の教師である必要はないし,生身の人である必要もないし(ネットを介したものでかまわない),現在生きている人である必要もない。
 視野を広く取って組立を考えた方がいいし,そういうことができる時代になっていると思う。20世紀の常識はかなぐり捨てるべきで,それに縛られていては先が見えないのではないか。

● ただし,その場合であっても,それを投資とは考えない方がいいように思う。現在完結型を理想とする。
 そうするのが楽しいからそうしている。そうしていることの見返りなどには関心がない。
 その境地に到るべきだし,半世紀近くも歳を重ねてきたのなら,到れるのが本当だと思う。そして,それこそが10年後,20年後の自分に対する最良の投資になるはずだと,ぼくは考えている。

2020年9月22日火曜日

2020.09.22 コロナで大学が窮地にあること

● 右は今日(9月22日)の日経新聞の記事。
 小中高は通学しているのに,大学はなぜ同じようにできないのかというのは,ぼくにはわからない。飛沫防止の衝立を立てたり,消毒を徹底するのが間に合わないからだろうか。とりあえず,マスク着用を徹底させればそれ以上の対策は不要かと思うんだが。

● 大学側もオンライン授業という対応はしているわけだ。しかし,いつまでもこの状態だと大学は存在意義を問われることになる。
 要するに,学生が支払う学費に見合ったサービスを提供していないわけだから。通信制大学並みの授業料しか取ってはいけないという話になる。

● ぼく一個は医大や音大,美大,実験を伴う工学系は別として,大学なんか通信制だけあればいいと思っている。そもそも,文系学部なんて要らないだろう。
 昔と違って今はインターネットがある。独学の方がよほど効率的だ。その程度の独学もできないやつに対面で授業をしても仕方がない。まぁ,自分のことは棚にあげて言っているのだが。


● 学士の価値も地に落ちている。落ちたものをわざわざ拾うこともないだろう。
 現在の大学は学士配給機関にすぎないのだけども,その学士が無価値になっているのだから,さて(特に文系の)大学の価値って何だろう。これが価値です,というものが思いあたらない。


● ぼくは,大学時代の “仲間” とは卒業と同時に縁が切れた。そんなものだろう。
 しかし,だから大学時代の仲間に価値がないとまで言うつもりはない。後に残るか残らないかよりも,大学に在籍した4年間をどう彩れるかが重要だからだ。
 仲間にあまり情緒的なものを求めない方がいいだろうけれども,とはいっても,20歳前後のよくいえば多感な数年間を,利害関係の介入がない話をするために使えるのだ。その話し相手がいるというのは,それ自体が恵まれた状況だ。
 その恵まれた状況を買うために大学に学費を払っているのだと考えてもいい。授業料ではなく。


● だから今の状況は学生からすれば,大学には何もしてもらっていないということになる。学費を払っているのに,これはどうしたことか,と。
 大学が所定のサービスを提供しなくていいという話にはならない。オンライン授業をやっていますというのは,やるべきことの一部を代替しているに過ぎない。抗弁としては弱すぎる。

● オンライン授業ならどこにいても視聴できるわけで,どこにいても視聴できるものは独学の範疇(独学で用いる教材のひとつ)とも言える。授業の聴講においても,友人と情報交換できるというのが大学の持ち味だ。
 それができないのなら,たいていの大学のオンライン授業よりは放送大学の放送授業の方が練れたものになっているはずだから,やはり放送大学の授業料以上の額を徴収しているなら返還しろという話になる。

● とはいえ,このコロナだ。大学単独で動ける余地は少ないのかもしれない。この状況なら通常授業を始めてしまえばいいと思うが,それは部外者だから言えること。
 もう来年の入試の準備が本格化しているだろう。大学側も困っているだろうね。この状態がこれからも続くとなると,潰れる大学がけっこう出てくるんじゃないのか。その方がいいとも思うんだが。愚にもつかない文系学部のバカ教員がいなくなってくれるんだからさ。

● 今年の新入生に言いたいことは,ここで短気を起こすなということ。大学に入ってしまったのなら,基本,卒業して,地に落ちたとはいえ学士をもらって社会に出ればいい。
 なぜなら,その流れに乗った方が楽だからだ。よほどの才能か能力があるのなら,ここでの方向転換もありなのだろうが,大学に行くという選択をした時点で,おそらくそうした才能や能力はないという証拠になる。
 まったく運が悪かったというより他はない。必要以上にバタバタしてエネルギーを消耗しないことが肝要かと思う。

2019年7月28日日曜日

2019.07.28 巷にいて大学を下に見る

● 宇都宮市の某書店。今,慶應がキテる?
 こんなのもあった。関西だと同志社?
 どうして慶應であり,どうして同志社なのかは,ぼくにはわからないけれど,こういうのに踊らされるのは,まぁ,善男善女というか大衆というか庶民なんでしょうなぁ。
 ぼくの意見は言わずもがなだが,慶應も同志社も無理して行くほどのところじゃないだろうよ,というもの。バカバカしいからやめておけ。

● 長らく学歴社会という言葉が通用してきた。今でも通用しているのだろうが,学歴の威力はだいぶ弱まっている。
 じつは,はるかな昔から,学歴は出世栄達を約束するものではなかった。学歴だけでどうにかなるほど,会社は甘いものではなかったはずだ。
 たとえば,重役になる人の多くが東大卒だったとしても,それは彼が東大を卒業しているから重役になったのではなく,彼の性格なり,肝の据わり方なり,面倒見の良さなり,如才なさなりの結果だろう。で,性格や如才なさや面倒見の良さを東大が教えているとは思えないわけで,要は学歴はイリュージョンだった。昔からそうだ。

● とはいえ,スタート地点に立てるチャンスを豊富にするという効用は大学にあったかもしれない。国家公務員試験のⅠ種や大企業の総合職に高卒で応募するというのは,現在でも難しいのだろう。
 しかし,入口の区分けはどうあれ,入ってしまえば,区分けは入口だけだったということがわかるだろう。国家公務員だって,Ⅰ種じゃない入口から入って,局長まで上った人はいるはずだ。そんなもの。入ってしまえば,入るときまでのモノサシは関係ないのだ。

● 学歴の威力が弱まったのは,第1に同世代に占める大学生の比率が増したからだ。四の五の言わなければ,ともかく全入の時代だ。どんなバカでも大学生にはなれるのだ。
 だからこそ,慶應や同志社を目指すのじゃないかと言う人には,2番目の理由を示す。大学全体のプレステージが落ちているからだ。

● いつまでも落ちたままかどうかはわからない。盛り返すのかもしれない。が,現状でそれを嗅ぎ取ることは難しいように思う。
 “知”が大学の独占物ではなくなって久しい。インターネットの普及が大きいが,大学が抱えている程度の“知”のストックはネットにもある。それ以上のものがネットにはあるかもしれない。

● ゆえに,勉強したい,学問したいというなら,大学に行くのが唯一の選択肢ではない。むしろ,独学の方が優位かもしれない。逆にいうと,その気持ちのない人が大学に行っても仕方がないのじゃないか。
 昔から大学は友だちを作るところだったじゃないかと言われるかもしれないが,ぼくは大学時代の友人とは一切没交渉だ。つながりなどない。学生時代に彼らと色々喋ったことが今に生きているとも思えない。そんなものなのだ。勉強すること以外の大学の価値をあまり大きく見てはいけない。

● その勉強も,大学のそれはかなりぬるま湯的だ。文系と言われる分野ならば,大学生が4年間かけてやっている程度のことは,高卒で働きながらでも2年でクリアできる。
 大学に行くのは時間のムダだと思うが,どうしても行きたいのであれば,東京の大学,しかも23区内にキャンパスがある大学に行くといい。吸収力の高い4年間を東京で過ごすのと地方で過ごすのとでは,大差が生じる。

● 東京の大学に入ったのならば,当然,アパートと教室と図書館の三角形上しか動かなかったという生活をしてはいけない。巷で揉まれないとね。
 だから,慶應はいいけれども,同志社はダメだ。さらにいうと,慶應ですら無理をしてまで行くところではない。大学を等身大に見るのは受験生にはまだ難しいかもしれないが,巷にいて大学を下に見るというくらいがちょうどいい。

2019年2月24日日曜日

2019.02.24 大学の都心回帰

● 右の写真は今日の日経新聞に載っていた,中央大学の広告。
 同大学が八王子に移転したのは40年前。進学率の上昇,したがって受験生の増加が見込める時期だった。
 だから,愚にもつかない遊びを本気で遊ぶことができた。が,その時期が長くは続かないことは,当時からわかっていたはずだ。
 3手先を読める大学人はいなかったってこと? いや,いるにはいたんだろうけどねぇ。大勢を制するには至らなかったんだね。

● あの頃は,アメリカのハーバードとかエールとか,広大なキャンパスを有する大学が目指すべきモデルになっていたかもしれない。歩きながら思索できるのが大学のキャンパスだ的な。
 日本の大学は狭すぎる。狭いところに建物が建てこんでいて,これでは大学の態をなしていない的な。
 それで郊外(主に多摩地区)に広い土地を求めて出て行ったという側面もあるのだろう。

● アメリカの大学のキャンパスは,アメリカ人にはいいかもしれないが,日本人には受け入れられない。ひょっとすると,アメリカ人も持てあましているかもしれない。
 アメリカの広い家を標準にして,大方の日本人が住む家を“うさぎ小屋”と言ったのは,たぶん,アメリカのあまり頭の良くない知識人かマスコミ人だったろう。
 それに飛びついたのは,もっと頭の悪い日本のマスコミ人で,肝心の日本人の多くもそれを信じてしまった。うさぎ小屋を恥じる気持ちを持ってしまった。

● 快適に住もうとすれば,適度な狭さが絶対条件だ。日本人の縮み志向などというのも,あまり頭の良くない人が言いだしたことに違いないが,志向に還元できるものではない。
 物理的に狭い方が快適なのだ。おそらく欧米にも通じる普遍性を持っているはずだ。“大きいことはいいことだ”とは,発展途上の人間が考えることだ。

● ともかく,都心を棄てて多摩に出たのは失敗だった。移転して10年後には結果が出ていたはずだ。広い狭いの問題だけではない。
 大学に限らず,ホテルもそうだけれども,大学やホテルは単体で大学やホテルとして勝負できるわけではない。場の力を必要とする。そこにあるからこそ,という側面がある。

● 東大が天下の東大でいられるのは,設備や教授陣の質云々以前に,東大のある場所が本郷だからだ。帝国ホテルが帝国ホテルであり続けられるのは,日比谷にあるからこそだ。
 逆に,帝国ホテルが日比谷にある限り,外資系がいくらやってきても,帝国ホテルに取って代わるのはかなりの確度で難しい。

● ともあれ,都心回帰はけっこうなことだと思う。狭いところで密度を濃くして,快適な勉学環境を学生に提供すればいい。
 思索のための散歩道などはアウトソーシングするのがよい。そのアウトソーシングを地域との共生というのだ。

● 何でもかんでも大学が抱え込もうとするな。大学生協などという時代遅れのものも不要だ。教科書は市中の本屋で買えばいい。食事も市中の食堂で摂ればいい。
 そのためにも大学は市中にあるべきなのだ。人里はなれた山の上にある大学などというのは,やむを得ない仕儀によってそうなったのであって,もって範とすべきものではない。

2018年12月28日金曜日

2018.12.28 東京散歩 白金~広尾~代官山~恵比寿

● 寒いし風もある。ホテルでヌクヌクしてた方がいいんけど,付近をまとめて歩いてみようと思う。
 とはいえ,どこを歩けばいいのか。地図を見てコースを考えたものの,特に行きたいところはない。ホテルの近くにある行きたいところには,すでに行った。

● でも,せっかくだから,どこかに行ってみよう。徒歩圏内に聖心女子大をはじめ女子大がいくつかあるので,女子大めぐりをするのもいいかもしれない。学生がいないときに建物だけを見ても仕方がないか。
 が,他に名案も浮かんでこない。大学と女子校をつないで歩くコースを考えた。ホテル~聖心女学院(高校,中学)~北里大~聖心女子大~日赤看護大~東京女学館~國學院大,と歩くコース。

● 予め用意した地図を持って出かけた。ダイソーで買った薄いA4の透明ファイルケースに入れているのだが,なかなか便利だ。

聖心女学院校門
● ホテルから目黒通り(日吉坂)を少し上り,右に折れる。狭い道を歩いていく。左折するとすぐに聖心女学院に至る。
 地図によれば敷地を通って抜ける道がありそうだ。が,校門前に部外者は入るなとノーティスが出ている。無視すれば不審者以上の疑惑が生じる。
三光坂下

● ので,引き返して先に進む。三光坂というらしい坂を下ると,都道305号線に出る。そこを左折。東京はどこに行っても坂だらけ。

● 路上に停めている車がある。運転しているのは普通のおばちゃん。おばちゃん,こんなところに停めてちゃダメだよ,と言いたくなるのだが,その車がベンツだったりする。
 たしかにこのあたり,外車とレクサスの比率が高いような気がする。

● しばらく行くと,北里大学と付属研究所,付属病院がある。その手前に懐かしさを誘う文具店があった。中には入らなかったけど,品揃えはけっこうすごいっぽい。懐かしいなどと侮ってはいけない。
 北里大学もいわゆるキャンパスという“らしさ”はない。都心の大学は皆同じ。この点,たとえば宇都宮大学とは趣を異にする。
 “らしさ”を大事にするなら,地方の大学か,都心でも東大とか,そうした雰囲気を保っている大学に
入学するしかない。そんな“らしさ”は時代にそぐわなくなっているとぼくは思っているが。

● どんどん行くと,明治通りに至り,少し進むと天現寺橋
天現寺橋
に。その横断歩道橋を渡って外苑西通りに出る。

 右下は歩道橋からの写真。左の茂みの向こう側が慶応幼稚舎。
 歩道橋を降りれば,そこは広尾。渋谷区。
聖心インターナショナルスクール


● 地下鉄の広尾駅を過ぎると,聖心女子大学。このあたり,女子校や女子大が多い。ってか,おまえがそういうルートを選んでるだけじゃねぇかと言われると,まったくそのとおりであるわけだが。
 とっくに冬休みに入っていて,学生さんはいない。無機質なコンクリートの箱が並んでいるだけ。女子大らしさというのは,特に感じることがない(女子大らしさなんてものがあるのかという,そもそもの疑問があるが)。
広尾ガーデンヒルズ

● そんなことは気にしないで,先に向かう。広尾ガーデンヒルズなる高級マンション群が現れる。高級ではあっても,要は鉄筋高層アパートの群れだ。いずれは多摩ニュータウンや高島平と同じ軌跡をたどることになるのは免れないと見る。

日赤看護大
● そのマンション群の隣が日赤医療センター。日赤看護大も同じ敷地に。日赤看護大が女子大かどうかは知らないけれども,とにかく冬休みで学生さんが全然いないのが残念。
東京女学館
 日赤医療センターを縦断して,少し進むと,次は東京女学館。知らない人がいるかもしれないので,念のために言っておくけど,畏れ多くもここは夏目雅子様の出身校にあらせられるぞ。

国学院大学
● その東京女学館の角を左折すると,日本ユダヤ教団の建物がある。ずんずん直進すると,國學院大学の敷地に入っている。
 敷地を分断して道路が走っているんですな。道路の両側に敷地があるというか。

氷川神社
● そこを抜けると氷川神社。さほどに大きくはない。が,何人かが参拝に来ていた。元日には混むのだろうか。
 このあたりは,区立広尾
中,都立広尾高が隣り合っていて,文教地区になっているっぽい。住むにはたぶん不適。

● それはともかく。これから代官山に向かおうと思っているんだけど,どういうルートを辿ろうか。結局,いったんは恵比寿駅に出ることにした。
 地図を片手のひとり歩きはそれなりに緊張するもののようで,恵比寿駅に着いたときにはホッとした。ここは勝手知ったるところだからだ。痛くなってきた足を休めた。

● なぜ代官山かというと,代官山 T-SITEに行ったことがないので,一度は見ておきたいと思って。蔦屋書店ね。
 恵比寿駅西口から駒沢通りを西に向かって,旧山手通りを上がると,まもなく。迷いたくても迷えない。
 蔦屋書店って,ぼくはG-SIXに入っている銀座店しか知らない。で,銀座店はぼくには手も足も出ないという印象。
 代官山はどうなんだろうか。代官山の方は銀座に比べればだいぶ庶民的というか,自分の居場所を確保できる余地があると思えた。

● T-SITE以外にも,代官山はたしかにお洒落な街なんですな。お洒落だけじゃそれこそ洒落にならないけれども,内実を表現するとお洒落になるという感じの街,という印象。
 帰りは,代官山駅の方から細道をたどって恵比寿駅に帰着。気安そうな飲み屋もたくさんあって,少し立ち去り難い気分になった。

● せっかく恵比寿にいるんだし,さすがにもう歩きたくない気分なので,休憩がてらヱビスビール記念館1杯だけ飲んでいこうと思った。
 が,あら残念。27日から年末年始の休みに入っていた。

● 恵比寿からは,くすのき通りを東進。外苑西通りを潜って,東大医科学研究所の西側の道路から目黒通りに。
 白金台って意外に飲食店が少ないなと思ってたんだけど,とんでもなかった。いろんな店がある。しかぁし。ステーキ屋にしろ飲茶屋にしろ,どれもこれも高級そうで,おいそれとは入れない。

● 結論。ホテルでヌクヌクするのもいいけれど,とりあえず知らないところを歩いてみる方がもっと楽しい。

2018年10月25日木曜日

2018.10.25 宇都宮散歩 帝京大学~宇都宮美術館

● 宇都宮美術館で開催中の「篠山紀信展 写真の力」を見てこようと思う。宇都宮美術館はわが家からわりと近い。岡本を経由していく。
 宇都宮市街を通らずにすむ。宇都宮市街に出てしまうと三角形の2辺を通る形になる。

● その2辺を通ってみることにした。美術館だけ行ってハイさよならってのも何だし。
 美術館なんてのは,自分の生活には縁がないところで,それでいいと思っているんだけども,宇都宮美術館には一度だけ行ったことがある。

● 宇都宮駅周辺でいくつか用事をすませてから,帝京大学行きのバスに乗った。運賃は片道360円。
 美術館まで行くバスもあるんだけど,本数が少なくなるのと,美術館までバスで行ってしまうと運賃が少々お高くなるので,雨でも降ってない限りは帝京大から歩くのが吉。

● 前回行ったのは休日だった。平日の帝京大のキャンパスはどんな感じなのか,少し楽しみだった。若さが横溢していて,圧倒されるんじゃないか。気持ちよく圧倒されたいものだ。
 が,閑散としている。平日なのに学生さんはあまりいない。ひょっとすると,学生はみな授業に出ているのかもしれないんだけど,それにしてもキャンパスを人が歩いていない。

● 学生1人あたりの敷地の広さは,その辺の国立大学より広いと思う。建物は多いのだが,学生が少ないようなのだ。キャンパスに活気がないという印象にもなる。
 大学の周りに何もないのがちょっと可哀想かな。昔なら“閑静で勉学に好適な環境”ってことになったのかもしれないけれど。

● 帝京大のキャンパスを横切って宇都宮美術館に向かうのは,けっこう上質な散歩道になる。山林を切り開いている。気分がいい。
帝京大から宇都宮美術館に
 ただし,余計なことも考える。このあたりは分譲住宅地でもあるのだが,高島平や多摩ニュータウンと同じで,50年後にはどうなっているか,と。
 子供は1人か2人だろう。その子供たちがここに住むことはない。一代限りの家だ。パパやママは申しわけないけれども,50年後には生きていない。人が住まなくなった家はあっという間に朽ちる。この辺は幽霊屋敷の集合体になるのだ。
宇都宮美術館
 いや,人ごとではなくて,わが家もそうなのだ。そうなる前に処分して,アパートにでも住めればいいと思うのだが,一般住宅など買い手がいまい。

● さて,宇都宮美術館。「篠山紀信展 写真の力」だ。1,000円でチケットを買って入館。
 写真集ですでに見ているものもけっこうあった。なんてったって,篠山紀信だからね。
 写真は写真集で見てもいいわけだ。絵画のように原画と複製という関係には立たない。展示されている写真も複製なのだから。違うのは大きさだけ。“だけ”といっても,大きさの威力というのはあるわけだが。
 圧巻は最も地味な東日本大震災後の被災地の人たちのポートレートだ。そうと知って見るせいもあるのかもしれないけれど,頭の上の空気が重くなったような気がした。

● 入館者の多くは年寄り。平日なのだ。来れるのは年寄りか専業主婦しかいない。その年寄りもそんなに多くはない。それでも通常の企画展よりは多いだろう。
 絵画よりは馴染みがある。人は知らないものより知ってるものに惹かれる。知らないものを知りたいと思うことはないが,知ってるものならもっと知りたいと思うことがある。

● 企画展の他にコレクション展も見てみた。パウル・クレーの絵が5点あった。
 こういうものは出会い頭で勝負が決まるものだと思っているのだけど,ぼくには歯が立たなかった。猫に小判もいいところなのだろう。
 そばに寄って描画の詳細を見てみたんだけども,ぼくが見ても何もわからない。美的感覚がどうのこうのの前に,色の識別能力がまるでなってないんだと思う。

● 帰りも帝京大からバスに乗った。学生さんが10人くらい,バス停のベンチに座っていた。よくいえば静かだ。静かなのは,昔と違ってスマホがあるからだ。それぞれ,無言でスマホをいじっているので,会話が発生しない。
 意地悪い言い方をすれば,パワーを感じない。若くして悟りを開いちゃったのかと訊きたくなる。

2018年8月11日土曜日

2018.08.11 社会人大学院より独学

● 右はリクルートが出している社会人大学院のカタログというか,入学案内書をまとめたものというか。こういうものを500円で販売しているんだから,けっこう美味しいんじゃなかろうか。
 その表紙に踊っているのが「世界一ビジネスマンが学ばない国 ニッポン」という脅し文句。

● 実際にそうなのかもしれない。でも,だから何だというのだ。こういうのを見ると思いだすことがある。
 もう30年も前,ソウルオリンピックで韓国が盛りあがっていた頃,日本も空前の韓国ブームに湧いた。韓国に関する報道が飛躍的に増え,韓国に関する書籍が次々に出版された。ぼくもそのブームに踊った口なんだけども,その書籍の中に『5年後の韓国』というのがあった。
 著者は,当時,東京工業大学の教授だった渡辺利夫さん。うろ覚えなのだが,5年後には韓国が日本を追い越しているかもしれないという内容だったと記憶している。
 その理由は,アメリカの大学,大学院への留学生の数だ。韓国人がどんどん留学に出ている。日本は尻すぼみだ。このままでは5年後には日韓の経済は逆転していてもおかしくない,と。
 結果はどうだったか。アメリカに留学することとその国の経済との間には何の関係もない。すでに韓国が証明してくれている。

● たしかに,日本のビジネスマンは学ばないのかもしれない。学ぶというのを大学や大学院に通うことだと定義するならば。あるいは,“知的水準=学歴”とするならば。
 仕事人間にはなりたくないから,仕事はほどほどにして自分の好きなことに時間を割きたいというなら,社会人大学院に入学するのはまだわかる。が,リクルートのこの本に登場する人たちは,一様に仕事のために社会人大学院に入学したのだと語っている。仕事に必要だから,この分野を学びたい,この方面の技術を身につけたい,と語っている人たちばかりなのだ。

● 社会人になっているのだから,大学院を出ることが昇級昇格に有利に作用することなどないとわかっているだろう。だから,純粋にいい仕事がしたい,会社に貢献できる自分でありたいと思っているのだろう。
 しかし,だ。いい仕事ができて会社に貢献できるほどの人が,社会人大学院に通える時間を捻出できるとは思えない。仕事にのめり込んでいるはずだからだ。
 逆にいうと,社会人大学院に通えてしまう人は,仕事人としては落ちこぼれの範疇にいる人ではないか。言い過ぎだろうか。

● 仕事のスキルを向上させるものが仕事の外部にあると考えてしまう時点で,もうダメなのではないか。仕事のスキルは仕事を通じて学び取るしかないものだ。もしそれができるなら,半年間の仕事は2年間の修士課程を優に上回る成果をもたらすだろう。そうしたものではないか。
 問題は地頭であり地性格(?)であって,地頭があまりよろしくないとか,性格が仕事に向かないという場合は,もうどうしようもないのだ。仕事人として生きるだけが能ではないのだから,自分に合った方向を探ればいいだけの話だ。
 ぼく一個は,自分の地頭が良くないことと性格的に仕事にのめり込むことはできない人間だと気づき,仕事人として生きることには,かなり早い時期に見切りをつけた。後悔はしていない。

● もうひとつ。社会人大学院に通うことを考えてしまう人というのは,正解がどこかにあって,その正解を知っている人がどこかにいる,と思ってしまっているのではないか。だから,その正解を教えてもらおうという発想なのではなかろうか。
 正解などない。自分で泥縄をなってどうにかしていくしかないものだ。泥縄流以外に道はない。
 ほかにもっとスマートなやり方があるのではないかと思いたくなるのはわからなくもないが,社会人になってもそんな発想をしている人を愚鈍というのだ。愚鈍は大衆の別名であって,大衆とは常にカモにされる存在だ。

● 「世界一ビジネスマンが学ばない国 ニッポン」というコピーに反応してしまう前に,それで儲かる人間はいないかと考えてみるがいい。
 若年人口が減って社会人からも授業料を巻きあげないとニッチもサッチもいかなくなってきた大学と,女衒的な役割を担っているリクルートのような企業が儲かるだけだ。
 今どきのビジネスマンの多くは大学の学部は卒業しているだろう。大学の教育がいかにデタラメなものかということくらい,わかっているはずではないか。なのに社会人大学院に何を期待しているのか。やはり,愚鈍という言葉しか思いつかない。

● 社会人大学院で学んじゃうより,そんなことはしないでいた方が,お利口のままでいられるんじゃないかね。
 学んでもいいけれども,その場合は必ず独学でなければいけない。独学で学べないやつが大学院に通ってどうしようというのかね。中学校や高校じゃないんだぞ。
 ひょっとしたら,修士や博士という学位に価値を見いだしているのか。世界では修士や博士があたりまえにいるんだから,と。勘違いだ。あなたが修士や博士になるんだから,学位がインフレを起こして,価値が暴落するだけのことだ。ゴミを拾ってどうするつもり?

● 率直に申しあげれば,そこまでのバカはカモにされても仕方がないと思う。少し,考えた方がいい。お金と時間をドブに捨てるようなマネはやめにしたらどうか。
 人間,ムダとわかってやっているムダは大したこともないのだ。ムダと思わないでやっているムダが膨大にあるわけで。

2018年7月13日金曜日

2018.07.13 大学をリスペクトしていた若い頃

● 大昔。社会人となって4年後。大学にいたのと同じ年月が過ぎてしまったのだなぁと,いささか感慨にふけったものだった。
 いつだったか,母を連れて大学のある街を訪れた。夜,一人で大学周辺を歩いてみた。頬ずりしたくなるほどの懐かしさを感じた。

● その後,大学の記憶は急速に薄れていった。今,行っても,何の感慨もないだろう。地方都市のひとつとして受けとめるだけだろう。
 それはそういうものだし,それでいいと思っている。自分の過去を相対化するっていう大げさな話じゃなくて,(時間的に)あまりに遠く隔たった自分はもはや他人になる。

● 大学は知の殿堂でありリスペクトできるものだと,30代の半ばまで思っていた。今はインターネットに知が詰まっている。スマホでアクセスできる。誰でも掌に大学を載せているのだ。
 オックスフォード大学やハーバード大学や東京大学といった組織体は,極端にいえば,なくてもいい。驚くべき時代になったものだ。
 つまり,その気になれば大学に行かなくても,大学生がやっているような勉強を大学生がやっているようなやり方で勉強できる時代だ。

● 大学の機能はもはや学士や修士の学位を発行することだけになっている。その学位なるものの価値は,絶賛暴落中だ。暴落するとどうなるかというと,基本の部分,つまり地頭の良し悪しが喫水線の上に浮かびあがってくる。
 大学に行こうが学位を取ろうが,バカはバカだよね,ってことになる。

● その暴落したものにまだこだわっている人がいる。くだらんことだ。
 現状では医者になろうとすれば大学に行くしかないし,学校の先生になりたい場合も同様だけれども,さてさて,こうした制度もいつまで続くか。
 医師や教師にこだわらないのであれば,大学に行ってしまうのは4年間をドブに捨てるのと同じかもしれない。本当にデキる高校生は,すでに大学を見棄て始めているのではないかと思う。

● ちなみに,大学に限らないが,卒業証書などというものは,とっくの昔に処分している。ゴミに出した。保存しておく理由がない。
 インターネットやITが普及する前から,卒業証書の賞味期限は長くて10年と言われていた。そりゃそうだと納得した。

● ああいうものは,生きている間に自分で処分しておくべきものだ。残してしまうと,遺族(たいていの場合は奥さん)が処分することになる。亡くなった夫の卒業証書を処分するのがイヤじゃない奥さんはいないだろう。かといって,自分がやらなければ子供にツケを残すことになる。複雑な気分を抱えながら処理することになるだろう。
 そういうことを自分以外の人間にさせてはいけない。自分でやっておくべきだ。

2018年7月4日水曜日

2018.07.04 社会人が大学に行くのはマイナスではないか

● 右は放送大学の勧誘リーフレット。
 元祖である英国のオープン・ユニバーシティやお隣の韓国放送通信大学校に対して,放送大学の特徴は,印刷教材に加えて,すべての科目についてテレビかラジオの放送講義があることだ。
 が,インターネットの普及でその特徴も色あせてしまったかも。ぼくも放送大学の卒業生なのだが,放送大学はその役割を果たし終えたような気もする。

● 社会人大学や社会人大学院というのも,ひと頃の勢いはなくなっているように思える。
 化けの皮は剥がれるものだ,と言ってしまっては酷にすぎるか。

● かつてMBAがもてはやされた時期があったのも,今となっては往時茫々の感がある。大金を使ってアメリカのビジネススクールに留学した人が少なくない数いるはずなのだが,さて,元は取れただろうか。
 国内でもビジネススクールがポコポコできた。県内でも作新学院大学がビジネススクールを開設していたことがあるのだ(宇都宮駅ビルで授業をしていた)。ビジネススクールバブルがあったのだ。

● 法科大学院も崩壊したといっていいだろう。法科大学院を修了して,司法試験に合格した人もけっこうな数になるはずだ。
 そうした人たちに訊いてみたい。ちゃんと喰えていますか。

● 教職大学院というのがまだ残っているが,同じ運命を辿るはずだ。教職大学院を現場は評価しないだろう。そんなものが現場で使えるはずもないからだ。

● 良くも悪くも,正義は現場にある。だいたい,ビジネススクールに行こうと考える時点で,ビジネスマン失格のような気がする。資格を取ろうとするのも同じだ。その時点でダメ。
 仕事での付加価値は仕事で付けるしかない。ビジネススクールや資格に行くのは,おそらく逃げだ。リアルの人間関係が辛いから,SNSで理想的な関係を作ろうとするのに限りなく近いように思える。出発点で間違っている。
 ビジネススクールで3年かけて教えているようなものは,本気で仕事をすれば3ヶ月で身につくという人もいる。ぼくもこちらの説を採りたい(自分がそうしたということではまったくない。言うまでもないだろうけど)。

● 要するに,これらは大学側が社会人を相手にして儲けるための装置だった。
 そういう装置に乗せられて,お金を払って,社会人をやりながら学生になって,自分は一歩高い位置にいると思っていたような人は,ネギを背負ったカモになることを自ら志願したようなものだ。それ以上ではない。いわゆる“意識高い系”と同じ愚鈍さを免れないように思える。

● 身も蓋もない言い方になるのだが,地頭の悪い人が,時間とお金をかけて勉強しても,たぶん何も変わらない。そっくりムダだからやめときなと言いたい。その時間とお金がもったいない。それを遊びに使ったら豪遊できるじゃないか。
 もうひとつ,大学や大学院に行くということは,“教えてもらう”を前提にしていそうだ。“学ぶ=教えてもらう”ならば,いつまでも学んでいてはいけない。ある時点で切りあげないと。その時点というのは,大学卒業時(22歳)ではすでに遅いかもしれない。

● 知は力なり,というときの知は,少なくとも知識ではない。知識は図書館に行けばいくらでもある。それ以上に,今ならネットにある(ただし,英語を読めることが前提)。
 それを自分の脳内に移行するだけなら,大学に行くのはまったくのムダ。図書館やネットはタダなのだから。移行作業はひとりでやった方がハカが行く(やろうとする人はいないだろうけど)。

● もはや,大学や大学院に対する社会の信認もかすかにあるという程度ではないか。最上級に賢い高校生は大学を避ける時代なのではないか。
 それなのに,社会人になってからも大学に行こうとするのは,大学が高価な希少材であった時代の尾ひれを付けすぎている気がする。

● 大学は大衆が行くところ。社会人大学や社会人大学院もその例にもれない。大衆と同じことをやっていたらカモにされるに決まっている。
 と,地頭の悪さを何とかしようと放送大学に行ってしまったり,いろいろとカモにもされてきたぼくが言う。

2018年5月9日水曜日

2018.05.09 研究者も楽ではない

● 今日の下野新聞。高被引用論文。名誉なことなんでしょうねぇ。FBで“いいね”がたくさん付くのとはわけが違う。

● そういう論文を書く人が,40歳で助教というのもなぁ。上が詰まっててどうしようもないのか。
 もっとも,教授や准教授になっても雑用が増えるだけだから,助教のままでいるのが正解なのか。事情が許せばずっと院生でいたい,という人もいるかも。

● 研究に没頭できるのは,院生や助手,つまり教授会だの委員会だの入試業務だの文科省に提出する書類の作成だの,研究以外の雑用に煩わされないですむその時期だけだろうから。
 准教授になって教授会のメンバーになれば,その辺のサラリーマンと変わらない業務内容になる。学生の就職の面倒も見なければならない。
 だから,研究だけをしていたい人にとっては,40歳になっても助教でいられるのは福音なのかもしれない。

● この記事の研究者は上位1%に入るだけの高被引用論文をすでにいくつも書いているんだから,才能や資質は証明されている。ポストで処遇される以上の名誉をすでに手にしている。「仕事の報酬は仕事」という境地に達しているんじゃないか。
 将棋でいえば藤井六段のようなもので,順位こそC1で,格上の人がたくさんいるけれども,実力はトップクラス。しかも,そのことを多くの人が認めている。

● 仕事の報酬としてお金や昇進を求めてしまう人は,そもそも研究者になってはいけないのだ。といっても,稼がなければ喰っていけない。この記事の助教のような人は,その世界でも例外的な存在なのだ(たぶん)。
 大学は構造不況業種だ。少子化は大きな津波のようだ。すべてを飲み込む。受験生をそっくり入学させても大学全体の定員を満たすところまで行かないのではないか。早稲田・慶応クラスでも現在の学生定員を維持するのは不可能だろう。
 学生が減れば大学の収入も減る。潰れる大学がすでに出ているし,これからも出る。大学の教職員は,これまでも,そしてこれからはいっそう顕著に,リストラの対象だ。

● となると,研究を業として生きていきたいという人は,企業の研究所やシンクタンクを狙うのが現実的ということになりそうだ。が,企業は博士号取得者(あるいは大学院の博士課程修了者)を採用したがらないという現実がある。
 その理由を推測するに,彼らは企業では使いものにならないという経験則があるからだろう。30歳近くまで社会から隔離された状況に置かれれば社会への適応力を失っているだろうということのほかに,もう少し根源的な理由がありそうな気がする。

● 研究への才能や資質の有無は,その道の先達にしかわからないだろう。したがって,遅くとも修士修了の時点で,おまえは研究には向かないから方向を変えた方がいいと言える人が必要なのだ。
 将棋界の奨励会は26歳で四段に上がれなければ強制退会になる。厳しいようだが,これは温情だ。26歳ならギリギリ転身が可能だ。これと同じような仕組みが研究者の卵の世界にもあるといい。

● が,そういう憎まれ役を買ってでる人はいないだろう。院生は授業料を払ってくれる金づるだということのほかに,研究には向いていないけれども,他のものにはもっと向いていないという院生が少なからずいそうだからだ。
 そういうことは企業もわかっている。だから採用したがらない。

● 才能や資質を保持している人は,多目に見積もって院生の2割と見る。その2割については,上記はあてはまらない。
 また,理系と文系では様相がかなり異なるだろう。博士号取得者は企業が採用したがらないというのは理系の場合であって,文系ではさらにハンデになる。無駄に年をとったと思われるだけだ。
 まぁ,就職戦線は売り手市場だ。あまり企業のご機嫌をとってばかりでも仕方がないから,文系の人でも大学院に行きたければ行けばいい。自分の人生だ。

● ぼくが学生だった頃は,才能や資質に欠けるところがあっても,どうにかこうにか大学の教職に潜り込める人が少なからずいたような。
 大学の先生は楽な商売の典型でもあった。週に数時間の講義をしていれば,あとは何をしてても,誰にも何も言われない。学生は自分で勝手に就職先を決めていく。教授というだけで世間も一定の敬意を払ってくれた。高等遊民でいることができた。

● しかし,そういう長閑な時代は終わっている。学歴と知識(を保有していること)の価値が地に墜ちたからだ。インターネットがそうした。どの分野でも世界の先端を開く論文はネットにある。英語さえ読めれば誰でもアクセスできる。大学人に限られない。
 当局からの締めつけや管理は強くなる一方だろう。教授会自治などという言葉はとっくに死語だ。大学は世間に対応できない人の収容先でもあった。これからどうなっていくのだろう。

2018年3月11日日曜日

2018.03.11 大学はなくてもいい???

● 大学という名が付く学校を卒業してしまった(しかも,2つも。アホか)。ので,大学のいい加減さはわかっているつもり。そういう前提の話だ。

● 右の写真は2018年度のNHKテキストナビ。メインは語学。
 ○○外語大学というのがいくつかあるけれど,NHKのラジオとテレビの語学講座でちゃんと勉強すれば,そんなところを卒業した学生のアベレージよりもはるかに上になるのじゃないか。
 どうだろうか。これに対する異論はあるだろうか。外語大学でやっているのは語学のスキルを高めることだけじゃないよ,その国の歴史や文化,あるいは国際関係論まで視野に入れてるんだよ,そこはNHKの語学番組ではカバーできないだろうよ,と言われるだろうか。

● よろしい。そのとおりだとしよう。しかし,そういうものは書店と図書館でやれないか。山川出版社の「世界各国史」の中から該当する1冊を読むのと,外語大学でやっている対象国の歴史の講義を聴くのと,さてどちらが有益だろうか。いや,有益という言葉は不適当かもしれない。どちらにより実益があるだろうか。
 たぶん,考えるまでもないんじゃないだろうか。「世界各国史」はゆっくり読んでも3日もあれば読めるだろう。それでたぶん,大学の講義を聴いた学生のアベレージはやはり超えることになるだろう。他も同じだ。

● インターネットが普及するはるか以前にその状況はできていたのだ。ことは外国語に限るまい。
 まして,今はネットがあるのだ。大学の講義そのものがどんどんネットで公開されている。なんだったら,アメリカの大学の講義も聴ける。
 こうなると,大学の役割とは何なのかということになる。学士号を授与する権限があるということだ。しかし,今どき学士号などに何の意味があるのか。

● 大学に行くのは,よほど考えた方がいい。貴重な若いときの時間とお金をドブに捨てる結果になるかもしれないのだ。少なくとも,大学を卒業したことは何の箔にもならない時代にすでになっている。
 理工系はまだ存在意義を保っているかに見えるけれども,いわゆる文系学部は原則廃止してしまっていいのじゃないかと,かなり本気で思っている。そうされて困るのは,大学の禄を食んでいる教職員だけだろう。

● 年代を問わず,勉強するのはとても大事なことかもしれないのだが,その手段として大学を選択するというのは,それ自体が大衆性の発露でしかないような気がする。
 かつては大学に知が集中し,大学は知の殿堂であったかもしれない。が,今はそうではない。大学にあるものの多くはネットにもある。
 勉強は一人でできる。一人でできるものは一人でやった方がよい。しかし,多くの人は群れから離れることはしない(できない)だろう。大学はこれからも残っていくだろう(数は減るだろうが)。

● そもそも,大学は勉強をするところではなく友だちを作るところ,一生分のバカンスを前払いで取得するところ,社会に出る前に遊べるだけ遊ぶところ,という受けとめ方をされているかもしれない。
 そう割り切って大学に行くのは悪くない。勉強しようと思っていくのは感心しないけれども,遊ぶために行くというなら反対しない。そういう人たちに老爺心ながらアドバイスがある。

● 東京の大学に行くべきだ。もちろん自宅から通うのは不可。アパートを借りること。自宅から通っていたのでは,大学に行ったことにならない。
 それも多摩の山奥というか閑静なところにある大学じゃなくて,山手線の内側にある大学に限る。どこでもいい。遊びに行くんだから,偏差値を考えてたら逆におかしい。若いときの4年間を都心で過ごすのと,地方で過ごしてしまうのとでは,おそらく大きな差がつく。センスの鍛えられ方が違ってくるだろう。
 都内の大学の定員を抑制する動きがあるが,そんなのはものともせず,都心の大学に行くべきである。

2018年2月8日木曜日

2018.02.08 センター入試で満点を取った人がいるんだけど

● センター試験満点の東大出願者がいたというニュースなんだけど。学習マシンなのかよ,おまえは,と言いたくもなるんだけど,とんでもない人だね,凄いね。
 おそらく,ガリ勉タイプではないと思う。スイスイとできちゃう人じゃないか。

● センター試験では,理Ⅲより理Ⅰの方が平均点が上なのか。文Ⅰは凋落してるのかい? 法学部不人気ってこと? 昔とは違ってるんだなぁ。
 こういうところからも世相が見えてくるかもしれないよね。

● そもそも論でいえば,賢者は大学に行かない時代がすぐそこまで来てるよね。4年間も大学で過ごしてしまうのは,お金と時間をドブに捨てるようなものというのが,そろそろ共通了解事項になりそうだ。
 大学で学べるようなことは,ネットを使えば,半分の時間で身につく。優秀な人なら1年も要らないだろう。

● 大学を出ないとなれない職業(医師とか教師とか)もあるじゃないかと言われるけれど,そういう職業に優秀な学生は行かなくなる(っていうか,すでにその傾向はあるのじゃないか)。それに伴って,だいぶ遅れるだろうけど,受験資格も見直されることになると予想しておく。
 学部を卒業していなくても大学院への入学を認めるとか,高校を卒業していなくても大学への入学を認めるとか,そういうふうにならないと世の中は回っていかなくなる。途方もない頭脳の持ち主が,その頭脳を腐らせないで仕事ができるようにしないと。彼らに牽引してもらうしかないんだから。

● 知的生産の分野のみならず,あらゆる分野で,才能の持ち主にその才能を使ってもらえるようにする。その結果,格差が拡大するのはむしろ望ましいことだと腹をくくる。
 国内で完結するなんてとっくにできなくなっている。アメリカやインドや中国から,それこそこの世のものとは思えない才能がやってくる。ボトムアップばかりやっていたら,日本は彼らに牛耳られてしまうんじゃないか。ボトムなんて少しばかり引きあげたってボトムなんだから。引っぱる側に移行することはあり得ないんだから。

● 大学は長年にわたって惰眠を貪りすぎたんだと思う。それを社会が許してきた。
 日本にはバカンスという習慣はないが,日本人は大学生の間に一生分のバカンスを楽しんでいるのだから,帳尻は合っているのだ,と言う人もいた。
 大学生(特に文系)は勉強しないというのは,誰もが知っていたことだ。社会もそれを良しとしてきた。それをいいことに大学はずっと眠っていた。年々進学率は上がり,受験料収入も授業料収入も増えるんだから,自らを変える必要を感じなかった。制度の上に胡座をかいていればよかった。

● 大学の危機という言葉はかなり前から使われていた。が,当事者の危機感が現実にまるで追いついていなかったってことかなぁ。
 教授会自治なんてことを言ってれば,当然そうなる。実際,どうなんだろ,758校ある大学のうち700校がなくなり,教員諸氏が失業してしまったとしても,日本から失われる“知”はほぼゼロなのではなかろうか。

● ということだから,大学の授業料を無償化するなんていうのは,時代錯誤もいいところの議論ではないかと,ぼく一個は感じている。
 潰れてしかるべき大学を残す結果になってしまいかねない。それだけでも,まったくもってよろしくない。

2017年10月8日日曜日

2017.10.08 都会の大学

● 7日には蒲田に行く用事があった。蒲田駅西口に東京工科大学(デザイン学部と医療保健学部)がある。閑散としてた。何か外部のイベントが入っていたようだけど。
 学生がたむろできるような広場がない。都会の新興大学にはありがちなことだ。そんなものは要らないのかもしれないんだけど。

● この場所にグラウンドや中庭や広場的な何もない空間を確保するのは,かなりの贅沢というか,ほぼ不可能だろう。
 あるいは,建物の中に,広場的な空間があるんだろうか。

● 駅からここまでは,カオスに満ちた飲食店街がある。蒲田だもんね。学生はここを歩いて大学に通っているんだろうか。毎日のこととなれば,あたりまえの光景になるんでしょうね。
 えぇっと思うのは,田舎者の反応なのだろう。閑静な場所に広い敷地を確保して,低層(せいぜい4階建て)の建物がまばらにあって,緑が多く,そこを学生たちが歓談しながら歩いている。あるいは芝生に腰をおろしてくつろいでいる,という大学のイメージ。時代がかっていますかね。

● 8日には新宿駅からオペラシティまで甲州街道を歩いた。その途中に文化学園がある。甲州街道沿いにあって,これまたビルだけで空き地がない。これでキャンパスといえるのか。
 いえるんだよね。新宿の街がキャンパスなんでしょう。大学の敷地内に学生を囲い込んでおく必要なんてない。大学が地域に貢献するには,学生を地域に開放すること。

● 「栄華の巷 低く見て」という,選民思想というか超然主義的な発想は,大学生が文字通りのエリートだった大昔の話だ。であっても,この発想は鼻持ちならない。
 大学生など大衆の一人にすぎなくなった今では,「栄華の巷」に大学も浮かんでいるという構図に不自然さは感じない。というか,「栄華の巷」以外に常人が生きる場所などない。

● であっても,大学のある場として,新宿はかなり強烈だ。文化学園と新宿の街の間に緩衝帯は何もない。ここでも田舎者はうぅんと思ってしまう。
 しかし,今を生きる若者たちには,そんな緩衝帯など必要ないんだろうな。むしろ,緩衝帯など邪魔なんだろう。

● 知というものは,研究室に籠もる人からじゃなくて,「栄華の巷」と教室の間をシームレスに往来する人たちから生まれてくるのかもしれないなぁ,と思ったことだった。

2015年7月24日金曜日

2015.07.24 大学は東京に限るという話

● 東洋大学の図書館に圧倒されたわけだけど。図書館って大学にとっては生命線(のひとつ)だろう。ろくな蔵書もない大学に行きたいと思う受験生はいないだろうし,自分の子どもを進学させたいと思う親もいないだろう,たぶん。

● が,その図書館の本を1冊も読まないで卒業していく学生はかなりの数になるのじゃないか。っていうか,大半の学生がそうなのじゃないか。
 ぼくは,それでいいと思っているんだけどね。

● 昔,東大の某教授は学生のときに下宿-教室-図書館の三角形のうえしか歩かなかった,という伝説があるという話を聞いたことがあるんだけど,学者になるならともかく,会社員や公務員になるのなら,そんなことをしていてはいけないのじゃないか。
 大学に入って勉強しかしなかったっていうのはダメでしょ。

● もし大学で勉強しかしないのであれば,大学なんかどこだっていいと思う。都心だろうと地方だろうと。
 そもそも大学に行く必要もないと思う。勉強しかしないんだったら。勉強なんか暇さえあれば,どこででもできる。大学じゃないと勉強できないなんてことはない。

● ではなぜ大学に行くのかという問題はさておいて,せっかく大学に入った以上は,勉強はほどほどにしておいて,大学の外に学ぶ場を見つけるべきだ。街に出よ,と言ってみたい。
 そうなると,東京と地方では学びの環境として雲泥の差があるように思う。18歳から21,2歳までの若い時期を東京の空気を吸って過ごすか,地方で過ごすか。これは相当に大きな違いを,彼(彼女)のその後に与えるのではあるまいか。

● 良くも悪くも,すべてが東京に一極集中している。企業だけじゃない。経済的なものだけじゃない。文化や学術と呼ばれるジャンルもそうだ。美術館やコンサートホールや図書館。
 エンタテインメント,娯楽,遊び,ファッションも,東京に集まっている。デパートや専門店などの商業施設の集積は東京が圧倒的だ。
 悪場所と呼ばれるものも東京にある。歌舞伎町や吉原。何もかもが東京に集まっている。

● 多感な時期にそういう場所の空気を吸うか,地方の澄んだ空気を吸うか。ぼくは東京の空気を吸っておくべきだと思う。30歳を過ぎてから東京に転勤になるのとは,訳が違う。
 ちなみに,ぼくは大学は遠くの田舎に行った。自分を入れてくれた大学がいい大学なのだと思っているから,よくぞぼくのような者を入学させてくれたと感謝に堪えない。
 が,でき得れば,東京の大学でアルバイトしながら4年間を過ごせるような活力が自分にあったらと思わないわけにはいかない。

● という次第であるから,東京といっても,多摩丘陵にあるような大学ではダメだ。山手線の内側が望ましい。

2015年7月23日木曜日

2015.07.23 東洋大学のオープンキャンパスに行ってきた 2

● 東洋大学のキャンパスはいくつかに分かれているのだが,メインキャンパスは文京区白山にある。都心だ。
 都心となれば土地が希少だ。いきおい,上に延びるし,地下にも潜る。校舎はビルになる。エレベーターもあればエスカレーターもある。

● 校舎がいくつもあるので,うっかりしていると迷子になりそうだ。こういうものに田舎者は威圧感を感じる。たぶん,すぐに慣れるんだろうけど。
 田舎者というより,年齢の問題かもしれないけどさ。

● で,同時に思う。東大の本郷キャンパスは贅沢の極みだね。都心であのたたずまいを維持しているのは,驚くべきことだなぁ。
 それだけでも,東大生は恵まれているんでしょうね。

● ただ,東大キャンパスは一般に開放されている。たいていの大学は開放されているのかもしれないけど,東大は開放の度が徹底していて,まったく構えないで赤門をくぐることができる。

2015.07.22 東洋大学のオープンキャンパスに行ってきた

● まず,図書館に案内された。さすがは大学の図書館であって,仏教関係の棚をちょっと見ただけだけれども,圧倒される思いがした。すべてのことはすでに書かれていると思わされた。
 論文を書くときには先行業績を精査して,そこに何かを付け加えなければならないと言われるけれども,先行業績が(本になっているだけでも)こんなにあったんじゃ,一生かけても精査なんてできないんじゃないか。

● 実際には,学術書のかなりの部分はじつはゴミだ,読むべきものは一部に過ぎないんだよ,ってことですか。それにしてもなぁ。
 ともかく,ぼくに読めるような本(あるいは,読みたいと思う本)はそんなにないのだった。

● 学食で蕎麦を食べた。ざる蕎麦が280円。大盛りは50円増し。かき揚げが100円。麺はフリーズドライ麺(?)。
 学生だからとなめてはいけないだろうけど,値段との兼合いがある。こんなものかという印象。
 が,ぼくが学生だった頃とは比較にならない。うどんが30円でラーメンが80円だったかな。安くて不味いを地でいくようなものだった。あの頃はそれが成立した。貧乏学生にはありがたかった。

● 細かい入試情報が欲しかったわけではないので,2時間ほどでバイバイしたけれども,学生気分を味わいたければ,オープンキャンパスはいい機会になるね。
 ひょっとすると,それで気がすんで,実際に学生になることはしなくていいやと思うかもしれないし。