2020年10月31日土曜日

2020.10.31 東武線で東京へ

● 数カ月振りに7時前に起きた。今日はこれから東京に出る予定。
 まず,宇都宮駅構内の「いろり庵きらく」で朝食。明太子を乗せたご飯とかけ蕎麦のセットで390円。
 人間は炭水化物を摂ってれば死なん。特に,日本では,米飯が文字どおりの主食であって,米飯が食べられることが幸せだという時代が,長く長く続いてきたのだ。副食は米飯を食べるための触媒であって,要するに塩っぱければ何でもよかったのだ(たぶん)。

● ところで。人に朝食を出す人の朝食はどうなっているのか。朝食をウリにする店が以前より増えたような気がする。
 ファストフード店の大半が朝食を供している。ほかにはホテルや旅館。前夜のうちに作っておいたり,レンジを多用したり,火を通す必要のない保存食を使ったり,手間がかからない工夫はしていると思うのだけれども,自分たちは朝食を食べているんだろうか。隙間時間にまかないを食べられたりするのかね。

● 東京に行く前にすませておかなくちゃいけないヤボ用があった。宇都宮市立中央図書館に落語のCDを返さなくちゃいけなかった。返却期限をだいぶ過ぎちゃってる。ので,JR駅からバスで図書館に移動。
 ここは図書館のほかに文化会館や体育館,コミュニティーセンターが集まっているし,余った場所(?)は公園になっている。しかも,東武の南宇都宮駅がすぐそこ。JRなら日光線の鶴田駅が徒歩圏内。県下きっての名門,宇都宮高校も隣にある。割り切ってしまえば(割り切らなくても)住みよいところじゃないかと思う。

● その宇都宮市明保野公園。公園っていうのは,春夏秋冬いつでもそれなりに見応えのある景観を作るものだが,ちょうど今時分の秋が深まってきた時期もいいものだ。
 落ち葉に木洩れ陽が降り注いでいる。天気がいい。秋晴れだ。いい日になるだろう。

● その秋晴れの日に,南宇都宮駅前通り(?)には誰も歩いていない。車もほとんど通らない。電線の工事をしている人を除いて,この世から人という人が消えてしまっている。
 閑静な住宅街という言い方をしてもいいのだが,住宅街というには道路がやや広い。田舎にはよくある光景ではある。コロナのせいではたぶんない。

● 南宇都宮から630円で浅草に行ける。東武の株主優待乗車証が金券ショップで値下げされたからね。630円で宇都宮から東京に出られるとはウソみたいだ。正規運賃の約半分。JRに比べれば3分の1以下ですよ。
 その分,時間はJRよりもかかるんだけれども,長く乗っていられるということでもあってね。

● 南栗橋で乗換。南栗橋からは押上から半蔵門線に入って渋谷,さらに東急田園都市線に入って,三軒茶屋,二子玉川を経て神奈川県まで直通するのだが,最近は曳舟で浅草行きに乗り換えることが多くなった。
 最も由緒ある地下鉄である銀座線に敬意を表するというわけでもないのだが,最も早く掘られた地下鉄だからあまり深く潜らなくていい。そこが気に入っている。利用しやすいからだ。半蔵門線や大江戸線になると深く深く降りていくことになるのだが,正直,少々気ぶっせいなところがある。

● それに,だ。何だかんだ言っても,銀座線が良き東京を代表する路線のように思える。今でも最も風格があるというか,浅草から上野,神田を経て日本橋に至り,銀座から虎ノ門,赤坂を通って渋谷まで結ぶ。
 大手町を相手にしていないところがいい。当時は浅草や上野が最も繁華な街だったのだ。大手町など新参者。半蔵門線は銀座線のバイパス的な位置づけで開通したらしい。そう聞かされると路線にも納得がいく。が,さすがに大手町に挨拶しないではすまないようになっていたんでしょうね。

● その銀座線で銀座へ。銀座駅から銀座1丁目駅までは一般道を歩くにもかかわらず,乗換として処理される。同一駅扱いしているわけだ。最初,田舎者には合点が行かなかった。
 日比谷線の築地駅と有楽町線の新富町駅も,同じように同一駅扱いとしているが,ぼくはこの乗換をするのに道に迷ったことがある。
 とまれ,有楽町線に乗り継いで豊洲へ。運賃は200円。安いんだけど,宇都宮~東京間の3分の1もするのだ。

● 豊洲着。昼めし時。ベンチに座って弁当をつかっている初老の夫婦。なごむ光景だ。いろんなものを諦めて来たんだろうけど。
 岩崎良美が歌った「タッチ」の歌詞に「ひとり涙と笑顔はかってみたら 涙が少し重くて」というのがあったけれど,恋愛中の若い女の子に限らず,人の一生とはそういうものではないか,とこの歳になってみれば思う。いろんなものを諦めるとはなしに諦めて,その後に残ったものを見つめて,まんざら悪い人生でもなかったのではないかと自分を納得させる。

● 駅の近くに「なか卯」がある。ので,生涯2度目のなか卯。親子丼とウドンのセット。600円。
 これで充分だけども,自分でも作ってみたい。親子丼はスーパーやコンビニでもあまり見かけたことがないので。

● 銀座に戻る。時刻はトワイライト。言っちゃ悪いが,騒音の塊の中国人がいない銀座はすこぶる快適。行くなら,コロナ禍の今のうちに。
 実際のところ,インバウンドはもう終わりで(元に戻るとは思わない方がいいのでは),これからは国内からの観光客を相手にやっていかなければならないのだろう。やって行けると観光客の方が証明してくれている。7月の4連休でそれが明らかになり,9月の4連休でほとんど確信になった。
 むしろ,中国人の観光公害がなくなれば,日本人が後を埋めてくれる。爆買いは消えるが,ああいうものはないという前提で組立を考えてもらうしかないし,着々と組み替えが進んでいるものだと思いたい。

2020年10月14日水曜日

2020.10.14 “魅力度ランキング” で栃木県が最下位

● アッハハハ。茨城県に代わって栃木県がビリ。こういう “調査” はまともに取り合ってはいけないものだが,どうせならビリでいる方が目立っていい。トップとビリは憶えてもらえるからね。
 茨城県民の中には,その他大勢の中に埋もれてしまうことになって,悲嘆に暮れている人もいるんじゃないのかね。栃木県民はむしろ喜ぶべきかと存じますよ。

● 一番いけないのは,こういうものに真面目に反応してしまうことだよね。特に行政がそんなことをしたのでは目も当てられない。
 ランキングの順位を上げようとして,そのために税金やリソースを投入するっていうね。そんなのは最悪だよね。税金をドブに捨てているようなものでしょうよ。

● この調査は,民間企業の「ブランド総合研究所」がインターネットを使って実施している。
 あなたは各都道府県にどの程度魅力を感じるか,という質問を提示して,それに対して「とても魅力的」「やや魅力的」と答えた割合を基に「魅力度」を算出するというやり方。要するに,イージー極まりないアンケート調査。
 こういう会社は潰れてしまった方が,社会に害をなさなくていいと思うんだけど,そういうものにまずマスコミが反応してしまう。それを受けて行政も何とかしようと動いてしまっては,寄生虫に餌を与えるようなものでしょ。

● で,栃木県は「重点戦略「とちぎ元気発信プラン」で20年に25位以内に入ることを目標に掲げていた」というんだから,バカを地で行っていたわけだよね。
 しかし,幸いなことに,「(この調査は)不特定多数に漠然とした印象を聞いたもの。順位の上がり下がりの要因分析が困難」などとして,21年度から始まる県の次期プランでは目標は廃止される見込み」であるらしい。正解だと思いますよ。

● でもさ,栃木はいいところですよ。去年の台風19号ではさすがに被害が出たけれども,基本,自然災害は少ない方だ。
 東京に近いのもいい。遊びに行くなら新幹線の必要はない。余裕で日帰り可能(これは茨城も同じ)
 鬼怒川温泉を東京の奥座敷と言うことがあるけれども,バカを言っちゃいけない。こういうのは相対的な問題でさ,東京が栃木の奥座敷だからね。奥に東京という使い勝手のいい座敷を抱えているんだから,何かと便利だ。

● 神社仏閣なら日光がある。京都の代用になるぞ。避暑地なら那須高原。軽井沢もいいけど,那須で充分だろ。
 納豆をはじめとする大豆製品を,あづま食品とこいしや食品が作っている。日本で一番旨い納豆が喰えるぞ。ゆばもあった。大豆製品はけっこう充実してるよ。

● でも,ま,東京に近いというところが栃木県の売りの1番目に来るものでしょう。経済,ファッション,飲食,学術,芸術,芸能,アミューズメント,ニート,オタクなど,ありとあらゆるものが東京に集中している。神社仏閣,名所旧跡の類も,京都よりもむしろ東京に多いのではないか。東京にないのは歴史の古さくらいのもの。
 であれば,東京と関わりを持たない方向で,自分の人生をデザインするのは得策とは言えないような気がする。

● とはいえ,東京から遠く離れたところに住んでいては,東京を組み込むのは物理的に不可能だ。せいぜい,東京の大学に行って,4年間ほど東京で暮らすというのが関の山。
 ところがね,栃木県に越してくれば,田舎で暮らしつつ東京を自分のフィールドに組み込むことができるよ。このアドバンテージはかなり大きいと思いますがねぇ。

● っていうか,根源的な話をすれば,都道府県の圏域ごとに国土を区切ってモノを考えるってのはもうダメでしょ。オレは栃木,オマエは茨城,ってダメだよねぇ。
 だから,都道府県ごとの“魅力度ランキング”なんてのを十年一日のごとく発表して,それを自社の食い扶持にしているようなところには,サッサと退場してもらった方がいいと思うんだよ。

2020年10月13日火曜日

2020.10.13 Google Blogger が使いづらくなった件

● Google Blogger の仕様が変わって,すこぶる使いづらくなった。元の仕様に戻せる期間が続いたのだけども,ついに戻せなくなって,改悪仕様に従うしかなくなった。
 ひょっとして,Googleはブログサービスもやめたくて,Blogger を使わせないようにしているのかと思うほどだ。

● どんなところが使いづらくなったのか。例を挙げていこう。
 まず,文字の大きさの選択だ。以前は,最小・小・標準・大・最大だった。それが最小・小・標準・中・大・最大となった。
 中って何だよ。中を標準にすればいいじゃないかよ。というのは,命名に使われている日本語に引きずられ過ぎの感想かもしれないけれども,中があるんだったら中なんだからそれが標準でいいじゃないかよ,と思ってしまうんだな。

● 試用期間中(?)は同じ大でも,以前の大より大きかった。以前の大に近いのは中のようだった。ぼくはずっと大を採用してきたので,仕様変更以後は中を使ってきた。
 ところが,試用期間が過ぎて,元の使用に戻れないようになってみると,新しい大は以前の大と同じ大きさになっているではないか。
 ので,中で書いた分を大に直すという作業が発生した。まったく余計なことをさせられるものだ。
 また,そのとき,文章の一部が勝手に最大になってしまうことが頻発した。

● 写真の挿入もわかりづらくなった。そもそもが,挿入した箇所の文章が1行下がってしまうのは,どういう理由でそのようにしたのか,推測しかねる。まるで意味がないからだ。
 複数の写真を選択することができるのは従前と同じなのだが,挿入箇所を変えて次々に写真を入れていきたいとき,一回やると次からは選択した写真が表示されなくなる。もう一度,写真の選択からやり直さなければならない。
 これまた,どうしてそのようにしたのか意味がわからない。ひょっとすると,ぼくの操作手順に何かの欠落があるんだろうか。

● タグ(Blogger の言葉ではラベル)を付けるときも,イライラが増えた。従前はすでに使ったタグが全表示され,そこから該当するものを選ぶことができた。なければ新たに作ればよかった。
 が,新仕様では既存のタグが表示されなくなった。これと思う単語を入力する。ぞれがすでに使っているものであれば,その旨が表示され,タグとして選択するという流れに変わった。
 これはすでにタグとして使っているなという記憶はあることが多い。なら,本当にあるのかどうか即座に確認できた方がありがたい。つまり,従前のやり方のほうがストレスが少ない。

● さらに。これは書式ということになるんだろうか。主見出し・見出し・小見出し・準見出し・段落・標準,とある。問題なのはデフォルトが段落になっていることだ。なぜ標準をデフォルトにしておかないのだろう。
 一回,標準を選んだら,以後は何もしなくても標準のままになっていればいいのだが,次回は段落に戻っているのだ。

● 最初から Blogger 上で文章を書くのだったら,これはさほどに支障にならないんだろうか。っていうか,その方が書きやすくなるんだろうか。あるいは,日本語ではなくアルファベットを使う場合には,こういうのは親切な設計になるんだろうか(そうとも考えにくいが)。
 ぼくは,テキストエディタを使って端末上に文章を作ってから,それを Blogger に貼りつけているのだが,うっかり段落のまま貼ってしまうと勝手に文章の間に空白行が挿入されてしまう。呪いたくなるほどイラッとする。

● Blogger は広告の表示を強制されない。多くの場合,一定期間更新しないでいると,自動的に広告が表示されてしまうのだが,Blogger にはそれがない。
 広告なんてない方がはるかに読みやすいわけだし,アフィリエイトなどにいまだにこだわっているのはおバカさんとしか言いようがない。こづかいにもならない金額と引換えに,うるさい広告を自分のブログに表示させるとは,何と愚かな。
 ので,Blogger をこれからも使っていきたいと思うのだが,以上のような次第で,できれば仕様を元に戻していただけないか,と。

2020年10月3日土曜日

2020.10.03 清澄白河散歩2-芭蕉記念館

● また,清澄白河へ。駅を出て清澄通りを行くと,高さの揃った洋館が並んでいる一画がある。これが,他にはないここ独特の空気感を作っている。
 夜になるとどんな風情を醸すんだろうか。飲むのを前提に来てみたいところだ。東京ではそんな街が次々にできてしまうから困る。一応,酒についてはドクターストップがかかっている身の上でもあるし。

● 回れ右して,小名木川を渡った。その橋が高橋という。高橋さんは知合いの中に何人かいるけれど,高橋という橋を渡るのは,今回が初めてだと思う。
 その高橋から見る小名木川。東京の河川では珍しくないのだが,これもほとんど運河か
と思える。しかし,そうではない。河川改修の結果,こうなった。都市河川の運命(?)だろう。
 ちなみに,隅田川との合流点はすぐそこだ。合流点の手前にある水門が邪魔をして,ここから合流点は見えないけれども。

● 小名木川を渡ってどこに行こうとしているかといえば,芭蕉記念館だ。隅田川の東側のこのエリアは,芭蕉のゆかりでもあり,伊能忠敬もすんでいたようであり,端倪すべからざる場所であるようなのだ。
 ぼくは俳句をものすることもしないし,芭蕉の句を味わえる鑑賞力もないのだが(古池や蛙飛びこむ水の音 からぼくがイメージできる光景は極めて貧弱なものでしかない),だからといって芭蕉を素通りしていいものかどうか。

● 『おくのほそ道』は4年前に初めて読んだ。角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス 日本の古典」シリーズの1冊。ひょっとすると,高校生のときに読んでいるかもしれないのだが,当時の自分はもはや自分ではない。
 見たまんまを書いているのではなくて,芭蕉があえてフィクションを付与しているっぽい。紀行文には違いないのだろうけど,それだけにはとどまらないようだ。
 驚くべき簡潔さ。ほんとに短い作品だ。何度も書き直しているんだろうか。いきなりこれができたわけではないのだろう。

● というような感想をもったんだけれども,ともあれ,芭蕉庵にほど近いところに建てられた芭蕉記念館に行ってみた。
 入館料は200円。小さな建物だ。2階には和室の会議室もあって,地元の句会のメンバーが打合せをしているようだった。
 芭蕉にまつわる諸々が展示されている。芭蕉の旅の軌跡をたどることもできるし,芭蕉の句を格調高い書体で読むこともできるのだが,すでに芭蕉についてある程度知っている人なら楽しめると思うけれど,そうじゃないとなかなか厳しいかも。

● というか,ぼくには厳しかった。何とか喰いついていけたのは,3階の常設展示場にあった,旅装束の実物と解説くらいのものだ。
 簡素なものだ。当時の草鞋を模したものを見るのは初めてだ。こんなもので歩いていたのか。ぼくらがこれで歩くと,親指と人指指の間の皮膚が切れて血が出るだろうな。路面から受ける衝撃を吸収するゴム底もないわけで,これじゃかなり疲れそうだよ。
 これで江戸から東北を回って大垣まで歩いたのか,とうたた感慨に浸ったわけだ。ぼくらは相当に過保護というか,江戸時代の日本人から見たら重装備もいいところだよ。

● 狭いけれども庭園もある。芭蕉にゆかりの植物が植えられているようなのだが,ここもぼくにはアウェイになる。ゆっくり見てあるこうかとも思わず,サッサと通過してしまった。
 この記念館は隅田川の川沿いにある。川沿いを下流に向かって
しばらく歩くと,芭蕉庵があったとされる場所に出る。今は芭蕉稲荷神社が祀られ,境内に芭蕉庵跡の碑がある。
 ここに来るのは二度目だ。7月25日にも来ている。散歩するのにもいいところだと思う。

● この先に芭蕉庵史跡展望庭園がある。小名木川が隅田川に合流する,まさにその場所。そうか,ここから芭蕉は『おくのほそ道』に旅立って行ったのかと思ってみる。
 今なら新幹線でパパッと行けるし,治安の問題もない。追いはぎや泥棒とも無縁だ。江戸時代にはどの程度の重さがあったのだろうなぁ。

● 小名木川の最も下流に架かる萬年橋を渡って,隅田川に降りてみた。これで芭蕉の影響圏の外に出たような気がした。
 もちろん,単純な気分の問題にすぎな
い。芭蕉はおそらくここから北を見ていたに違いないと,勝手に思ったわけなのだ。



(追記 2020.10.04)

 芭蕉庵史跡展望庭園。昨日は川辺から眺めただけの芭蕉像に会いに行った。視線の先には隅田川があるわけだが,その向こうに松島の月を見ていたんでしょうなぁ。千住まで舟で行って,そこから歩き始めるプランを考えていたんでしょう。
 芭蕉46歳で「奥の細道」に出立し,5年後に亡くなっている。

2020.10.03 東向島散歩-東武博物館

● 東武宇都宮駅。すっかり馴染んだ感のある,南栗橋行きの4両電車。今週もお世話になる。
 今日はまず東向島に行こうと思う。曳舟で降りて,歩いてしまった方が早いかなぁ。と思ったんだけども,曳舟から電車でひと駅戻った。

● 何度目かの東向島。駅を出た瞬間に目に入ってくる商店街の光景は,独特の匂いを持っている(ような気がする)。
 この街の生立ちによるものか。この場所の霊気? が然らしめるものか。昔から知っているような,妙な既視感も伴う。

● 駅からフラフラと玉ノ井を歩いてみたくなるわけだけども,まずは隣接する東武博物館に行くことに。
 先週,浅草駅でこの博物館の催事のチラシを見て,行ってみようと思ったわけなのだ。会社に運動会があった頃というタイトルの写真展のチラシだった。
 入場料は210円(交通系電子マネーで払えば200円)。

● 往年の電車の本物が展示されている。開業当時(大正時代)の木造列車も。乗り込むこともできるが,椅子に座ってはいけないことになっている。
 英国製の蒸気機関車もある。同じく英国製の電気機関車も。その他,いろいろ。ついでに言うと,東武のバスも展示されている。ぼくら,子供の頃,田舎ぁのバスはぁ,おんぼろぐるまぁ,とか歌っていたけれど,その頃のバスだね。

● パノラマショーは1日5回。何時に行ってもたぶん見ることができるだろう。ぼくも見た。1階でやる。観覧席もある。が,これは2階に上がって,2階で立ってみるのがお勧め。
 シミュレーション運転もできる。のだが,これは人気があって,子供たち(いい歳をした元少年もいるんだが)が列を作って順番を待っていた。さすがに,その列に並ぶのは憚られた。
 というわけなので,小さな子供を連れて来ている夫婦が多い。1人で来ている男性もけっこういる。鉄成分が強い人だね(ぼくもそうだが)。いや,楽しいです,ここ。

● 一番惹かれたのは,路線網の変遷をパネルにした展示。まずは1910(明治43)年。この時点では伊勢崎線しかない。ただし,現在の亀戸線(曳舟~亀戸)は同時に開業したらしい。この頃,春日部は粕壁だった。
 1930(昭和5)年になると,東上線,桐生線,佐野線,日光線ができている。東京都下には新駅がたくさんできてもいる。佐野線は葛生の先に,会沢線,大叶線がある。石灰を運ぶための貨物線だったんだろうか。

● 1944(昭和19)年には日光線から宇都宮線が分岐している。しかも,西川田から大谷線が分岐。大谷石を運ぶための路線だろうと推測できるが,鶴田にも駅があるから,人も運んでいたのだろう。
 さらに,下今市から分岐する鬼怒川線もできた。矢板線っていうのもあったんですねぇ。新高徳から船生を通って矢板まで線路があったのか。
 おそらく,この頃が鉄道網が最も賑やかだった時代なんでしょうね。栃木県でいえば,東武の他に東野交通が鉄道を走らせていた。八溝開発という国策に沿うもの。

● 当時の国鉄も,現在の烏山線を烏山から馬頭を通って常陸大子まで延ばして水郡線につなぐ計画だったと聞く。さらに,烏山から茂木まで延ばして真岡線につなぐ。下館で水戸線につながることになる。まさしく,鉄道が交通の太宗だったんですねぇ。
 もし,それらが実現されていれば,今頃はそっくり廃線になっていたろうけどね。烏山線も生き残れなかったろう。

● ここに来るキッカケになった写真展は2階で開催。昭和30年頃の駅の待合室とか商店街とかの写真。戦後まだ10年しか経っていない。今とは比べようもないほどに貧しかった。その様子は隠しようもなく写真に写っている。
 時々公開される北朝鮮の民衆の写真と似ている。貧困ゆえの悲惨も数え切れないほどあったはずだけれども,それでもみんな生きてたんだなぁ。愛おしさを感じる。それは,子供だった自分への愛おしさかもしれない。

● 博物館のある東向島についてもパネルの展示がある。このあたり,昔は寺島町といった(滝田ゆう『
寺島町奇譚』を読み返してみようか)。
 寺島町だった昭和10年頃の地図がある。京成の白鬚線が走っていた。吉行淳之介が『原色の街』で「隅田川に架けられた長い橋を,市街電車がゆっくりした速度で東へ渡って行く」と書いている。その市街電車は京成ではないのでしょうね。
 吉行淳之介『原色の街』の舞台は,ここから少し南に行った “鳩の街” になる。

● たっぷり楽しんだ。210円でこれだけ楽しめるんだからありがたい。東武さん,ありがとう,ってなもんだ。お礼に東武線の全線に乗ってみようかと思う。
 といっても,すでに桐生線にも小泉線にも亀戸線にも乗っているし,もちろん佐野線にも乗っているので,残っているのは東上線,越生線と,大宮~春日部~船橋のアーバンパークラインだけだ。

● 博物館を出て,東向島の街を少し歩いてみた。東京に住むとしたら,ぼくはここがいい。築ン十年の木造アパートがあったっけな。そこなら部屋代も安くすみそうだ。
 そうして,私家版「濹東綺譚」を紡いでいけばいいのじゃないか。永井荷風の頃とは時代も環境も違うから,荷風がやったようなことはできないけれど(荷風の時代にだって,荷風のようにはできないだろうが),この街の空気を吸って,食べて,飲んで,寝て,起きて,また食べてとやっていく。
 ま,夢だね。実際に住んでる人にすれば,色々と不満もあるんだろうけどさ。