2020年8月31日月曜日

2020.08.31 丸刈りにした

● 散髪に行った。いつもの千円カットの店。丸刈りにしてきた。中学生のとき以来,半世紀ぶりの丸刈りでござる(丸刈り強制の田舎中学だったので)。
 心境の変化なんて全然ないです。髪なんてどうでもいいと思ってる。伸びてきて邪魔くさい → 全部切ってしまえ という単純な流れです。

● 奥さまには事前に話して了解を得ていたんだけども,かなり不評。一緒に歩きたくないとか(歩いてもらわんでもええんだが),こんなに年寄りだったのぉとか,爺ちゃんに見えるぅとか,言われ放題。
 すぐに伸びてくるでしょうから元に戻しなさい,との仰せでござるわい。

● 中学生のときと違うのは,額から頭頂部までの部分に毛がない(あるいは,ポシャポシャと疎らにしかない)ことと,坊主頭になっても基本色は白であることだ。
 シラグリ君(または,シロゴマ君)と呼んでくれたまえ。

● 頭を丸めたからといって修行僧のごとき趣を醸すわけもない。自分で言うのも何なんですが,可愛らしい爺ちゃんができあがりましたよ(ただし,写真は載せない)。アニメの一休さんのごとある(残念,そんなに可愛くない,と奥さまは言う)。
 名前も変えた方がいいな。今日より以後は,一休入道と名乗ることにするか。

2020年8月19日水曜日

2020.08.19 パソコンやスマホにワクワクしなくなった訳

● 昔はパソコンショップに行くとワクワクしたものだった。近未来がそこにあるという感じで。宇都宮だと戸祭にパソコンランド21があり,馬場町にT-ZONEがあり,駅東にαランドがあった。駒生のコジマに行くのも楽しみだった。
 新製品が出れば見に行ったし,カタログをもらってきて1ページ目から見ていくのもワクワクする体験だった。

● が,今は,そうじゃなくなった。パソコンもスマホも何のワクワクもくれない機械になった。コモディティ化したからだと言われれば,なるほどそうかと思うわけだが,それでは何も説明していないようにも思える。
 とはいえ,パソコンもスマホも,夢を見させてくれないようになってからの方が,ガシガシ使うようになっている。

● なぜコモディティ化したのか,ワクワクしない機械になったのか。誰もが使うようになったからというのが,第1の理由。ワクワクするのは前提として自分が少数派に属しているという自覚があればこそだ。
 第2に,スペックの向上ができることの質的変化と結びつかなくなったからだ。今は5年前のパソコンでもまったく支障なく使うことができる。今世紀の初頭なら,5年というのは文字どおり一世代の違いを意味していたと思うのだが。

● 表計算ソフトもワープロソフトも,夜に出た当初はすごいものができたものだと思わせた。これを使えば,今までやってきた作業を大きく省略できると思わせた。しかも,間違うことがないのだ。自分の能力を拡張してくれるもののように思えた。
 インターネットもそうだ。個人が自分のホームページを持つのはハードルが高かったけれども,ブログができSNSができると,誰もが誰に制約されることもなく,自分が思うことを世に問うことができるようになった。

● 画期的なことだったはずだが,誰もがそれをやりだすと読み手がいなくなった。
 さらに,情報の流通経路がいかに整備されても,凡百の意見はその経路の中で止まってしまう。速度が与えられない。後には徒労感と無力感だけが残る。

● パソコンのスペックがいくら上がっても,パソコンでできることはそのあたりで止まったままだ。
 VR体験をパソコンで味わおうとすれば,最新型のスペックでも足りないのかもしれないけれども,そうしたフロントラインに立っていない多くの人にとっては,スペックの向上がどうでもいいものに見えているのではないか。

● ともかく,パソコンやスマホを見ても昔のようにワクワクしなくなった。パソコンは誰でも持っている,どこにでも転がっている道具になったのだ。
 しかし,それ以上に,スペックの向上が自分の能力を拡張してくれるものではなくなったからではないか。パソコンを使ってもここで止まったままの自分の能力を見る思いがするからではないか。

● 自分はこの程度だったのかという終わった感。それがパソコンやスマホに昔のようなワクワク感を覚えなくなった理由かもしれない。
 昔は,パソコンやスマホに今とは違うステージにいる自分を想像させる力があったのだ。が,今はそれを想像することができない。そして,それはパソコンやスマホが悪いのではない。

2020.08.19 ウォークマンに滝行をさせてしまった件

● 今となっては一昨日(17日)のこと。スーパーに買物に行った。片道700メートルくらいだろうか。
 行った以上は帰ってくる。歩いていくんだけど,復りに遭難しそうになった。あまりに暑くて。
 昔は30度っていうとかなり暑いというイメージだったけど,今だと30度しかないのかと思っちゃうよねぇ。無体だよ,この暑さは。

● 家に着いたときに,鍵を取り出して玄関を開ける作業が億劫でしょうがなくて,家の軒下に座ったんですよ。小さい縁台があってですね。風も通るので。
 落ち着いたところで,ウォークマンで音楽を聴いたんですよ。20分くらいだったかな。で,家に入ったわけですが。

● その際,ウォークマンを縁台に置いたまま,家に入ってしまったんですよねぇ。
 その夜,かなりの勢いで雨が降ったじゃないですか。ぼくのウォークマンはずっと雨に打たれていたんでした。
 軒下だからその雨がストレートにあたることはなかったろうけど,それにしたってあれだけの降りだったんだから,タップリと濡れたろう。

● 気がついたのが昨日の昼のことでして。部屋にウォークマンがないのでアレッと思ったんですよね。でも,すぐにピンと来ましたよ。ヤベェって。
 軒下の縁台の上にやっぱりあって。あっりゃー,やっちまったよ,と。

● バッテリーがけっこう消耗しちゃってました。充電したばかりだったんだけど。
 とりあえず聴いてみたら大ボリューム。鼓膜が破れるかと思った。慌てて下げるボタンを押したら,今度は下げ止まらない。ボリュームボタンがバカになっていましたね。
 でも,使っているうちに正常化。昨日はどうにか使えました。

● で,充電しなおして,これから聴いてみようと思うんですが,どうやら大丈夫っぽい。
 タフですね,ウォークマン。もう4年ほど使っているので,ストリーミングウォークマンに買い替えてもいいかなと思ってたんですが,まだまだ行けそうです。SONYさん,ありがとうございます。


(追記 2020.08.20)

 電源OFFにしてもひと晩おくと,バッテリーがほぼ空になっていた。こういうことはこれまでなかったので,雨に打たれたせいでしょうね。ウォークマンに滝行をさせてはいけないということですね。
 バッテリーを交換するか,ストリーミングウォークマンに買い換えるか,いっそスマホをXperiaに替えてしまって,全部スマホで賄うようにするか。

2020年8月17日月曜日

2020.08.17 コロナ vs GoToキャンペーン

● 今週末はどこに泊まろうかと相方が声をかけてきた。潮見のホテル櫂会の和洋室(48.17㎡)が2万5千円で出ているんだそうだ。
 この部屋には6月に泊まっている。アップグレードで。いやもう,快適すぎた。客室もだけど,浴室がね。
 ホテルの印象を決定づけるポイントはたくさんある。しかし,お客の好みやスタイルがそれぞれ違うから,方程式のように抽出することは不可能だ。ぼくらは(特に相方は)浴室重視。

● ハイアットリージェンシー横浜は2万6千円。ラウンジで酒が飲めて,朝食まで付くプラン。
 今月の6日に泊まっている。そのときは同じ内容で17,500円だった。
 この値段はもうない。GoToの混乱期に予約しておいたから,この値段になった。GoTo前の料金にGoToの還元が適用された形というかな。

● GoToが決まってから,ホテルが出す料金が上がった。GoToが決定され,その運用の仕方がまとまったところで,GoTo決定前の料金がそのままGoTo適用後の料金になったと思えばいいのではないか。
 出血大サービスをやめることができたということだ(と思う)。そのためのGoToだ。そうなってくれないと,GoToを実施する意味がない。

● で,2万6千円なのだが,1人あたりなら1万3千円。前回の感覚からすると,ラウンジで酒を飲むのは少なく見積もっても1万円の価値があり,朝食は5千円と見る。それだけで1万5千円だ。
 ベッドや風呂を使ったり,その他,宿泊に伴う諸々のコストは,すべてホテル側が負担したうえで,お土産に2千円返してくれるというわけだ。

● 銀座のミレニアム三井ガーデン東京。2泊で何と1万7千円。もちろん素泊まりで,相方の用語を使うとショートステイ。18時インの10時アウト。
 にしても,銀座なんですよ。ホテルの宿泊費が高いか安いかのモノサシが,ぼくの場合はバブル期のままなのかもしれない。あり得ない安さに思えてしまう。
 いや,でも,コロナがなければ,1泊でも2万円台になっているだろう。安さは正義だ。それじゃ,ここにしようか。

● しかも,今の銀座は中国人がいないのだ。商売する側にとっては辛いところだろうけれども,中国人のいない銀座はとにかく静かだ。
 ウォークマンで音楽を聴きながら歩くのに好適な街になるのだ。中央通りがホコ天になっていれば,中央通りは音楽を聴きながら歩くべき通りになる。

● 宿泊費が激安のうえに,中国人がいない。こんな環境は今だけかもしれない。なら,今のうちに銀座を堪能しておくべし。
 東京はGoToから除外されている。では東京は割高かといえば,そんな印象はまったく受けない。東京以外では政府が税金で補填している分を,東京ではホテル側が歯を食いしばって自分で負担している。そのようにぼくの目には映る。

● ネットを見ると,GoToキャンペーンに対してはネガティブな意見が多い。現状に手を加えようとすると,それが何であれ,たいていは反対されるものだ。
 大衆は変化を嫌う。変化は抵抗すべき敵だ。変わるときは,誰かに強制されて,文句を言いつつ,仕方なく変わる。自ら変わる(変わろうとする)のは,昨日までの自分を裏切ることになるのだ。
 以上を要するに,愚かで怠惰で臆病なのだ。大衆とは常に必ずそういうものだ。

● それは置くとしても,コロナ感染者が大きく増えているんだから,移動は控えるべきではないのか。移動を奨励するような政策を打つとは何事か。そういうわけなのだ。
 おそらく,情報を読み解く能力もないし,読み解こうとする意欲もないのだろう。したがって,自ら情報を取りに行って,報道の真偽を確認するなどという作業はしていないはずだ。

● ひょっとするとこれが大衆の平均値なのだろうかと,自分を高みに置いて言っているのだが,さすがにマスメディアの報道をここまで野放図に受容するのはどうなのか。
 ではおまえは違うのかと言われると,返答に窮してしまうのだけれども,PCR検査の陽性者がイコール感染者ではないという程度のことは知っている。

● 今は,飲食業や観光業,旅行業に拠ってご飯を食べている人たちの生活をどうするかが,喫緊の課題ではないか。彼らの生活を元に戻すために,協力できる人は協力すべき時期ではないのか。
 やりたくもないボランティアをやれと言われているのではないのだ。政府がGoToキャンペーンを打ち出しているのなら,それに乗って旅行に行ったらいいではないか。
 自分も楽しく,人の役にも立てるなら,こんなにいいことはない。しかも,政府が代金を補填してくれるというのだ。支払った税金を合法的に取り戻したらいい。

● いやいや,ヤツらの中には景気のいいときは好き放題にやってたのもいるんだよ,これでバランスが取れるというものさ,と言いたいかもしれないけれど,そんなヤツばかりじゃなかったろうよ。
 義を見てせざるは勇なきなり,というような大げさな話ではない。コロナで経済的な打撃を受けない人は,あまりシミッタレない方がいいと思うだけだ。
 今は,お金の使いでが大きくなっているのだ。そういうときに使わなくていつ使うのだ?

● ぼくなんか,定年退職してコロナも半分蚊帳の外という気分だ。多少の貯金はある。崩せる貯金は全部崩して,遊び呆けてやろうと思っている。
 コロナ? たぶん,大丈夫。三密を徹底して避ければいい。で,移動してみればわかるだろうが(ということは,ほとんどの人はすでにわかっているだろうが),三密など自ら求めなければそうそうないものだ。

● ところで,上記3つのホテルのどこに泊まるのか。決裁権はぼくではなく,相方が握っている。今のところ,3つとも予約を入れているらしい。
 18日(つまり,明日)までにキャンセルすれば,キャンセル料はかからない。だからしばらく考えてみるという。決定したら下知されるだろう。

2020年8月15日土曜日

2020.08.15 オリオン通りは活気があった

● お盆の中日の21時。宇都宮市オリオン通り。すっかり飲み屋街と化したこのエリアに,けっこうなという以上の人出。二荒山神社でお祭りでもあったのかと思ってしまうほどだ。
 若者が中心。久しぶりに小中高校の仲間が揃ったぜ,飲みに行こうぜ,といったノリで出てきてるって感じですかねぇ。

● 当然,オリオン通りでも流行っている店とそうじゃないのがあって,その差はわりと歴然としている印象を持っていたんだけれども,今夜はどこも流行っているというか。
 路上にテーブルを出している店が多い。三密回避。

● これで大丈夫なのかと不安に思う人もいるかもしれないけれども,大丈夫なのだろうと思う。
 コロナは感染後3日経過すると,感染力が弱まって,人を感染させるほどのウィルスを撒き散らすことができなくなる(PCR検査は結果がわかるまでに,現状では4日かかる。だからやっても無意味),とネットで読んだことがある。本当かどうかは知らないが,信を置いてもいい人が書いていたので,ぼくは信じることに決めた。
 だからといって,こうして同じテーブルに着いて,安い酒(たぶん)を仲間と酌み交わしても,コロナ感染の心配はないということにはならないわけだろうが,この光景を見て感じる印象は「健全」だ。これでいいのだと思わせる。

● もちろん,主観的な印象だ。ぼくは,感染者数が最多を更新してて,都知事が帰省はするな,飲食店は営業時間を短縮してくれ,と言っているようなところへ,わざわざ出かけているような人間だから。
 そういう人間が見れば,見える光景は以上のようなものになる。酒場は流行っていて,初めて酒場になるんだよね,と能天気に感じているわけだ。

● これはオリオン通りではないんだけれども,キャバクラでは店の前に客引きが出ている。黒服だけではなく,キャバ嬢も立っている。同じ光景は,先日,東京の神田駅南口の飲み屋街でも見た。厳しい状況なんでしょうねぇ。
 1時間いかがですか,千円で,と言われても,おお千円でいいのか,じゃぁ1時間だけ,とはさすがにちょっとならないわけでね。この類の店はもともと苦手とするタイプなので,申しわけないけれども素通りするしかない。

● 業態からして,居酒屋チックに路面で商売するってわけにもいかないだろうしなぁ。人から見られるオープンな営業形態じゃキャバクラにならないもんねぇ。
 舞台装置として密室が必要になる。いくら換気をしても映画館や電車のようなわけにはいかない。淀みが出てしまう。
 ワクチンができた後も,ではこの種の業態の店が元に戻れるかとなると,難しそうだ。喉元過ぎれば・・・・・・となってくれればいいのだが。

2020.08.15 東武線で東京まで往復するという遊び

● さて,東武宇都宮駅にいるんだが。今日は右の写真と同じことをやろうとしている。つまり,東武で東京に出て,都内はメトロで移動しようというわけだ。
 東武・東京メトロパスは2,450円だけど,ぼくの場合は2,200円ですむぞ。金券ショップて1枚800円で買った株主優待券と,東京メトロの24時間券(600円)を使うからね。250円だけぼくの勝ち。

● わが家から東京に出るにはJRが圧倒的に便利。便利っていう以上に,JRしかない感じ。JRだと湘南新宿ラインのほかに,上野東京ラインもできて,じつにどうも便利になった。東京駅より南の,たとえば銀座や品川が近くなった。
 それに比べると,東武は時間がかかる。宇都宮から浅草に出るのに2時間半を要する。東武を使うのは,それ自体が遊びの範疇。

● 栃木から特急に乗るという手はあるのだが,宇都宮市在住者なら,急ぐ人はJRの新幹線に乗ってしまうだろう。東武の特急は日光線を走るもので,宇都宮線には乗り入れていない。
 が,栃木より先に住んでいる人,鹿沼や今市の人にとっては,東武線は便利だろうし,早い乗り物だろうし,なくてはならないライフラインのはずだ。

● 東武の特徴は墨田区を走ることだ。墨東の情緒に浸りたいなんていうときには便利だ。曳舟,東向島(旧:玉ノ井),鐘ヶ淵など,独特の風情をかもす名前の駅が続く。
 東武線で最大のターミナル駅は北千住。その北千住は足立区になり,浅草は台東区だ。裏東京(?)の大動脈なのだ,東武線は。

● それに,墨田区,江東区といった墨東エリアは著名人を多く排出している。幕末の英雄,勝海舟がそうだし,世界のホームラン王・王貞治がそうだし,松尾芭蕉が江戸に出てきて,庵を結んだのも隅田川の東だ。奥の細道の起点もしたがって,墨東になるはずだ。
 まぁ,墨西(?)からはもっと多くの人物が出ているんだとは思うんだけどね。

● 裏東京という言葉を使ってしまったが,そこは東京なので,裏と表の境界はない。要するに,近いのだ。たとえば曳舟で東武線に乗れば,そのままメトロ半蔵門線に乗り入れて,日本橋や大手町はすぐだし,渋谷まで乗換なしで行ける。
 都内で住むんだったら,裏東京は狙い目なのだ。ぼくに都内に住めるお金はないけれども。

● この日は,浅草からメトロ銀座線に乗り,赤坂見附で丸の内線に乗り換え,荻窪まで。復りは丸の内線で東京まで乗って,大手町を少し歩いてみた。
 で,大手町から半蔵門線に乗って,押上から東武線に入るというルートで,無事に帰宅した。

● どうでもいいことなんだが,東京の地下鉄の乗換えではけっこう歩かされるねぇ。東京に通勤している人は,毎日,充分すぎるトレーニングをやっていることになるのではないか。東京に住んでいると,メンタルもフィジカルも,かなり強化さえるのではないかね。
 特に大手町での乗換えは歩かされるよねぇ。何なのよ,この距離は。ひ弱な田舎者はこれだけでヘタっちゃいますよ。

● ひとりで東京に出たときは,ぼくは富士そば派。っていうか,ひとりで入れる店を他に知らないっていうだけなんだけども。
 荻窪北口店。特盛りそば,530円。ここのところ,こればかり。以前は富士山盛りを食べてたものですが,歳を取って胃が縮みましたかね。

2020.08.15 宇都宮にも色街のなごり

● 東武線で東京に行こうと思う。となると,JR宇都宮駅から東武宇都宮駅まで移動しなければならない。大通りを行くのが最も紛れがないのだが,最もつまらないルートでもある。
 裏通りというのか路地というのか,そうしたところを歩いて行きたい。ま,何度もそうしているのだけども,まだ歩いていないところがあるはずだ。

● そうして歩いて行ったら,稲荷社を祀っているところがあった。小ぶりでなかなかいいたたずまいの稲荷社だ。地域の有力者か年寄りかは知らないが,こまめに掃除をしているのだろう。長く手をかけてこないと,こういうたたずまいにはならないものだ。
 稲荷社を祀っているというのは,自営で商売をしている人が多いか,少なくともかつては多かったことの証明ではないかとも思う。

● 質屋がある。質屋とは何かといえば,最も原初的といっていい金融業だ。担保を取って金を融通することを業とする者だ。したがって,担保価値がわかる者でなければならない。
 昔は担保になるものがたくさんあったわけではなかろうから,その知識を得るのはさほどに難しいことではなかったのかもね。
 その質屋が今に至るも残っているのは,この一帯には昔ながらの生業(なりわい)が残っているということであろうか。

● 2階に格子の手すりがついた木造の建物も見える。旅館だったのかもしれないし,宴会主体の酒類提供業者だったかもしれないが,提供していたのはおそらく酒だけではなかったろうと思える風情の建物だ。
 ひょっとすると娼妓が常駐していたのかもしれないと,想像を逞しくしてみる。江戸時代まで遡る必要はない。大正あたりから昭和30年くらいまでの賑わいはどんなものだったのかと映像を作ってみればいいだろう。

● これは現役の旅館なんだろうか。だとすれば,どんな人が泊まっているんだろうか。商人宿という言葉が昔あったが,今はビジネスホテルが取って代わっている。
 こうした旅館がそのまま営業しているとすれば,すこぶる珍しい例になるのではないか。が,おそらくもう営業はしていないのではないかと思う。

● この旅館の先には酒場が軒を連ねていたのだろう。それらの多くもすでに廃業しているんだろうかな。
 が,殷賑を保っていた時代,このあたりをそぞろ歩く男や女のざわめきが聞こえてくるようではないか。

● これは三角地の角に建つ建物だ。かつてはカフェでもあったろうか。
 いや,新しい建物かもしれないのだが,女給がいたカフェだと措定すると何だか楽しくなってくるではないか。

● 写真の右側には釜川が流れている。このあたり,釜川のほとりなのだ。いよいよ,条件は揃ってきた。このあたりはかつて色街だったところなのじゃないか。
 これほどにそのなごりをとどめているのは,かなり珍しいのではあるまいか。また歩いてみたいものだ。

2020年8月14日金曜日

2020.08.14 発信手段はどんどん増えるが・・・・・・

● インターネットがあれば誰でも情報を発信することができる,自分のメディアを持つことができる,と言われてきた。
 初期のホームページの時代は,発信するのは企業や行政府や大学といった,法人かそれに準ずるようなところだけで,個人ではなかなかハードルが高かったが(IBMの「ホームページビルダー」なんてソフトがあったけど),ブログが生まれ,SNSができると,そのハードルが一気に低くなった。っていうか,ハードルが消滅した。

● 最近では “note” なんてのもできた。ブログとどう違うのか,ぼくはよく知らないが。
 SNSだけでも,Twitter,Facebook,Instagramの御三家があり,LINEもSNS機能を備え,今ではYouTubeもSNSに数えていいだろう。他に,Mastodon,Snapchat,SNOWとあるのだ。ぼくが知らないだけで,他にもあるのだろう。
 発信方法は多様になる一方だ。テキストから始まり,画像,音声,動画も取り扱えるようになり,今や猫や犬に変身することもできるようになった。

● ブログを書きつつ,TwitterとFacebookとInstagramをやり,さらにnoteにも手を出している人もいるだろう。媒体に応じて内容を変えているのではなくて,同じものを複数の媒体にあげているのではないか。
 なぜそんなことをするのかといえば,読み手を獲得したいからに違いない。しかし,結果は虚しいものでしょう。
 媒体を増やしてみてもダメなのだ。つまり,ゼロはいくら加えてもゼロだからだ。

● 今や,ネットにおいては書き手ばかりで読み手がいない。
 SNSはお互いに書き手であり読み手ではないのかと思うかもしれないけれど,そうではない。他人の投稿など読んじゃいない。読み流して“いいね”を付けているだけだ。
 自分を顧みればわかるはずだ。他人も同じことをしている。

● ブログもSNSもnoteもと,何にでも喰いついているようでは,その時点で終わりではないか。根拠があって言ってるわけではないんだが。
 同じ内容を複数の媒体を使って発信してみても仕方がない。ブログならブログ,TwitterならTwitter,noteならnoteとメインをひとつ決め,補助的にもうひとつ使うくらいでいいのでは。
 Twitterで何十万人というフォロワーを獲得している人が,別の媒体からうちでも何か書いてくれないかとスカウトされて,結果,いくつもの媒体に書いている人もいるかもしれないけれども,当然ながら,一般人のロールモデルにはならないものだ。

● さらに根拠のないことを言うと,SNSの時代もすでに最盛期は過ぎたのではないかと感じることがある。インフルエンサーとかユーチューバーとか,何万人ものフォロワーや何十万ものPVを得て,高収入を得,もてはやされるのも,終わりが近いかもしれない。
 厭きられない人はいないのだ。諸行は巡る。

● 有名になりたい? インフルエンサーになりたい? 無名こそ,最高ではないか。無名は生まれながらにして誰もが持っているものだ。それをムザムザ捨ててどうする?
 金持ちになるのはいい。が,有名になった結果,金持ちになるんじゃ,トータルでゼロだ。“有名で貧乏”は最悪だ。貧乏なら,無名が有名に勝る。
 何が言いたいのかといえば,あなたは(ぼくもだが)最下層ではないということだ。あなたよりも下が必ずいる。なぜなら,あなたもぼくも無名だからだ。ぼくらの下に“有名人”がいるのだ。そういうことだ。

● ネットで無理な演技をしても仕方がない。タンポポがネットでバラになろうとしても無理なこと。
 自分がタンポポであることをそろそろ認めた方がいいんじゃないか。タンポポにはタンポポの咲き方があるはずだから。