● 昔はパソコンショップに行くとワクワクしたものだった。近未来がそこにあるという感じで。宇都宮だと戸祭にパソコンランド21があり,馬場町にT-ZONEがあり,駅東にαランドがあった。駒生のコジマに行くのも楽しみだった。
新製品が出れば見に行ったし,カタログをもらってきて1ページ目から見ていくのもワクワクする体験だった。
● が,今は,そうじゃなくなった。パソコンもスマホも何のワクワクもくれない機械になった。コモディティ化したからだと言われれば,なるほどそうかと思うわけだが,それでは何も説明していないようにも思える。
とはいえ,パソコンもスマホも,夢を見させてくれないようになってからの方が,ガシガシ使うようになっている。
● なぜコモディティ化したのか,ワクワクしない機械になったのか。誰もが使うようになったからというのが,第1の理由。ワクワクするのは前提として自分が少数派に属しているという自覚があればこそだ。
第2に,スペックの向上ができることの質的変化と結びつかなくなったからだ。今は5年前のパソコンでもまったく支障なく使うことができる。今世紀の初頭なら,5年というのは文字どおり一世代の違いを意味していたと思うのだが。
● 表計算ソフトもワープロソフトも,夜に出た当初はすごいものができたものだと思わせた。これを使えば,今までやってきた作業を大きく省略できると思わせた。しかも,間違うことがないのだ。自分の能力を拡張してくれるもののように思えた。
インターネットもそうだ。個人が自分のホームページを持つのはハードルが高かったけれども,ブログができSNSができると,誰もが誰に制約されることもなく,自分が思うことを世に問うことができるようになった。
● 画期的なことだったはずだが,誰もがそれをやりだすと読み手がいなくなった。
さらに,情報の流通経路がいかに整備されても,凡百の意見はその経路の中で止まってしまう。速度が与えられない。後には徒労感と無力感だけが残る。
● パソコンのスペックがいくら上がっても,パソコンでできることはそのあたりで止まったままだ。
VR体験をパソコンで味わおうとすれば,最新型のスペックでも足りないのかもしれないけれども,そうしたフロントラインに立っていない多くの人にとっては,スペックの向上がどうでもいいものに見えているのではないか。
● ともかく,パソコンやスマホを見ても昔のようにワクワクしなくなった。パソコンは誰でも持っている,どこにでも転がっている道具になったのだ。
しかし,それ以上に,スペックの向上が自分の能力を拡張してくれるものではなくなったからではないか。パソコンを使ってもここで止まったままの自分の能力を見る思いがするからではないか。
● 自分はこの程度だったのかという終わった感。それがパソコンやスマホに昔のようなワクワク感を覚えなくなった理由かもしれない。
昔は,パソコンやスマホに今とは違うステージにいる自分を想像させる力があったのだ。が,今はそれを想像することができない。そして,それはパソコンやスマホが悪いのではない。
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