● パソコンとかスマートフォンとか,まぁ,買わないんだけど(だって,一度買えば数年は使うから),しばしば覗きに行く。
大昔はパソコンは夢を見させてくれる装置だったが,今は文房具のひとつになった。自分を変えてくれるかもというワクワク感を与えてくれるものではなくなった。生産性を大きく向上させてくれ,自分にも見えなかった自分の可能性をひょっとしたら発掘してくれるかもしれない,という幸せな錯覚に誘導してくれるものでもなくなった。
● パソコンもスマホも,現在から見れば,格差を拡大するツールだった。能力を拡張するツールなのだから,そうなるのが当然だったのだ。
もともと百の能力を持っていた人は,パソコンやスマホを使うことによって,千にも万にも拡張できたが,十しか持っていなかった人は,せいぜい百か二百にしかならない。ゼロだった人はいくら拡張してもゼロのままだ。
● しかも厄介なことに,インターネットが普及して,能力がない者は無能を隠す術までも奪われた。
昔は,うまく行かない理由を運のせいにもできたし,上役なり取引先なり発注者の無理解のせいにもできた。今は,だったらネットに載せればいい,直接視聴者に届けられるじゃないか,と言われてしまう。
自分の無能のせいであることを隠すことができなくなった。いやでも,自分の無能と向き合わざるを得なくなった。
それがわかった以上,もうパソコンやスマホに幻想を抱くことはできない。
● SNSが普及して,誰もが “自分” を発信できるようになった。が,その発信力は人によって強弱がある。強弱があるという言い方では追いつかないほどの大差がある。
Twitterならそれはフォロワー数に現れる。2桁の人から7桁のフォロワーを持つ人まで。それがつまり能力格差というものだ。
● フォロワー数がすべてではない,自分はフォロワー数を増やすためにツイートしているのではない,と嘯くのは自由だし,そのようにして自分の何かを守ろうとしている人は多いはずだ。しかし,それはおそらく自分の能力のなさと向き合うことを避けるための言い訳にすぎない。
フォロワー数などどうでもいいと思ってツイートしていても,千人のフォロワーも作れないようではTwitterなどやめた方がよい,という意見もあって,正直,その意見は正しいと思う。
● 実際に自分のツイートを読んでくれている人はフォロワーの多くて1割だろう。フォロワーの桁が増えるにしたがって,その割合は低下すると思うのだが,そうであっても千人のフォロワーもいないのであれば,Twitterではなく端末のハードディスク(SSD)に吐きだしておけばいい,となる。
フォロワーを増やすテクニック的なものもあるにはあると思うのだけども,そういうものに無頓着であっても,千人のフォロワーも獲得できないようではね。
かく申すぼくもまったくダメな部類に入る。
● ともあれ,パソコンやスマホ,インターネットによって,経済的にも,非経済的な部分でも,持てる者と持たざる者との格差が拡大したことは間違いないように見える。
アップルが1980年代に初代のMacintoshを世に出したとき,自分たちの製品を「The computer for the rest of us」と称した。大企業や大学の研究部門しか持てなかった大型コンピュータに対して,一般人でも持つことのできるコンピュータだよという意気込みを示したスローガンだったのだろう。
が,当時は人類のほとんどが「rest of us」に該当した。その「rest of us」の中で,見事に格差がクッキリするようになった。
● それに有効な作用を果たした道具立てがITというものだった。おそらく,この傾向は加速することはあっても,かつての1億総中流に戻ることはない。
能力格差という “神” が闊歩する時代が当分は続くだろう。それはいっそ清々しい光景でもある。ダブルスタンダードがない。単純でわかりやすいからだ。
● それを鬱陶しいと思うだろうか。能力を持たないぼくらがつけ入る隙がまったくないわけではないと思うのだが,下位に甘んじてしまうというのも楽に生きる方法のひとつだと,ぼくは思う。
現在の日本で喰えなくて死ぬ心配は要らない(よほど特殊な例を除けば)。下位にいて自由時間を確保して,やりたいことをマイペースでやっていくのも悪くはない。
それが最も賢い生き方かもしれないと,冗談ではなく,この歳になると思ったりもする。
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