2021年3月31日水曜日

2021.03.31 相方の退職の日

● 相方が定年に6年を残して今日で退職。限界だったようだ。体を壊してまでやるに値する仕事などこの世に存在するはずがない。無理をすることはない,辞めたらいい,と単純に思う。
 ぼくのヒモ暮らしも1年で終わってしまった。4月からは切り詰めた暮らしをせねば。何せ,ぼくの月10数万の年金でやっていくのだ。
 蓄えも多少はある。付き合いだとか,夜遊びだとかをする年齢でもないので,つましくやれば何とかなると思っている。

● かつて話題になった,年金以外に2千万円の金融資産が必要というのは,標準世帯というのを基準にしている。標準世帯では奥さんが専業主婦なのだ。
 今どきそれを標準にするのも時代がかっていると思う。標準世帯にピッタリはまる例はむしろ少ないのではないか。
 医療については国の制度が手厚い。これでいいのかと思うほどに手厚い。ゆえに,保険会社が勧めてくる医療保険になど入る必要はない。保険会社を太らせるだけの話だ。老後のお金は有効に使わなければならない。

● そういうことはともかく。つましい暮らしに入る前に,相方のお疲れ様でしたのイベントをこれからする。
 といっても,ぼくが企画したわけではなく,相方が自分で決めたことなのだが。
 区切りの東京行きだ。安いホテルに1週間ほど泊まる。疲れを全部取ってもらおう。

● 途中,東京駅で降りた。八重洲南口の高速バスターミナルを眺めて過ごした。
 コロナで苦境にあるのだろうけど,それなりに活気もある。ひと頃は,夜行バスの多くはLCCに取って代わられて全滅すると言われたこともあったが,LCCがひと足先にコロナで倒れてしまった。
 業界の中でも明暗がある。いや,明はないのだろうが,暗の濃さが違う。

● 京葉線の地下ホームに向かう途中の広告。じつは今夜はこのホテルに泊まるのだけども,何,これ? と思わせる。
 いや,オートキャンプ場で行われているキャンプなるものも,似たようなものかもしれない。あれ,たぶん,キャンプごっこなんだよね。家でやっていることをキャンプ場でやっているだけの。子どもを巻き添えにした,大人のままごと遊び。
 なら,ホテルでキャンプの真似事をする方が,いっそ潔くて清々しい。

● 潮見のホテル櫂会。去年の6月からけっこうお世話になってきた。今回は701号室。ぼくらの身の丈に合ったところでゆっくりしようと思う。
 朝食付き,冷蔵庫の飲物フリーで9,455円。相方情報によると,3月31日はどのホテルでも安い宿泊プランが出るのだそうだ。コロナの有無に関係なく,この時期は閑散期になるわけだろう。加えて,緊急事態宣言の名残りもあるかもしれない。
 4月からは同じプランが19,000円になる。とはいえ,その価格を維持できるかといえばかなり疑問だ。業界の苦境は続く。

● 冷蔵庫の中の飲物がタダなので,ビールをチビチビ飲みながら,潮見駅のホームを眺めている。竜宮城にいる浦島太郎の気分だね。

● ホテルのメインダイニング「アンサンブル」で夕食。この分は宿泊料には含まれていない。が,以前に泊まったときに,食事券をもらっていたのだ。そろそろ使用期限が近くなったので,使わせてもらった。つまり,この夕食はタダ。
 手袋をはめてのバイキング。自分では絶対に作れない料理が数々あるわけだが(以前に比べると,品数が減っているのは致し方がないところか),一番旨かったのは,前菜のイカのマリネ。

● ワイングラスごしのピアノ演奏。「桜坂」とか「赤いスイートピー」とかじゃなくて,もっと弾きたい曲があるのかなと思ってみたりもするけれど,そこはプロだもの,場に合わせるだけですわ,だろうな。
 お客さんがみな帰り,ぼくら2人が残った。この後,もう一回演奏があるらしい。ではというわけで,その演奏が終わるまでいることにした。最後の演奏は貸切で聴けたわけだ。だから何がどうということではないのだが。

● ジュースはテイクアウトも可。「アンサンブル」と客室棟を結ぶ2階通路(中庭)で,ガメてきたジュースを飲みながら休憩。この光景も悪くない。
 寒い時期以外なら,この時間帯に外の空気を呼吸しながらボーッとするのは贅沢でありましょう。

● このあと,ホテルを出て,外を歩いてみた。汐見運河を散歩。21時を過ぎているのだが,この建設会社の灯りは煌々と点っている。建設会社は特に年度末が最も忙しい時期かもしれない。
 いや,建設会社に限らず,普通に見られる光景ではあるなのだが,ここまで働いても日本人の生産性はイタリアに及ばないと聞いたことがある。

● 一方,汐見運河では釣り糸を垂れている人もいる。対象的だ。
 少し前までは,遅くまで忙しく働いている人が人生の勝ち組で,趣味に走っているのは引退したロートルか,悟りを開いてしまった人(つまり,負け組)と見られていたのではなかったかと思うのだが,どうなんだろうかなぁ。
 君たちの娯楽は仕事なのかね。なら,いいんだが。でもさ,この時間に夜釣りを楽しんでる人もいるんだぜ。どっちの人生がいいかね?

● 京葉線で東京に出て,令和2年度最終日の東京駅丸の内広場に行ってみた。格別のこともなし。あたりまえだ。

2021年3月29日月曜日

2021.03.29 コロナの功罪

● コロナ禍で最も言われたのは,「三密を避けよ」だろう。感染拡大を防ぐために3つの密(密閉・密集・密接)を避けよ,と。
 これを言い換えれば,肩を寄せ合ってはいけない,ということだ。さらに言うと,コミュニケーションをするな,ということだ。

● 人がするコミュニケーションの中でも,最も大切にしなければいけないものは,“雑談” だろう。依頼とか,指示とか,質疑応答とか,議論とか,討論とか,そういうものではなくて,“雑談”。
 しかるに,電車の中でもショッピングセンターにいても,会話はお控えくださいと言われる。テープの声がしつこくそう言う。
 人間は群生動物であるのに,群れてはいけないと言われているようなものだ。人間の本性のかなり根幹にある部分に手をつけて,そこを変えよ,と言ってくる。

● 昨年4月に最初の緊急事態宣言が出されたときは,変化がクッキリしていた。平日の宇都宮駅の改札前が閑散としていた。とにかく,人がいないのだ。
 志村けんが亡くなったことが,人々のマインドに大きく影響した。コロナは怖いものなのだ,と。

● しかし,それを見て,こんなものを長く続けられるはずがない,と思った。2ヵ月が限界だろう。それより長引けば,気が緩むとか,隙ができるとか,そういうことではなくて,そもそもが無理だろう,と。頭ではわかっていても身体がついていかないだろう,と。
 が,そこから現在に至る状況を見ると,多くの人は長きにわたってそれを続けているように見える。2ヵ月が限界というぼくの予想は外れたわけだけれども,長きにわたって続く方が不思議に思える。

● 飲食,観光,運輸などの産業は大打撃を受けた。一方で,会社の宴会や接待がなくなって,喜んでいる会社員も多いだろう。
 会社が部署単位でやってきた暑気払いとか忘年会とかいう宴会は,やらなくても支障がないことがハッキリした。コロナが終息した暁には,これらの宴会は旧に復するだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れるだろうか。
 おそらく否だろう。形は戻っても,全員参加が暗黙の前提という状況はなるまい。ということは,宴会需要は元には戻らないということだ。それに依存して商売してきたところは辛くなる。

● 接待も然りだ。こんなものはやっても仕方がない,効果が見えない,と誰もが思っていたはずだ。
 しかし,社会事象にも慣性の法則は働く。効果が見えないからといって,単刀直入に止めることにはなかなかならない。「止めてしまうのは簡単だけど」とリスクを避けることを第一義にした現状維持論(思考停止ともいう)が幅を利かせるものだ。

● コロナがブルドーザーのようにそうしたつまらないものをなぎ倒して行った。これもコロナが終息したからといって,元に戻るものではない。
 したがって,接待需要で成り立っていたところ(おそらく,銀座の高級クラブがその代表ということになるのだろうが)は,厳しく淘汰される。

● 飲食業のある分野というのは,ずっとバブルだったのだ。コロナが発生して,やっとバブルが弾けた。
 需要が適正水準まで減るだけの話だ。適正水準を超える供給は要らなくなったというだけのこと。
 総じて,虚栄,虚飾で売っていたところは厳しくなる。そうしたところに自分のお金で行く人はいないからだ。誰かのお金(たいていは会社のお金)で行くところだからだ。会社がそうしたものにお金を出さなくなれば,それで終わる。

● では,会社がそうしたものにお金を出さなくなるとなぜ言えるかというと,リモートワークが定着したからだ。
 すでに都心部ではオフィス賃貸契約の終了が相次いでいると聞く。社員が来ないのに高いお金を出してオフィスを借り続ける経営者はいない。コロナが終息したからといって,またお金をだしてオフィスを借りようとする経営者もいない。

● 社員にしたって,一度リモートワークを知ってしまったら,毎日,地獄のような通勤電車に乗って,しかも痴漢の濡れ衣を着せられるかもしれない危険を冒して,出社したいとは思うまい。
 会社に到着したらグッタリ疲れ果てていて,仕事をする気力など湧いてこないほどなのだ。日本のホワイトカラーの生産性がイタリア以下である理由の第一はここにあった。

● リモートワークが定着すれば,会社が社員をホールドできる度合いは低くなる。あたりまえのことだ。物理的条件からして,そうならざるを得ない。
 それを前提に物事は動いていく。労働法規の見直しも必要になるだろう。

● 一方,個人需要に係るものは,コロナが終息すれば元に戻るだろう。
 旅行(特に海外旅行)は引き絞られた弓が放たれるようなものだ。一気に活況を呈するようになるだろう。
 と言いたいのだが,国や地域によっては,不安を残すところが出るだろうから,大丈夫そうなところにおっかなびっくり出かけることになるだろうか。

● 逆はどうだろうか。インバウンドだ。元に戻るだろうか。爆買いの中国人は戻ってくるか。
 戻ってくるとして,日本の小売店は彼らを受け入れるか。中国人で溢れると,日本人は遠ざかる。中国人がいなくなれば,日本人が戻ってくる。舵取りが難しい。
 最近の中国対米国・欧州の対立激化を見ると,日本もいずれかの対応を迫られることになりそうだ。中国人の購買力に頼ることは考えない方がいいように思う。

● 居酒屋の多くは以前の活況を取り戻すことになるだろう。すでに店を閉めたところがかなりあるが,持ちこたえたところにはお客が戻ってくる。
 っていうか,すでにけっこう戻ってきているのじゃないかな。宇都宮ならオリオン通りはどうなっているだろうか。夜の様子を見てこようか。

● が,何もかもが元に戻るかとなると,疑問符が付くものもある。たとえば結婚式だ。結婚披露宴など賑々しくやらないくても何も問題はないことがわかってしまった。葬式も然り。家族だけで済ませても大丈夫なのだ。
 こういうものが元に戻るのかどうか,ぼくにはわからない。人は群れるものだが,群れの規模は小さくなるかもしれない。

● 地域付き合いも変わるかもしれない。ぼくは自治会の班長の回り番にあたって,今年度の班長を務めたのだが,自治会行事の大半は中止になった。自治会費も例年の3分の2になった。
 それで誰か困る人が出たかというと,そんな話は聞いたことがない。自治会など要らないものだと,これまた多くの人が思っていたろうけど,それがリアルに明確になった。
 コロナ終息後も会費は3分の2のままにしておいてくれということになるだろうし,自治会を抜ける人が増えるだろう。ぼくも抜けようかと思っている。

● それに対して,コミュニティがどうのこうのという理屈で反駁するのは,かなり難しい。コミュニティにとって自治会など要らないというわけだから。
 困るのは,自治会を集金マシンにしていたところだ。たとえば,市町村の社会福祉協議会。何もしなくても,自治会が会費を集めてきてくれた。それが失われるかもしれない。

● もし自分が飲食店を経営しているのなら,別の見方になるのだろうが,今のところは,コロナの功が罪を上回ると感じている。
 過剰の多くが精算された。余計なもの(たとえば,満員電車。たとえば,交通渋滞。たとえば,病院をサロンにしていた高齢者)がなくなった。それによって逆に過剰感が増しているものもあるから,全体のバランスが落ち着くのはまだまだ先になるだろうけれども,これらは押しなべて言えば望ましい方向への変化だと思う。

● この1年間,コロナ死亡者を含めても,死亡者総数は減っている。インフルエンザ死亡者の減少が効いている。
 決して悪いことばかりではなかったのだ。

2021年3月26日金曜日

2021.03.26 学び直しなんてやめておけ

● 定年退職組の中には大学(院)で勉強したいと考えて,実行している人がけっこういるのかもしれない。通信制や放送大学なら費用も安くてすむ。
 が,ぼくはやめておけという意見。理由は2つ。

● 第1は,自分にはまだまだ知らないことがある,だから勉強しなければ,と思うのだろうが,いくら書斎の勉強を続けてみたところで,知らないことは減らないということ。
 いや,減ることは減るだろうけれども,それは中禅寺湖の湖水がバケツ1杯分だけ減ったようなもので,総体としては不変といっていいものかと思う。書斎の勉強で知れることなど,それこそしれたものだろう。

● 第2はインターネットの普及だ。インターネットが大学を不要にしたとまで言うつもりはないけれども,少なくとも中高年の学び(学び直し)の場として大学は最適とは言い難くなった。
 インターネットを使った独学が大学に勝るだろう。

● これまで,遠隔教育の限界が説かれることが多かった。しかし,その情報はそれによって利益を得ている側によって説かれていたのだろう。
 今回のコロナ禍によって明らかになったことは色々あるが,その中のひとつがこれだろう。遠隔ではすまないことももちろんあろうけれども,しかし,たいていのことは遠隔で対応できることが証明されたのではないか。

● 社会人大学(院)などというのは,社会人側にそういう需要があったというよりも,少子化による学生数の減少で,定員を確保することが難しくなり,経営難に見舞われることが明らかになった大学側が,事態を打開するために言いだしたのではないか。メディアと一部の勉強好きがそれに乗ったというだけのことではないか。
 還暦まで生きてきた人間が,時代に対応できない経営体を助けるために,自らの残り少ない時間とお金を費やすのは馬鹿げたことだ。潰れて然るべきものを潰さないで残存させてしまうのは,悪事に手を貸すようなものだ。

● どうしてもと言うなら,NHKの各種講座でいいのではないか。語学なら専門学校に通うよりずっといいだろうし,語学以外でも「100分で名著」は大学の授業よりレベルが高い。理系の番組がないのが困るんだが。
 しかし,NHKの講座ももうなくてもいいんじゃないかと思う。教材も教授法もネットにある。

● まぁ,しかし。自分の時間と自分のお金を何に使おうと,それは完全にその人の自由だ。そこは動かないところだけれども。

2021年3月25日木曜日

2021.03.25 LINE不祥事のニュース

● LINEに集まった個人情報が中国当局に筒抜けになっていたというニュース。が,これでLINEユーザーが減ったかというと,そうでもないでしょ。
 多くの人にはピンと来てない。「自分の情報なんか,中国政府が興味を持つようなものじゃない。見たけりゃどうぞ」くらいに思っているだろう。

● LINEの代わりになるものってなくはない。けど,友だち全員が一斉に乗り換えるならともかく,自分だけが乗り換えるのでは,失うものが多すぎるように感じるだろうしね。
 この人脈(?)をまた一から作り直さなければならないのは億劫だ。なら,このまま使い続ければいいか,と。そこが問題だと言われりゃ,それはそうなんだろうけどさ。

● よほど親しい人限定で使うのが,LINEの使い方のコツだとは思うんだけどね。ご主人様が奴隷たちに指示を出すために使っているのを別にすれば。
 会社の同僚だとか学生時代の同窓生だとか,その程度の関係にすぎない人とLINEでつながっても,ノイズが増えるだけで,ストレスまみれになるだけだろうと思うんだよね。そういう人とつながるのにちょうどいいツールはFacebookでは。

● ぼく一個は,その程度の関係の人とネットでつながってどうするのかという意見だけど。いかにしてつながらないですませるか,を考えた方がいいい時期に来ているよね,とっくの昔に。
 ので,今回の件は,くだらないLINE友だちを一掃するのにちょうどいい機会じゃないかと思うんだけどね。

● LINE上層部も認識が甘すぎ。ほとんど話にならないレベルで,相当なペナルティを課さないといけない案件だとも思いますよ。3ヶ月の業務停止命令でどう?

● ま,実際にはそれは難しいらしい。高橋洋一さんのこちらの動画が,そのあたりを平易に解説してくれている。
 ちなみに,その高橋さん,小学校から高校までほとんど登校しなかったと語っている。頭が良すぎて学校に馴染めなかったから。高校では話のわかる教師がおまえは来なくていいと言ってくれたらしい。
 それに見合った何らかの欠落があるはずだとも思うんだけど,そういう人が面白くないはずがないよね。面白さってバランスの欠如の度合いかもしれないね。


(2021.03.27 追記)

● こういう動画もある。渡邉哲也さんの辛口の論評だ。
 ぼく一個に関していうと,LINEなど消えてしまっても痛くも痒くもない。ぼくがLINEでつながっているのは奥さんだけなので(彼女はぼく以外にも数人のLINE友だちがいるらしい),彼女にたとえばViberに移ってもらえば,LINEでやっていたこと(チャットと無料通話)はそのままViberで継続できる。

 野次馬的に心配なのはソフトバンクだよね。アリババがおかしなことになっているし,そこに傘下に収めたLINEがこけるようなことがあると,ソフトバンク自体が危ないんじゃないかというね。

2021年3月23日火曜日

2021.03.23 立食いそばを食べながら

● 宇都宮駅構内の「いろり庵きらく」でミニ豚丼セット,650円。立食いそばか吉野家にしか入れない自分の,何というのか内気さというかシャイさというか,そういう性格が鬱陶しいのだけれども,今さら変わらないだろうからねぇ。
 宇都宮駅の1階には「宇都宮フードホール」というのができてるんだけども,ぼくは一度も使ったことがない。そもそも使い方がよぅわからん。

● フロントのオバちゃん,流暢な日本語で客を捌いているのだけど,ネイティブ(日本土人)ではないようだ。一所懸命に身過ぎ世過ぎをしている様は,アッパレ,人の鑑の感がある。生きていくってこういうことだよね,と範を示してるっていうかさ。
 仕事にやり甲斐だの自己実現だのを求めちゃいけないよね,っていう。生きていくためには金がいる。その金を稼ぐためにするのが仕事だよ。やり甲斐? なにバカなこと言ってんの,アンタ。いい歳こいてそんなこと言っててどうすんのさ。

● 母語が通じない世界で,その世界の流儀にここまで馴染めるのは,女性なればこそという気もする。環境への適応能力には明らかに男女差があるように見える。
 たいていの男女差は個人差に吸収されるものだろうが,そうとばかりは言えないものもあって,この適応能力と逆境に置かれたときのしぶとさには,個人差を超える男女差がある。

● お客の中にも女性が一人いてね。もう14時近かったけど,昼休みに食事を摂ることができない職種なのだろうか。やっと昼の休憩になった。
 どんな仕事をしていて,家族はどうで,収入はどうで,休日にはどう過ごしているのか。想像を逞しくさせる。そういう女性を “いい女” というのだ。“いい女” に共通するのは,だから,一生懸命さを秘めているところだ。

● 世の中の多数派でいられるなら,必ずしも一生懸命は必要とされない。流されるだけでもどうにかなってしまう。ぼくは基本,それでやってきた。が,それでは蓄積されるものが何もない。
 多数派に属していればたしかに楽で,だからこそ,人は上場企業や役所勤めができればいいと思って,大学まで行くのだろうが,死の床でこれで良かったのだと思えるかどうかはわからない。

2021年3月21日日曜日

2021.03.21 新橋から川崎へ

● 銀座のホテルをチェックアウトして,雨の中を新橋まで歩いた。休日の11時前の新橋は,まだ目が覚めきっていないようだ。
 やっぱ,東京で飲むなら新橋でしょうなぁ。中目黒とか曳舟とか人形町とか,飲んでみたいところ
は色々あるけど,新橋に来ちゃいそうですよ。今はね,コロナのせいもあってじっとしてるけどさ。











● 駅のすぐ近くに烏森神社。で,神社のお膝元は戦前からの路地に展開する飲み屋街。いかがわしい店もきちんと(?)存在している。
 烏森の神よ,願わくば,この世に生きとし生けるものの,すべての命を守り給え。
 たとえば,こんな「男性募集」も,こんな「平成女学園」(なんで,令和女学園にしないのだ?)も。一切の分別知を捨て去って,他と区別(差別)することなく,大御心をもって,均しく守り給え。










● 東海道線に乗って川崎へ。新橋から川崎までは2駅なんですよね。東京都川崎市にならざるを得ない。
 上野東京ラインができるまでは,東海道線の電車(湘南電車と言われてましたか)に乗る機会はまずなかった。上野から京浜東北線に乗ったから。
 上野までは田舎の延長で,上野で山手線なり京浜東北線に乗り換えたところから都会が始まる。そんな受けとめ方をしてましたよね。今は,今は田舎と都会の境界線が消えたというか。

● 川崎に着いた頃には,風が強くなっていた。傘を開くのに難儀するくらいには。
 そこに家人から電話があった。「こちらは強風。雨も風もすごい。電車が走っていないなら,無理せずもう1泊してくるよろし」という有難い仰せ。そうか,栃木はそんなに風が吹いたのか。川崎でも風は吹いたが,電車が止まるかもと心配する人は1人もいなかったと思う。

● 川崎での用事がすんで,復りはJRで新橋まで行って,銀座線で浅草,浅草から東武で帰るつもりだった。安くあげたいので。
 ところが,来た電車が宇都宮線直通の宇都宮行き。新橋で降りるなんてできなかった。座ってれば宇都宮まで連れてってくれるんだからね。そのまま乗っちゃうでしょ。
 JRだと運賃の倍出せば,銀座にもう1泊できちゃうんだけどね。チラッとそうしようかとも思ったんだけど,さすがにねぇ。

2021年3月20日土曜日

2021.03.20 浅草~渋谷~八雲(目黒区)~中目黒~銀座~渋谷~府中~銀座

● ここのところ,東京に出るときはJRを使っていた。泊まらず日帰りだったのでJRの「休日おでかけパス」を使っていた。
 今日は泊まる。ので,というのも変なのだけど,東武線で行ってみることにした。金券ショップで買った株主優待乗車証が2枚残っている。東武宇都宮から浅草まで770円で行ける。

● 東武で行く場合,一番の見所は新古河~栗橋間。利根川を渡るところだ。利根川って群馬県の人には馴染み深いだろうが,栃木県人にはいまいちピンと来ない。が,鉄橋で間近に見ると,おぉぉと思うわけだ。
 JRでも利根川は渡っているはずなのだが,いつも気づかないまま過ぎてしまう。利根川を鑑賞(?)するなら東武の方がいい。

浅草駅前
● 曳舟で乗り換えて,久しぶりの浅草に到着。といって,ディープな浅草に分け入って行くことはない。今はないにとどまらず,この先もないと思う。隅田川沿いの光景を見ただけで,銀座線の地下ホームに降りていく。
 銀座線で渋谷。渋谷からは東急東横線。東横線に乗換えるのであれば,押上から半蔵門線に乗る方がいいかもしれなかった。銀座線の改札を出てからだいぶ下に潜っていくので。些細すぎる問題だけど。

● 東横線に乗ると,学芸大学,都立大学と大学の名が付いた駅が続くが,学芸大学も都立大学もここにはない。他に移転している。
 事情があっての移転だろうけれども,可能ならば一箇所に留まって動かないのが良い。東大が東大であり続けている理由の何割かは,本郷のあの場所にずっとあるからだろう。
 その場に降り積もる何ものかがある。同じ理由で,都心にあった私大が郊外に移転したのもおそらくは間違いだった。
 学芸大学付属高校はこの駅が最寄り。ウィキペディア教授に教えてもらった。

● 都立大学駅で下車。駅前の吉野家。久しぶりの吉牛ですわ。いやもう,ほんとにこれは,これだけでひとつのご馳走だ。
 が,昼飯時なのに空いている。吉野家はサイゼリヤとは違って,コロナ禍でも黒字を維持している,と聞いたことがあるんだけどね。

● めぐろ区民キャンパス。都立大学跡地にできた,図書館,体育館,ホール,公園で構成される。ホールで開催される演奏会を聴きに来た。ここに来るのは二度目。
 これだけなら文化施設なんだが,敷地の半分は高層アパートになっている。都営アパートらしい。これはここじゃなくてもよかったのではないですか,と思わないでもない。

● 図書館を覗いてみる。蔵書の充実度もそうなんだけど,書架と書架の間がユッタリしてる。土地が稀少
なはずの東京でね。広ければ広いほどいいというわけではないが,これくらいユッタリしていると本も探しやすいだろう。
 宇都宮市の中央図書館もちょっと負けるな。しかし,CDの品揃えはぼくの地元の町立図書館がいい勝負をすると思う。

● 復りは中目黒で下車。ここで飲むための時間を作らなくちゃと思わせる。フラッと入ってみたくなる(チェーンじゃない)居酒屋が多い。チェーンがダメだとは露ほども思わないけれども,チェーンじゃない居酒屋の魅惑と来たらねぇ。
 中目黒というよりも,日本の街場はたいていそうなのだが,ピシッとゾーニングされていないところがいい。空気が単色ではないところ。あるいは,少し歩くだけで色が変わるところ。

● 中目黒から日比谷線で銀座。ホテルグレイスリー銀座にチェックイン。1月23日以来,2回目。
 ビジネスホテルとはいえ,土曜日なのに4,600円で銀座に泊まれるんですよ。ホテルの宿泊費は地方(の少都市)より東京の方が安い時代になった。
 コロナがそうさせたのだから,いつまでそうなのかはわからない。が,いったん下げてしまったものを上げるのは難しかろう。便乗値上げという言葉がリアリティを持っていたインフレ時代は,はるかな昔の話だ。

● さて,今日はもうひとつ,行くところがある。19時半開演の演奏会。それがあるものだから,泊まってしまうことにしたのだ。場所は東府中。
 銀座からなら1時間くらいかと思って,余裕を見込んで18:10にホテルを出た。が,結論から言うと間に合わなかった。

● 再び,銀座線で渋谷に出て,京王井の頭線で明大前。京王本線に乗り換えて東府中。この経路では間に合わず。といって,赤坂見附で銀座線から丸の内線に乗り換えて,新宿から京王線に乗ったとしても,さほどの時間短縮にはならないと思う。
 いやね,橋本行きに乗ったのに,調布で乗換るのを忘れたっていうチョンボもあったんだけどさ。
 銀座から府中に行くには90分を見込むべし。これってもう小旅行だよねぇ。府中市民が都心に出るときは “東京に行く” っていうはずだよね。

● 復りも同じ経路で。おかげで,渋谷駅で岡本太郎の「明日の神話」を見ることができた。久しぶりの拝観。
 ホテルでひとり酒盛り。肴は東府中のコンビニで買ってきた。これをもって,銀座で飲んだと称してよろしいか?

● 毎日が日曜日になって,昼夜逆転とまではいかないにしても,宵っ張りの朝寝坊が定着している。
 昨夜は早めに就寝した。午前1時だ。で,今朝は6時に起きた。小学生じゃないけれど,遠足の日には早く起きられる。
 けれども,まともな1日が終わるとグッタリ疲れてしまった。5時間も寝ていて疲れるとは何ごとか,とお叱りを受けるかもしれないけれど,何というかショートスリーパーの人たちが羨ましい。

2021年3月19日金曜日

2021.03.19 格差の拡大

● パソコンとかスマートフォンとか,まぁ,買わないんだけど(だって,一度買えば数年は使うから),しばしば覗きに行く。
 大昔はパソコンは夢を見させてくれる装置だったが,今は文房具のひとつになった。自分を変えてくれるかもというワクワク感を与えてくれるものではなくなった。生産性を大きく向上させてくれ,自分にも見えなかった自分の可能性をひょっとしたら発掘してくれるかもしれない,という幸せな錯覚に誘導してくれるものでもなくなった。

● パソコンもスマホも,現在から見れば,格差を拡大するツールだった。能力を拡張するツールなのだから,そうなるのが当然だったのだ。
 もともと百の能力を持っていた人は,パソコンやスマホを使うことによって,千にも万にも拡張できたが,十しか持っていなかった人は,せいぜい百か二百にしかならない。ゼロだった人はいくら拡張してもゼロのままだ。

● しかも厄介なことに,インターネットが普及して,能力がない者は無能を隠す術までも奪われた。
 昔は,うまく行かない理由を運のせいにもできたし,上役なり取引先なり発注者の無理解のせいにもできた。今は,だったらネットに載せればいい,直接視聴者に届けられるじゃないか,と言われてしまう。
 自分の無能のせいであることを隠すことができなくなった。いやでも,自分の無能と向き合わざるを得なくなった。
 それがわかった以上,もうパソコンやスマホに幻想を抱くことはできない。

● SNSが普及して,誰もが “自分” を発信できるようになった。が,その発信力は人によって強弱がある。強弱があるという言い方では追いつかないほどの大差がある。
 Twitterならそれはフォロワー数に現れる。2桁の人から7桁のフォロワーを持つ人まで。それがつまり能力格差というものだ。

● フォロワー数がすべてではない,自分はフォロワー数を増やすためにツイートしているのではない,と嘯くのは自由だし,そのようにして自分の何かを守ろうとしている人は多いはずだ。しかし,それはおそらく自分の能力のなさと向き合うことを避けるための言い訳にすぎない。
 フォロワー数などどうでもいいと思ってツイートしていても,千人のフォロワーも作れないようではTwitterなどやめた方がよい,という意見もあって,正直,その意見は正しいと思う。

● 実際に自分のツイートを読んでくれている人はフォロワーの多くて1割だろう。フォロワーの桁が増えるにしたがって,その割合は低下すると思うのだが,そうであっても千人のフォロワーもいないのであれば,Twitterではなく端末のハードディスク(SSD)に吐きだしておけばいい,となる。
 フォロワーを増やすテクニック的なものもあるにはあると思うのだけども,そういうものに無頓着であっても,千人のフォロワーも獲得できないようではね。
 かく申すぼくもまったくダメな部類に入る。

● ともあれ,パソコンやスマホ,インターネットによって,経済的にも,非経済的な部分でも,持てる者と持たざる者との格差が拡大したことは間違いないように見える。
 アップルが1980年代に初代のMacintoshを世に出したとき,自分たちの製品を「The computer for the rest of us」と称した。大企業や大学の研究部門しか持てなかった大型コンピュータに対して,一般人でも持つことのできるコンピュータだよという意気込みを示したスローガンだったのだろう。
 が,当時は人類のほとんどが「rest of us」に該当した。その「rest of us」の中で,見事に格差がクッキリするようになった。

● それに有効な作用を果たした道具立てがITというものだった。おそらく,この傾向は加速することはあっても,かつての1億総中流に戻ることはない。
 能力格差という “神” が闊歩する時代が当分は続くだろう。それはいっそ清々しい光景でもある。ダブルスタンダードがない。単純でわかりやすいからだ。

● それを鬱陶しいと思うだろうか。能力を持たないぼくらがつけ入る隙がまったくないわけではないと思うのだが,下位に甘んじてしまうというのも楽に生きる方法のひとつだと,ぼくは思う。
 現在の日本で喰えなくて死ぬ心配は要らない(よほど特殊な例を除けば)。下位にいて自由時間を確保して,やりたいことをマイペースでやっていくのも悪くはない。
 それが最も賢い生き方かもしれないと,冗談ではなく,この歳になると思ったりもする。

2021年3月5日金曜日

2021.03.05 ビバ! インターネット

● この時期,とにかく群れてはいけないのだから,群れるのが嫌いな人にとっては追い風だ。
 ぼくは昨年4月から完全引退してずっと家にいる生活になったので,勤勉な人と同列に並べるのはアレなんだけど,コロナを逆風だと感じたことはない。大手を振って群れない生活をできるんだから,時代が自分に味方していると思っている。

● 会社や役所でも歓迎会だの忘年会だのという宴会がなくなった。そんなことのために幹事をやらされる人がいたのだからお気の毒にもほどがあるというものだが,それももはや遠い昔のことのように思えるのではないか。
 喜んでいるのは若い人たちだけではない。部課長もホッとしているだろう。部下と飲みたくて飲んでたわけじゃない。半ばは責任感からだ。若い人の話を聞いてやれと言われ,しかしその方法がわからず,昔からある飲み会に流れていただけのことだ。

● 昨年は何も困っていないのに10万円ももらえたり,東京のホテルにあり得ないほどの安い値段で泊まれたりと,コロナのおかげでいいことだらけだった。
 10万円はもうないらしいが(なくていいと思う),GoToトラベルは黄金週間前には再開されるだろう。払った税金を取り戻すつもりで,どんどん活用するのがよい。しかも,それが国策に協力することになるのだから,誰に何と言われようと,後ろめたく思う必要などない。

● ともあれ,群れない生活ができるのはコロナの追い風だ。が,もうひとつ,ある。インターネットだ。
 今や,引退後のQOLを決める第1要因はインターネットだ。インターネットを味方につけるか,敵に回すか,敵でも味方でもなく関わりのない存在にするかで,QOLが大きく変わってくる。

● 隣近所との付き合いを大事にしろ,自治会活動に参加することで地域とのつながりを保つことが重要だ,と,つい最近まで言われていた。
 が,この1年間はその自治会活動も事実上の休眠状態になった。その結果,困ったという人はおそらく1人もいないのではないか。自治会など要らないものだということが,誰の目にも明らかになったと言っていいだろう。
 そういうものの比重は大きく低下した。リアルよりもネットの方が,個人の生活に及ぼす影響が大きい。特に,引退後のロートル世代にとってはそうだ。

● インターネットは全世紀末に登場したもので,その以前にはなかった。しかし,今では個人生活のインフラで最も重要なものがインターネットだと言っていいだろう。
 回線が太く速くなって,動画や音声がリアルと同様に扱えるようになった。エンタメの多くはネットで満たせるようになったし,いわゆるコミュニケーションもネットで行えるようになった。
 リアルに比べると,特に個対個のコミュニケーションには限界があるが,限界を取り払って野放図にコミュニケーションするなんてのはあり得ないわけで,じつは限界があるくらいがちょうどいい。

● そこにコロナだ。群れること,移動すること,喋ることが忌避されるわけだから,その欠落を補うものとしてネットの存在感は格段に大きくなった。リモートワークもインターネットがあればこそ成立する。
 そのリモートワークをやらざるを得なくなっている現役世代の人たちは,ZOOMを使いこなして,その予想以上の効用に感嘆する局面が何度もあったのではないか。

● ぼくらロートルはそういうことはない。ZOOMでオンライン飲み会だとかオンライン雑談会をやろうとすればやれるのだろうけれども,群れることが嫌いだった人間があえてそんなことをするはずもないし,声がかかるわけもない。というか,群れることが嫌いな人の知り合いに,そんなことをしようと言いだすヤツはいない。
 だから,ネットの使い方はコロナ以前と変わるところはない。変わらない使い方でも,これがなかったら引退後の家にいる生活にこれほどスムーズに移行できたかどうか。

● 最近の定年組は,現役時代に仕事でパソコンを使っていた。メールもネットも使っていた。
 10年前に辞めていった人たちに比べれば,圧倒的にITリテラシーは高い。ブログにもSNSにも抵抗はないだろう。そうしたものに対して,自分の方から壁を造ってしまうという愚は犯さないはずだ。
 でれば,コロナ禍の今も,家の中にあって,さほどの不自由感もなく,閉じ込められたという閉塞感も持つことなく,ストレスフリーで日々を回せているのではないか。

● というわけで,自分が引退するときにインターネットがあってくれたことが,しみじみとありがたい。ビバ! インターネット!!