● コロナ禍で最も言われたのは,「三密を避けよ」だろう。感染拡大を防ぐために3つの密(密閉・密集・密接)を避けよ,と。
これを言い換えれば,肩を寄せ合ってはいけない,ということだ。さらに言うと,コミュニケーションをするな,ということだ。
● 人がするコミュニケーションの中でも,最も大切にしなければいけないものは,“雑談” だろう。依頼とか,指示とか,質疑応答とか,議論とか,討論とか,そういうものではなくて,“雑談”。
しかるに,電車の中でもショッピングセンターにいても,会話はお控えくださいと言われる。テープの声がしつこくそう言う。
人間は群生動物であるのに,群れてはいけないと言われているようなものだ。人間の本性のかなり根幹にある部分に手をつけて,そこを変えよ,と言ってくる。
● 昨年4月に最初の緊急事態宣言が出されたときは,変化がクッキリしていた。平日の宇都宮駅の改札前が閑散としていた。とにかく,人がいないのだ。
志村けんが亡くなったことが,人々のマインドに大きく影響した。コロナは怖いものなのだ,と。
● しかし,それを見て,こんなものを長く続けられるはずがない,と思った。2ヵ月が限界だろう。それより長引けば,気が緩むとか,隙ができるとか,そういうことではなくて,そもそもが無理だろう,と。頭ではわかっていても身体がついていかないだろう,と。
が,そこから現在に至る状況を見ると,多くの人は長きにわたってそれを続けているように見える。2ヵ月が限界というぼくの予想は外れたわけだけれども,長きにわたって続く方が不思議に思える。
● 飲食,観光,運輸などの産業は大打撃を受けた。一方で,会社の宴会や接待がなくなって,喜んでいる会社員も多いだろう。
会社が部署単位でやってきた暑気払いとか忘年会とかいう宴会は,やらなくても支障がないことがハッキリした。コロナが終息した暁には,これらの宴会は旧に復するだろうか。喉元過ぎれば熱さを忘れるだろうか。
おそらく否だろう。形は戻っても,全員参加が暗黙の前提という状況はなるまい。ということは,宴会需要は元には戻らないということだ。それに依存して商売してきたところは辛くなる。
● 接待も然りだ。こんなものはやっても仕方がない,効果が見えない,と誰もが思っていたはずだ。
しかし,社会事象にも慣性の法則は働く。効果が見えないからといって,単刀直入に止めることにはなかなかならない。「止めてしまうのは簡単だけど」とリスクを避けることを第一義にした現状維持論(思考停止ともいう)が幅を利かせるものだ。
● コロナがブルドーザーのようにそうしたつまらないものをなぎ倒して行った。これもコロナが終息したからといって,元に戻るものではない。
したがって,接待需要で成り立っていたところ(おそらく,銀座の高級クラブがその代表ということになるのだろうが)は,厳しく淘汰される。
● 飲食業のある分野というのは,ずっとバブルだったのだ。コロナが発生して,やっとバブルが弾けた。
需要が適正水準まで減るだけの話だ。適正水準を超える供給は要らなくなったというだけのこと。
総じて,虚栄,虚飾で売っていたところは厳しくなる。そうしたところに自分のお金で行く人はいないからだ。誰かのお金(たいていは会社のお金)で行くところだからだ。会社がそうしたものにお金を出さなくなれば,それで終わる。
● では,会社がそうしたものにお金を出さなくなるとなぜ言えるかというと,リモートワークが定着したからだ。
すでに都心部ではオフィス賃貸契約の終了が相次いでいると聞く。社員が来ないのに高いお金を出してオフィスを借り続ける経営者はいない。コロナが終息したからといって,またお金をだしてオフィスを借りようとする経営者もいない。
● 社員にしたって,一度リモートワークを知ってしまったら,毎日,地獄のような通勤電車に乗って,しかも痴漢の濡れ衣を着せられるかもしれない危険を冒して,出社したいとは思うまい。
会社に到着したらグッタリ疲れ果てていて,仕事をする気力など湧いてこないほどなのだ。日本のホワイトカラーの生産性がイタリア以下である理由の第一はここにあった。
● リモートワークが定着すれば,会社が社員をホールドできる度合いは低くなる。あたりまえのことだ。物理的条件からして,そうならざるを得ない。
それを前提に物事は動いていく。労働法規の見直しも必要になるだろう。
● 一方,個人需要に係るものは,コロナが終息すれば元に戻るだろう。
旅行(特に海外旅行)は引き絞られた弓が放たれるようなものだ。一気に活況を呈するようになるだろう。
と言いたいのだが,国や地域によっては,不安を残すところが出るだろうから,大丈夫そうなところにおっかなびっくり出かけることになるだろうか。
● 逆はどうだろうか。インバウンドだ。元に戻るだろうか。爆買いの中国人は戻ってくるか。
戻ってくるとして,日本の小売店は彼らを受け入れるか。中国人で溢れると,日本人は遠ざかる。中国人がいなくなれば,日本人が戻ってくる。舵取りが難しい。
最近の中国対米国・欧州の対立激化を見ると,日本もいずれかの対応を迫られることになりそうだ。中国人の購買力に頼ることは考えない方がいいように思う。
● 居酒屋の多くは以前の活況を取り戻すことになるだろう。すでに店を閉めたところがかなりあるが,持ちこたえたところにはお客が戻ってくる。
っていうか,すでにけっこう戻ってきているのじゃないかな。宇都宮ならオリオン通りはどうなっているだろうか。夜の様子を見てこようか。
● が,何もかもが元に戻るかとなると,疑問符が付くものもある。たとえば結婚式だ。結婚披露宴など賑々しくやらないくても何も問題はないことがわかってしまった。葬式も然り。家族だけで済ませても大丈夫なのだ。
こういうものが元に戻るのかどうか,ぼくにはわからない。人は群れるものだが,群れの規模は小さくなるかもしれない。
● 地域付き合いも変わるかもしれない。ぼくは自治会の班長の回り番にあたって,今年度の班長を務めたのだが,自治会行事の大半は中止になった。自治会費も例年の3分の2になった。
それで誰か困る人が出たかというと,そんな話は聞いたことがない。自治会など要らないものだと,これまた多くの人が思っていたろうけど,それがリアルに明確になった。
コロナ終息後も会費は3分の2のままにしておいてくれということになるだろうし,自治会を抜ける人が増えるだろう。ぼくも抜けようかと思っている。
● それに対して,コミュニティがどうのこうのという理屈で反駁するのは,かなり難しい。コミュニティにとって自治会など要らないというわけだから。
困るのは,自治会を集金マシンにしていたところだ。たとえば,市町村の社会福祉協議会。何もしなくても,自治会が会費を集めてきてくれた。それが失われるかもしれない。
● もし自分が飲食店を経営しているのなら,別の見方になるのだろうが,今のところは,コロナの功が罪を上回ると感じている。
過剰の多くが精算された。余計なもの(たとえば,満員電車。たとえば,交通渋滞。たとえば,病院をサロンにしていた高齢者)がなくなった。それによって逆に過剰感が増しているものもあるから,全体のバランスが落ち着くのはまだまだ先になるだろうけれども,これらは押しなべて言えば望ましい方向への変化だと思う。
● この1年間,コロナ死亡者を含めても,死亡者総数は減っている。インフルエンザ死亡者の減少が効いている。
決して悪いことばかりではなかったのだ。