ここには一度だけ来た記憶があるのだが,記憶と眼の前にあるものが全然重ならない。またまた記憶を捏造しちゃってるかもしれない。ひょっとすると,今回が初めてなのかも。
● お婆ちゃんの原宿と言われていたのは,いつの頃だっけ。さらに高齢化が進行して,日本はお婆ちゃんの原宿で溢れるようになった。元祖原宿の方が圧倒的に少数で貴重だ。
今の竹下通りがどれほど賑わっているのか知らないけれども,コロナ禍とはいえ,それなりに詣でる若者たちがいるのだろう。こちらは,そんなに多くの人たちが歩いているわけではない。お婆ちゃんはコロナが重篤化しやすいわけだから,外出を自粛している人が多いのかもしれないんだけどさ。
● 自分が病んでいるところを触れば病気が治るとされる,薬師如来の生まれかわりのような地蔵様だか観音様があったと思うのだが,それが高岩寺境内にある「洗い観音」だろうか。ぼくが行ったときには,その前には誰もいなかった。
触るというか両手で観音様を洗うと,洗った場所が癒えるとされるらしい。だったら,ぼくは観音様の頭を洗いたかった。悪い頭が良くなってくれれば,それに越したことはない。
しかし,いくら何でももう手遅れだろうと思って,これが噂の・・・・・・と見やるだけに留めてしまった。洗ってくれば良かったですかなぁ。
そういう時,その辛さを預けるのは,こういう素朴な菩薩像が似合う。堂宇に鎮座ましまして,ナントカ文化財になってる立派な仏像よりも。
● この地蔵様は元からここにいたわけではなく,元々は路傍の石ならぬ路傍の地蔵だったのだろう。
人々のそうした真剣な祈りを受けとめていると,像がだんだんすり減ってくる。鼻も目もわからなくなってきて,元々の輪郭がボヤけてくる。
● 子どもの頃に読んだ童話の「幸福な王子」を思いだした。あの王子は即効的な施しを貧しい人たちに与え続けたが,自分に与えるものがなくなったところで力尽きてしまった。
こちらの地蔵様はそうした即効性を発揮することはないけれども,悩み,迷い,自身を苦しめる人たちに対して,いつも傍らにいて,身を削りながらその訴えを黙ってじっと聴いている。
というストーリーを作ってしまいがちなのが,脳の癖であるらしい。けれども,つい,そんな対比をしてしまう。