● 新聞は取らなくなって久しい。テレビもまったく見なくなってだいぶ経つ。今どきはそれが普通になっているのだろうとも思う。
ニュース報道に関してはネットが代替してくれるので,新聞だのテレビだのは必要がなくなったからなのだが,そこからさらに進んで,ニュースそのものを見ないようになってきている。
● とにかく,ニュースをネットで見ていくと,殺伐とした気分になってしまう。限られた人生をニュースごときに影響されて,殺伐たる気分で過ごす時間を作ってしまっては,何をやっているのかわからないことになる。
「せくな騒ぐな天下のことは しばし美人のひざまくら」というのが,大人(たいじん)の態度というべきではないか。
● コロナ禍にあって,感染症の専門家を自称する人の中にもお粗末(専門分野の見識においても,品性においても)な人がかなりの数いることも明らかになってしまった。
医者というのは専門職の代表的なものだと思われていたところ,その医者にしてこんなものだったのか,と。倉持は論外として,他にも岩田とか西浦とか・・・・・・。
専門家という存在に対して無条件に服従するのは危険であることをコロナは教えてくれた。コロナ禍にプラス面があったとすれば,これをその1つに数えていいのではないか。
コロナをめぐる報道に,耳目を傾けるべきものはさほどに多くないように思われる。
● 最近だとアフガンか。タリバンとかISとか,難民に紛れて過激派が入り込むから周辺国は難民を受け入れないとか,正直,どうでもいい。関心がない。
行ったこともない遠い国の話だ。火星に生命体がいるかどうかと同じくらいどうでもいいと思っている。ぼくごときが関心を持ったところで,事象は1ミリも変わらないのだし。
それよりも,明日の天気の方が心配だ。天気もまた,ぼくが心配したところでどうにもならない話ではあるんだけど。
● ところで,この「せくな騒ぐな・・・・・・」は石原裕次郎が歌っていた「豪傑節」(作詞:藤田まさと)の一節なのだが,これは現代では成立しないでしょうね。その美人が天下を取るかもしれないわけでね。
これは女の値段が安かった(生まれてくる子が女の子だとガッカリされた)時代の話であって,今は男が女よりはるかに安くなっている。
機械やAIが稼ぐようになって,男が稼ぐ必要がなくなった。女が男と対等以上に稼げるようにもなった。なら,男など今の半分もいれば充分だ。
● 女を一格下に扱うがごとき,あるいは女は男の慰みものと見做すがごときは,ほぼ成り立つ余地がない。
世の大半の男性諸君にとっては,「美人のひざまくら」は竜宮城と同じだ。つまり,実在しないものだ。
逆に,ひざまくらをしてくれる女性がいるのなら,絶対に手放してはいけないでしょうね。彼女のすべての欠点に目をつぶってでも,一緒にいる価値があると思いますわ。
● そうした幾多の困難があるにせよ,ニュースにいちいち反応してしまうのは小者っぽくていけない。美人のひざまくらを決めこむのがよろしかろう。
具体的には,美人のひざまくらに代わるものを持っておく必要があるだろう。趣味とか道楽とか言われるものだ。
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