2022年7月11日月曜日

2022.07.11 移動は鉄道中心主義

● 宇都宮線宇都宮行き。今年の春のダイヤ改正から3両編成のワンマン運転になった。最初は3つドア5両だったのが,4つドアになったのを機に4両になり,ついには3両。しかもワンマン運転,と。
 ショボいけど,楽しみはある。たとえば,最前部に立って前方の景色を眺めるのがそうだ。シミュレーションゲームじゃなくて,景色は本物なのだ。小さい子がここに来たがるのは宜なるかなと思う。
 特に,ターミナル駅に近づくと,レールのポイントが次々に現れる。これはかなりワクワクする。

● 逆に最後尾に陣取って流れ去っていく景色を見るのも楽しい。ここなら速度計も見える。鬼怒川鉄橋を時速80㎞で通過。鉄道は在来線の普通車でもかなり速いのだ。田舎ゆえ駅はまばらにしかないから,なおさら速い。
 鉄道にも信号はあるが,道路交通の信号とは別のものだ。交差点もない。駅で停まるとしばらく停車するが,基本的に自動車より速い。

● 問題は駅から離れたところに行くのが面倒なことだ。その面倒を避けるためには,駅の近辺で用がすむよう算段するしかない。あと,バスにはあまり乗りたくないから,駅から歩くことを厭わないように努める。
 一番いいのは,駅から離れたところにあるものはないのと同じ,と乱暴に決めてしまうことだ。

● 当然,自分の家も最寄駅から徒歩圏内になければならない。駅から車に乗らなければならないほど遠方にあっては,奴隷の暮らしを余儀なくされる。
 第一,酔っ払って帰るときに,駅まではこれてもその先が困ってしまう。バスには乗りたくないと言ったところで,田舎にはバスすらないのだ。タクシーになってしまう。
 ところが,酔った状態でタクシーに乗ると気が滅入ってきません? 悪く酔いが回りそうな。ぼくはわりとそれがある。できればタクシーにも乗りたくない。

● 歩いて帰れるところに家があるのは,家が家であるための基本的な条件だ。歩いて帰れないところにある家なんて家じゃない。
 そこだけは上手くやったと思う。けっこう痛い目にも合っていたので,駅近は譲れない条件だと思っていた。

● 車は自由だが,その自由を成立させるための不自由を引き受けなければならない。
 車は道路があるところならどこにでも行ける。道路だけはどこにでもある。鉄道がないところにも道路はある。バスが走っていなくても道路はある。移動範囲が格段に広がる。
 鉄道を使うには時刻表が必須だ。ダイヤに拘束される。10分しか待ちたくないと言ったところで,30分後にしか来ないのであればそれを待つしかない。車ならそんなことはない。思い立ったが吉日をそのとおりに実行するには自動車が必要だ。

● しかし,車は自分が運転しなければ走らない。運転すると運転以外の行為を同時にすることができない(せいぜい,音楽を聴くことぐらいだ)。これが困る。
 もうひとつ,運転は疲れる。運転するのが好きな人が多くて,そういう人は疲れるどころではなくスカッとすると言うのかもしれないが,ぼくは運転があまり好きじゃない。疲れる。運転している時間がくつろぎにならない。

● 車を本当に有効利用するなら,運転手を雇うことが必須だ。自分で運転をしてはダメだ。運転を人に任せられるのであれば,車内で仕事も調べものもできるだろう(そういうことをやって車酔いしないのであれば)。
 だから自動運転が実現すれば画期的なことなのだが,ぼくが生きてる間に普及するのかどうか。自動運転ならオープンカーでビールを飲みながら行楽地に行きたい。

● さらに,車を維持するのは高くつく。通勤にしか車を使わないという人が多いと思うのだが,仮に片道30分だとすると往復で1時間。あとの23時間は寝かせておくわけだ。たったそれだけしか使わないのに,税金,車検,保険,ガソリン代,車庫,自動車本体と面白いほどお金がかかる。
 退職して最初にやったのは車を廃車することだった。廃車してみてわかったのは,余計なものを持ってしまっていたのだなぁ,ずいぶんと高くつく通勤を長きにわたってやっていたのだなぁ,ということだ。
 廃車してセイセイしている。不自由というのはそういうことだ。

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