2018年11月29日木曜日

2018.11.29 再度,氏家の「焼肉むらかみ」

● 相方からLINEで連絡があった。外に食べに行こう,と。今日はニクの日で,「むらかみ」で普段より安く食べられるらしい。
 というわけで,13日に次いで2度目の「むらかみ」。

● 今回は酒なし。2人で2千円でお釣りが来た。叙々苑のランチ1人前の値段だ。相方はしきりに恐縮していた。この安さは何事ならむ。
 もっとも,肉の日に安くなるメニューのみ注文したわけで。肉はアメリカ牛カルビしか食べなかったんだけどね。それ以上はぼくのバカ舌にはもったいない。
 もちろん,もっと高い肉も当然ある。バリエーションもかなりのもの。肉グルメの人でも不満はでないかと。
 タレは個人的にはレモン汁を推奨。バカ舌に推奨されたくはないでしょうが。

● 塩キャベツが旨かったんでした。次は塩キャベツでハイボールをやるかな。
 忘年会もやれる。ぼくのごく狭い交友関係を洗いだして,ここで飲み会をやるのも悪くないなと思う。少人数でも食べ放題+飲み放題で3,500円であがることは間違いないんだから,お金の心配はしなくてすむ。

● 前回は,“飲み放題+食べ放題”だった。この組合せはあまり良くないかもしれないと思う。飲み放題を付けるなら(飲みを主にするなら),食べものはアラカルトにした方がいいかもしれない。
 つまり,焼肉は酒よりもご飯に合うからだ。酒に合わせるなら,焼肉よりも今日食べた塩キャベツとか,肉以外に酒に合いそうなツマミが色々ある。
 が,相方は“飲む”がダメなので,彼女と行くときにこの方式が採用されることはないと思われる。飲める口を持った者どうしで行く場合は,この方式が考えられるということ。

● 以下は余談。こういう店に行くと,世の中のデフレはまだまだ止まらないなと思う。いったんこの値段に慣れてしまうと,以前の値段を高いと感じるわけでね。
 店側とすれば,値上げをする際には,それなりの度胸を試されることになりそうだ。

● 値上げを仕方がないと受けとめてもらえるのは,ガソリンくらいのものではないか。たとえば,納豆も値上げされているんだけども,いくつもある商品の一部が特売されていて,結局は以前の値段で買えるのだ。納豆好きとして,納豆に関する支出が特に増えたという実感はない。
 原材料費は上がっているのに,それを消費者に転嫁するのはかなり難しい。

● 以前,“すき家”が値上げを回避するために人件費の圧縮に走りすぎてブラック企業の汚名を来たことがあったが,それを続けることも難しい。
 人手不足が慢性化しているのだし,それをするとブラックに相応しい人間しか残らないからだ。店内の雰囲気がすさんでくる。客離れを招く結果にしかならない。

● ならば,徹底的な合理化しか道がないわけで,その分野でトップを走っているのは(飲食業界では)回転寿司だと思う。スタッフとひと言も言葉を交わすことなく,食事が完結する。すべてタッチパネルですむ。注文した寿司を運ぶのも機械がやる。
 黙々と食べるだけでいい。ときにブロイラーになったような寒々しい気分になることもあるが,ぼくなんぞはその状態を心地いいと感じることが多い。無言でいられるのはサービスのひとつだとすら思う。煩わしさをとことん排除してくれるわけだから。
 友人と来る,カップルで来る,家族と来る,というシチュエーションでは,そもそも,そんなことは問題の外になる。友人と,彼女と,家族と,話が弾むわけだから,店員とのコミュニケーションなどどうでもいいのだ。

● 「むらかみ」でも注文はタッチパネルを使用している。人件費を圧縮する,人手を減らす工夫は,まずやらなければならないことだ。
 コンビニの無人化が言われることも増えた。人のぬくもりが失われるのは嫌だという声もあるだろうが,こういうのは慣れの問題だ。たぶん,すぐに慣れる。
 ガソリンスタンドだって,セルフになった今の方が昔のやり方よりずっといい,という人が多いだろう。人のぬくもりを欠いてはいけないのは,高級ホテルくらいのものではないか。

2018年11月26日月曜日

2018.11.26 お金がないのは可,お金を惜しむのは不可

● 人生を愉しむことはお金を使うことと同義ではない。お金をかけずに愉しむことはいくらでもできると思っている。けれども,お金を惜しんでしまうと,人生を愉しむことは難しいかもしれない。お金がなくても愉しむことはできるが,あるお金を惜しむとそれが難しくなる。そのあたりに愉しむための機微がありそうだ。

● 昭和の堅実さを体現しているような人から見ると(ぼくがそうなのだが),一抹の不安を覚えるかもしれない。そんなにパッパと使ってしまって大丈夫なのか,と。
 でも,お金を残して死ぬのは,それ以上にバカバカしい。わかっていてもお金を残して死ぬのが普通の人だ。で,普通はたいていつまらないものだ。

● 乏しきを憂えず,等しからざるを憂う,という言い方が,昭和の労働界にはあった。今は昔の話だ。
 それを個人に引き寄せていえば,少ないのを憂えるのではなく,中途半端にあるのを憂えるべきなのかもねぇ。中途半端には中途半端なりのやり方が絶対にあるはずだとも思うのだが。

● でもね,ぼくを含めて多くの人にとっての福音は,お金をかけずに人生を愉しむことができるようになったことだ。
 音声や動画がデジタル化され,インターネット経由で非常に安価(または無料)で手に入るようになったことも大きいが,じつはインターネットができる以前だって,お金をかけないで愉しんでいた人はたくさんいたはずだ。

● それができる人の特徴は,たぶん,世間の声に左右されないことだ。新聞やテレビの報道とかワイドショートか,友人知人が何を言っているかに,搦め捕られない人。ゆえに,少し前の,みのもんたが言っていたからといって,それに追随するような人は,まるでお呼びじゃない。
 要するに,バカではお金をかけずに人生を愉しむことはできないってことね。だから,あなたやぼくには無理かもね。

2018年11月22日木曜日

2018.11.22 大手町のタウン誌

● 大手町をフラフラと歩いてきた。東京には各地に無料のタウン誌があって,しかもけっこう面白かったりする。
 これだけの話題を拾えるのは東京の強みかなぁと思うことになる。こういうものは須くネットに保存しておくべきだと思う。将来,貴重な史料(?)になるかもしれない。いや,もうすでに実行されているのかもしれないけれど。

● 大手町にはこんなものがあった。大丸有協議会が発行しているもの。正確にいうと,大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会。一般社団法人で,事務局員もいるらしい。
 そういうものを維持できるのも,このエリアの力なのだろう。東京の中心部だもんね。ビジネス街の中核でもある。

● というエリアの特性を反映してだと思うのだが,このタウン誌もビジネス色が強いものだ。まずはここで働く人たちのインタビュー。
 レバンテ(ビアレストラン),東京會舘,銀杏堂(印章店),パレスホテル,ニッポン放送。もちろん,さりげなくPRもまぶされている。

● あとはこのエリアのイベントをまとめてザッと紹介。住んでいる人は少なく,ヨソから働きに来ている人の方がずっと多いんだろうから,いわゆる伝統行事ではなく,人為的なイベントが多くなるのはやむを得ない。それはまったく悪いことではない。
 昔からそういうエリアだったはずだ。その点に関しては筋金入りだろう。その地から自然発生的に生まれたものに依存するのではなく,必要に応じて自ら作りだすという点において。

2018.11.22 東京散歩 大手町2

● 宇都宮発14:06の小田原行きに乗った。駅前の金券ショップで切符を買った。今日は“休日おでかけパス”が使えないのだ。なぜって,今日は休日じゃないからね。
 東京まで乗る。大手町に行こうと思う。

● ところで,都内で,降りるときにそこはかとない憂鬱を感じる駅がある。
 第1に新宿。第2に池袋。第3に渋谷。そして,第4が東京だ。降りたあとに愉しいことが待っている場合でもそこはかとない憂鬱を味わう。
 3番目までははっきりしている。だいたい駅構内で迷うくらいだから。東京駅で迷うことはなかった。が,改装後は迷うようになった。田舎者の悲しさと笑ってもらっていいんだけれども,東京人でも迷う人がいるのではないか。
 すごいと思うのは外国人だ。多くは観光客なんだろうけど,何だかスイスイと泳いでいる印象を受ける。ひょっとすると,迷路を愉しむ感覚なのかもしれないけど。

● その東京駅地下街。この時間帯に飲んでる人がかなりいる。しかも,ネクタイ族。若いオネーチャンも。出張でこれから帰るのか。
 こういうのを見てると,日本もまだ捨てたものじゃないと思う。だんだん管理がきつくなって,今じゃ煙草を喫いに喫煙所に行くのを見られただけで,勤務中に何をしているんだと指導が入るんじゃないかと思うほどだ。公務員なら地元住民が人事課に通報するかもしれない。
 そうした鬱陶しい閉塞感の中で働いていて,生産性は欧米に比べると低いらしいのだから,救いがない。

● けれども,この時間帯から飲んでいるとは,そこに風穴を開けているようで痛快だ。いいぞいいぞ,と思う。
 それくらいは大目に見ろよ。いいじゃんか。用事が終わって,これから帰るだけなんだから。店側も潤うだろうしな。

● 東京駅の丸の内口を出ると,江戸城に至る広い道を含めて,周辺の環境は100%人工的なもの。緑も人工的に作られたものだ。都市の極み。
 にしては,そこにいる人たちはカッペを引きずっている人が多いと感じる。お上りさんばかりだという意味ではない。
 人間は自然そのものだ。3代続いた江戸っ子でも,ここまでの人工的な環境に置かれると,自らが抱え持つ“自然”が目立つことになるのだろう。その“自然”がつまり,カッペの正体ではないか。

● 何十年ぶりかで,千代田のお城が見えるところに来た。先月も大手町に来ているんだけど,そのときはあまり時間がなく,帰りは雨になったので,ほとんど歩けなかった。今日はたっぷり時間があった。
 大手門も見ることができた。記憶にない昔に見たことがあるのかもしれないけれど,記憶にないんだから,初めて見たということにしておきたい。
 ここが東京の中心。台風でいえば目にあたるところ。東京の品格(ぼくはあると思っているのだが)の源は,やはりここだ。

● 築城したのは太田道灌でも,今ある形にしたのは徳川サマ。で,今は皇居になっている。天皇が京都の御所に戻ることはあり得ないだろうから,このように整備された状態で今後もあり続けるのだろう。
 東京を代表する観光地でもある。皇居を抱えていることは,東京の大いなる強みのひとつだろう。

● 大手町をフラフラと歩いてみた。平日の夕方,まだ多くの人は仕事中だろうけど,それでも帰途についている人も多い。明日から3連休だもんな,今日は早く帰りたいよね。ぼくは今日も休んでるんだけど。
 ここが日本のビジネスのセンターなのだが,自分の居場所はここにはないと思う。っていうか,ここは自分が働く場所ではない。務まらない自信がある。

● 三井住友銀行と三菱UFJが隣り合っている。張り合うだけではなく,共同の勉強会をしたり,情報交換をしたりすればいいのにと思う。っていうか,やっているでしょうね。幹部(と若い幹部候補)はやっていると思う。
 霞ヶ関と永田町はここから少し離れている。隣接してればもっといいのじゃないか。いやいや,大手町の企業からすれば,それは少し以上に迷惑か。

● 丸善に入ってみた。場所がら1階はビジネス関連の書籍売場になっている。店に入った瞬間にビジネス書の山がドッと目に飛びこんでくる。日本全体で売れるビジネス書の10%はここで売られるんじゃないかと思うほどだ。
 いわゆる自己啓発本,法律,経済,労働,会計,経営に関する専門書や教科書。時事評論の類い。各種国家試験のテキストブックなど。

● 仕事帰りのサラリーマンやOLが顧客なのだと思うが,よそから来ている人も多いのかもしれない。書店や文具店ではお客さんを見ているのも面白い。ピープル・ウォッチングにいい場所だと思う。
 本屋に来てるんだから本を読む人に違いないのだ。本を買ったり,ノートやペンを自分で買って使う人は,少数派。面白い人は少数派の中にいる。で,そういう少数派も東京に集中しているのかと思ってみる。

● いかにも疲れているという風情の中堅サラリーマンがいた。大変なのだなぁと思うが,大丈夫か。休んだ方がよくないか。ま,別の理由で疲れているのかもしれないのだが。
 ハッとするほどきれいな美女もいる。得した気分になる。才色兼備のはずだ。世の中には才も色も持たない女性が圧倒的に多いのだ。どちらかを持っているのは少数。どちらも持っているのは,少数×少数で,超少数。
 それを見れたわけだからね。もっとも,そういう女性はぼくなんぞには鼻も引っかけないだろうけどなぁ。

● 若い頃は東京の書店にしばしば行ったものだった。だから,大型書店に行っても臆することはなかった。あたりまえだ,臆するようなところではない。
 ところが,最近,それが怪しくなっている。丸善で少し臆している自分を発見することになった。圧倒的な物量(といっても,同じ本が大量に置いてあるからそう感じるのだが)に気圧されているのかもしれないが,それよりも自分が本をあまり買わない人間になったからだろう。
 場数を今に活かすには,かつて踏んだことがあるというだけでは足りない。現在も踏み続けている必要がある。それがあって初めて,場数を踏んだという過去形も成立するのだ。

● 大手町=高級,という思いこみがこちらにあったんだけれども,100%高級でできあがっている街などあるわけがない。人間が棲息している以上,それだけでは街は成立しない。
 気安い飲み屋もけっこうある。そりゃそうだ。この街にいるのはサラリーマンなのだ。彼らが自腹で飲める店が必要だ。丸の内永楽ビルや大手町ビルの地階にそうした気安い飲み屋が入っているっぽかった。

● さてと。帰るとするか。東京駅に舞い戻る。平日夜の東京駅は,ぼくの知ってる東京駅とは別の顔を見せた。雑踏が濃いのは同じだが,新橋っぽい雰囲気になるんですな。飲み会を終えたサラリーマンの集団が幅を利かせてたりね。
 この時間に飲み会が終わったというと,今日は定時であがったんでしょうね。明日からの3連休を控えて開放感に包まれているっぽい。そういう目で見るからそう見えるだけ?

● このサラリーマンの飲み会というやつ,当然,会社からの補助はないはずだ。自腹でやっているだろう。これがどれほど会社に裨益しているか。人事管理が楽になっているだろう。残業時間にカウントしてもいいのではないかと思うほどだ。
 逆にいうと,自腹でこれをやっているから“社畜”などという言葉が出てくるのかもしれない。仕事を終えたあとも,社員どうしでつるむという。

● この風潮は昔ほどではなくなっている。その主たる理由は,既婚の女子社員が増えたことだ。彼女たちが昔のような飲み会に全部参加していたら,大半の家庭は立ち行かなくなる。男女雇用機会均等を国是とした以上,この傾向は必然だ。
 昔は本当に社員(男性)にとって会社はすべてだった。その男性社員にしても,昔に比べれば会社を相対化できるようになっているのではないか。
 ゆえに,定年後,会社での人間関係を失い,何をしていいのかわからず・・・・・・という定年問題は自ずと薄まるのではないかと思う。

● なので,彼らを見ていると,そんなことをしていないで,早く家に帰ってひとりの時間を作ればいいのに,と思ったりもするのだ。人生100年時代で最も必要とされるスキルは,ひとりの時間に慣れているということではないだろうか。
 昔の男性社員よりは,そのあたりもだいぶ巧みに捌けるようになってはいるんだろうけど。

● ま,でも,この東京駅の雰囲気は悪くない。立ち去りがたい気分にさせる。
 KIOSKで缶のハイボールを調達して電車に乗った。帰りの車中では,久しぶりの動くパブ。849円の悦楽でござった。これだけ飲めばけっこう酔う。
 宇都宮からは最終の黒磯行き。やはり明日からの3連休が効いているのか,この時間帯の宇都宮にもけっこうな人がいた。仕事を終えたばかりという感じではなく,リラックスムードを漂わせている人が多い印象。

2018年11月21日水曜日

2018.11.21 ネットは垂れ流しのツール

● ネットはネットで,リアル(現実世界)はリアル。あたりまえのことだけれど,両者はまったくの別もの。別なものを同じ使い方で扱ってはうまく行かない。
 で,ネットとリアルでは何が違うのかといえば,ネットは垂れ流すところで(それに最も向いているツールはTwitter),リアルはコミュニケーションの場ということかと思う。

● リアルで自分の思いつきや意見を垂れ流しているだけでは,自分の居場所がなくなる。リアルの面白さは人とやり取りができるということだろう。つまり,コミュニケーションだ。
 いや,コミュニケーションというと,いささか茫漠としすぎるかもしれない。雑談と言い換えた方がいいだろう。リアルの醍醐味は雑談ができることにある。

 たとえば定年で会社を去ると,雑談は減る。それをネットで補おうとするのは,基本的にダメだと思う。
 江戸の仇を長崎で討ってはいけない。リアルの落とし前はリアルでつけないと。

● ネットで雑談ができるか。FBでリアルの雑談を再現するのは無理だ。9割はこぼれ落ちる。書かれた文字だけで雑談をすることは不可能だ。雑談は空間を共有していて初めて可能になる。
 FBであまり連投すると嫌われるから,FBはリアルに近いと言えば言える。でも,リアルではない。事務連絡には向いているが,FBで雑談はできない。LINEも同じ。

● スマホはコミュニケーション・ツールと言われたりするけれど,厳密にいえば間違いだ。そこで言うコミュニケーションは大きく限定されたコミュニケーションだ。お知らせや告知にコミュニケーションの本質はない。
 スマホは便利極まりないものではあるけれども,それはコミュニケーションよりも自分を垂れ流すのにこそ,便利なものなのだ。

● リアルではできない垂れ流しがネットなら可能になる。ならば,ネットは垂れ流すために使った方がよい。双方向のコミュニケーションなどという,昔から言われている絵空事など歯牙にもかけないで。
 というより,ほとんどの人はそのようにネットを使っているのではないか。ブログが登場してその傾向がはっきりし,SNSに至ってそれは怒涛の流れに成長した。これからその流れはいっそう強くなるだろう。

● コミュニケーションしているつもりの垂れ流しでネットは埋まっている。誰かが自分に興味を持ってくれるはずだという根拠のない前提が存在するから,“つもりの”垂れ流しになる。
 誰も自分に興味など持たないのだと自覚したうえで,垂れ流すようにすれば,それが最も賢いネットの使い方になると思う。

● 垂れ流したものが読まれることは少ない。多くの人の垂れ流しの中に読むに耐えるものがどれほどあるか。その大半をスルーしているのではないか。Twitterなら,フォロー返しをするときに,同時にミュートしていないか。たぶん,それはまっとうな対応なのだ。
 だから,自分が同様の扱いを受けても文句を言うつもりは一切ない。そうと決めたうえで垂れ流すのだ。出せばすっきりするのは排便だけではないとしたものだ。

● 垂れ流し以外のネットの使い方は,“検索”に集約されるだろう。良質な情報は検索で引きだす。ネットの使い方は,畢竟,この2つに尽きるように思われる。

2018年11月19日月曜日

2018.11.19 超久しぶり,チェーンじゃない喫茶店に入ってみた

● スタバやタリーズ,モスなどのチェーン店が幅を利かせている。昔ながらの喫茶店はどんどんなくなっている。
 が,宇都宮駅前に残っている店がある。経営者は変わっているのかもしれないけれども,昔からここにこの店はあった。

● 若い頃はよく行ったものだ。たまにはチェーンじゃないところに入ってみるかと思った。で,久しぶりに入ってみた。
 コーヒーが750円もするのに驚いた(自分が何者かになり得ると思えていた20代のときでも,250円か300円はしてた。実質価格は変わっていないと思う)。あと少し早ければ(10:30まで)モーニングセットを注文できて,安くすませることができたのだけど。

● 昔の喫茶店の趣は残っている。ひとつは喫煙可であること。ひょっとすると禁煙席もあるのかもしれないけれど,ザッと見たところではどのテーブルにも灰皿が置いてある。
 チェーン店には高校生も屯っている。多くは女子高生だ。なるほど,彼女たちはチェーン店にしか行かないはずだ。

● こういう店があっていいのだ。というか,あるべきなのだ。クリーン一辺倒は不自然だからだ。
 にしても,だ。モスのチーズバーガーセットが660円なのは高いと感じることがあったのだけど,とんだ勘違いだった。モスは安いのだ。

● カフェや喫茶店の場合,コーヒーにお金を払うのじゃなくて,場所代なのだと昔から言われていた。喫茶店はコーヒーを飲むところじゃなくて,そこでお喋りしたり本を読んだり,場合によっては原稿を書くための場所代,時間代だ,と。
 であれば,なおのこと,チェーンのカフェが優位だ。同じ場所と時間を安く提供しているんだから。
 静かさ,快適さ,調度品の高級感。そういうものでの勝負になるんだろうか。チェーン店はやや詰めこみすぎと思うこともあるけれど,スタバも店舗によってはテーブルの配置がゆったりしているところもある。

● この話を職場でしてみた。ら。それ普通だよ,と言われた。その辺でも800円とかするよ。
 そうか,それが普通なのか。ホテルのコーヒー1杯1,000円は高いと思うかもしれないけれども,それだけの価値があるものだと言う人がいる。今どきは街場の喫茶店でもそれくらいはするのか。

● いや,そうでなければやっていけないだろうとは思うんだよね。百円ショップがどこにもあって,セブンイレブンの100円コーヒーが普及したために,こちら側の価格を測る尺度がかなり厳しくなっているんだろうね。
 となると,チェーン店の安さはどうやって実現されているのかが不思議になる。人ではなく機械がコーヒーを煎れているから,というのですべてを説明できるんだろうか。

● 機械が人間から仕事を奪うという,これはわかりやすい例なのか。喫茶店やカフェがコーヒーを味わうところでもあるのだとしても,さて,非チェーン店のこだわりの味がスタバを凌ぐかというと,それも疑問だもん。

2018年11月13日火曜日

2018.11.13 氏家の「焼肉むらかみ」

● 初めて来た。同僚と何度か来ている相方が,「お得感,半端ないよ」と連れてきてくれた。焼肉食べ放題の店(食べ放題じゃないメニューももちろんある)。
 焼肉とかしゃぶしゃぶとか,肉の食べ放題の店というのは,「牛角」をはじめ宇都宮にもいくつかあるわけだけども,それらのどの店と比べても,お得感があるという。

● そこまで言うんじゃ付き合おうかというわけで,入口で靴を脱ぎ,炉端式のテーブルに着くことになった。
 夜(店の言葉ではディナー)は食べ放題が1,980円。ソフトドリンクの飲み放題が700円。アルコールは1,980円。

● アルコール飲み放題の1,980円についていうと,割安さはまったく感じない。というのは,ぼくが飲むのはハイボールなんだけども,アラカルトで頼んでも400円なのだ。つまり,もともと安いのだ。
 飲み放題の元を取るには5杯飲まなければならない。5杯飲むってけっこう大変でしょ。

● だったら,食べ放題だけにしてアルコールは別に注文した方がいいんじゃないか,って? それがそうもいかないのだ。
 食べ放題の制限時間は60分なんですよ。60分でアルコールまで飲むのはかなり慌ただしくなる。飲み放題を付けると90分になるので,これならゆっくりできる。
 でなければ,食べ放題もやめて,全部グランドメニューから注文するかだけれども,そこはね,ぼくら下々の者は食べ放題は動かせないわけですよ。

● 最善の選択はアルコールなしにすることかも。でも,子供の食事じゃないんだからね。夜に外で食事をするのに,アルコールなしで肉だけ喰うってのはあり得ない選択だよね。
 というわけで,約4千円になる。これが安いかどうかとなると・・・・・・

● いや,安いよね。どうも,ぼくが焼肉を食べるのは昼が多いので,他店の昼の値段と比較しちゃうんだね。「むらかみ」もランチならもっと安くなる。
 夜にこの値段で焼肉を食べたいだけ食べられれば,まずもって文句は出ないだろう。火曜の夜という比較的お客が少ないと思われるこの日も,けっこうなお客さんが入っていたのがその証拠。
 特に女性客が多かった。女性の多くは“お得感”で動く(“お得感”でしか動かない)と失礼千万を承知しつつ,ぼくは思っているんだけれども,その女性客にこれだけ支持されているというのは,そういうことなんだよね。

● さて,値段の話ばかりしてないで,中身の話も。タレは3種用意されている。ぼく的にはレモン汁を激しく推奨。レモン汁に塩を落として肉をひたして喰う。肉を食べるときには酸っぱいものも一緒に食べるといいという話を聞く。レモン汁は焼肉のためにあるようなものだ。
 肉は,牛,豚,鶏。あと,ソーセージ。相方は鶏が苦手で,鶏はノーサンキューにしてしまった。味のわからんヤツだと思われたかもなぁ。
 旨味は脂肪にあり。が,牛カルビや豚トロは,肉を喰ってるのか油を喰ってるのかわからなくなる。肉を食べるなら,豚トロより豚バラがいい。牛だって,カルビよりは赤身だけの肉を食べたい。

● ハイボール2杯,レモンサワー3杯を飲んだ。久しぶりの外飲み。飲み放題だからテキトーでいいや感は皆無。レモンサワーは生レモンを絞っているっぽい。レモンサワーを飲むためにここに来るのもアリかもしれないと思った。
 炭酸系のほかに,もちろんビールもワインも日本酒もある。酒に不満を感じることはあるまいと思う。

● 魚か肉かの二者択一を迫られれば,ぼくは迷わず肉を選ぶ。と思っていたんだけども,何が原因かわからないのだけど(年齢だと言われそうだ),あまり肉を欲しないようになっている。以前は外で食べるだけでは足りなくて,スーパーでステーキ肉を買ってきて自分で焼いたものだが,そういうこともバッタリしなくなった。
 じつは,相方に誘われたときにも,億劫さが勝った。

● 肉を食べたくなったら,しかし,この店に来ることになるだろう。宇都宮のあんなところやこんなところではなくて。ステーキを除いて,肉を食べるならここになりそうだ。わが家にとっての定番になる予感。家から近いし。
 問題はそういうわけで,肉を食べたいと思わなくなっていることで,定番といっても年に数回の話になるのではないかと思う。

● 東京に出向いた折,ランチはしばしば恵比寿ガーデンプレイスの叙々苑で摂る。34階からの都会の眺望を愛でながら焼肉でヱビスビールをやるのは,なかなかいい気分のものだ。
 が,「むらかみ」に行くようになって,あそこのお代は景色代ね,と相方は言うようになった。ぼくはそうは思わない。あの景色はあくまでおまけで,叙々苑のランチにはあの金額だけの値打ちがある。叙々苑は安いと思っている。ただし,ランチにしか行けない。

(追記 2018.11.17)

 重大(?)な修正。飲み放題は1,980円じゃなくて,1,500円だったらしい。つまり,食べ放題+飲み放題の90分で3,500円になる(平日の夜は)。
 この500円の差は気分的に相当大きくて,あれで3,500円はハッキリ安い。肉を食べるためじゃなくて,ハイボールやレモンサワーを飲むために行ってみたくなる。

 チェーンの居酒屋,“庄○”とか“養老の○”とか“○民”とか,そういうところを駆逐することになるだろう。もっとも,チェーンの居酒屋って氏家にはあまりないんだが。
 焼肉やしゃぶしゃぶの食べ放題の店の中では,たぶん,ここが一頭地を抜く存在。相方の言うとおりだった。

2018年11月11日日曜日

2018.11.11 高根沢町グルメ

● 右は高根沢町のローカルフードのPR冊子の表紙。B5で12ページ,オールカラー。町内の公共施設に置いてある。

● 高根沢町のローカルフードで売り出したいと考えているらしいのは,高根沢チャンポン,焼きチャンポン,米粉パン,ジェラードなど。
 チャンポンを出す店としては,元気あっぷむらの「青海」「休憩処 大広間」と「こずち」「ボルドー」「あづま」「三好」「天華」「ちょっ蔵食堂」が挙がっている。「天昇」にもあったと思うのだが,この冊子には載っていなかった。現時点でやめているんだろうか。

● このうち,ぼくが食べたことがあるのは「あづま」と「ちょっ蔵食堂」のみ。「青海」にも「こずち」にも「天華」にも行ったことはあるが,チャンポンは注文しなかった。
 普通のラーメンとチャンポンがあったとしたら,ぼくはラーメンを頼んでしまう。チャンポンが生き残るのはかなり難しいと見る。おそらく,自然にメニューから消えていくのではないか。行政主導で名物を作るのは無理があるように思う。

● 不味いかといえばそうではない。そこそこいけるのではあるけれども,いかんせん,もっといけるものが他にある。おそらく,大方の人にとってそうだと思う。
 そこをあえてチャンポンを選ばせる動機になるのは,町が押しているからというある種の公共心(?)なのだが,いつもいつも公共心が好みに勝るわけではない。

● スイーツに関しては,この冊子に紹介されている店の中で,わが家が利用しているのは「ジョリー」のみだ。あとは行ったことがない。この分野は栄枯盛衰が激しい。「ジョリー」もそんなに古い店ではない。
 そういう分野で勝負しようとする人には頭が下がるが,勝ち抜くのはなかなか以上に大変そうだ。

● かつては,そば打ちが好きだから定年後にそば屋をやるとか,コーヒーが好きだから喫茶店をやってみるという人がいた。今もいるのかもしれないが,この種の手合いは世間をなめているとしか思えない。長く続けているのはほんのひと握りに違いない。
 継続して人様からお金をいただけるだけのものを出し続けるのは,やはり容易なことではないだろう。それゆえ,続いている店に敬意を払うにやぶさかではない。

● じつは高根沢で一度食べてみたいと思っているのがひとつある。この冊子には載っていない。「とんかつ渡辺」のカツカレーだ。
 なんとご飯が二合の超大盛りらしい。そこにカツが載っているわけだから,これはどういう景観になるのか見てみたいではないか。完食は無理としても,挑戦してみたくなるではないか。

● カツカレーってどこにでもあるものだ。高根沢のローカルではない。どこにでもあるものの方が旨いのは致し方がない。
 旨いから広まったのだろうし,旨いから定着したのだろうからだ。ローカルにとどまっているものは,とどまるだけの理由があるからとどまっている。

2018年11月9日金曜日

2018.11.09 夜の電車でパソコンを開く女性

● やぼ用で宇都宮に。帰りは宇都宮を20:13に発車する黒磯行きの電車に乗った。1日のムショ務めを終えて,家路につく人たちで混み合っている。立っている人もいる。この時間,まだお務め中の人もけっこういるんだろうけどね。
 さすがに,皆さん,披露の色が濃い。中に部活を終えた高校生の一団がいて,彼らだけが異彩を放っている。若いってすごいと思わせる。

● 疲れた表情のおじ様おば様も,元気な高校生も,スマホに目を落としているのは共通している。ゲームをしている人もいるんだろうし,SNSに疲れちゃったよと書きこんでいる人もいるかもしれないし,動画を見ている人もいるんだろう。疲れを癒してくれるのもスマホなんだな。
 まさかスマホでExcelを開いて書類を補正している人はいないだろう。いないよね,そんな人は。

● そんな中で若めの女性が一人,リンゴ印のノートパソコンを開いていた。さすがにこの時間帯にパソコンを開いている人は,ほかにはいない。自ずと目立つ。
 スマホやタブレットを使っている人を見て,仕事をしていると思うことはない。が,パソコンは仕事に結びつく。たとえリンゴ印であっても。

● 若い女性の細い指がせわしなくキーボード上を動くのは,官能的な趣もあって,ついしげしげと見てしまいがちだ。気をつけないと。
 が,彼女の指が頻繁に動いているふうではなかったし,イヤホンもしていたから,仕事をしていたのかゲームをしていたのかはわからない。

● でも,ここは疲れた身体にむち打って仕事をしていたのだと思いたい。
 でもって,彼女はどんな仕事をしている人なのか,どんなところに住んでいるのか,同居人がいるのかひとり暮らしなのか,休日はどこで何をして過ごすのか,などなど,いろんな妄想を楽しみたい。
 つーか,楽しませてもらいました。

2018年11月5日月曜日

2018.11.05 女の耳は地獄耳 2

● 彼女がなぜAさんの人事情報を知っているのだ? って,Aさんが話したからに決まっている。彼女に直接話したのか,別の女性に話したのかはわからないけれども,とにかく女性に話した。
 いったん話してしまえば,そこから先は,光よりも速い速度で,女性の口コミネットワークによって拡散される。ともかく,Aさん本人が話したことが,彼女がそれを知っている理由だ。

● 何を言いたいのかというと,男は女に対して無防備になりがちだってこと。女に話せばサッと拡がることを知らない男はいないのだけど,それでも女にはポロッと喋ってしまう。同性にはまず話さないようなことをね。
 すべての女は巫女なのだと言ってみたい。懺悔を受け入れる巫女だ。

● 女は情報を引き寄せるのだ。だから自然に情報(しかも,一次情報)が集まる。そして女は,その情報の海を巧みに,自分に都合良く操って泳ぐのだ。ネットなんか登場する前から,女はそうしてきたのだ。
 情報処理能力が鍛えられている。男が太刀打ちできると思ってはいけない。だから女を敵に回してはいけないのだ。手ひどい目に遇う。

● 巫女を職業にしている女もいる。たとえば,スナックのママだ。彼女が握っている顧客情報はとんでもない質量になるだろう。顧客間の関係も頭に入るだろうから,彼女の前で顧客(男)は丸裸になっているようなものだ。
 さすがに,スナックのママは口が固いかもしれない。普通の女と同じようにしていたのでは,顧客が離れてしまう。
 だから,男は安心して泣きをこぼすのだけれども,それを業としていると,男に対する見切りが自ずとできるだろうな。男なんてしょせんこんなもの,っていう。そこは職業の功徳かもしれない。

● 欧米ではその役割を教会が担ってきたようだけど,日本では市井の女が引き受けてきた。昔と違って,会社でも半分は女という状況になったから,いつでもどこでも男は懺悔ができる。
 だから,日本ではカウンセラーが一般職になることはない。欧米のように増えるはずがない。
 日本の女は優しかったのだろう。ずっと愚痴や泣きを受け容れてきたんだから。

● 作用があれば反作用もあるのが道理だから,その分,自分も愚痴や泣きを吐きだしているはずなんだけど,それは女同士でやっているんだろうか。そのあたりはちょっと謎だ。
 もっとも,男に吐きだされても,男はそれを受けとめることはできない。断言する。そんなことができる男はいない。

2018.11.05 女の耳は地獄耳

● 職場でアルバイトの女性と話をしていると,彼女から人事情報(?)を聞くことがしばしばある。Aさんは前にこういう病気をしたことがあって,子供は2人いてまだ高校生なんだよ,奥さんも同じ病気をしたらしいよ,とか。
 すべて,ぼくは知らなかったことだ。

● なぜこういう情報を知っているのだ? ともかく,すごいものだ。女はただならぬ情報量の中で生きているのだな。
 インターネットが誕生する以前から,女は情報社会を生きてきたのだと思えてくる。

● あってもなくてもいいものは,ない方がいい。いてもいなくてもいい人は,いない方がいい。知っていても知らなくてもいいものは,知らない方がいい。
 その知らなくてもいいことを女はたくさん知っていそうだ。“知らなくてもいいこと”と言ってしまうのは,男側の決めつけで,女にしてみれば,知らないと不安で仕方がないものなのだろうか。“不要の要”というのがあるんだろうか。

● だとすると,女をやってくのも容易じゃないね。男は一人で過ごす時間がないと男を維持できないのに対して,女はずっと孤独が続くと女の基礎が揺らいでくる,と言われる。そういうことも関係するんだろうか。
 女は男に比べると社交性に富み,自身が属する共同体に着けた足が浮いてしまうことはまずない,と思われる。それが女の圧倒的な強みだと思っているんだけど,反面,社交の場がなくなると,男より辛い状況に陥るんだろうか。
 孤独というと観念的な言い方になるな。要するに喋れない状況になると,男よりも女の方が強い風を受けることになるのかい。

● 喋るためのネタ,基礎情報を,女は男よりもたくさん必要とするのだろうか。役に立つか立たないかわからないようなものでも,女には必要な栄養なのだろうと思うほかはない。
 いや,それよりも役に立つとか立たないとか,そういうモノサシは女にはないのかもしれない。要不要という発想じたい,男のものなのかも。

● でもねぇ,ぼくの少ない見聞からすると,女は孤独にも強いと思えるんだよなぁ。

2018年11月4日日曜日

2018.11.04 トリスのハイボールで幸せ気分

● 相方が作ってくれた厚揚げの味噌田楽で,トリスのハイボールを濃いめに作って,静かに独酌。これ以上は望まないなぁ。
 こういうので充分っていうか,こういうのがいい。高価な料理は要らないや。高級なウィスキーも要らない。誰かオゴってくれるんだったら,食べもするし,飲みもするけどさ。

● 今この時間にも,銀座のクラブで飲んでる人がいるんだろうけど,たぶん,その誰よりもぼくの方が平穏さに満たされていると思うぞ。
 何というんだろうかなぁ,憂いがない。このままお迎えが来てもOKだ。老いてこういう酒が飲めるようになるとは,長生きはしてみるものだ。

● いやいや,まだ途中経過の一瞬ではあるんだけどね。この先何が起こるかはわからない。80歳になってから孫に殺される人だっているんだからね。
 棺桶に入るまで人の一生は定まらないというのは,じつにもってそのとおりだと思う。死の直前まで有為転変はあるものだと思っていないと。老いは必ずしも人生の安定を意味しない。

● しかし,この瞬間は穏やかの極みにいる。気になるのは,自分のこの状態を保つために,あるいは自分がこの状態に至るために,周りの人に負荷を押しつけてきたのではないかということだ。
 特に家族ということになるが。自分より弱い者に対して,自分のこれまでの対応ははたしてどうだったか。