2019年4月28日日曜日

2019.04.28 浦和散歩

● 浦和に来ている。浦和に来るのは初めてではない。何度か来ている。が,埼玉というとどうしても大宮ということになる。もう四半世紀も前になるが,週に1~2回通っていた数年間があった。
 その大宮に比べると,浦和は馴染みが薄い。極端にいうと,駅から200メートル四方しか知らない。今回も駅の近辺しか歩かなかった。

● 栃木県人にしたら,目眩がするほどまぶしい街だ。それでもって,空は青いのだ。すごいぞ,浦和。
 東口を出るとPARCOがあり,西口には伊勢丹がある。駅ビルのアトレには京鼎樓の支店もあるし,蔦屋書店まであるのだ。駅周辺だけでまる1日過ごせそうだ。すごすぎるぞ,浦和。

● PARCOや伊勢丹はともかく,蔦屋書店は覗いてみた。代官山に比べれば,売場面積は小さいのだが,当然ながらテイストは似ている。スターバックスと一体化しているところも同じだ。
 本の並べ方も蔦屋チックで共通しているが,この程度だと全体が把握しやすくていい。代官山は一度や二度行っても,頭の中に売場の地図ができない。
 文具も置いてあるが,CDやDVDは扱っていないようだった。

● さしものTSUTAYAも店舗数は減っている。現物のレンタルはネット配信の前に太刀打ちできない。消費者のひとりとしての自分の行動を顧みれば,それは明らかだ。DVDを借りるためにわざわざ店に出向くなど,すでにあり得ない。
 延滞料で儲けるなどというビジネスモデルが成立しなくなったことには快哉を叫びたいが,とはいえ,これまでにTSUTAYAをはじめとするレンタルショップが果たしてきた役割は大したものだ。その恩恵はぼくも受けてきたわけで。

● 苦境に対する解答のひとつが蔦屋家電や「T-SITE」なのだろうか。知的なアミューズメントを作ろうとするが如くの複合化。
 直営店は業績好調のようだ。だいたい,銀座のあの場所に書店を開いて,テナント料を払ったうえに黒字を出せるというのが,CCC以外にあるのかとも思うわけで,どうか頑張ってもらいたい。

● さくら草通りでは古書市が開催されていた。こういうの,首都圏ではわりと見かける。若い頃なら隈なく覗いたろうと思うのだが,老いてしまった今では,ほぼ素通りしちゃうのだが。
 こうした表の秩序ある場所のすぐ近くに,ややいかがわしい雰囲気を醸すエリアがある。秩序の隣にカオスがあるというか。それがつまり都市というやつだよね。こういうのも都市の魅力を作る。秩序しかないところでは人は生きていけない。

● 埼玉も東西に移動するのはどうも不便だ。大宮や浦和からだと東京は近いが秩父はだいぶ遠いのではないか。飯能や所沢も東京より遠いところだろう。下手すると,さいたま市の隣にある越谷に行くのだって容易じゃないっぽい。
 しかし,それで困るかと言うと,そうでもなさそうに見える。浦和に住んでいる人は浦和だけで用が足りるだろうし,何と言っても,東京は指呼の間なのだ。越谷は越谷で,東武電車で東京に出るのは造作もない。浦和や大宮に頼る必要などない。

2019年4月27日土曜日

2019.04.27 東京散歩 晴海通り

● 黄金週間に突入。公務員や金融機関をはじめ10連休の人もいるわけだけども,大方の人はこの10連休,歓迎はしていないんじゃなかろうか。前後が大変で,どこのバカがこんなことを考えたのかと思っているのでは。
 しかし,ともあれ黄金週間だ。泊まりで出かける予定はない。出かけるとしても,せいぜい日帰りで東京。

並木通り
● 初日の今日はその東京日帰り。新橋で降りてトリトンスクエアまで晴海通りを歩いてみた。
 黄金週間でも東京は混んでいる。都内在住者は海外に出かけて,東京はスキスキかと思うと,これが全然違う。
 東京は日本一の観光地でもあるのだ。全国から人が集まっているのかもしれないが,それ以上に外国人が多い。いつもの休日の東京と同じだ。

● 新橋駅から銀座並木通りを通って,晴海通りに入る。銀座で買いものをしたり,お茶を飲んだりってのは,少なくとも1人ではやったことがない。ずっとできなさそうだ。
 晴海通りの歩道もまっすぐに歩けない程度に人,人,人。ブツブツと文句を言いたくなるけれども,本当に嫌なら来ないわけだから,何だかんだいってもヒトゴミが好きなのかもしれないな。

● 歌舞伎座を過ぎ,築地本願寺を過ぎ,勝鬨橋を渡って,着いたところが,トリトンスクエア。新橋からなら大門まで歩いて都営地下鉄大江戸線に乗ってしまうのが早い。
 が,この通りは歩くのが楽しい。特に,勝鬨橋からの隅田川の景観は格別だと,ぼくは思う。都市河川のお手本のようなものだ。もし東京に隅田川がなかったとしたら,東京の魅力はかなり減殺されることになるだろう。

● トリトンスクエアの近くのつけ麺屋で昼兼夕食。下の写真は大盛りで830円。並盛りでよかったかも。
 つけ麺というと,氏家の「みやこ家」を基準にしてしまうのだが,ここのつけ麺は充分に旨かった。人形町の「兎屋」とともに憶えておこう。
 それよりも,ひとりで東京に来たときには,吉野家か富士そばしか入らない(入れない)ものだと自分でも思っていたんだけ
ど,そのどちらでもないところに入ることがあるんだな,俺。

2019年4月25日木曜日

2019.04.25 Facebook雑感

● ぼくは2年ほど捏ねくってFacebookをやめた人間だが,Facebookが悪いわけではない。使い方に問題があった。というか,Facebookに向かない人間がFacebookに手を出した結果だ。
 2年も捏ねくってしまったことを悔いているが,Facebookに恨みはない。よくできているツールで,楽しく使っている人も多いはずだ。

● SNSはFacebook,Twitterのほかにも多数あって,それぞれ鎬を削っていると思うのだが,そのいずれにも向き不向きがある。
 したがって,自分には向かないと思ったらすぐにやめることが肝要だ。使い始めたばかりでまだFacebookを使いこなしているとは言えないから,もう少し使い込んでみよう,などと考えないで,すぐにやめること。使い込んだところで,見える風景が変わってくるなんてことはないから。

● Facebookの日本語版ができてからまる10年になる。最初に飛びつくのは若者だ。中高年にはその種の瞬発力はない。様子見を決め込むか無関心だ。
 それが3年経ち5年経つと,これなら自分もできそうだとなって,ジジイとババアが大挙して参入するようになった。そうなると,先にいた若者たちは逃げだすことになる。
 Facebookはそうなって久しい。現在のFacebookのメインユーザーは中高年,ジジイとババア,だ。40代,50代,60代,そして70代。

● だったら安心だと思う人もいるだろうし,それじゃつまらないと思う人もいるだろうが,ともかく,そういうことになっている。
 生活文化は若者に発祥し,時間とともに上の年代に浸潤していく。逆はない。その若者たちがFacebookから去っているとなると,次は中高年がその後を追うことになるかもしれない。

● Facebookにある“情報”はその99%がゴミだ。およそどうでもいいことをやりとりしている。
 いわく,昼飯に何を食べた。誰さんとどこそこでお茶してる。雑誌で紹介されていたお店に来ている,さすが評判どおりで感心した。テレビでオリンピックを観戦中,羽生君,感動をありがとう。
 というもの。売れっ子タレントでもあれば,昼に何を食べたかは付加価値のある情報かもしれないが,あんたがどこで何を喰おうがどうでもいいわ,そんなこといちいち報告するな,てなものだ。

● したがって,Facebookを始めることは,そのゴミの山に分け入っていくということだ。
 しかもだ。自分もゴミしか出せないと思うべきだ。ゴミじゃないものを出せる人など,まずいない。百人に1人もいないだろう。千人のうちの3人か4人ではないだろうか。
 ゴミの山に分け入って,しかも自分もその山にゴミを加える役になるというのが,Facebookを始めるということだ。

● リアルのコミュニケーションも同じだ。どうでもいいことをやりとりしているから,コミュニケーションがコミュニケーションたり得ている。もし,どうでもいいことではないことをやりとりしなければならないとしたら,大なり小なり緊張を強いられることになる。場合によっては胃が痛くなるような局面になるだろう。
 どうでもいいことのやりとりだから,コミュニケーションは快適なのだ。Facebookでもそれは同じ。
 快適さを求めれば,勢い,やりとりされる内容はゴミになる。自然の道理というものだ。
 Facebookがゴミの山になっている理由の第1は,ゴミじゃないものを出せる人など滅多にいないことだが,第2の理由はここにある。

● が,リアルの音声は発するそばから消えていく。記憶には残っても,声は残らない。対して,Facebookは文字でやりとりをするから,消えずに積みあがっていく。
 それを些細な違いと思うか,大きな違いと受けとめるかは,やはり人によるだろうが,Facebookではゴミがゴミとして残り続ける。

● リアルのコミュニケーションは声で行う。声はそれ自体,多面性を持つ。何を喋っているかだけではなく,どう喋っているか。抑揚や速度。声はけっこう多くの周辺情報を含む。
 しかも,喋っている相手の表情や仕草もわかる。そこから読み取れるものは膨大だろう。リアルのコミュニケーションはその膨大な周辺情報に助けられて,誤解を生むことはあまりない。まぁまぁ的確に伝わるし,相手の意図のとおりに受けとめることができる。

● Facebookでは文字のみが伝達手段になる。周辺情報はない。個体個のコミュニケーションが文字だけで成立するか。
 文字だけで意を尽くすのはかなり難しい。こみいった話はする気にならないだろう。結果,あたりさわりのない話になる。コミュニケーションに快を求めようとすれば,要らぬ誤解を生まないことがその第一歩だからだ。これがゴミを増やす第3の理由。

● ゆえに,すでにリアルで友だちになっている,知り合いになっているという前提があって,それを補完するためのツールとしてFacebookを使うのが本筋のように思う。
 Facebookの基本設計もそうなっていると思う。Facebookはそれに徹するといいのかもしれない。“友だち”を5,000人まで登録できたり,“知り合いでは”と見ず知らずの人を紹介するようなことをやめると,Facebookのインターフェイスはもっとすっきりする(“友だち”の上限は100人でいいのではないか。あとは,フォローに回ってもらえばいい)。
 リアルを前提にするわけだから,リアルの関係を壊してしまうような投稿をFacebookでするわけにはいかない。それがまたFacebookがゴミの山になる理由にもなるわけだが,この理由でゴミが増えるのは仕方がない。

● リアルをリセットして,ネットのみの交際をするためにFacebookを使うのは,実際はそういう使われ方の方が多いのだと思うが,あまり上手くいかないのではないか。
 特に多いのが,会社を定年退職する(した)のを機に,Facebookを始めるというパターンだ。職場絡み,仕事絡みの人間関係が失われる。それをFacebookで補おうという発想。それを推奨する人もいる。やってみる価値がないとは言わないが,うまく行かないことが多いと想像する。

● リアルの人間関係が上手くいかないからネットで理想的な関係を構築しようと,Facebookに活路(?)を求めるのは初歩的な誤り。そういう人は,そもそもがFacebookに向かない人だと思う。リアルですらそれをできない人が,ネット上でできるはずがないのだ。 
 Facebookにはお節介な機能が多いこと(友だちが彼の友だちに宛てたバースデーメッセージが自分のタイムラインに表示されるのを遮断する方法がない,など)や閉塞感が鬱陶しいことも,Facebookを難しくする理由を作っているけれども,それは二義的な問題だ。

● Facebookに限らないが,SNSの隆盛が定着すると,個人情報の保護というやつも,抜本的な見直しが必要になるだろう。なぜというに,保護するも何も,ユーザーが自ら進んで個人情報を開示しているからだ。
 実名と顔写真と居住地を晒している以上,電話番号を突きとめるのは容易なはずだ。住所も地番までわかる。いちいち電話帳にあたらなくても,投稿だけで番地の特定まではできるのではないか(見る人が見れば)。
 さらに,勤務先や勤務先の住所までわかるだろう。性格や趣味もわかる。食生活も推測できる。1週間なり1月なり1年間の生活パターン。何をどのくらい買っているかという購買行動。休日は何をして過ごすことが多いか。そういうことも丸わかりだ。
 収入の多寡や生活水準,頭の良さまで把握される。一般人のそんなものを個々に把握しようなどという暇人はいないだろうけれども,把握しようと思えばできる。

● しかも,Facebookにおいては,プライバシーを隠そうとする人は信用されない。実名ではない名前,顔写真ではないイラストや写真,そういうものを使っている人は,それだけで心証が悪くなる。
 Facebookのほとんど唯一の功績は,実名主義を根づかせたことにある。実名では言えないようなことはネットでも言ってはいけないのだ。そういうことはノートにでも書きなぐっておくのがよい。

2019年4月20日土曜日

2019.04.20 真岡で飲んだ 2

● 昨夜は職場の飲み会があった。真岡で飲むのは負担が大きい。飲まないで車で帰るか,泊まってしまうかしかない。公共交通機関利用はあり得ない。
 車に泊まるのもアリだろう。この時期なら問題ない。けど,この年になればさすがにそれはね。というわけで,何度かお世話になっているビジネスホテルを予約しておいた。

● 宴会が終わってホテルに向かう道すがら,“門前”を歩いてみた。真岡の“門前”といえば,その昔は殷賑を極めていたというイメージがある。実際にどうだったのかは知らないが,イメージとしてはそうだ。
 真岡芸者という言葉が活きていた頃。女性がいる飲み屋もあったろうし,けっこうな歓楽を提供するエリアだったろう。一方で気安い飲み屋もあって,お金のある人はあるなりに,ない人はないなりに過ごせていたのだろう。

● 小津安二郎の映画を見ると,昔の男たちはしょっちゅう飲んでいたことがわかる。しかし,時代は移る。社用族は減った。外で飲むインセンティブもたぶん縮小している。女性がいる酒場などに行かなくても,職場に女子社員がいるのだ。その中の誰かと飲んだ方がよっぽど楽しい。
 しかも,酒場も明るく清潔なのが好まれるようになった。トイレが汚いのなど論外だ。それに対応できなかったところは容赦なく見捨てられる。

● で,“門前”の佇まいはいかにも昭和。しかも,昭和30~40年代の雰囲気。考えようによっては,よくぞこれが残っているとも言える。ノスタルジックを満たしてくれる。
 のだが,若い人はこういう場所には近寄らないだろうし,ぼくのようなロートルは外では飲まなくなっている。

● というわけで,“門前”。金曜日の夜だというのに,人通りはほぼ無し。まったくお客がいないというわけではない。スナックの前を通るとカラオケで歌っている人の声がもれてくる。やってくる常連さんがいるのだろう。
 が,そういう状況では,1人だとさらに入りにくくなる。ムダ金を使わずにすんだ。

● 着替えもせずにベッドに倒れ込んで寝てしまった。けっこう飲んだようだな。
 「ハイボールをダブルで」と注文したら,濃さではなく,量をダブルにしてくれた。大ジョッキに入っているハイボールを3杯も飲んでしまったのだ。弱くなったのかもしれないが,けっこう酔った。

高級監獄で迎える朝
● 翌朝,目覚めたら高級監獄にいる気分になった。ビジネスホテルを高級監獄と捉えてしまうのは,こちらのテンションがやや下がっているからだ。今日のエネルギーを昨夜のうちに使ってしまったので,エネルギーレベルが低下しているわけだろう。
 元に戻すのに時間がかかるのが年寄りというものだ。無理に上げることもあるまいが,こういうときには判断を要する場面は回避するが吉というもの。

● 朝食は注文しておくのを忘れた。予約時に注文しておけばいいのだが,朝食を食べるかとも訊かれなかった。
 どうもホテルとしては,朝食を出すのをやめたいと考えているような気がする。
 地方のビジネスホテルってそういうところが多いようだ。フラッと行ったのでは食べれない。
 朝風呂に入って,ホテルロビーでタダのコーヒー(インスタント)を。さて,帰るか。

● ホテルから職場の駐車場に向かう途中に,こんな公園があった。何ということはない小公園。朝の誰もいない公園というのは,なかなかにいいものだ。
 こういう公園で時間を過ごすことは絶えてないけれど。夏は蚊の巣窟になっているかもしれないし,幼児が遊んでいるのを見て癒やしを感じるという性癖もないし。
 ともあれ。公園には誰もいないのがいい。

● 真岡市内って,コンビニが少ない印象。ここは市役所近くの貴重なセブンイレブン。で,そのセブンイレブンで350円の朝食。
 これはこれで全然悪くないのだけれども,せっかく泊まったのだから,ホテルの朝食を食べたかったなと思った。ちなみに,いつもは朝食は抜いているのだが。

2019.04.20 みやこ家のミニまかない飯

● 氏家「みやこ家」。煮干しラーメンにミニまかない飯のセット。950円。
 まかない飯は,ご飯にチャーシュー,刻み海苔,レタスを入れて,マヨネーズをかけ回して,紅しょうがを添えたもの。なんだ,これなら俺にも作れるよ思うわけだけど,自分で作っても,この味にはならないと思われ。

● みやこ家のセットメニューで昔からあるのは,餃子とチャーハン。
 まぁ,このチャーハンはチャーハンと呼ぶのがいいのかどうかわからない。卵雑炊とまではいかないけれども,卵飯とは言ってもいいかも。
 チャーハンは石鍋に入って出てくる。石に押しつけるようにして水分を飛ばせ,とある。が,そうはしないで雑炊に近い状態で食べる方が旨いという人もいる。

● 最近は唐揚げとかこのまかない飯とかのセットメニューができた。セットメニューを付けるときは,つけ麺ではなくラーメンにした方がいいでしょうね。
 つまり,つけ麺よりラーメンの方が量が少ないのでね。つけ麺をセットにしたのでは,さすがに全部食べるのはきついかもね。いや,ぼくだって少し前までは食べ切れてたと思うんだけどさ。

2019年4月19日金曜日

2019.04.19 ジジイは若い女性に向かうべし

● 男性は若い女性に目が行きがちで,女は若い方がいいと思っている,と女性は思っている。で,人生の辛酸をなめて経験値を深めた女を敬遠するのは,自分に自信がないからではないのかというお叱りをいただくことがある(ぼくがではなく,男性一般が)。
 この意見には一理ある。いや,二理も三理もあるかもしれない。

● が,ぼくが向かうとすれば若い女性だ(ぼくの年齢からすると,30代は充分に若いことになる)。理由は次の3つだ。
 第1に,年配の女性を見ていて,経験値が魅力になっている人はあまりいないように思えるからだ。バカのまま年だけ重ねたという女性がほとんどではないか。男も同じだが。

● ほとんどの人は毎日毎日同じことを繰り返してきたはずだ。同じことを何千回何万回と繰り返して,今日に至っている。ゆえに,経験のバラエティは極めて少ない。
 経験の総量は海ほどもあるに違いない。しかし,1人の人間が経験できるのはバケツ1杯分くらいのものだ。
 それゆえ,経験値の限界はかなり低いところにあるのではないかと思っている。バケツ1杯分の水でもって海を論じがちなのが,年寄りの通弊だ。それをつまり,バカと呼ぶのだ。

● 人には言えないような,辛かったこと,恥ずかしかったこと,悲しかったこと,自分を責めずにはいられなかったこと,そういう経験は誰でもしている。死んでしまおうかと思ったことのない人は,むしろ少数派かもしれない。それでも大方の人間は笑って生きている。人間ってなかなかのものじゃないか。
 しかし,笑えてしまうのも事実だ。時間薬が効くからだ。そのように人間はできている。時間薬が効いたあと,その死んでしまおうかと思ったほどの体験が,その人に何らかの深みを残しているかどうか。じつは,ぼくは疑問に思っている。
 経験は人を賢くしない。これが理由のひとつめ。

● ふたつめは,同年代よりも若い女性に向かう方がはるかに難易度が高いからだ。どうせやるなら,難易度の高い方にチャレンジするのが面白い。
 普通,20代や30代の女性が50代や60代の男性を相手にすることはない。洟もひっかけないのが普通だ。そもそも,彼女たちにすれば,ジジイやオジンなど男の範疇に入っていないだろう。
 仕事で上司-部下の関係にあれば,仕事に必要な範囲で口もきくだろうけれども,その前提をはずしてもなお,口をきいてもらえるジジイやオジンがどれほどいるか。

● そこをどうにか,この人なら相手になってもいいと思ってもらわなければならない。この人になら時間を使ってもいいと思ってもらわなければならない。
 そのためにどうすればいいのか,どうあればいいのか。そこを色々と考える。考えるだけではどうにもならないが,それでも考えることはいいことだ。
 若い女性に向かう方が難易度が高いということ。理由のふたつめはこれだ。

● 三番目の理由は,それが勉強になるからだ。何だかんだいって,若い人は今の時代の空気を吸っている。これが大事なところだ。
 ぼくなんかが考え方や価値観の骨格を形作ったのは,昭和40年代だ。その頃に思春期を迎えたからだ。その時代の空気の中で自分の骨格ができた。

● 考え方や価値観の骨格ができたあとに,バージョンアップをしてきていればまだしもだが,そんなことはしていない。大方の人たちも同じだろう。
 その骨格のまま何十年か生きてきた。その骨格を尺度にして物事を測るという水準から一歩も出ないまま,馬齢を重ねてきた。重ねていうが,それをバカと呼ぶのだ。

● つまり,ぼくらは(少なくともぼくは)今の時代の空気を呼吸できていない。時代に添えていない。若いしかも女性と接すると,そのことを痛切に知らされる。自分と相手の段差に驚く。
 その驚きがつまり勉強だ。ある程度の年齢になったら,年上よりも年下から学ぶ方向に舵を切るべきだろう。年下から学ぶ方が難しい。難しい方を選択しなければいけない。

● ぼくらは所詮はバカなのだと思う。バカでしかあり得ない。そういう存在なのだろう。
 そうではあっても,バカであることに抵抗しようじゃないか。バカに居直っていたのではどうにもならないじゃないか。
 その抵抗の方法として,若い女性と接する機会を増やすのは,考え得る方法の中で最善のものだと思う。
 当然ながら,若ければ誰でもいいというわけにはいかない。僭越ながら,相手は選ばなければならない。年寄りでも若くても,バカはバカで,バカと付き合っている時間はないのだ。

● ババアやオバンも若い男性と接する努力はした方がいいと思う。同年代の男と昔話に興じるのは楽しいだろうが,それだけでいいのか。
 ただし,それはジジイが若い女性に向かう以上の困難を伴う。若い男性はジジイ以上に若い女性しか眼中にないからだ。針の穴を通すコントロールを発揮するのは最低限だ。できなくはないはずだと思う

2019年4月13日土曜日

2019.04.13 ひっさしぶりに氏家「登竜」

● 氏家の「登竜」に行った。だいぶ間があいてしまった。
 理由はひとつしかない。食事時に行くと駐車場が空いていない。何度か行っているんだけど,その都度諦めて別のところに行くしかなかったのだ。

● 今回は,17時前に行った。さすがに入ることができました,と。しばらく行かない間に何が変わっていたというわけでもない。
 メニューを見て2つだけ気がついた。ひとつは新メニューが加わっていたこと。ゆず塩タンメン。茂木発祥と考えていいんでしょうかね。真似されるというのは,嘆くことじゃなくて,胸を張っていいことだと思うんだけどもね。

● もうひとつ。味噌ラーメンの“トッピングなし”が,味噌野菜ラーメンと名称変更。チャーシューなしで,野菜ドッサリの味噌ラーメンですな。
 つまり,以前は味噌ラーメンに2種あったということ。紛らわしいから,この名称変更は正解だと思う。

● じつは,相方はこれしか注文しない。たぶん安いからだと思う。あと,野菜がたっぷり摂れること。
 が,他にも好きなものがあって,それはチャーハン。ので,ぼくはチャーハンセットを注文して,チャーハンを分けてあげることにする。

● ここのメニューはひと通りは食べていると思う。麺類はもれなく。で,やっぱり醤油ラーメンが一番だと思っている。具だくさんではなくて,麺そのものをすすり込むには,やはり醤油でしょ,みたいな。
 セットメニューにはその醤油ラーメンの小さなのがスープ代わりに付いてくるので,醤油ラーメンを食べたい欲はそれで満たされる。

● チャーハン,旨ぁ。飲食店のミスター氏家は,やはり,ここでしょうかなぁ。いや,揺るぎなくここだな。
 氏家で最後まで残る飲食店はたぶんここになる。その理由は,何となく捉えているつもりだけれど,ではそれを言語化してみろと言われると困る。言葉にするとこぼれ落ちるものが出てきそうだ。

2019年4月11日木曜日

2019.04.11 働きたいヤツは働けばよい

● サントリーの“千原兄弟・大島優子の新番組『のんある屋台』”というウェブ上のCM番組をTwitterで知った。どんなものなのか。箕輪厚介編と鬼塚勝也編を見てみた。鬼塚勝也編は前後編があるので,都合3回。
 したらば。これ,めちゃくちゃ面白い。さすがサントリー。
 箕輪さんが本は30分で読み切れるものじゃないと売れないと言っていたけれども,動画のトーク番組だって,10分以内じゃないと見てもらえないかもね。

● 箕輪さんの名前は,ぼくの場合は主に書店でってことになるのだが,最近よく見かける。ビジネス・ブレークスルー大学(BBT大学)が提供している動画にも箕輪さんが登場しているものがある。
 YouTubeで見ることができるので,2本ばかり見てみた。見た結果の感想はこういうものだ。
 勝手にやってれば。

● こういう人はいるものなのだ。夢中は努力に勝ると言えてしまう人。実際,夢中になれる人。
 アグレッシブにグイグイ行ける人。飽きたら次に行くと言う人。経験は役に立つが,無経験の無鉄砲さの強さは無類だと言える人。

● が,誰もがそうなれるわけではない。それこそ,それをやらせたらメンタルを病む人もいるだろう。
 では,どうすればそういう人になれるのか。生まれつきではないか。そういうふうに生まれなかった人は,どうやったってなれないのじゃないか。

● そういうスーパーサラリーマンなり起業家が脚光を浴びている。昔からそうだったのだろう。なぜかといえば,稀少価値があるからだ。そういう人は圧倒的に少ないからだ。
 これからもそうであり続けるだろう。というより,ますます脚光を浴びるようになるのではないかと思う。

● しかも,そういう人たちが生みだす富の全体に占める比率は,上がるばかりだろう。
 かつてのように富の生産に大規模な装置は要らない。大規模装置を要するものもしっかり残るのだけれども,それらはすでに供給能力が飽和点を超えているように思われる。たとえば,自動車会社がこんなに必要か。パソコンメーカーなんて今の半分になってもいいのではないか。
 頭脳ひとつで今までになかった便益を提供できる人が出てくるだろう。そういう人に富は集中する。

● ごく一部のスーパーサラリーマンあるいは起業家とその他大勢がくっきりと分かれるようになる(すでにそうなっているのかもしれないが)。
 稀少価値があるものはもてはやされる。だから,自分もそうなりたいと憧れる若い人たちが増えるだろうとも思う。スーパーサラリーマンが主宰する○○塾なんてのに入りたがる若者が増えそうだ。

● しかし,入ってみたところで,大半の人間はそうはなれない。生まれつきだからだ。なれない自分をダメ人間だと思わないようにアドバイスすることも必要になる。
 その他大勢で何が悪い,と居直れるくらいでちょうどいいのだ,とぼくは思う。

● このまま行くと収入格差はさらに広がる。富を生みだせる人が一部に偏在し,生みだした富はその人に帰属するとなれば,そうなるしかない。
 それをぼくは悪いことだとはまったく思わない。そうなるべきだと思っている。それが自然というか,わかりやすいからだ。

● で,そうなってしまうと,彼らが生みだしたサービスを購入できる人がいなくなる。富の集中が巡り巡って彼らの首を絞めることになる。
 それを修正するためにどうすればいいかとなると,ベーシック・インカムの導入しかない。儲けた彼らが払う税金をその他大勢に分配して,彼らが提供するサービスを買ってもらうのだ。

● それ以外の方法があるのであれば,教えてもらいたい。富の集中は自然だけれど,そのままにしておけば集中した場所も枯れることも自然だ。
 もっとも,彼らは,お金には執着がない,お金を貯めたら負けだ,なんて言ってくれちゃっているから,なかなか一筋縄では行かないわけだが。

● ベーシック・インカムが導入されれば,当然,生活保護と国民年金は廃止する。県市の福祉事務所と国の社会保険事務所のかなりの部分は要らなくなる。
 ベーシック・インカムの支払い業務は,マイナンバーをモノサシにして,AIに仕事させればいい。そうすれば行政のスリム化も同時に達成される。
 いずれそうなる,そうならざるを得ないと見る。

● 夢中で働いて,それによって自己実現を果たし,世間からも注目されるごく少数の人と,勤労意欲はあまりないがベーシック・インカムの肩に乗ってそれなりに暮らす多くの人に,画然と分かれることになる。
 そうなってもなお,勝ち組・負け組という言葉や発想は残るだろう。勝ち組に上がろうとする人も連綿と続くことだろう。しかし,大半の人は努力空しく,勝ち組には入れない。

● 働く人は夢中で働き,そうでない人はあまり働き気がない。勤労意欲の格差が際立ってくる。そういう社会になると予想する。
 でもって,圧倒的に少数の勤労意欲に満ちた人たちが社会をリードしていく。したがって,社会全体の富の生産は落ちない。

● では,自分はどちらに身を置きたいか。この場合は多数派でいたい。働きたいヤツは働けばよい。ブランド人になりたければなればよい。死ぬこと以外かすり傷だと思う人は,どんどん動いて勲章になる傷を負うがよい。そういう人を賞賛する人はすればよい。
 ぼくは彼らの稼ぎのおこぼれに与って,ベーシック・インカムでつましく生きていくのが性に合っている。つまり,これからとても良い時代が来ると思っているのだ。スーパーサラリーマンのおかげだ。

2019年4月6日土曜日

2019.04.06 錦糸町駅南口の吉野家

● 錦糸町駅南口の吉野家。スタッフは全員が外国人。バングラディシュあたりかなぁ。彼ら同士も日本語で話している。
 オバちゃんが色々とミスっていた。注文をうまく厨房に取り次げないようだ。あるいは,注文品と注文者が結びついていないのか。
 で,他のスタッフが彼女に,どうしちゃったの今日は,とか,落ち着こう落ち着こう,と日本語で声をかけていた。凄いものだねぇ。

● 牛丼が出てくるまでけっこう待たされた。吉野家にはあるまじき遅さだったんだけども,いつも行く宇都宮駅構内の吉野家に比べてもスタッフの数が少ない。これでは日本人スタッフでもテンテコマイになっていたかも。

● お客さんも大声で怒鳴ったりはしない。今,彼女がしている経験を自分もしたなと思っているのかもしれないし,慣れない外国で大変だろうなぁと思っていたのかもしれないし,外国人じゃこんなものだろと諦めていたのかもしれない。

● 吉野家もそうだけども,コンビニでしばしば感じる。外国人が外国人に日本語で業務指導ができる水準になっている。
 畏るべし。ひょっとすると,日本人のお家芸だと日本人が思っている接客技術を次世代につないでいくのは,日本人ではなく,外国から来ている彼らかもしれない。日本流の“おもてなし”は彼らに引き継がれるのかもしれないと思った。

● 日本人じゃないとできないことなんて,たぶん,ないんだよね。勤勉だとか,手先が器用だとか,そういうことって,日本人の専売特許のはずもないし。
 ペルシャ絨毯を織りあげる人たちが,日本人より不器用だとはどうしたって思えない。そんなこと,世界にいくらでもあるでしょ。

● ぼくはいつも牛丼並と生卵の注文だ。それ以外を頼むことはまずなくなった。
 でね,今日の並はご飯の盛りが多かったような気がしてね。彼らの並って,ぼくらが知っている並より多目なのかい。
 んなわけないよなぁ。このあたりもマニュアルで決まっているはずだよなぁ。

2019.04.06 猿江恩賜公園の桜

● 猿江恩賜公園に行ってみた。というか,横切ってみた。桜は満開を過ぎて散りしきっているときが,最も美しい。美の最高潮は満開の先にある。東京ではまさに今がその時。
 暖かく日差しもたっぷりあって,絶好の行楽日和。多くの人たちが花を散らせる桜の下で,思い思いに過ごしている。

● 見事な桜だ。この程度の密集度,連坦度は,東京では珍しくもないのかもしれないけれども(代表的な桜の名所として猿江恩賜公園が挙げられることはあまりないと思うから),ぼくにはすんげーものとして映る。ここまで桜で埋めるほどに,日本人は桜が好きなのか。
 逆方向に見ると,スカイツリーを背にした桜の群舞。いやはや,絵になるものだ。

● 桜だけではない。チューリップなどいろんな花が植えられている。華やかが華やかの中に埋もれてしまって,それぞれの花が際立たない。
 いや,そうではない。桜が圧倒的に強い。桜は本当に強力無比。花といえば桜。おそらく,日本人に限らず,アメリカ人もフランス人も同じなのではないかと思わせる。

● が,桜には狂気が宿るいう言われ方もある。そうかもしれないと思う。精神に病を抱える人はこの時期をやり過ごすのが大変だという話も聞く。
 季節の変わり目がどうのこうのではなく,どうもこの桜がいけないのではないか。春に桜がなければ,彼ら彼女らの心も平らかさを維持しやすいのではないか。と思わせるほどに,桜の群舞には尋常ならざる空気を感じる。

● 行楽を楽しんでいるかに見える人の中にも辛い思いを抱えた人がいるはずだ。この時期,辛い人,けっこういると思う。
 クリスマス商戦の時期も,その浮き立つ感じについていけない,疎外されていると感じ
る人はいるだろうが,桜はクリスマスのような人工物ではない。ここの桜は人が植えたものではあるとしても,桜そのものは自然に属するものだ。
 その自然がここまで浮き立つと,辛さがいや増す。桜は少しあればいいのかもしれない。

● ここに来る前に地元の図書館に立ち寄った。建物の前に一本桜がある。
 こちらの花はまだ発展途上かに見受けられたが,その一本桜の方が風情があるようにも思える。こちらの襟を正さしめるのは一本桜の方かも。

● ソメイヨシノは挿し木で増やしたので,すべてのソメイヨシノは同じもののクローンであるらしい。環境が変化して,ソメイヨシノが生存できなくなると,日本中のソメイヨシノがすべて消えてしまうことになる。
 猿江公園の桜も地元の図書館の一本桜も,文字どおり全く同じものであるわけで,そのことが何だか奇妙なことに思えてくる。

2019年4月5日金曜日

2019.04.05 Twitterでフォローお断り?

● Twitterで「見知らぬ方からのフォローはブロックします」と言ってるヤツがいるんだよね。どうもわからん。
 自分は見知らぬ人をフォローしていないのか。見知らぬ人からフォローされて何か困ったことが起こるのか。むしろ見知ってる人からフォローされる方が迷惑なことが多いのでは。

● 要は,自分がフォローしなければいいだけじゃん。フォローされるとフォローを返さなければならないから,それが面倒だということだろうか。
 フォロー返しなんてしなくてもいいんじゃないか。そのあたりのラフさというか自由さが,Twitterのいいところじゃないか。どうしてもというなら,フォローを返して同時にミュートしておけばすむ話じゃないか。

● それ以前に,Twitterを始める以上,この部分をコントロールしようとするのは,そもそもがNGじゃないのか。
 見知らぬ人からのフォローはブロックしますというくらいなら,Twitterの世界に出てくるなよ。FBでもやっとけよ。

● 大昔,ホームページの時代に,リンクを張るのにいちいち断らなければいけない風潮があったのを思いだすんだよね。無断リンクお断りしますとか,リンクを張るときはトップページにお願いしますとか。
 原始時代にはそんなことがあったんだよ。それを見ると,けっこうザラッとした違和感を覚えたものだ。リンクを規制するんだったらホームページなんか作るなよ,何のためのインターネットだよ,って。

● こういうのってさ,わざわざアメリカに行って,英語しか話せない人とは付き合いませんと言っているようなものじゃないか。
 リンクはネットの本質だし,フォローはTwitterの生命線だろうよ。フォローしたうえで悪さをしてくるヤツはブロックするとして,フォローそのものをされては困ると言うんだったら,何のためのTwitterだよ。

● と言いたくなるんだけども,こういうヤツのツイートってだいたい面白くないから,結果的にフォローすることもない。だから,わざわざブロックしますなんて言う必要もない。
 自分が等身大の10倍に見えているのかもなぁ。ちょっとおバカかなぁ。

2019年4月4日木曜日

2019.04.04 真岡で飲んだ

● 職場の歓送迎会。真岡で飲めば泊まるしかない。泊まるんだから,ちょっとウキウキするところもあるんだが,まぁ,ウキウキよりも面倒くささが勝るというのが正直なところ。

● この時期,やっぱり桜。真岡の桜は真岡鐵道の沿線と行屋川の川沿いが有名。ぼくが知らないだけで,他にもあるのかもしれないけれど。
 右の写真は行屋川の夜桜。まだ少し早いが,これはこれで幻想的。かなりのものだと思いますよ。浸ろうと思えばいろんな妄想に浸ることができる光景だ。

● 最近は花見でも酒は禁止というところが増えたと聞く。それを嘆いている御仁もいるかもしれないけれども,ぼくは花見酒にはまったく食指が動かないタイプ。若い頃からそうだった。
 花は見るだけでいい。酒を飲むに限らず,そこで何かをしようという発想はない。

● ということで,予約しておいたビジネスホテルに。朝食付きで6,068円。仕方がないところでしょう。というか,良心的な料金だと思う。
 まずは大浴場へ。サウナもある(時計がないのがちょっと困る。砂時計も撤去されている)。体の大掃除をして,部屋に戻った。が,戻っても特にすることはない。さらに部屋で飲もうという気にもならないしね。

● ビジネスホテルの部屋って,機能的にはこれで充分。人間,立って半畳,寝て一畳。とすれば,この広さ(狭さ)でいい。これ以上の広さはむしろ贅沢かもしれない。
 スペースは最小限なのだが,これだけでやりたいことはできる。ノートを広げることもできるし,パソコンを開いて作業することもできるし,お湯を沸かしてお茶を飲むこともできるし,洋服もかけておける。もちろん,寝ることもできる。
 唯一の不満はWi-Fiが遅いこと。電波は充分に強いのだが,速度が出ない。ひょっとすると,こちらの端末が上手く受信できていないのかもしれないのだが。

● 22時に寝たが,どうも上手く眠れない。飲んでいるのが1番目の理由だと思うけど,枕が変わったのもあるなぁ。これは年のせいかもな。昔はこういうこと,なかったから。
 2時に目が醒めてしまった。スマホでTwitterなんか見てると,さらに眠れなくなった。

● 翌朝の朝食。味噌汁とご飯はお代わり自由。以前は600円だったのが1,000円になっている。その400円の差は何かといえば,おかずが充実したことだ。
 ひとつは納豆。プチカップの納豆だったのが,今は普通の大きさになっている。ハムエッグと千切りキャベツは以前からあったが,そこに魚,昆布の佃煮,キンピラが追加されていた。
 ぼく的にはおかずの品数が多すぎる。あと2品,減らして欲しい。まず,魚(鮫肉)は要らないかな。あと,海苔も削っちゃっていいかな。

● シティホテルにあるバイキング形式の朝食もいいのだけど,こういう盛りきり型も悪くない。むしろ,この方がいいと思う人も多いだろう。
 これで1,000円はけっして高いとは思わないが,吉野家やモスやマックにも朝食メニューがある。300円台だ。それが不味くないわけだから,そうした店が近くにあるホテルでは,朝食というのはなかなか難しいのかも。
 朝食は事前予約制なのだが,朝食を食べている人は,ぼくを含めて4人しかいなかった。2人はぼくと同じように昨夜宴会があったので泊まったとおぼしき人。あとの1人は2人の男の子を連れたお父さんで,男の子も入れると計6人になるのだが,そのために人手を使うのでは,割が合わなかろう。

● 五行川の堤防を歩いて出勤。この風景を隅田川に比するのは少し無理がある。
 のだが,そこは見立てというか,想像力を働かせるというか,そういう作業で補えば・・・・・・補えないか。

2019年4月1日月曜日

2019.04.01 Facebookがつまらない理由

● “Facebook つまらない”で検索をかけるといくつもの記事がヒットするわけだけども,その中のいくつかを読んでみた。「Facebookがつまらない理由 最近のFacebookについて思うこと」にほぼ尽くされていると思うのだが,もっと低次元からFacebookがつまらない理由をウダウダと述べてみる。

● FBななぜつまらないのか。第1に,ネット上のコミュニケーションがそもそもつまらないものになりがちだからだ。
 第2に,FBはコミュニケーションツールとしてしか使い途がないからだ。それ以外の使い方をするのが難しい。どうしてもといえば,非公開に設定したうえでやるしかない。が,誰かが見ているという感覚は欲しい。それがあった方が張りが生まれるからだ。

● ここでホテルを思いだす。ラウンジで仕事か遊びかわからないけれども,パソコンをいじっている人がいる。けっこうな数,いる。そんなものは部屋でやったらいいのにと思う。
 が,部屋で1人でやるより,誰かがいるラウンジでやりたい。これはよく理解できる。人は人恋しさを内包しているのだ。
 受験勉強だって自宅でやるより,大勢の仲間(ライバル?)がいる図書館の学習室でやった方が捗るような気がする(気がするだけだろうが)。1人遊びでも自宅の庭より公園でやりたくなることがある。
 かといって,ラウンジでパソコンをいじっているところに,誰かに話しかけられるのは迷惑だ。ぼくはそういうことをしたことがないのでわからないのだけれども,たぶん,迷惑だと思う。

● SNSに何ごとかを書きこむのは,ラウンジでパソコンをいじるのと同じようなものだ。
 人がいるところで1人でいじっていたいのだ。人を感じながら1人で気ままにいじっていたいのだ。人と話をしたいからラウンジにいるのではない。

● FBはそれを許さないところがある。話をしろとしつこく勧めてくる。
 FBが想定しているほどのコミュニケーションはごく少数の人とやればいいものなのであって,ネット上に友だちが100人,200人という世界でその疑似形態を作ったところで,それを維持するのは苦痛でしかないだろう。

● FBはGoogle検索を受け付けないし,自分の投稿はFB上の友だちにしか表示されないから,人を感じるといってもその範囲が限定される。
 かつ,その“誰か”との関係が濃密になりがちだ。FBでコメントを無視するのは難しい。

● FBに溢れているのはおおよそがゴミだ。FBを始めるというのは,ゴミの山に分け入っていくのとほぼ同義だ。自分が発するのもゴミなのだから,そこはお互い様ではある。
 ところが,ゴミを素材にやり取りまでするのは,じつにもってバカバカしい。FBはそのやり取りを強制するようなお節介な機能がいくつもあるというわけだ。やり取りに特化しているのがFBの特徴だと言えるわけで,だからつまらないのだ。

● それ以前にネット上に不要な友だちを作ることのバカバカしさにも多くの人が気づき始めている。ネット上のコミュニケーションはつまらないものだ。つまらないと言っては言いすぎなら,虚しいものだと言い直そうか。
 そのつまらなくて虚しいものをメインにしなければならないとあっては,FB離れは必然のように思われる。若者はあらかたFBから離れたようだから,次は中高年が若者の後を追う番だ。

● ぼくはFBはなくなると思っている。現時点でいったん使ったIDで再開することはできない仕様になっているようだが,それをかなぐり捨てて再集客を試みても,状況は好転しないだろう。
 ので,現状でFBを推奨する人,FBは楽しいと思っている人の多くは,タレント-ファンの構図で,自分をタレントになぞらえている人ではないか。つまり,裸の王様というかバカというか。

● 実名主義が問題なのではない。匿名で,実名では言えないようなことをネットで放言するのは,みっともないことこの上もない。むしろ,実名主義を日本にも根付かせたことは,FBの功績の1つに数えていいのではないか。
 ネットで濃厚なコミュニケーションを実現させようとしてもうまくいかないことを証明したのも,FBの功績だ。