● ぼくは2年ほど捏ねくってFacebookをやめた人間だが,Facebookが悪いわけではない。使い方に問題があった。というか,Facebookに向かない人間がFacebookに手を出した結果だ。
2年も捏ねくってしまったことを悔いているが,Facebookに恨みはない。よくできているツールで,楽しく使っている人も多いはずだ。
● SNSはFacebook,Twitterのほかにも多数あって,それぞれ鎬を削っていると思うのだが,そのいずれにも向き不向きがある。
したがって,自分には向かないと思ったらすぐにやめることが肝要だ。使い始めたばかりでまだFacebookを使いこなしているとは言えないから,もう少し使い込んでみよう,などと考えないで,すぐにやめること。使い込んだところで,見える風景が変わってくるなんてことはないから。
● Facebookの日本語版ができてからまる10年になる。最初に飛びつくのは若者だ。中高年にはその種の瞬発力はない。様子見を決め込むか無関心だ。
それが3年経ち5年経つと,これなら自分もできそうだとなって,ジジイとババアが大挙して参入するようになった。そうなると,先にいた若者たちは逃げだすことになる。
Facebookはそうなって久しい。現在のFacebookのメインユーザーは中高年,ジジイとババア,だ。40代,50代,60代,そして70代。
● だったら安心だと思う人もいるだろうし,それじゃつまらないと思う人もいるだろうが,ともかく,そういうことになっている。
生活文化は若者に発祥し,時間とともに上の年代に浸潤していく。逆はない。その若者たちがFacebookから去っているとなると,次は中高年がその後を追うことになるかもしれない。
● Facebookにある“情報”はその99%がゴミだ。およそどうでもいいことをやりとりしている。
いわく,昼飯に何を食べた。誰さんとどこそこでお茶してる。雑誌で紹介されていたお店に来ている,さすが評判どおりで感心した。テレビでオリンピックを観戦中,羽生君,感動をありがとう。
というもの。売れっ子タレントでもあれば,昼に何を食べたかは付加価値のある情報かもしれないが,あんたがどこで何を喰おうがどうでもいいわ,そんなこといちいち報告するな,てなものだ。
● したがって,Facebookを始めることは,そのゴミの山に分け入っていくということだ。
しかもだ。自分もゴミしか出せないと思うべきだ。ゴミじゃないものを出せる人など,まずいない。百人に1人もいないだろう。千人のうちの3人か4人ではないだろうか。
ゴミの山に分け入って,しかも自分もその山にゴミを加える役になるというのが,Facebookを始めるということだ。
● リアルのコミュニケーションも同じだ。どうでもいいことをやりとりしているから,コミュニケーションがコミュニケーションたり得ている。もし,どうでもいいことではないことをやりとりしなければならないとしたら,大なり小なり緊張を強いられることになる。場合によっては胃が痛くなるような局面になるだろう。
どうでもいいことのやりとりだから,コミュニケーションは快適なのだ。Facebookでもそれは同じ。
快適さを求めれば,勢い,やりとりされる内容はゴミになる。自然の道理というものだ。
Facebookがゴミの山になっている理由の第1は,ゴミじゃないものを出せる人など滅多にいないことだが,第2の理由はここにある。
● が,リアルの音声は発するそばから消えていく。記憶には残っても,声は残らない。対して,Facebookは文字でやりとりをするから,消えずに積みあがっていく。
それを些細な違いと思うか,大きな違いと受けとめるかは,やはり人によるだろうが,Facebookではゴミがゴミとして残り続ける。
● リアルのコミュニケーションは声で行う。声はそれ自体,多面性を持つ。何を喋っているかだけではなく,どう喋っているか。抑揚や速度。声はけっこう多くの周辺情報を含む。
しかも,喋っている相手の表情や仕草もわかる。そこから読み取れるものは膨大だろう。リアルのコミュニケーションはその膨大な周辺情報に助けられて,誤解を生むことはあまりない。まぁまぁ的確に伝わるし,相手の意図のとおりに受けとめることができる。
● Facebookでは文字のみが伝達手段になる。周辺情報はない。個体個のコミュニケーションが文字だけで成立するか。
文字だけで意を尽くすのはかなり難しい。こみいった話はする気にならないだろう。結果,あたりさわりのない話になる。コミュニケーションに快を求めようとすれば,要らぬ誤解を生まないことがその第一歩だからだ。これがゴミを増やす第3の理由。
● ゆえに,すでにリアルで友だちになっている,知り合いになっているという前提があって,それを補完するためのツールとしてFacebookを使うのが本筋のように思う。
Facebookの基本設計もそうなっていると思う。Facebookはそれに徹するといいのかもしれない。“友だち”を5,000人まで登録できたり,“知り合いでは”と見ず知らずの人を紹介するようなことをやめると,Facebookのインターフェイスはもっとすっきりする(“友だち”の上限は100人でいいのではないか。あとは,フォローに回ってもらえばいい)。
リアルを前提にするわけだから,リアルの関係を壊してしまうような投稿をFacebookでするわけにはいかない。それがまたFacebookがゴミの山になる理由にもなるわけだが,この理由でゴミが増えるのは仕方がない。
● リアルをリセットして,ネットのみの交際をするためにFacebookを使うのは,実際はそういう使われ方の方が多いのだと思うが,あまり上手くいかないのではないか。
特に多いのが,会社を定年退職する(した)のを機に,Facebookを始めるというパターンだ。職場絡み,仕事絡みの人間関係が失われる。それをFacebookで補おうという発想。それを推奨する人もいる。やってみる価値がないとは言わないが,うまく行かないことが多いと想像する。
● リアルの人間関係が上手くいかないからネットで理想的な関係を構築しようと,Facebookに活路(?)を求めるのは初歩的な誤り。そういう人は,そもそもがFacebookに向かない人だと思う。リアルですらそれをできない人が,ネット上でできるはずがないのだ。
Facebookにはお節介な機能が多いこと(友だちが彼の友だちに宛てたバースデーメッセージが自分のタイムラインに表示されるのを遮断する方法がない,など)や閉塞感が鬱陶しいことも,Facebookを難しくする理由を作っているけれども,それは二義的な問題だ。
● Facebookに限らないが,SNSの隆盛が定着すると,個人情報の保護というやつも,抜本的な見直しが必要になるだろう。なぜというに,保護するも何も,ユーザーが自ら進んで個人情報を開示しているからだ。
実名と顔写真と居住地を晒している以上,電話番号を突きとめるのは容易なはずだ。住所も地番までわかる。いちいち電話帳にあたらなくても,投稿だけで番地の特定まではできるのではないか(見る人が見れば)。
さらに,勤務先や勤務先の住所までわかるだろう。性格や趣味もわかる。食生活も推測できる。1週間なり1月なり1年間の生活パターン。何をどのくらい買っているかという購買行動。休日は何をして過ごすことが多いか。そういうことも丸わかりだ。
収入の多寡や生活水準,頭の良さまで把握される。一般人のそんなものを個々に把握しようなどという暇人はいないだろうけれども,把握しようと思えばできる。
● しかも,Facebookにおいては,プライバシーを隠そうとする人は信用されない。実名ではない名前,顔写真ではないイラストや写真,そういうものを使っている人は,それだけで心証が悪くなる。
Facebookのほとんど唯一の功績は,実名主義を根づかせたことにある。実名では言えないようなことはネットでも言ってはいけないのだ。そういうことはノートにでも書きなぐっておくのがよい。
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