2019年7月28日日曜日

2019.07.28 巷にいて大学を下に見る

● 宇都宮市の某書店。今,慶應がキテる?
 こんなのもあった。関西だと同志社?
 どうして慶應であり,どうして同志社なのかは,ぼくにはわからないけれど,こういうのに踊らされるのは,まぁ,善男善女というか大衆というか庶民なんでしょうなぁ。
 ぼくの意見は言わずもがなだが,慶應も同志社も無理して行くほどのところじゃないだろうよ,というもの。バカバカしいからやめておけ。

● 長らく学歴社会という言葉が通用してきた。今でも通用しているのだろうが,学歴の威力はだいぶ弱まっている。
 じつは,はるかな昔から,学歴は出世栄達を約束するものではなかった。学歴だけでどうにかなるほど,会社は甘いものではなかったはずだ。
 たとえば,重役になる人の多くが東大卒だったとしても,それは彼が東大を卒業しているから重役になったのではなく,彼の性格なり,肝の据わり方なり,面倒見の良さなり,如才なさなりの結果だろう。で,性格や如才なさや面倒見の良さを東大が教えているとは思えないわけで,要は学歴はイリュージョンだった。昔からそうだ。

● とはいえ,スタート地点に立てるチャンスを豊富にするという効用は大学にあったかもしれない。国家公務員試験のⅠ種や大企業の総合職に高卒で応募するというのは,現在でも難しいのだろう。
 しかし,入口の区分けはどうあれ,入ってしまえば,区分けは入口だけだったということがわかるだろう。国家公務員だって,Ⅰ種じゃない入口から入って,局長まで上った人はいるはずだ。そんなもの。入ってしまえば,入るときまでのモノサシは関係ないのだ。

● 学歴の威力が弱まったのは,第1に同世代に占める大学生の比率が増したからだ。四の五の言わなければ,ともかく全入の時代だ。どんなバカでも大学生にはなれるのだ。
 だからこそ,慶應や同志社を目指すのじゃないかと言う人には,2番目の理由を示す。大学全体のプレステージが落ちているからだ。

● いつまでも落ちたままかどうかはわからない。盛り返すのかもしれない。が,現状でそれを嗅ぎ取ることは難しいように思う。
 “知”が大学の独占物ではなくなって久しい。インターネットの普及が大きいが,大学が抱えている程度の“知”のストックはネットにもある。それ以上のものがネットにはあるかもしれない。

● ゆえに,勉強したい,学問したいというなら,大学に行くのが唯一の選択肢ではない。むしろ,独学の方が優位かもしれない。逆にいうと,その気持ちのない人が大学に行っても仕方がないのじゃないか。
 昔から大学は友だちを作るところだったじゃないかと言われるかもしれないが,ぼくは大学時代の友人とは一切没交渉だ。つながりなどない。学生時代に彼らと色々喋ったことが今に生きているとも思えない。そんなものなのだ。勉強すること以外の大学の価値をあまり大きく見てはいけない。

● その勉強も,大学のそれはかなりぬるま湯的だ。文系と言われる分野ならば,大学生が4年間かけてやっている程度のことは,高卒で働きながらでも2年でクリアできる。
 大学に行くのは時間のムダだと思うが,どうしても行きたいのであれば,東京の大学,しかも23区内にキャンパスがある大学に行くといい。吸収力の高い4年間を東京で過ごすのと地方で過ごすのとでは,大差が生じる。

● 東京の大学に入ったのならば,当然,アパートと教室と図書館の三角形上しか動かなかったという生活をしてはいけない。巷で揉まれないとね。
 だから,慶應はいいけれども,同志社はダメだ。さらにいうと,慶應ですら無理をしてまで行くところではない。大学を等身大に見るのは受験生にはまだ難しいかもしれないが,巷にいて大学を下に見るというくらいがちょうどいい。

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