2018年10月20日土曜日

2018.10.20 東京散歩 大手町

● 大手町に行く用事があって出かけた。これまで,まったく縁がなかったエリア。地下鉄の大手町駅で降りたことは二度か三度はあったと思うんだけど。
 そこから東京駅まで歩いたことも一度かニ度はあるかもしれない。が,記憶からは脱落している。

● ビジネス街というか,いろんな企業の本社があって,ビジネスの頭脳の集積地というか。ストレスフルな場所だなぁとしか思ってないもんね。
 エスタブリッシュメントなところ。そういうところで働くことへの憧れなんて若い頃からなかったもんね。それ以前に,そこで働くことに自分が耐えられるとも思えないわけでね。20代の頃はまだ自分に幻想を抱いていたから,そうでもなかったのかもしれないんだけどねぇ。

● 東京駅に到着。まず地下街をフラフラしてみた。「いろり庵きらく」があったので,ここで昼食。東京に来てまで「いろり庵きらく」かよ。
 そうなんですよ。勝手知ったるところじゃないと,臆してしまって,入れないんだよ。東京だからということじゃなく,どこへ行ってもぼくはそうだ。
 ともあれ。ミニかつ丼セット。630円。食べすぎた。歳を考えろ,俺。

● 普段はエリートビジネスマンが闊歩してるんだろうけど,土曜日の今日は,ぼくを含めてお上りさん(観光客ともいう)が多い印象。
 田舎者に言わせればね,こういう光景を見ると,あぁ東京だなぁと思うんですよ。ビルの間にカフェや軽食を食べさせる店があって,半分公園のような広い歩道があって。うわっ,すげぇ,とか思うわけなんですよ。

● 大手町の由来は,当然,千代田のお城の大手門から。千代田城の正面玄関。国道1号線もここから西に延びている。
 いや,ウソ。国道1号線の起点は日本橋。そこから大手町を経て,大阪に至るわけなんだけど,ここが起点でも全然おかしくないという気がする。っていうか,その方がシックリくる。皇居の正面玄関が国道1号線の起点っていうのはわかりやすいもんね。

● 気がついたら雨。でもね,ビルからビルへ,地下鉄の通路を通って,東京駅まで濡れることなく到着できたんでした。
 もっとも,ぼく一人だったらこの行路は択れなかったろう。人の後に付いて行ったら,そうなったっていうことね。
 あいやー,たまげたわぁ。ダンナさぁん,まるで中国みたぁい。
 いや,中国のことは知らないんだけど,今の上海や北京は未来型都市で,当然にしてそうなっているのだろうと思っているわけなんですが。

● ただし,東京駅に着いたら,総武線改札からでも京葉線改札からでも,ともかく駅に入るべし。ここから迷うからね。田舎モノはね。
 地下街って方向感覚がおかしくなる。それでなくても方向オンチなんだから,テキトーに歩いてると,南に向かったつもりが北に来ていたり,西に行ったつもりが東に出ていたなんてことになる。
 駅に入ってしまえば,現在地を特定することはできる。さすがにその程度には東京駅に馴染んでいる。

● とにもかくにも,新橋駅に。が,この雨では,手も足も出ず。傘ないし。あっても,傘なんかさして歩きたくないし。
 というわけで,そのまま帰途に着いた。高崎線の籠原行きに乗った。とりあえず,大宮まで行って乗り換えようと思って。でも,大宮での乗換えるより,さいたま新都心で乗換えてしまった方がストレスが少ないと思って,さいたま新都心で降りてみた。
 さいたま新都心には停まらない電車ってあったっけなぁ。快速だと停まらないのがあったか。

2018年10月13日土曜日

2018.10.13 居酒屋の快

● 久しぶりの外飲み。こちらの店に行くつもりだった。ところが,予約なしじゃ入れず。土曜の夜なのに。
 ここは新橋じゃないのだ。田舎なのだ。予約なしでは入れないほどに混んでいる居酒屋は珍しい。金曜の夜ならあるんだけど。

● 商売繁盛でけっこうなことだ。が,予約することにはけっこう抵抗がある。特に少人数の場合は。
 だいたい,高級レストランじゃなくて居酒屋なのだ。フラッと入ってフラッと飲み始めたいのだ。事前の手続きが必要になるのは困るのだ。

● と言ってみても仕方がない。ので,こちらへ。
 こちらで2時間近く飲んでから,先ほど入れなかったところへ移動。今度は入れた。

● 予約というのは,店側でも歓迎できないところがあるのではないか。つまり,時間と人数がグループごとに違うわけで,どうしたってデッドスペースとデッドタイムができてしまうからだ。ピースがピタッとはまることなどない(と思う)。
 予約なんか受け付けないことにして,来たお客さんからどんどん入れていく方が,かえってムダを出さずにすむかもしれない。流行っている店ならば。

● いや,そういうものじゃないね。やはり予約してもらった方が合理的だよね。事前に概要がわかるし,心構えも作りやすい。
 お客も予約してあれば安心だ。長い目(いや,中くらいの目)で見れば,店の評判や信用を増すことにもなるんだろう。

● 流行っている店には流行っているなりの理由がある。出てくる料理が旨くて安い。儲けてやろう感がない。
 それ以前に,空気がいい。空気の核になるのは店主の欲と人がらだろうか。欲というのは,不転退の決意と言い換えてもいい。自分はこれでやっていくんだという覚悟のようなもの。
 どうもこの空気というのは,作為して作れるものではないようだ。したがって,この商売は息子が後を継いでもたいてはうまくいかないだろう。世襲に馴染まない。一代限りの仕事だ。

● 空気の核になるのは店主の欲と人がらだとして,それを分厚く覆うマントルになるのはお客だ。狭くない店内にしっかりお客さんが入っていて,そのお客さんの顔がとてもいいのだ。
 笑顔が多い。そちこちから笑い声が聞こえてくる。無遠慮に見つめてしまうほどだ。というか,見惚れてしまうほどだ。

● 寄席の笑いとは別種の笑いだ。文字どおり,人間(じんかん)から出てくる笑い。うぅ~む。これほどの笑い声を作り出せる場というのは,そうそうないのじゃないかなぁ。
 いいお客さんが多いということでもあるし,酒が介在する悦楽だからでもあるし,店がいいというのでもある。店(店主)がそれに相応しいお客を呼ぶのだろうし,お客が店を作るのでもあるだろう。
 ともかくこういう場を提供できている。この店の社会貢献度は相当なものだと思う。

● ぼくは飲食もひとりですることが多いので,ラーメン屋でも居酒屋でも,テーブル席を減らしてカウンター席を増やせばいいのにとしょっちゅう思っているんだけど,この店はカウンターはちょっとしかない。テーブル席と座敷席で埋まっている。
 酒はひとりで飲むものではないという店主の思想(?)の反映というのではなく,一人で来るお客さんはほとんどいないのだろう。

● ぼくはチェーン店というのを否定しない。大いなる工夫が詰まっている。すこぶるお世話にもなっている。居酒屋にもチェーン店があっていいと思う。
 が,居酒屋だけは個人経営の店の方がいいような。個人に向いている,あるいは個人を表現しやすいのが,居酒屋という業態であるような気もする。

● もうひとつ,感じることがある。居酒屋では地域一番店というのがあって,その一番店に一極集中,二番店以下は青息吐息という状況がだんだん鮮明になってきているのではないか。勝ち負けの差がくっきりしてきている。地方の場合ね。都会は知らない。
 で,いったんそういう差ができてしまうと,それを逆転するのはほぼ不可能。

2018年10月12日金曜日

2018.10.12 株式市場の下げ

● 右は今日の下野新聞。アメリカ発の株価下落。東京でも1,000円下げた。
 だから何だというのだ? たかだか4%下げただけではないか。この程度の下げでガタガタ騒ぐな。

● これは台風が来たようなものだ。本物の台風と違うのは,兆しを見せずにいきなり現れることだ。しかし台風だ。いつまでも居座る台風など,あった試しがない。必ず通り過ぎるのだ。しかも,短期間で。
 歴史というのも大げさだけれども,今までの株価の動きをざっと振り返ってみるがいい。株式市場はジリジリと上げるのが常態で(選手の入替えはあるが),下げは,1929年の暴落を含めて,一時的な変調にすぎない。もはや盛りを過ぎて,18世紀以前の状態に戻りつつある(つまり,世界の田舎に戻りつつある)欧州の株価だって,いまだに上げているのだ。

● 上げているときは常態だから,誰も騒がない。下げると異常事態だからニュースになる。それだけのことだ。
 したがって,下げた局面は常に必ず絶好の買い場だ。弾がないときは,慌てず騒がず淡々としていればいい。じきに戻る。

● こういうときは悠然見南山を決めこむに限る。自分の座標位置をそこからずらすからいけない。
 どうしたら株で損をすることができるのか。短期で10倍にしようとしたり,50倍にしようとして,バカな手を打つからではないか。浅知恵丸出しでチョコマカチョコマカ動くから。
 信用の人やレバの人は,ビルの屋上から飛び降りるなり,線路に飛びこむなり,好きにすればいい。

2018年10月11日木曜日

2018.10.11 自然災害は自然災害なのか

● 右は今日の下野新聞。
 災害で失われたのは“経済”だけではない。どれほどの人命が犠牲になったか。今年の西日本の大雨だけではない。毎年,自然災害で死者が出る。

● それほどの自然災害がなぜ起こるようになったか。河川改修は着々と進んでいるはずだ。それでも捌けないほどの大雨が降る。
 地震を除けば,災害の原因は温暖化だろう。温暖化が進むと,気象は荒れると言われる。シベリアのツンドラがなくなるのではないかと思われるほどの今夏の猛暑は,荒れた気象の象徴ではないのか。

● そうだとすれば,人類の択るべき喫緊の対策はただひとつ。化石燃料を燃やすのをやめることだ。火力発電を全廃して,原発に置き換えることだ。自動車もサッサと電気自動車にして,その電気は原発で作る。
 自然には甘く,人工物には厳しすぎる風潮を改める。自然に奪われた人命が,人工物で犠牲になった人命より軽いわけではないのだ。自然が相手じゃ仕方がないね,ではない。今の自然災害は人間がわざわざ拵えているようなものではないのか。

● という意見は,しかし,素人の戯れ言の域を出ないものだ。ひとつは,火力発電でのエネルギーの取りだし方が格段に効率化していること。熱を余さず吸収してエネルギーに変換できるようになっているようだ。
 もうひとつは,二酸化炭素の増加と温暖化は関係ないという意見があること。どうなんだろう。地球自体が温暖化に向かっているんだろうか。化石燃料云々とは関係なく。

● 技術の進歩,技術革新のみが,解決法になるのだろう。今この瞬間にも,そのために昼夜を分かたず献身している人が大勢いるのだろう。
 何もわからない素人がノイズを垂れ流しても仕方がない。

2018年10月9日火曜日

2018.10.09 Google+ がなくなる

● ネットのニュースで知った。驚く人はあまりいないだろう。いずれこうなることは誰にとっても想定の範囲内。いずれ来ると思っていたものがとうとう来たか,という感じ。
 サービスを開始したときは,Facebookが大きく先行していた。よほどのことがなければ逆転は難しい。そのよほどのことは起きなかった。

● ブログはGoogleのBloggerを使っているので,その流れでSNSもGoogle+から入った。2ヶ月くらいだったかな,Google+をいじった後に,TwitterとFacebookに移った。
 Facebookのコンセプトは明解だった。友だちを作って,友だちとのコミュニケーションを楽しむ。ほぼ,それに尽きる。Facebookでできることは広範にあると思うんだけども,基本は友だちとのコミュニケーション。「いいね!」やコメント,シェアもそのための手段だ。

● その分,Facebookには閉鎖性を感じた。フォロー(するだけ)という形で友だちの外に出ることはできるんだけども,Facebookユーザーの外にでることはできない。
 タイムラインの流れも遅い。頻繁に投稿する人はそんなに多くない。文字数の制限がないのに,ごく短い投稿が多い。スマホを使っているからだけれども,これだとFacebook本来の面目はだいぶ損なわれるような気がする。

● けれども,長文投稿は歓迎されない気配がある。連投も嫌われるのではないか。そんなところでも気を遣わなければならない。
 友だちに正面切って反論するのも憚られる。逆に,反論される可能性の高い,先鋭なというか,とんがった意見は投稿しづらい。友だちを戸惑わせてしまうからだ。
 そうしたものは歓迎されない空気がある。場を乱さないような,あたり障りのない,正論的な,したがって情報量を持たない,投稿が横溢している。

● それらを互いに発信しあい,受信しあって,「いいね!」をしあって,愚にもつかないコメントをしあって,仲間内から一歩も出ずに,同じループを回っている。
 友だちの友だち,そのまた友だち・・・・・・というふうに6回ジャンプを繰り返すと,世界の誰とでも接触できるという理論? が出たことがあった。が,そんなものはまったく現実的ではないことは,Facebookを少し体験すればすぐにわかる。

● 2年半ほどFacebookにかかずらってみたが,結局,これという使い方を見いだせないまま,Facebookからは退くことにした。数ヶ月前にアカウントを削除した(完全には削除されていないようなのだが)。
 しかし,自分には向かなかったが,Facebookは良くも悪くも性格がはっきりしている。

● 対して,Google+は茫洋としていて,こういうものだと大きく掴むことができない。Facebookだと,友だち申請→承認,というひとつの儀式というか関所がある。これがFacebookの性格を大きく規定しているのだが,Google+にはそういうものはないようだった。
 Google+は字数制限のないTwitterなんだろうか。

● Twitterのキーワードはフォローだ。そのフォローは無言フォローが原則だ。フォローするかしないかは自分で決められる。相手方の承認を得る必要がない。
 Twitter人気の理由の大きなひとつは,この敷居の低さにあると思う。

● その代わり,TwitterはSNS的な色彩は薄いような気がする。誰かがコメントをしても,それに対して返信しなければいけないという縛りも感じない。
 フォロー返しという言葉はあるけれども,それが暗黙のルールにまでは行っていない。そこも各人の勝手たるべしという空気がある。勝手にフォローすればいいし,フォローされたからといって義理を感じる必要もない(感じてもいい)。それぞれが勝手にやっている。
 字数制限があるためか,連投したければしたいだけどうぞという感じ。タイムラインの流れも速いから,連投されてもどんどん流れていく。留まらないから邪魔にならない。

● 総じて,Twitterの基調は自由さにあると思う。では,Google+にそうした解放感があるかというと,どうもそうではない。けっこう,構えさせるところがある。投稿する前に推敲させる雰囲気というかな。そういう重さがある。
 結局,Google+はユーザーに何を提供するつもりだったのか。どう使ってもらいたかったのか。

2018年10月8日月曜日

2018.10.08 一流品が似合う男(女)になれ?

● 右は今日の読売新聞。一流品が似合う人間になる。魅力的なテーゼだ。なぜ魅力的かといえば,自分もなれるかもしれないと思うからだ。
 で,形から入る。まずは時計でもバッグでも,一流と目されている製品を持ってみる。

● でもね,それそのものがダサくなっているかもしれない。そういう考え方をしちゃうってことが,すでにダサい。
 それにね,そうしていると一流貧になってしまうかもしれないよね。

● かつてのお金持ちの生活様式というのが,どうも吸引力を失っているように思えるのでね。ベンツに乗ったり,休日のたびにゴルフに出かけたり,高級レストランで食事をしたり,ブランド品をまとったり,鮨やワインの蘊蓄をたれたり,そういうものがことごとくダサいのひと言で片づけられるようになっている。
 いや,まだなっていないのかもしれないけれども,なりつつあるようには思われる。

● なぜそうなったかといえば,そういうものが格好いいと思われなくなったからだ。では,なぜ格好いいと思われなくなったかといえば,個人の内実と無関係だからだ。要は,お金にモノを言わせれば誰でもできるものだからだ。
 お金が格好いいものではなくなった。お金持ちも,それだけでは崇拝される対象ではなくなった。

● 貧富の差が拡大して,大雑把にいうと貧乏人が増えた。その貧乏人の自己防衛,自己正当化がそういう価値観になっているのかもしれない(そうではないのかもしれない)。
 一時の揺り戻しで,いずれは元に戻るのかもしれないけれども,戻らないかもしれない。ぼく一個は戻らないのではないかと思っている。
 つまり,お金持ちがそれだけでは崇拝される対象じゃなくなるのは,健全だと思うからだ。健全化の過程が進行している。健全なんだから,そう簡単に元に戻ることはないだろう。

● これからお金に代わって若者を惹きつける的になるのは,「カッコイイ」だ。格好良さはどの分野,どの職業,どの階層にも偏在する。
 サラリーマンをやっていたのでは大金を得ることは不可能だ。が,格好良さは得られるかもしれない。得られるというと正確ではない。格好良さを演じる機会は与えられるかもしれない。
 それで充分だ。いい時代になったと思う。

2018.10.08 良くも悪くも,注目される中国人

● 右は今日の読売新聞。各国の中国大使館が中国及び中国人のイメージを毀損し続けているという記事。

● 来日する中国人旅行者の質は,短期間のうちに格段に上がった。銀座の中央通りを歩いてみると痛感する。
 短期間でここまで変わるのかと驚く。ひょっとすると,旅行者の層が入れ替わっているのではないかと思うほどだ。

● さらにそのずっと昔,TDLにいる中国人を見ると,植民地時代に欧州人が「犬と中国人,入るべからず」とやったのは,人種差別では片づけられない理由があったのだなと思わせられたものだった。
 彼らと来たら,ドヤドヤと割り込んでくるし,静かにしていることができないし,撮影禁止のアトラクションで写真を撮りまくるし,列に並んでいる最中に煙草を吸うし,その吸い殻をその場に捨てる。
 傍若無人を絵に描けばこうなるという生きた実例ばかりだった。社会の中の個人という観念がないように思われた。世界は自分だけでできている。したがって,何をしてもいい。
 日本人も昔はそうだったのだろうと思って我慢するしかないな,と思ったものだった。

● それがここに来て急激に変わってきた。中国にも品という言葉があったんだ,と。
 が,なかなかね。国は広いのにケツの穴は極端に小さいのが中国人。っていうか,これは人民に対する中央の慰撫なのか,中央に対する不満をそらすための。でなければ,中央の統制が末端大使館に届かないほど,タガが緩んでいるのか。

● ほんとにねぇ。信用を築くには百年かかる,それを壊すのは一瞬でできる。そのことを中国の跳ねっ返りに教えてやりたいよねぇ。
 いや,ひょっとすると,単純にバカなんだろうか。国対国で自国が優位だと思うと,個人対個人でも同様のふるまいをしてしまうという。
 これも中華意識というやつかい。中華意識というのがもしあるとするなら,どう考えても中華意識じたいがバカの代名詞なんだけどなぁ。

● ま,でも記事中の中国人というのは,ほんの一部なんでしょうね。これが中国人の本流なら,国境に「犬と中国人,入るべからず」という立て札を立てなければいけなくなるからね。