● 右は今日の読売新聞。一流品が似合う人間になる。魅力的なテーゼだ。なぜ魅力的かといえば,自分もなれるかもしれないと思うからだ。
で,形から入る。まずは時計でもバッグでも,一流と目されている製品を持ってみる。
● でもね,それそのものがダサくなっているかもしれない。そういう考え方をしちゃうってことが,すでにダサい。
それにね,そうしていると一流貧になってしまうかもしれないよね。
● かつてのお金持ちの生活様式というのが,どうも吸引力を失っているように思えるのでね。ベンツに乗ったり,休日のたびにゴルフに出かけたり,高級レストランで食事をしたり,ブランド品をまとったり,鮨やワインの蘊蓄をたれたり,そういうものがことごとくダサいのひと言で片づけられるようになっている。
いや,まだなっていないのかもしれないけれども,なりつつあるようには思われる。
● なぜそうなったかといえば,そういうものが格好いいと思われなくなったからだ。では,なぜ格好いいと思われなくなったかといえば,個人の内実と無関係だからだ。要は,お金にモノを言わせれば誰でもできるものだからだ。
お金が格好いいものではなくなった。お金持ちも,それだけでは崇拝される対象ではなくなった。
● 貧富の差が拡大して,大雑把にいうと貧乏人が増えた。その貧乏人の自己防衛,自己正当化がそういう価値観になっているのかもしれない(そうではないのかもしれない)。
一時の揺り戻しで,いずれは元に戻るのかもしれないけれども,戻らないかもしれない。ぼく一個は戻らないのではないかと思っている。
つまり,お金持ちがそれだけでは崇拝される対象じゃなくなるのは,健全だと思うからだ。健全化の過程が進行している。健全なんだから,そう簡単に元に戻ることはないだろう。
● これからお金に代わって若者を惹きつける的になるのは,「カッコイイ」だ。格好良さはどの分野,どの職業,どの階層にも偏在する。
サラリーマンをやっていたのでは大金を得ることは不可能だ。が,格好良さは得られるかもしれない。得られるというと正確ではない。格好良さを演じる機会は与えられるかもしれない。
それで充分だ。いい時代になったと思う。
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