2019年10月6日日曜日

2019.10.06 小山散歩

● 小山に来た。何度となく来ているけれど,用事があるところに行って,終わったらすぐ帰るというふうだったので,線や面として小山を知っているかというと,まるでサッパリ。
 駅ビルに進駸堂があった頃は,ここで時間調整をしたりしてたんだけど,進駸堂がなくなってからは駅ビルにも行かなくなった。

● 久しぶりに行ってみたら,駅ビルからROBLEに行けるようになってた。ROBLEのTSUTAYAが面白くて,ここだけで半日は過ごせそうだ。
 文具売場を丹念に見て歩いて,書籍や雑誌を見て,CDやDVDを物色するとなると,半日でも足りないかもしれない。

● 活気もある。宇都宮より小山が面白いかもしれない。土日2日使って,駅周辺を探索してみる価値があるかもな。
 東口には白鷗大学がある。白鷗大学の学食は学外者にも開放されている。若い学生さんに混じって定食(安いんだろう)を食べるのも楽しいんじゃないか。となると,土日じゃなくて平日に来ないとか。

● 近くにイトーヨーカドーもあるので,このあたりのアパートを借りて住めば,すこぶる便利。新幹線も停まるわけだから,東京に出るにも絶好のロケーションだ。
 まずもって文句のない立地。小山ならどこでもいいというわけではなく,駅の周辺に限られるが。

● 今住んでいる持ち家を売り払って小山に引っ越せれば,とけっこう本気で考えた。夫婦2人で住むには,今の家は広すぎる。何でこんな家を建ててしまったのか。
 まぁ,時代背景もあるので,あんまり自分を責めてもしょうがないのだが,快適に住まうには適度な狭さが絶対に必要だ。掃除の手間だけ考えても,広さは忌避すべきであるのは明らかだ。

● かつ,家を所有しないこと。わが家はぼくら夫婦亡きあとは廃屋になる運命だ。それでは近隣の人たちに迷惑をかける。可能であれば生前に処分しておきたいのだが。
 家を持つことは大荷物を抱えることだ。持ち家は資産ではなく負債として捉えるべきだ。持ち家でいいのは,都内の一等地に限られる。

● そのうえで,最寄駅から徒歩圏内であること。コンビニとスーパーが近くにあること。つまり,都市部に住むことがこれからは必須だ。田舎に引っ込んで晴耕雨読の暮らしをするなんてのは,ほとんど地獄だろう。そんなものは昭和の終焉とともに消え去るべきだった。
 インターネットによって都鄙の情報格差はなくなったとはいっても,人は情報だけで生きるにあらず。物流もAmazonで買えないものはないくらいになっているのは確かだけれども,人は物流だけで生きるにあらず。

● 車がなくても暮らせるところでなければならない。歩いて行ける距離に病院もあった方がいいのだ。
 わが家では風呂は灯油で沸かしているのだけども,歳をとって車の運転も覚束なくなったら,どうやって灯油を買ってくればいいのかと今から心配している。配達してくれるところは激減しているだろう。高齢化がさらに進めば,そういったサービスが復活するのかもしれないけれど。
 君子の交わりは水のごとし,を実践するにも都市の方が都合がいい。

● 人工的に作られた住宅団地やニュータウンもダメだ。ああいうところは一世代過ぎるとゴーストタウンになる。少子化が顕現する態様の代表的なものだろう。住宅地としての寿命が極めて短い。そんなところに住むべきじゃない。人の流れがあるところじゃないと。
 小山駅周辺はこれらの条件をすべて満たす。あとは財布との相談だ。それが問題なわけだが。

● もうひとつ。現代では県域なんて何の意味もないなと思った。いや,昔からそうだったのだろうけどさ。
 小山市民の過半は宇都宮なんかどうでもいいと思っているのじゃないか。関心は南に向いているだろう。それだけ東京の牽引力が強いということなのだが,小山市在住の東京都民が多いのじゃないかなぁ。
 これは足利においてより顕著だと思う。宇都宮ってどこにあるの? ってなもんじゃなかろうか。早い話,作新と桐生が甲子園で対戦することになったら,足利市民は桐生を応援するよね。それが自然ってもんでしょ。

● “オールとちぎ”という言葉を聞くことがあるんだけども,それって宇都宮中心主義というか,宇都宮をセンターに置く考え方で,もう維持できないものだよね。
 ぼく一個は維持する必要もないと思っている。成立しないものを成立させようとしても,いいことなど何もない。県域はもっとバラけた方がよい。県対抗の発想からもそろそろ抜け出さないとね,ぼくら。

2019.10.06 読書について

● 右の本は昨日,宇都宮の八重洲ブックセンターと喜久屋書店で購入したもの。
 長谷川慶太郎さん亡き後,何を道標にしたらいいだろうかという問題がある。お釈迦様の仰る自灯明だけで行くには,ぼくの頭は粗雑に過ぎる。
 長谷川さんと同じように統計を渉猟し,キーマンを含む人的情報も駆使して,具体の問題に具体をもって答える踏込みの良さを備えた人。

● となると,渡邉哲也さんかな,と。渡邉さんはTwitterでも相当な情報を出しているし,「教えて! 渡邉さん」でまとまった情報を発信しているから,それで足りてしまうかもしれないのだが,考え方の体系的なところまで知ろうとすると,書籍に勝るものはたぶんない。
 統計を読み込んで何らかの仮説を引きだす作業は,自分でやるから楽しいんじゃないかと言われるかもしれないが,その道のプロに任せて,上澄みを戴くのが,ぼくの流儀。
 その方が効率的だし,自分でやるより圧倒的に間違いが少ない。その代価として1,500円なんてのは,笑っちゃうほど安いと思う。

● それって渡邉さんを執事にしてるのと同じだ。辛気くさいデータ処理を,自分よりはるかに優れた技能の持主がやってくれて,美味しいところを摘出して差出してくれるわけだから。
 1,500円で有能極まる執事を雇っているわけだよ。読書ってそういうもん。お得過ぎる。執事の選定さえ間違えなければ。

● 本は買って読むか、借りて読むか。かつては,ぼくは前者だった。図書館で借りて読むのは,知に対して吝嗇だと思っていた。軽蔑に値するくらいに考えていた。
 書庫を造って数千冊は収納できるようにした。いくら買っても大丈夫。これは,本は保存するということを前提にしてもいる。蔵書という言葉に憧れていたっていうかね。渡部昇一さんや井上ひさしさんに憧れたっていうか。

● が,東日本大震災であっけなく考えが変わった。わが家もけっこうな被害があって,靴を履いたままじゃないと家に入れない状況になったのだが,このとき,本に限らず,モノは持たないに越したことはないと強く思った。
 タンスも食器棚もすべて倒れて,相方はタンスの位置がもう少し違っていたら,下敷きになって負傷したかもしれないという目に遭った。

● 本など借りて読めばいいのだ,と宗旨を替えた。読み終えた本をとっておくというのもやめた。書棚から崩れ落ちた本のかなりの部分をゴミステーションに捨てた。
 図書館から借りて読むということを始めてみると,なかなか都合がいいことに気がついた。返却期限があるから,それまでに読むようになる。積ん読が大量にあったのだけども,借りたものは全部ではないにしても読んでから返すようになる。
 返すのだから,読んだあとにブツが残らない。これがとてもいい。捨てる手間がいらない。
 図書館をそっくり自分の書庫だと考えればいいのだ。しかも,専門のスタッフが管理してくれているのだ。自宅に本を溜めこむよりよっぽどいい。

● もうひとつ。ぼくが読むような本に稀覯本はない。図書館に入らないことなどあまりないのだった。だったら借りるのが正解。
 とは言っても,買うこともある。すぐに読みたい新刊書もあるからだ。稀にだが図書館に入らない本もある。リクエストもできることは知っているが,そんなことをするくらいだったら買った方が早い。
 この場合も“読んだら捨てる”が鉄則。例外は作らない。ぼくは地元の図書館の放出棚にこっそり置いてくることにしている。持ち帰ってくれる人がいなければ回収するしかないが,今のところ,そうしなければならなくなったことはない。

2019年10月5日土曜日

2019.10.05 栃木市までの旅

● ヤボ用あって,南宇都宮駅にいる。今日はこれから栃木に向かう。運賃は420円。
 JRで行くと宇都宮から680円かかる。不便でも安い方を選んじゃう。

● サッとJRで行けるようになったときが,ぼくが富裕層の仲間入りをしたときだ。富裕層とは何かといえば,どこかに移動するときに最短ルートを躊躇なく選べるだけのお金を持っていることだ。最短ルートって,時間的に最短という意味ね。
 富裕層か否かを分ける基準はそれかよ,と言われそうだけど,これってモノサシになりません?

● たとえば,東京に行くときに新幹線を使うなんて,ぼくは考えたこともない。在来線に決まっている。上野東京ラインができて便利になったこともあるけど,それ以前から在来線しか使ったことがない。新幹線で行くのは,ごく稀な例外だ。
 特急料金なんか気にしないでサッと新幹線に乗れるようになったら,ぼくは富裕層の仲間入りをしたことになるんですよ。宇都宮から東京まで新幹線だけで行けるだけで富裕層かよ,と言われますかね。

● まぁ,新幹線って乗っててもつまらないし,電車の中というのは貴重な読書タイムでもあるので,あんまり早く着いてもらっては困るという事情もある。
 しかし,それが新幹線に乗らない第一の理由だとは,自分でも思っていないわけでね。

● 途中,東武電車に乗ってきて,すぐにバッグから文庫本を出して読み始めたお嬢さんがいた。20歳くらいの。
 他の人はスマホをいじっているか居眠りをしているかだから,それだけですごく目立つ。恰好いい。魅力的に見える。
 どんな人なんだろうと知りたくなる。少々失礼になるかと思うほど,チラ見してしまった。
 ちなみに,ぼくは今日はずっとWALKMANで音楽を聴いている。ずっと。

● 宇都宮を過ぎ,壬生を過ぎ,野州大塚なんぞという駅を過ぎ,めでたく栃木に着いた。栃木は遠いところだ。
 JR宇都宮線が走っているところは近い。だから,小山は近い。のだけど,そこから外れる栃木は心理的にけっこう遠いところ。
 最近,東武電車に乗る機会が多くなった。ひとえに半蔵門線の水天宮前にあるホテルに泊まる機会が多くなったことによる。東武線が半蔵門線に乗り入れているので。
 ので,栃木で東武日光線から宇都宮線に乗り換えることになるわけだ。けども,栃木で降りるというのはありえない選択。通過するだけ。心理的な遠さというのは解消されないで残っているのだ。

● ところで,何しに栃木に来たのかといえば,栃木文化会館で催行される演奏会を聴くためだ。栃木駅から文化会館までは近いというべきなのか,少しあるねというべきなのか,微妙なところだ。
 そのどちらにしても,歩くしかないので歩いて行った。栃木の街はたしかに古都の趣があるように感じる。足利には負けるけれど,この街を歩くのはけっこう気持ちがいいのだ。
 っていうか,ぼくは車で栃木市内を移動すると必ず迷う。最後は現在地がわからなくなる。ナビは必須といえるだろう。栃木は歩くのがよい。

● 文化会館には何度か行ったことがある。NTTのところを右に曲がって,裁判所を過ぎればすぐだ。で,ぞうさなく到着した。
 ところが。目当ての演奏会が今日じゃなくて明日だった。会場に着いてから勘違いに気づいた。虚しかった。
 何もしないで帰ってくる身のアホらしさ。誰のせいでもないのがせめてもの救い。

● さて,せっかく来たのだから,栃木で遊んでいくか。といって,何をすればいい? まだ昼なのだ。明るいうちから酒を飲むわけにもいくまいし,昼から飲ませる店が栃木にあるのか。
 巴波川に行ってみるか。ふーむ。これという案が浮かんでこない。ガックリ来た気分の切り替えもなかなかできない。

● で,どうしたかといえば,東武電車で宇都宮に舞い戻ったのでした。お粗末を極めた栃木市までの小さな旅。

2019.10.05 日本海側の食文化に対しては,劣等感しか感じない

● 右の写真はJR駅に置いてある観光パンフ。「日本海美食旅」とあるが,新潟の食はこんなに凄いぞという内容。
 いやいや,わかってますよ。新潟にしろ秋田にしろ,奥が深いんでしょ。秋田は一度か二度,奥深さのほんの入口のところを味わったことがある。
 が,新潟は通過したことはあるんだけど,街に降り立ったことはない。

● 日本海側の食というか食文化に対しては,劣等感しか感じない。海を抱えているのだから食材からして違いすぎるのだ。
 しかも,年季の入り方が違う。北前船で賑わっていた。明治維新時の人口は新潟が江戸より多かったらしい。大勢の人の舌で鍛えられてきたはずだ。端倪すべからざるものがあるに違いないのだ。

● ところで,ぼくの祖先はその明治維新のときに,新潟からやってきたらしいのだ。食い詰めたのか。ぼくの実家のあるあたりは,新潟に限らず,富山など北陸からの移住者が多いんですわ。
 ちなみに申すと,御本家というのがあって,ありていにいうとすっかり落ちぶれているのだが,今でも墓を直すときなんかは御本家の許可が必要なのだと,母が言っているのを聞いたことがある。どんだけ田舎なんだよっていう話だけどさ。

● じつは,日本列島の中では大昔からダイナミックな人口移動が続いてきたのではないか。何せぼくらは,あり得べからざるグレート・ジャーニーを敢行した祖先を持つホモサピエンスなのだから。
 おそらく,日本全国のたいていのところでは,ずっとそこに住み続けている家系なんてひとつもないのじゃないか。そっくり入れ替わっているような気がする。

● とにかく日本海側の食文化は羨望の的だってことね。まずは魚。したがって鮨。
 何かひとつ突出した食を持っているところが,それひとつで終わるわけがない。一点突破全面展開ということがあるだろう。
 新潟は米どころでもあるのだ。日本酒でも頂点に位置する。ほぼ天下無敵のはずだよね。

2019年10月4日金曜日

2019.10.04 また,氏家の「みやこ家」

● 今週も氏家「みやこ家」。海老つけ麺が始まっていた。秋冬限定のメニュー。
 相方はその海老つけ麺を大盛りで。ぼくは濃厚つけ麺の並盛りを。相方が残すに決まっている麺を引き受けなければならないわけで。
 が,今日はそんなに麺を残さなかった(ような気がしたっす)。旨かったんでしょ,海老つけ麺。

● 「みやこ家」は基本,つけ麺の店だから,つけ麺を食べることになるんだけども,ラーメンもある。つけ麺に比べると麺の量が少ないので,それだけではもの足りない。
 で,セットメニューというものがある。ミニチャーハンセットとか,ミニチャーシュー丼セットとか,餃子ライスセットとか,賄いめしセットとか。
 次は,煮干しラーメンにまだ食べたことのないミニチャーシュー丼セットを付けてみるか。

● 消費税10%に合わせて価格を下げている。税込みで計算すると変わらないのか。それ以上に下げたようにも思えるんだが,まぁ,税込み価格の上昇を避けたということでしょう。
 昭和時代のオイルショックのときに流行った便乗値上げという言葉が,今でも使われることがある。そういうことが全くないとまでは言うつもりもないけれど,税のアップ分を最終価格に転嫁できるお店や業界はそうそうないと思うわね。

● デフレのこの時代,売り手にとって,値上げは怖いものだろう。オッカナビックリのはずだ。本体価格を下げることによって,税率上昇分を吸収するところは多いだろう。
 そういうのと無縁なのは公共料金くらいのものではないか。

2019.10.04 老後の話相手はスマホ

● 10年後,20年後(生きていれば)は,たぶん,SiriやGoogleアシスタントが徒然を埋めるための話相手になってくれそうな気がする。
 この分野の進歩,変化はとんでもなく速いから(というか,凄いから)2,3年でかなり状況に違いが出ているのではなかろうか。

● 生身の人間の話相手がいなくなっても,スマホと話ができるかもしれないと考えると,それだけで愉快だ。
 スマホと楽しく話をするためには,スマホにこちらのことをよく知っておいてもらわないといけない。自分の趣味,自分の好み,どんなことをしてきたか,何を大事にして今まで生きてきたか。そういうことをスマホが全部知っていて,そのうえで話題を選んでくれたり,応答を決めてくれれば,人生の最終盤を退屈しないで過ごせるのではないか。

● だから,スマホを良き話相手に育てるためにも,自分をそっくりネットに移すというくらいの勢いで,ブログでもSNSでもやった方がいいと思う。
 世界に向けて自分を発信するといった大仰なことではなく,ネットを利用して知らない人とコミュニケーションを図るといったことでもなく,スマホを良き話相手に育てるために,自分の老後のために,SNSやブログを始めてみてはどうか。そうしてずっと継続すること。
 自分をネットに移せばそれでいい。他人様の評価は二の次三の次だ。っていうか,そんなものはどうでもよい。

● 夢物語だろうか。しかし,夢物語というなら,インターネットも個人がコンピュータを持つことも,いや日本語をキーボード入力することすらも,かつては夢物語だった。
 いやいや,夢にもならなかった。想像すらできないことだったから。
 それに比べれば,スマホが話相手になるというのは,だいぶ現実的なものに映る。いや,マジで,老後の話相手を育てるために,SNSやブログを“質よりも量”感覚でやっていこうと思っている。

● SNSやブログで公開するわけにはいかないことも,ネットにあげることは可能だ。たとえば,すべてのメモやノートは Google Keep に書いておく。手帳はGoogleカレンダーを使う。G-Mailをデータの貯蔵庫として使う。
 自分の端末のSiriやGoogleアシスタントは,それをも瞬時に渉猟・分析して,話者としての性能を高めてくれるだろう。
 ま,手書きも楽しみたいので,そこまでするつもりはないけれども,ちょっと以上にワクワクするんだよね。SiriやGoogleアシスタントがどう変わっていくのかを考えるとね。

2019.10.04 飲むなら横丁の居酒屋

● 右の写真は最近出たムック本。昭和の空気を吸って大きくなった者としては,こういうところにたしかにノスタルジーを感じる。
 たぶんに虚構というか,実体験に基づくよりはメディアによって洗脳されたノスタルジーであるとは思うんだけどさ。

● であっても,飲むならこういうところで飲むのがいい。出版社もそういう人たちをあてこんでこのムックを作ったのだろう。
 正真正銘の昔のままではお客は来ないから,トイレなど変えるべきところは変えているはずだ。

● 東京に限らず,たいていのところには,ノンベ横丁とか親不孝通りと呼ばれる通りがあるに違いない。その多くは寂れているだろうけども,かつては酔っ払いたちがたくさんあるいていた。
 そうした通りの生存率が高いのも東京で,そういうところも東京の底力というか,大都市の魅力というかなぁ。

● ざっくり言ってしまうと,横丁とは飲み屋街のことだ。飲み屋街とは,屋台に毛が生えた程度の赤提灯の店や蕎麦屋やスナックが軒を連ねているところだ。
 で,そういうところにノスタルジーを感じるほどの人ならば,レストランでワイングラスを持って気取るとか,こ洒落たパブで談論風発に及ぶなんてことを毛嫌いするはずだ。居酒屋の方が居心地がいいと感じるはずだ。

● しかし,こういうところの唯一の難点は,常連さんが幅を利かせすぎているところだ。一見客は身の処し方をどうすればいいのか途方に暮れることになる。
 しかし,この常連性も昔よりはだいぶ薄くなっているように思う。個人の生活空間が広がっているからで,最近では常連になることを避けようとする人もいるかもしれない。
 常連性は定住性とセットになる。定住性というのが都市部においては弱まっているというか,店の入れ替えも激しくなっているというか。

● ま,ぼくとしては女性と飲むときでも,居酒屋で飲みたい。そんなとこじゃイヤという女性だったら,一緒に飲んでもらわなくてもいいと思っちゃう。
 ゆえに『東京カレンダー』は腐脳男が読む雑誌だと云々。

● もし,女性を誘って東京で飲むとしたらどこに行くか。まずは新橋。浜松町の界隈もいい。北千住,曳舟,人形町もありか。浅草の中心部は避けて,吾妻橋や本所がいいだろうか。
 早稲田や神田はどうなのだろう。早稲田はぼくにはほぼ未知のエリアだ。今の学生街には学生の存在感があまりないとも聞く。
 銀座とか赤坂はあり得ない。ま,お金の問題もあるんだけどね。

● しかし,田舎の在に住むぼくが東京で飲むことはまぁないと考えていいだろう。もっと,地に足をつけて,宇都宮で飲むとしたらどこがいいかなという話になる。
 東武駅の近く,オリオン通り,江野町,JR駅の近辺,駅東,県庁の近く・・・・・・結局,横丁にもこだわらないってことになる。

● ま,飲むなら居酒屋。サッと飲んでパッと切り上げるのもいいし,ダラダラと飲み続けるのもいい。スタイルを作らないで,気分次第で変幻自在というのがあらまほしい。
 そういう飲み方ができるかというと,それには酒に強くなければいけない。ぼくはもうダメだ。