● 右の本は昨日,宇都宮の八重洲ブックセンターと喜久屋書店で購入したもの。
長谷川慶太郎さん亡き後,何を道標にしたらいいだろうかという問題がある。お釈迦様の仰る自灯明だけで行くには,ぼくの頭は粗雑に過ぎる。
長谷川さんと同じように統計を渉猟し,キーマンを含む人的情報も駆使して,具体の問題に具体をもって答える踏込みの良さを備えた人。
● となると,渡邉哲也さんかな,と。渡邉さんはTwitterでも相当な情報を出しているし,「教えて! 渡邉さん」でまとまった情報を発信しているから,それで足りてしまうかもしれないのだが,考え方の体系的なところまで知ろうとすると,書籍に勝るものはたぶんない。
統計を読み込んで何らかの仮説を引きだす作業は,自分でやるから楽しいんじゃないかと言われるかもしれないが,その道のプロに任せて,上澄みを戴くのが,ぼくの流儀。
その方が効率的だし,自分でやるより圧倒的に間違いが少ない。その代価として1,500円なんてのは,笑っちゃうほど安いと思う。
● それって渡邉さんを執事にしてるのと同じだ。辛気くさいデータ処理を,自分よりはるかに優れた技能の持主がやってくれて,美味しいところを摘出して差出してくれるわけだから。
1,500円で有能極まる執事を雇っているわけだよ。読書ってそういうもん。お得過ぎる。執事の選定さえ間違えなければ。
● 本は買って読むか、借りて読むか。かつては,ぼくは前者だった。図書館で借りて読むのは,知に対して吝嗇だと思っていた。軽蔑に値するくらいに考えていた。
書庫を造って数千冊は収納できるようにした。いくら買っても大丈夫。これは,本は保存するということを前提にしてもいる。蔵書という言葉に憧れていたっていうかね。渡部昇一さんや井上ひさしさんに憧れたっていうか。
● が,東日本大震災であっけなく考えが変わった。わが家もけっこうな被害があって,靴を履いたままじゃないと家に入れない状況になったのだが,このとき,本に限らず,モノは持たないに越したことはないと強く思った。
タンスも食器棚もすべて倒れて,相方はタンスの位置がもう少し違っていたら,下敷きになって負傷したかもしれないという目に遭った。
● 本など借りて読めばいいのだ,と宗旨を替えた。読み終えた本をとっておくというのもやめた。書棚から崩れ落ちた本のかなりの部分をゴミステーションに捨てた。
図書館から借りて読むということを始めてみると,なかなか都合がいいことに気がついた。返却期限があるから,それまでに読むようになる。積ん読が大量にあったのだけども,借りたものは全部ではないにしても読んでから返すようになる。
返すのだから,読んだあとにブツが残らない。これがとてもいい。捨てる手間がいらない。
図書館をそっくり自分の書庫だと考えればいいのだ。しかも,専門のスタッフが管理してくれているのだ。自宅に本を溜めこむよりよっぽどいい。
● もうひとつ。ぼくが読むような本に稀覯本はない。図書館に入らないことなどあまりないのだった。だったら借りるのが正解。
とは言っても,買うこともある。すぐに読みたい新刊書もあるからだ。稀にだが図書館に入らない本もある。リクエストもできることは知っているが,そんなことをするくらいだったら買った方が早い。
この場合も“読んだら捨てる”が鉄則。例外は作らない。ぼくは地元の図書館の放出棚にこっそり置いてくることにしている。持ち帰ってくれる人がいなければ回収するしかないが,今のところ,そうしなければならなくなったことはない。
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