● 小山に来た。何度となく来ているけれど,用事があるところに行って,終わったらすぐ帰るというふうだったので,線や面として小山を知っているかというと,まるでサッパリ。
駅ビルに進駸堂があった頃は,ここで時間調整をしたりしてたんだけど,進駸堂がなくなってからは駅ビルにも行かなくなった。
● 久しぶりに行ってみたら,駅ビルからROBLEに行けるようになってた。ROBLEのTSUTAYAが面白くて,ここだけで半日は過ごせそうだ。
文具売場を丹念に見て歩いて,書籍や雑誌を見て,CDやDVDを物色するとなると,半日でも足りないかもしれない。
● 活気もある。宇都宮より小山が面白いかもしれない。土日2日使って,駅周辺を探索してみる価値があるかもな。
東口には白鷗大学がある。白鷗大学の学食は学外者にも開放されている。若い学生さんに混じって定食(安いんだろう)を食べるのも楽しいんじゃないか。となると,土日じゃなくて平日に来ないとか。
● 近くにイトーヨーカドーもあるので,このあたりのアパートを借りて住めば,すこぶる便利。新幹線も停まるわけだから,東京に出るにも絶好のロケーションだ。
まずもって文句のない立地。小山ならどこでもいいというわけではなく,駅の周辺に限られるが。
● 今住んでいる持ち家を売り払って小山に引っ越せれば,とけっこう本気で考えた。夫婦2人で住むには,今の家は広すぎる。何でこんな家を建ててしまったのか。
まぁ,時代背景もあるので,あんまり自分を責めてもしょうがないのだが,快適に住まうには適度な狭さが絶対に必要だ。掃除の手間だけ考えても,広さは忌避すべきであるのは明らかだ。
● かつ,家を所有しないこと。わが家はぼくら夫婦亡きあとは廃屋になる運命だ。それでは近隣の人たちに迷惑をかける。可能であれば生前に処分しておきたいのだが。
家を持つことは大荷物を抱えることだ。持ち家は資産ではなく負債として捉えるべきだ。持ち家でいいのは,都内の一等地に限られる。
● そのうえで,最寄駅から徒歩圏内であること。コンビニとスーパーが近くにあること。つまり,都市部に住むことがこれからは必須だ。田舎に引っ込んで晴耕雨読の暮らしをするなんてのは,ほとんど地獄だろう。そんなものは昭和の終焉とともに消え去るべきだった。
インターネットによって都鄙の情報格差はなくなったとはいっても,人は情報だけで生きるにあらず。物流もAmazonで買えないものはないくらいになっているのは確かだけれども,人は物流だけで生きるにあらず。
● 車がなくても暮らせるところでなければならない。歩いて行ける距離に病院もあった方がいいのだ。
わが家では風呂は灯油で沸かしているのだけども,歳をとって車の運転も覚束なくなったら,どうやって灯油を買ってくればいいのかと今から心配している。配達してくれるところは激減しているだろう。高齢化がさらに進めば,そういったサービスが復活するのかもしれないけれど。
君子の交わりは水のごとし,を実践するにも都市の方が都合がいい。
● 人工的に作られた住宅団地やニュータウンもダメだ。ああいうところは一世代過ぎるとゴーストタウンになる。少子化が顕現する態様の代表的なものだろう。住宅地としての寿命が極めて短い。そんなところに住むべきじゃない。人の流れがあるところじゃないと。
小山駅周辺はこれらの条件をすべて満たす。あとは財布との相談だ。それが問題なわけだが。
● もうひとつ。現代では県域なんて何の意味もないなと思った。いや,昔からそうだったのだろうけどさ。
小山市民の過半は宇都宮なんかどうでもいいと思っているのじゃないか。関心は南に向いているだろう。それだけ東京の牽引力が強いということなのだが,小山市在住の東京都民が多いのじゃないかなぁ。
これは足利においてより顕著だと思う。宇都宮ってどこにあるの? ってなもんじゃなかろうか。早い話,作新と桐生が甲子園で対戦することになったら,足利市民は桐生を応援するよね。それが自然ってもんでしょ。
● “オールとちぎ”という言葉を聞くことがあるんだけども,それって宇都宮中心主義というか,宇都宮をセンターに置く考え方で,もう維持できないものだよね。
ぼく一個は維持する必要もないと思っている。成立しないものを成立させようとしても,いいことなど何もない。県域はもっとバラけた方がよい。県対抗の発想からもそろそろ抜け出さないとね,ぼくら。
0 件のコメント:
コメントを投稿