宇都宮市街を通らずにすむ。宇都宮市街に出てしまうと三角形の2辺を通る形になる。
● その2辺を通ってみることにした。美術館だけ行ってハイさよならってのも何だし。
美術館なんてのは,自分の生活には縁がないところで,それでいいと思っているんだけども,宇都宮美術館には一度だけ行ったことがある。
● 宇都宮駅周辺でいくつか用事をすませてから,帝京大学行きのバスに乗った。運賃は片道360円。
美術館まで行くバスもあるんだけど,本数が少なくなるのと,美術館までバスで行ってしまうと運賃が少々お高くなるので,雨でも降ってない限りは帝京大から歩くのが吉。
が,閑散としている。平日なのに学生さんはあまりいない。ひょっとすると,学生はみな授業に出ているのかもしれないんだけど,それにしてもキャンパスを人が歩いていない。
● 学生1人あたりの敷地の広さは,その辺の国立大学より広いと思う。建物は多いのだが,学生が少ないようなのだ。キャンパスに活気がないという印象にもなる。
大学の周りに何もないのがちょっと可哀想かな。昔なら“閑静で勉学に好適な環境”ってことになったのかもしれないけれど。
● 帝京大のキャンパスを横切って宇都宮美術館に向かうのは,けっこう上質な散歩道になる。山林を切り開いている。気分がいい。
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帝京大から宇都宮美術館に |
子供は1人か2人だろう。その子供たちがここに住むことはない。一代限りの家だ。パパやママは申しわけないけれども,50年後には生きていない。人が住まなくなった家はあっという間に朽ちる。この辺は幽霊屋敷の集合体になるのだ。
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宇都宮美術館 |
● さて,宇都宮美術館。「篠山紀信展 写真の力」だ。1,000円でチケットを買って入館。
写真集ですでに見ているものもけっこうあった。なんてったって,篠山紀信だからね。
写真は写真集で見てもいいわけだ。絵画のように原画と複製という関係には立たない。展示されている写真も複製なのだから。違うのは大きさだけ。“だけ”といっても,大きさの威力というのはあるわけだが。
圧巻は最も地味な東日本大震災後の被災地の人たちのポートレートだ。そうと知って見るせいもあるのかもしれないけれど,頭の上の空気が重くなったような気がした。
● 入館者の多くは年寄り。平日なのだ。来れるのは年寄りか専業主婦しかいない。その年寄りもそんなに多くはない。それでも通常の企画展よりは多いだろう。
絵画よりは馴染みがある。人は知らないものより知ってるものに惹かれる。知らないものを知りたいと思うことはないが,知ってるものならもっと知りたいと思うことがある。
● 企画展の他にコレクション展も見てみた。パウル・クレーの絵が5点あった。
こういうものは出会い頭で勝負が決まるものだと思っているのだけど,ぼくには歯が立たなかった。猫に小判もいいところなのだろう。
そばに寄って描画の詳細を見てみたんだけども,ぼくが見ても何もわからない。美的感覚がどうのこうのの前に,色の識別能力がまるでなってないんだと思う。
● 帰りも帝京大からバスに乗った。学生さんが10人くらい,バス停のベンチに座っていた。よくいえば静かだ。静かなのは,昔と違ってスマホがあるからだ。それぞれ,無言でスマホをいじっているので,会話が発生しない。
意地悪い言い方をすれば,パワーを感じない。若くして悟りを開いちゃったのかと訊きたくなる。
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