● 大学を卒業したときは,大学の4年間があっという間だったとは思わなかった。けっこう長かったと思った。
が,社会人になって4年目が過ぎるのはあっという間だった。自分にとって重い出来事があったのは,社会人になってからの4年間の方だ。にもかかわらず,あるいはそれゆえにこそ,あっという間。
● 若い人にとって,これからの3年なり5年なりは半永久と映るんだろうか。若いときの自分はどうだったのだろう。思いだせない。
しかし,過ぎてしまった3年や5年は,必ずあっという間だ。そして,ここが大事なところなのだが,“あっという間”はいくら加えても“あっという間”なのだ。つまり,人生は“あっという間”。
30年しか生きなかったとしても“あっという間”だし,100年生きても(たぶん)“あっという間”なのだ。ということは,人生の長さにおいては,30年でも100年でも大差はないということになりそうだ。
● 換言すれば,長く生きてきたというそれ自体には,じつは何ほどの意味もないということになりそうだ。辛いことが多かったろうから,ご苦労さんでしたとは言ってやりたいが,それ以上のことはない。
ゆえに,年長者が年長者であることをアドバンテージにするのは,だいたいはミットモナイものだ。というか,嫌われる素だ。
● 自分は年長者なんだから若い者は自分の言うことに従うべきだ。自分は意見を言うから若い者は梃子になって動くべきだ。自分は年長者なんだから多少は大目に見てもらって当然だ。
そういう態度を見せる爺が時に散見されるけれども,それをやると自分の居場所がなくなることを自覚しなくてはならない。
敬老の日というのがあるけれども,敬に値する老人など滅多にいるものではない。自分も若い頃はそう思っていたではないか。その認識は正しいのだから,老いた自分にもまたその認識で臨まなければならない。
● ということになると,人生百年と言われるようになった昨今とはいえ,100年も生きるつもりならば,それ相応の覚悟が求められるのではないか(アンチエイジングなどという愚かなことに血道をあげているようでは,その覚悟を引き受けているとはとても言えない)。
60歳で定年を迎えてからさらに40年も生きることになるのだ。楽しいことばかりの40年のはずがない。健康の問題だけではない。老いたのち,この憂き世で40年も生きるのだぞ。よく考えることだ。
長寿を長「寿」と書いていいのは,長寿が珍しかった時代に限られる。本当に人生百年時代になるのなら,長「呪」とでも書いた方がシックリ来るかもしれない。
● ともあれ。時間の経過に“あっという間”を感じなかった22歳までが,ぼくの人生のすべてだったのではないかと錯覚しそうだ。いや,ひょっとすると,実際にそうなのかもしれないと思ったりも。
かといって,あの頃に戻りたいとはさらさら思わないけどね。もう一度やり直したところでもっとうまくできるかといえば疑問だし,そもそも,もう一度やり直すなんてウンザリだからだ。
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