2019年5月31日金曜日

2019.05.31 スマホ買換え。ただし,いつになるかは未定

● 一昨年の7月から完全にdocomoを離れて楽天モバイルに移行。SMS付きのデータSIMのベーシックプランで月額645円。
 自宅はもちろん,たいていのところにはWi-fiがあるからこれでいいだろうと思ってたんだけど,さすがに辛いかも。ひとつ上の3GBプラン(1,020円)に変えようと思う。
 通話はしないので,カケホーダイ的な通話料定額プランには食指が動かない。電話なんて仕事で使うだけで充分だ。っていうか,できれば仕事でも使いたくない。電話なんてそっくり時間のムダではないかと思う。

● 使っている端末はASUSのZenfone3Max。2GB-16GB。本体メモリがきつくなってきたので,これもそろそろ買い換える時期。
 同じASUSのASUSのZenfone Max Pro(M2)に換える予定(SIMもmicroからnanoに変えなければならない)。Zenfone Max Pro(M2)のスペックには不満なし。というか,ゲームをしない自分にはオーバースペックだと思う。
 5000mAhのバッテリーがまず魅力。フルHD+(2280×1080)のディスプレイ,4GB-64GBのRAM&ROM,2TBまでサポートのmicroSDカードスロット。音楽はWALKMANで聴くので,スマホのサウンド関係には関心がないんだけど,たしかハイレゾに対応していたのではなかったか。

● 一番関心があるのはディスプレイの解像度。今はChromebookで見ているAmazonプライムビデオをスマホで見ようと思っているからだ。
 この解像度ならまずもって不満はない。Chromebookの不要度が高まってしまうんだけど,仕方がない。

● 実際のところ,内蔵メモリが64GBあれば,microSDカードは要らないと思う。写真をずっと端末に溜めておくことはない。わりと短期で削除している。SNSやブログで使った写真はとっておく必要ないから。
 写真にも使用目的があって,その目的を果たしたら端末からは削除する。自分のSNSやブログに残るわけだから(かなり圧縮されるけど)。

● 国産に対するこだわりはない。国産にこだわるとなると,ソニーかシャープか京セラしかない。だいたいiPhoneがこれだけ売れているのに,国産にこだわるのはアナクロだと思う。
 逆風を受けているHuaweiでもいいと思っている。アメリカからいわれなき迫害を受けていて,ここはひとつ応援してやろうじゃないかと義侠心(?)を起こしそうになるのだが,P30はやはり高い。いや安いという人もいるのだろうが,ぼく一個の使い方を前提にすると,ここまでのカメラ機能やメモリは要らない。
 消去法でASUS。ではなく,Zenfone Max Proのコスパに惹かれているというわけだ。

● ネット閲覧とTwitterでTweetするくらいしか使わないので,スマホはすでに2年ごとに買い換えるものではない。Zenfone Max Proなら5年は使えるのではないかと思っている。バッテリーが5年ももつのかという問題を別にすれば。
 あとは,スマホにスキャナをつなげるようになってほしい。アプリでスキャンするのではなくて,物理的なスキャナをつないで使えるようになるといい。そうなってくれれば,パソコンは要らなくなる。BTキーボードを合わせれば,入力もスマホでぜんぶできる。

2019年5月29日水曜日

2019.05.29 パソコンとスマホは生活インフラの第一

● お金がなくても困らなくなった(いや,文字どおりに1円もないと,米も買えないし,電気料も払えないわけだが)。つまり,お金の価値が下がってきたということだ。
 お金の価値が下がるとどうなるかといえば,人がお金では動かなくなる。お金のために心ならずもということがなくなる。
 女性にとって結婚が永久就職だった時代があった。その時代は,夫婦の性交も売春の範疇にあったと思う。対価の授受が1回ごとではないというだけの話。
 しかし,“男女雇用機会均等”が進行した結果,その状況は様変わりした。そこに,お金の価値が下落するとあっては,基本,男より女の方が優位に立つのが道理だ。一個の生物体として見た場合は,男より女の方が強いからだ。その強さがそのまま現れる。

● インフレとデフレ。インフレはお金の価値が下がることで,デフレはお金の価値が上がることだと,単純に思っていた。
 現時点ではインフレは過去のものになった感がある。ならば,モノは持たずにカネを持っていた方がよい。より価値のあるものを持っていた方がいいというのは,合理的な選択だ。
 しかし,どうも,そういうことではなくなったようだ。お金は命の次に大切なものとされた時代は過去になりつつあるように思える。

● 日本は貯蓄率の高い国だったが,これもすでに昔のことになっている。経済格差が広がって貯金などしたくてもできない層が増えたからだ,貧困化によるものだ,という声ばかりが聞こえるが,それだけでもないのではないか。
 お金を貯めたら負けだと考える人たちが増えてきたようにも思う。使うためにあるものを貯めてどうするのか,と。

● セーフティネットという言葉もかつてほど深刻味を持たなくなったように思われる。お金の価値が下がれば,お金がない状態の深刻さもかつてほどではなくなる。
 といって,お金の価値がゼロになることはないだろうから,セーフティネットが要らないというわけではない。同時に,価値が小さくなれば,国が国民にお金を配ることにも抵抗が少なくなるだろう。ほぼ確実にベーシックインカムが導入されるとぼくは思っているが,そう考える理由のひとつはそこにある。

● お金に価値がなくなった後,では何に価値が宿るのか。当然,モノではない。モノなどお金以上に余っている。
 不動産でもない。不動産それ自体は何も生まない。使われて初めて意味がある。人口が減る時代なのだから,不動産が使われる機会も減る。不動産に価値はない。

● たぶん,広い意味での享楽ではないかと思う。自分が本当にやりたいことをやること,と言い換えてもいい。横並び発想もだいぶ影を潜めるのではないかと思っているのだが,さてどうなるか。
 したがって,これからの時代を生きていくのに一番困るのは,やりたいことなんて特にないという人たちだろう。

● そうなった前提にインターネットがある。インターネットのおかげでお金をかけずにいろんなことができるようになった。パソコンとスマホは生活インフラの第一。何はなくともスマートフォン。
 スマホは強い人にとっても弱い人にとっても,救いの神だ。強者にとっては,さらに生産性を上げるため,あるいは営業用のツールとして絶大な効果を発揮するだろうし,弱者にとっては息たえだえの状態でも気を紛らわせることのできる娯楽ツールとして。
 ちなみに,ぼくはパソコンに3万円以上を出す気はない。メーカーは相変わらず半年ごとに新製品を出すけれども,昔と違って最新型を追いかける必要はない。型落ちマシンを中古で買えば充分だ。スマホも最新型を追いかけて2年で買い換える時期は過ぎたと思う。

● インターネットと無縁でいる人は,お金の呪縛からなかなか解放されないだろう。依然としてお金第一であり続けるだろう(もちろん,そうじゃない凄い人は昔から存在したけれど,ここではパンピーの話をしている)。
 この一点だけでも中高年には厳しい時代になるのではないか。退職金も支給された,年金も破綻前に受け取れることになった,個人金融資産の8割を押さえている,といっても,単純に喜んでいていいのかどうか。
 生活インフラとしてパソコンとスマホを自家薬籠中のものにする努力をした方がよいと思うが,それをしないまま60歳になり70歳になってしまったのだとすると,もはや手遅れかもしれない。

● が,今の中高年の多くは会社でパソコンを使って仕事をしていたろうから,インターネットにも馴染んでいる。そういう人たちが考えるべきは,お金を貯めないで使うことだろう。流れを止めないで,次の人に回していくこと。
 お金の価値はどんどん下がっていくのだから,お金がない状態を必要以上に怖れないこと。医療費の心配をしすぎないことだな。

2019.05.29 自分がお金がかからない体質である理由

● あまりお金を使わない。まず,お金がかかる趣味がない。ゴルフもスキーもしたことがない。何かをコレクションする趣味もない。
 お洒落をしたいとも思わない。服なんか何だっていいし,すり切れるまで着てても平気だ。格好を気にすることがない。それは他者への配慮を欠くわがままな行動だと言われれば,返す言葉もないが,ともかくお洒落には興味がない。
 旨いものを食べたいという願望もない。外食はするが,吉野家と立ち食いそばで充分だ。たまにラーメン屋にも行くが,その程度のものだ。ご馳走を食べたいとは思わない。
 酒は飲むが,もっぱら家飲み派になった。外で飲むことがまったくないわけではないけれども,チェーンの居酒屋で充分だ。赤提灯が落ち着くタイプでもある。

● したがって,モノを買わない。その分,奥様がせっせと買って下さっているが,それはそれでよいと思っている。
 要するに,贅沢したいという気分が薄い。欲望枯渇症だ。これはつまり,生きる意欲,生命力が弱いということでもあって,あまりいいことだとは思っていないが,ともかく自分はお金がかからない体質だ。

● それはなぜかというに,まぁ,そういう性格だってことなのだが,それを別にすれば,友だちがいないからだと思う。
 人と会うことがない。学生の頃の同級生とはすっかり疎遠だ。現在でも連絡を取りあって会う友人はひとりもいない。職場絡みでも同様。勤務時間外に彼らと一緒に何かをすることは絶無だ。

● 具体的な誰かに会うというのなら,いくらぼくでもすり切れた服は着ていかないだろうし,高い店に入ることもあるだろう。
 毎度赤提灯ということもないだろう。小洒落た酒場に行くこともあるかもしれない。

● では友人が欲しいかというと,まったく思わない。ひとりを苦にしない性格だ。
 正真正銘の天涯孤独であれば事情は違ってくるのかもしれないけれども,現状では一緒に暮らしている配偶者がいる。彼女とは毎日,何がしかの話をする。つまり,孤独ではない。だからこそ,ひとりを苦にしないなどと言っていられるのかもしれないのだけど。

● もうひとつ,インターネットの存在がやはり大きい。お金を使わないのとひとりを苦にしないのと,その両方ともかなりの部分をインターネットに負っている。
 今年は映画を200本くらい見そうだ。が,映画館で見るのはたぶん数回にとどまる。あらかたはAmazonプライムビデオで見る。今年の1月22日にAmazonのプライム会員になって,そうなった。200本の映画を見ても年間4,900円しかかからない。音楽の音源もネットにいくらでもある。無料で手に入る。お金が必要になる箇所がない。
 Twitterでつぶやいていれば,人と話す必要はないなと思う。つぶやくことができないとなると,そんな斜に構えたことは言っていられなくなる可能性もある。

2019年5月25日土曜日

2019.05.25 生涯学習って,ちょっと胡散くさい?

● 社会人対象のカルチャーセンター大学版ではなく,学生と一緒に講義を聴く。単位は取れないが,そんなもの取っても仕方がないので,そこは無問題。費用もかなり安い。
 最近は大学もこういうことを始めたのか。宇大がやるくらいなんだから,他の大学もやっているんだろう。
 いや, 聴講生というのは昔からいたね。聴講生制度の拡張版であるわけか。

● “大学=キャンパス=青春”というノスタルジックなものが,中高年に対してはわりと吸引力を発揮するのかもしれない。あの頃が自分の人生の華だったと思っている人はわりと多そうだし。
 ま,“若い学生と一緒”というところにどれだけ意味を与えるかといったあたりかね。

● が,“勉強する→大学に通う”という発想はもはや時代遅れではないか。勉強するなら独学がよろしいかと思う。インターネットによって独学環境は格段に整った。大勢と一緒に同じ講義を聴くというやり方は,ムダが多すぎる。
 ひとりだと続かない,時間割に縛られないと勉強できない,というのであれば,それはそもそも勉強する必要のないことなんだと思うね。

● っていうか,いい年こいて勉強なんかしてるようではダメだとも思うんだよね。少なくとも,若い学生がやっているような勉強を,彼らがやっているようなやり方でやるのは,何だか少し違うような気がする。
 ぼくも30代の半ばの5年間は放送大学の学生だった。けっこう楽しかったから,別に後悔はしていないんだけど,今,同じことをやるかと言われたら,断然,ノーだ。

● 学生的な学びが本当に楽しければ,それを続ければいいのだけれども,生涯学習というのを頭から尻尾まで是とするわけにはいかない。
 座学って楽だ。教室で誰かから何かを教えてもらうって,ほんと楽。しかも,それである種のエリート意識も味わえる。自分はほかの人よりも有意義な時間の使い方をしていると思うことができる。
 世間が学を良しとしているからだ。世間が良しとするものに寄りかかれるのは,これまた楽だ。

● でもさ,残り少ない人生をそういうことに費やしてしまっていいのか。学より遊の方が大事じゃなかろうか。遊ができないから学に逃げていないか。そこは点検する必要がありはすまいか。学も遊のうちだよというのはためにする理屈だ。
 ぼくら年寄りは遊ぶべきじゃないかねぇ。好きなことを,思いっきりとは言わないまでも,できる範囲でやってみるべきじゃないか。

● 年を取るとこんなに楽しいんだよと,若い人たちに見せつけてやるべきじゃないか。そこにフリや見栄がわずかでも混入すると,若いはたちどころに見抜くから,天然自然に自分が楽しいと思うことをやっているのでなければいけない。
 したがって,モノサシは外にはない。自分の中にある。人がどう受けとめるかは関係ない。外にあるモノサシに自分を合わせてはダメだと思う。

● 言うまでもないけれど,世間にもの申すとか,社会に貢献したいという発想は,学より悪い。そこにだけは行ってはいけないと思っている。

2019年5月21日火曜日

2019.05.21 来年3月で仕事は完全引退するつもり。なのだが・・・・・・

● すでに定年退職を迎えたかこれから迎えようとしている爺諸君。定年後はどうするつもりかね。再雇用で働き続けるつもりですか。それともサッサと足を洗いたいと思っていますか。

● じつは,かく申すぼくも一兵卒としての再雇用で3年目を迎えるんですよ。年金が満額支給になる65歳までは希望すれば再雇用が継続する。
 が,3年やって来年はどうしようかなぁと思ってまして。

● 周囲を見回すと,3年くらいでやめる人がけっこう多いようなんですよね。中には65歳までやってさらに再就職先を探して70歳まで仕事を続けている人も,ぼくの知り合いの中にいる。
 彼は50歳を過ぎてから子供ができたので,まだまだ稼がなければいけないという事情もあると思うんですけどね。

● 自分はそういうことがないので,わりと自由はきく。で,どうしようかなぁと思っているわけですよ。
 人生百年時代を迎えて,最も大事なことは寿命と健康寿命の差を短くすることだと言われる。いつまでも健康でいるためにはどうすればいいか。一番いいのは働くことらしいね。おそらくそのとおりだと,ぼくも思うんですよ。
 社会とのつながりを保っていた方がいいという意見もあって,そのためにも仕事を継続するのが最もいい,と。これまた,そのとおりだと思う。

● 一方で,60歳から75歳までの15年間は“黄金の15年”だとも言われる。後期高齢期に入ると何が起こるかわからない。そこは想定外になる。
 が,75歳まではだいたい元気で,体も(若者のようなわけにはいかないけれども)動く。その黄金の15年をむざむざ仕事に費やしていいのか。そういうことですよね。

● この狭間で揺れるわけね。ビシッと自分で決められない。黄金の15年でやりたいことがあれば格別,それがない場合は特にそうだ。
 やりたいことがないというのは,この時代,不幸になる第一要因かもしれない。

● 自分の場合は読む,見る,聴く,の受け身の趣味はあるけれども,それは正直,今までだってそれなりにやってきている。
 毎日が日曜日になれば,その量を増やすことができるのは確実だと思うんだけど,さてその限界効用はどれほどだろうか。

● そのあたりのことで決めかねているわけだけども,決められないのはどっちでもいいからなんだとも思うんですよ。どっちでもいいのでなければ,迷わず選べるはずだから。
 気分としては辞めたいんだよね,もう。仕事に燃え尽きたというわけではない。仕事に燃えたことなど一度もないから,燃え尽きることもない。
 飽きた。疲れた。そういうことだと思っている。飽きてしまった人間が,職場に居座るのは,たとえそつなく仕事をこなしていたとしても,職場にとっては迷惑だろうしね。

● 経済的なこともある。厚生年金が満額でるのは,65歳の誕生日を過ぎてから。まだ年金の請求手続きはしてないんだけど,13万円程度かな,今もらえるのは。そこから少額といえども税金が引かれる。国保税もね。
 金融庁の報告書じゃないけれども,それで無職の老夫婦が暮らしていけるのかという話ね。自分より10歳若い奥さんも一緒に勤務先を退職する意向なので。が,多少の蓄えもあるわけで,ソフトランディングはできるだろう。

● 問題は経済ではなくて,完全引退したあとに,さてやりたいことがあるのかということだ。
 じつは,現役世代もそうなのではないか。特にやりたいこともないからサラリーマンを続けているっていう人もけっこう多いんじゃないのかね。とにかく仕事をしていれば時間を埋めることができる。仕事に代わる時間を埋める術がないという。
 日本人は勤勉と言われるけれども,消極的勤勉の人が多いかもしれない。消極的勤勉だと,どうしたって受け身になるわね。

● ともあれ。そこが定年後は先鋭に出てくる感じはある。と,ウジウジと書いているのだが,方向性としては来年3月限りで完全引退するつもり。
 受け身の趣味しかないと外に出なくなるかもしれず,それだけは避けなければと思っている。

● ついでに申せば,民生委員だとか自治会の役員だとかを頼まれるかもしれない。そういうものは断々固として断る。
 地域との接点などというものはこれまでもなかったし,今後持ちたいとも思わない。地域の役に立ちたいとか,世間にもの申したいとか,そういう発想はない。

● 要するに,何て言うんだろ,仕事は完全引退するけれども,人生を引退するわけじゃない。人生に関しては死ぬまで現役でいたい。自治会の役員なんて退役軍人がやればいい。そもそも自治会なんてなくてもいいものだし。
 それゆえ,人生について生涯現役でいるための具体的方策いかん,ということが問題のすべてだ。“やりたいことがないのは不幸になる第一要因”というのはそういうことだ。

2019年5月20日月曜日

2019.05.20 幻冬舎の見城社長がTwitterを閉めた件

● 自社で出版した小説の実売部数をTwitterで公開したことが,多くの作家たちから総スカンを浴びたのが理由らしい。これはやってはいけないことなのか。作品がどれだけ売れたかは守秘に値する「個人情報」なのか。売れてるときは自ら触れ回っているようなのだが。
 それとも,出版社のトップが言ってはいけないという道義的責任を問うものなのか。この世界にはそういう道義があるというわけか。

● ヤフオクでは出品されている商品を“入札の多い順”に並べる機能がある。それはやはり必要なものだ。ないと困る。入札者が多いのは,それだけ注目されているということだから,自分が入札する際の参考情報としてはかなり重要なものだ。
 同様に,各出版社には自社で出している書籍・雑誌の実売部数を公表することを義務づけたらどうか。読者が書店で買うときの参考情報になるのではないか。それでは,売れている本にますます購買者が流れてしまうなどというのは,読者を愚民視するものだ。命の次に大事なお金を出して買うのはアンタではない。読者だ。
 どうせ業界内では誰でも知っていることなのだろうから,ここはひとつ,はっきりと公開することをルール化して,読者の購買の参考に供することにしてはどうか。

● 売れる本がいい本なのか。出版社が営利企業である以上,答えはYESだ。どこかで読者=大衆をリスペクトしないと,創作とか出版といった業は成り立たないのではないか。
 っていうか,この問いは無意味だ。高尚な本は売れないといったって,それが高尚かどうかなど,誰にも証明できない。所詮は個人の好みでしかない。内容の純粋判断は神の領域だ。当然,売れないから高尚だという逆は成立しない。

● さらにいえば,現在はネットがあるのだ。自分の意見や見解を公開する手段は出版だけではない。自分が高尚だと考えるのであれば,ネットを使って世に問えばよいではないか。ブログでもFacebookでもいいだろう。
 ただし,ネットで喰っていくのは現状ではほぼ無理だろうから,出版にこだわる人がいるのはやむを得ない。

● “スカン”を浴びせている作家たちの言い分で最も説得力があるのは,高橋源一郎さんの主張だと思った。あんたの本は売れないからウチでは扱わないと直接本人に言えばいい。それをTwitterで公開してしまうとは,幻冬舎で書いてくれる作家に対する最低限のリスペクトを欠いている。
 なるほどと思った。

● 思ったのだが,これはどうもこの業界特有の倫理のようにも思われた。書く人が出版社より偉いという通奏低音のようなものも感じた。出版社側が頭を下げて書いてもらいたい作家は当然いると思うのだが,それは一般化が可能なものだろうか。
 それゆえ,“スカン”の中にはモヤモヤとした,あるいは嫌悪の感情を吐露しているだけのものもあったと思う。あと,漏れ聞くところによると,幻冬舎は作家に対してけっこう渋いらしい。それもあるのかもしれないと思ってもみた。

● 見城さんを擁護する意見もあるわけで,その中で説得力があったのは,明治期の作品で現在まで残っているもの,たとえば漱石の『猫』,は当時のベストセラーだったものが多いという意見だ。
 言われてみて,なるほどと思った。当時は本を買って読める人というのは,今とは比べものにならないほどに少なかったろう。文字どおりの知識人が読者だったはずだが,それにしても鑑識眼が確かだったのだろうか。

● 今はベストセラーを貶める意見もある。バカも買うからベストセラーになる。ゆえに,ベストセラーが世の中を変えることはない。しょせんはコップの中の出来事にすぎない。
 この1冊で人生が変わった的な言い方がされることがあるけれども,そんなことが本当にあるのかとぼくなどは思っている。どうもあるようだから困るのだが,おそらくその多くは出版界が言わせているのではないかと疑っている。

● 今回の騒動には幻冬舎が出した百田尚樹『日本国紀』に対する毀誉褒貶というか,作家や言論人の百家争鳴が背景にあるようで,実売部数を公表された作家は,『日本国紀』非難の急先鋒だった。
 たしかに,彼のツイートは意見の多様性を前提にするというものではなく,『日本国紀』の存在を抹殺せずんばやまずという気概(?)があったと,ぼくも感じた。

● が,総じていうと,言論人がデカい顔をしすぎていると思っている。大衆がそれを望んでいるからそうなっているのだが。
 ベトナム戦争を持ちだすまでもなく,言論人が正しかったことってあまりなかったような気がする。これからもないだろう。評論する人は間違うのが仕事だ。間違うことを仕事にして口に糊している人を言論人と呼ぶのだ。
 そもそも本を読むなどという行為は「この世界の片隅で」ひっそりと行うものなのかもしれない。裏世界に属するものなのかも。

2019年5月12日日曜日

2019.05.12 オリオン通り今昔

● 東京から東武駅に着いたので,JR駅までWALKMANのイヤホンを耳に突っこんで歩いてみた。

● 今のオリオン通りはザックリ言うと飲み屋街になってる感じ。居酒屋街というのが正確か。高級店はない。気安い居酒屋が軒を連ねている。
 歩いている人はあまりいないのだが,それらの居酒屋群にはけっこうな数のお客さんが入っている。日曜日の夜の宇都宮で,これは正直,意外。
 ただ,今いるお客さんが帰ったあとは,補充がないようでもある。

● オリオン通りを抜けて日野町通りに入ると,様相がかなり変わる。こちらも居酒屋通りなのだが,お客がいない。こんなに違ってしまうのか。
 理由がわからない。個々の店の魅力度で説明がつく話ではなさそうだ(たぶん)。オリオン通りは若者,日野町通りは中年,という区分けが自ずとできているんだろうか。中年族の多くはサラリーマンで,したがって日曜日の夜には街に出てこないということだろうか。

● それなら若者も同じはずだと思うんだけども,彼らは学生なんだろうかなぁ。休日にバイトをしていて,そのバイト仲間で飲んでいるんだろうか。今の若者は飲まなくなったと言われた時期があったけれども,すでに今は昔のことになっているんだろうか。
 飲み代は30年前よりも今の方が安くなっている。肴の水準も(異論はあるかもしれないが)上がっている。そういう下地はあるのだと思うのだが。

● ところで,オリオン通り。かつてはファッション店,書店,古書店,レコード店なんかがあった。宇都宮で最も文化が集積しているエリアという印象があった。
 今はその面影はない。見事にない。もっとも,ファッションや書籍やレコード・CDよりも,居酒屋で交わす雑談の方がずっと文化じゃないかという意見はあるだろう。その伝でいうと,東京で最も文化度が高いエリアは新橋ということになる。

● 往来する年齢層が下がっているのかもしれない。お金が落ちなくなっているんだろうかなぁ。安い酒代は払えるけれども,本やCDは買えないよ(ネットがあるんだから買う必要もないよ)という若者が行き交うエリアになったということだろうか。
 それでも,彼らがいるだけ,かつてよりはマシになっている。ひと頃はゴーストタウンになってしまったと思ったこともあったので。よくここまで再生したものだ。

● と,他人事のように言うのは,他人事だからだ。居酒屋通りといっても,ぼくはもう家で静かに飲むのがいいと思うようになっているので,飲み仲間を探してどこかで飲もうという発想じたいがないからだ。
 老年世代は大方同じだと思うので,オリオン通りはあまり馴染みが生まれるエリアではないだろう。若いときにけっこうな時間を過ごしたノスタルジックなところというにとどまる。

2019.05.12 東武鉄道の“とくとく切符”

● 安さに惹かれて錦糸町から宇都宮まで東武電車で戻ってきた。押上から1,200円なのだ。
 車中で東武にこんな“とくとく切符”があることを知った。要は,往復する運賃で東京メトロの乗り放題がつく。メトロに乗れるんだから,都内のたいていのところには行ける。
 曳舟-浅草間は乗降自由になっているところもミソ。墨田区&台東区周遊には便利そうだ。

● 東向島にはもう一度行ってみたいと思っているが,残念ながらそのエリアからは外れてしまう。ま,曳舟から歩いてもさほど変わらないとは思うんだが。
 っていうか,その場合はメトロは必要ない(メトロは走っていない)。この切符は日帰りが前提だから,東向島をぶらぶら歩くだけで,他を回る時間は残らないだろうし。

● まぁ,でも,休日に東京に遊びに行くという場合,この切符は威力を発揮しそうだ。特急券を買えば,特急にも乗れるのだろうしね。
 実際,休日にはけっこう利用されているのではないか。JRの「休日おでかけパス」に相当する。こちらは都内を越えてフリーエリアが広いけども,ぼくに限っていえばこのパスを使って都内を越えることはほぼない。
 東武沿線に住んでいれば,しょっちゅう,この切符のお世話になりそうだ。

● ところで,東武が発行している“とくとく切符”はこれ以外にもたくさんある。日光エリア,両毛エリアをお得に回れる切符がある。“プレミアム日光・鬼怒川 東武フリーパス”や“ふらっと両毛 東武フリーパス”。かつての国鉄のミニ周遊券を思いだす。近くに住んでいる自分にも便利に使えそうなんだけど,これは首都圏から出かける人向けのようでだ。
 ちなみに,“台東・墨田 東京下町周遊きっぷ”というものある。これはJRでいう「都区内きっぷ」のようなもので,逆に地元でしか買えない。

2019.05.12 先週に続いて,ロイヤルパークに投宿

● 11日。久喜駅前。ここで東武線に乗り換えて,水天宮前に行く。運賃は820円。自宅の最寄駅から久喜までは1,320円。計,2,140円。JRとほぼ同額なのだが,便利感(?)はこちらが勝る。
 つまり,上野から銀座線,半蔵門線と乗り継ぐよりは,ここで乗り換えてしまえば1本で行くし,乗換え自体,都内の地下鉄駅より,こちらの方が単純でわかりやすい。

● 先週に続いて,ロイヤルパークホテル。また,安い宿泊プランが出たので。
 田舎の小都市のビジネスホテルの宿泊料金に3千円を追加するだけで,この場所のこのホテルに泊まって,しかもラウンジまで使えるのだから,泊まらなければ損だと思うほどに安い。

● 相方とラウンジで落ち合って,そのままハイボールを飲みだした。今日は調子よく3杯。
 この日のラウンジは比較的空いていて静かだった。先週の混み具合が異常なのだろうが(滅多に遭遇しないから),ま,ラウンジは静かな方がいいや。

● その後,夜の人形町に出た。人形町に感じる懐かしさは何なのだろう。自分との距離感のなさ,気安さ。
 兎屋に向かう。これが3回目。メニューはつけ麺とラーメンしかない。どちらもすでに食べている。そのうえで出した結論。つけ麺がいい。麺は平打ち。
 飽きが来ないタイプの旨さだと思う。鋭角的にググッとくるものは,何度か食べるともう気がすんだとなりがちだけれども,ここのつけ麺はそうじゃない。

● しかし。今回はホテルラウンジでけっこう食べちゃってた。ポテトフライとポテトチップス。夕食は食べなくてもいいほどだった。
 そこにつけ麺大盛りを胃に投入したのだ。腹をポンと叩いたら,口からゴボっと出るんじゃないかと思うくらいの状態になった。ホテルまで歩いて戻るのがキツいわキツいわ。苦しいよぉ。
 いい年こいて何やってだ,俺。昼は抜いてるんだが。ホテル帰着後はそのまま横になった。これで1日目は終わり。

● 翌朝。6時前に目が醒めた。ロビー階にあるレストランはすでに活動を始めている。朝食を食べるお客を迎えなければならない。ラウンジも同じだろう。
 まことにホテルは眠らない。眠ることを許されない。

● 将来,AIやロボットにこの作業をやらせるようになるんだろうか。接客は人間がやらなければならないとしても,接客に至るまでの準備や作業はAI・ロボットに代替させられないか。
 将棋や囲碁はコンピュータが人間を超えた。職人芸と総称される分野でも同じことが起こるのではないかと思っているのだが。

● たとえば,料理ではAIがプロのシェフを超えるのではないかと思っている。音楽の演奏もプロの演奏家よりも機械の方が巧くやるようになるだろう。
 情感とか表現力とか芸術性と言われているものも,その内容を解析してプログラムできるようになる,のではなかろうか。そうなれば,機械にできない超絶技巧はないわけだから,機械が人間を上回るのは間違いない。
 音楽の場合は,それでも機械が演奏しているところを見たいかという問題が残るが,料理はできあがったものを食べるだけだから,つまり調理の過程はお客にとってはブラックボックスに入っているわけだから,機械が作ったものでも何も問題はない。お客に出すところだけ人間がやればいい。

● ともあれ。ホテルラウンジで朝食。バイキングメニューから選択するのは,いつもの和食。朝カレーは今日もあったけれど,手を出すことはない。洋食にもカットフルーツにも目をくれず。
 ご飯と味噌汁と卵焼きとカマボコと漬けものと梅干し。意外にこういうものを食べる機会が普段はないのだ。わが家においてはだけど。

● 今日は12時のチェックアウトまで部屋にいられる。早めに出かけなければならない用事はない。かといって,せっかくここにいるのにずっと部屋にいるのもな,と思って,隅田川の遊歩道を歩いてみることにした。
 いつものごとく,ジョギングしている人,多し。視覚障害者がグループを作って散歩していた。この風景を見ることができないのかと同情しそうになったが,たぶん,そうじゃないのだ。視覚以外の感覚で,視覚が正常な人以上のリアルさをもって,風景を捉えることができているかもしれないのだ。

● このスコンと抜けた風景は,理屈抜きに気持ちがいい。東京なら隅田川沿いに住むのが最高の贅沢ではないか。
 白金や赤坂や広尾ではなく,墨田区か江東区,中央区の一部が一等地になるのではないか。

● ただし,困ったことがある。この風景に気分が捕まってしまうのだ。このまま何もしたくないと思ってしまうのだ。
 できればこのまま人生が終わってくれないかと考えたりする。気持ちがそこで止まってしまう。すなわち,活動レベルが低下する。生きる意欲がどこかに飛んでしまう。 総理大臣になろうが,起業して億万長者になろうが,生活保護で生きようが,神様の目から見たらどっちもどっち,チョボチョボなんだろうな,と考えたりする。
 隅田川を眺めながら,何もしないでボーっとしていると,この瞬間,誰かがぼくの後ろに回って,必殺仕事人よろしくぼくの首に長い針を突き立て,ぼくを瞬殺する。かなりラッキーな人生の終わり方。そんなことをしてくれる奇特な人はいないわけたが。

● 対岸には平賀源内と松尾芭蕉の史跡があるらしい。いつかは行ってみるかもしれないが,今日はいいや。
 という具合になってしまう。よし行ってみようということにならないのだ。

● ホテルを出て右に行けば人形町。左に行けば隅田川。このホテルの立地は最高だ。
 もともと,わが家の東京でのホテルライフ(?)はこのホテルが出発点だったのだ。そこからウェスティンに移り,インターコンチネンタル東京ベイに移り,シェラトン都に移り,そしてまたここに戻ってきたのだけれど,以前は人形町とか隅田川はまったく視野に入っていなかった。

● ホテルに慣れてなくて,部屋の調度やレストランに圧倒されていたのかもしれない。地下鉄の乗り換えに慣れていなかったというのも含めて,要は余裕がなかったのだろう。
 しかし,仮に当時から人形町を味わうことができたとしても,以後のホテル遍歴は同じように繰り返したと思うけど。
 さらに,このままロイヤルパークが終の棲家になるかどうかはわからない。

2019年5月9日木曜日

2019.05.09 では,自分はスマホをどう使っているか

● では,自分はスマホ(パソコンを含む)をどう使っているかと思って,ノートに書きだしてみた。ありきたりの使い方しかしていない。大方の人は同じようなものだろうと思って,慰めているんだが。

● まず,Google先生に検索してもらって,ピンポイントで知りたい情報を得ることは当然として,
 1 ブログを書いてアップする
 2 Twitterでツイートする
 この2つは発信といえば発信なのだが,ログを残すという意味合いが大きい。

● あと,ログを残すといえば
 3 (毎日ではないが)睡眠ログを取る
 4 (かつては)自転車の走行ログを取っていた

● もちろん,娯楽に使っている。
 5 Googleニュースを読む
 6 Amazonプライムビデオを見る
 7 YouTubeで動画を見る,音楽を聴く
 8 いわゆるネットサーフィン

● 実用としては
 9 乗換案内で経路を確認する
 10 “ぴあ”でチケットを買う
 11 (滅多にないが)銀行振込
 12 (同じく滅多にないが)ホテルの宿泊を予約する
 13 (知らないところに行ったときに)Googleマップを使う

● コミュニケーションツールとしてはあまり使っていないが
 14 LINEとViberで合計2人の人(うち,1人は配偶者)とやりとりをすることがある。メールでのやりとりは絶無。
 ということは,その2人以外にネットを介したコミュニケーションをしている人はいないということだ。

● 仕事にはまったく使っていない。これは当然で,仕事にプライベートの通信機器を使うのは,基本,御法度だろう。仕事で使っていいのは職場のパソコンのみ。データの持ち帰りも禁止されているだろう。
 ので,仕事以外でスマホですることいえば
 15 (時々)メモをとる。Google Keep を使っている。
 メモはこれに限る。モバイルオフィスやテキストエディタの必要を感じたことはない。メモをとるといえば
 16 カメラを使う
 むしろ,こちらの出番が多い。脳内の妄想はテキストにするしかないが,外部化されていれば写真を撮っておけばすむ。

● ゲームはやらない。以前は将棋とか麻雀ゲームのアプリを入れていたが,削除してだいぶ経つ。
 だいたい以上。ごく平凡なこと。誰もがやっていることだと思う。
 それでも,スマホは夢の器械だ。これでも以前に比べればだいぶ使うようになっているのだ。

● で,考えるわけだ。もっとアッと言う使い方ができないものか。
 たとえばGoogleカレンダーを使えば,スマホのAI機能が強化されるんだろうか。Googleカレンダーにメモ欄はないが,工夫の余地はあるかもしれない。
 そこに,紙のノートに書いているようなことを書けば,こちらの嗜好を細かく把握して,Googleアシスタント(使っていない)がほんとの秘書のようにサポートしてくれたりするんだろうか。

● 止めてしまったFacebook。“友だち”とのどうでもいいやりとりではなくて,もっと役に立つ使い方ができないか。こんなにFacebookへの依存度を高めていいんだろうかと不安になるような使い方はないか。
 が,ログを残すためならTwitterで足りる。コミュニケーションでもなくログでもないFacebookの使い方っていうのはどうもありそうもないかな。

● ほんと,アッと言う使い方を見つけて,時間効果を飛躍的に上げることはできないものか。スマホでもっと省力化、時短を実現できることはないか。
 改善とかではなく,画期的に自分を変えてくれるような使い方。生活を変える必要はないと思っている。今の状態のままで,今やっていることを飛躍的に増やしたいのだ。
 難しいな。スマホは能力不足を補ってくれないから。

● 自分がやっていることはすべて時間消費型の趣味だから,スマホを使ってどうのこうのではなくて,生活を見直して,浪費している時間を削るのが先だってことになる(時間を浪費するのは楽しいんだけどね)。
 秘書を雇ったからといってどうにかなる部分は,そもそもあまりないわけだよね。“画期的に自分を変えてくれるような使い方”をスマホに求めるなんてのは,要は現実逃避だよ。現実とちゃんと向き合わないとねぇ。

● が,これやっといて,とスマホに振れることって,もっとありそうな気はするんだな。

2019.05.09 インターネットとスマホは能力差を拡大する

● ワープロ専用機ができたときから,それを秘書になぞらえる言い方がされた。たとえば,西尾忠久『ワープロ書斎術』(講談社現代新書)に,その言い方が出てくる。
 が,当時はその秘書がやってくれることは,文書の保管と必要に応じて取りだすというくらいのものだった。それだけでもありがたいが。

● 現在は違う。インターネットが普及し,そのネット端末がいつも持ち歩いて使えるスマホになった結果,秘書は何人でも好きなだけ雇えるようになった。
 文書の管理でいえば,ブログにしてクラウドにあげておけば,Googleの検索エンジンを使って全文検索ができるのだ。大量の文書を隈なく探して,必要なものをピックアップしてくれる。そんなことを生身の秘書にやらせたら,嫌気がさして辞めてしまうかもしれないが,ネット上の秘書は文句ひとつ言わずに,しかも高速で処理してくれる。

● ワープロ専用機の時代にも同じことはできた。保存媒体がフロッピーしかなかったから,フロッピーを差し替えなければならないという手間があったのと,検索速度が今とは比較にならないほど遅かったということを別にすれば。
 文章を書くことを仕事にしていた人なら,ワープロ専用機の登場とインターネットがあたりまえになったことを比較すれば,ワープロ専用機の登場により大きい衝撃を感じたと思う。

● しかし,現在の利便性は当時とは比較にならない。端末に縛られなくなった。どこからでも同じ文書にアクセスできる。ゆえに,どこにいても同じ作業ができる。パソコンで作ってスマホでブラッシュアップすることができる。
 インターネットの恩恵だ。昭和に大きくなった老人から見ると,これは途方もないことだ。

● ともあれ。今はスマホでできることが増えた。ぼくはAndroidユーザーなので,Google Play でどんなアプリがあるのか眺めることがある。とんでもない数があって,いったいスマホでできることがどれだけあるのかと唖然とする。自分はスマホ能力のほんの一部しか使っていないなと思う。
 必要なものだけ使えばいい。自分に合わせて使えばいいだけだ。それはそのとおりで,百パーセント間違いない。

● 当然,人によって使い方が違う。その違いが何を語るかというと,スマホは(インターネットはと言い換えてもいいわけだが)個人間の能力格差をさらに増幅する器械だということだ。
 能力のない者がスマホを使うことによって能力ある者に追いつけるなどということはない。スマホを使うと個々の処理能力が大きく増幅するわけだから,元々の能力が格差が何十倍かに拡大されるだろう。

● 人によって使い方が違うというときに,その違いがつまり能力の違いだ。スマホの使い方が能力を作るのではない。能力がスマホの使い方を決めるのだ。
 結果,能力のある人は,秘書を5人も10人も雇っているような使い方をする。中には小さな会社を自分のために作ったのと同じ効果をあげている人もいるかもしれない。

● ここで能力とは,人と関われる力とでも言っておこうか。コミュニケーションがどれだけできるかということだ。
 連絡する,指示するということを含めて,たとえばLINEを使い倒している人は,じつに自分の能力を大幅に拡張しているといえるのではないか。
 つまり,能力とは対人間で発揮されることが多いものだ。そのためにスマホを使っていないとなると,なかなか能力を拡張することにならない。

● SNSをヘビーに使っているかどうかではない。SNSっていうのはTwitterにしてもFacebookにしても,コミュニケーションよりもじつは引きこもるための道具なのではないか。そういう使い方をしている人が多いのではないか,というのがぼくの印象だ。
 っていうか,自分がそうなのだ。Facebookはやめたが,Twitterは今も使っている。しかも,けっこうヘビーに使っている。しかし,ログを残すためだ。コミュニケーション欲求ほほぼない。この態度は引きこもりに近いものだと,自分では分析している。

● 個人のログ,あるいはたんなる意見表明ということならば,特徴ある発信ができる人には,ネット以前から手段は与えられていた。
 それができない人は,ネットによって発信手段は与えられたものの,発信しても誰も読まない(つまり,誰にも届かない)という結果になるだけだ。

● それでも,手段を得たことは大きい。それは実感している。けれども,ぼくのような使い方(多くの人がそうだと思うのだが)だと,能力が拡張したという実感は持ちにくい。
 もともと能力がない場合は,どんなツールができようと関係ないという冷厳な事実があるようだ。

2019年5月8日水曜日

2019.05.08 無印良品の銀座店に行ってみたい

● 『無印良品のデザイン』(日経BP社)正・続2冊を読んでみた。が,無印の世界にぼくがドップリ浸ることはなさそうだ。無印に対するイメージが「わけあって,安い」の頃からあまり変わっていないせいもあるだろう。
 今の無印はそうではないことはこの本を読んでよくわかったのだが,無印もライフスタイルの提案を業とするのだとすると,提案されたスタイルになんか乗ってたまるかという気持ちが動く。

● 無印もいいけれど,セブンプレミアムもいい。ユニクロにも無印的なテイストを感じる。
 デコラティブを排し,余計な機能を削り,残った機能については高品質を確保し,包装を簡素にし,リーズナブルな値付けをする。無印が切り開いた道なのだろうが,それを追随するところが出る。
 セブンプレミアムやユニクロと無印では,カバーする範囲が違うので,比較してみても仕方がないのだが,それらが単なるエピゴーネンとも言えなくて,それぞれに特徴がある。

● というわけで,さほどに無印に入れあげているわけではないのだけれども,銀座の旗艦店は見てみたい。
 無印と銀座って,何となくそぐわない感じもする。こちらが「わけあって,安い」時代の認識から出ていないからだ。
 今の無印は銀座にこそ相応しいのかもしれない。ユニクロもたぶんそうだ。

● 真の富裕層というか,生まれたときから富裕が身についている人たちは,無印を好むんじゃないかという気がする。華やかなブランド品をまとうよりも無印の洋服がいい,と。
 ともあれ,時代を感じることができそうだ。6~10階は日本初のMUJIホテルになっているのだから,そのホテルに1泊して,チェックインしてからチェックアウトするまで,無印の店舗から一歩も外にでないで過ごしてみたい。食事も飲酒もすべて店内ですませる。

● が,まだ開店後の混雑が続いているらしい。ホテルもかなり先まで予約て埋まっているっぽい。少し落ち着いてからということになるだろう。
 店のデザイン,商品の配置,お客さんの様子。見るべきものはこの3つ。というか,この3つは味わうに足るのではないかと思っている。

● ところで,この銀座店は有楽町店を継承するものだ。有楽町店には何度か行ったことがある。2017年7月に増床してリニューアルオープンしているのだが,その前と後に行っていると思う。
 その有楽町店が2018年12月で閉店し,翌年(つまり今年)4月に銀座店がオープンしたわけだ。
 だったら,2017年のニューアルオープンは余計なコストだったのではないかと,ぼくのような素人は思ってしまいがちだ。その時点で銀座移行は見据えていなかったのか,無計画じゃないか,と。

● しかし,そうではないはずだ。わずか1年半であっても利益がコストを上回ると判断したのだろう。あるいは,内部を変えて試してみたいことがあったのだろう。
 ともかく,一度行ってみたいね。G-SIXはもう気がすんでるけど。

2019年5月6日月曜日

2019.05.06 東武電車で南宇都宮に戻る

● ホテルラウンジでの朝食。昨日の経験を活かして,今朝はシンプルに和朝食。ここではこれがベスト(たぶん)。
 食後にコーヒーを飲めば,贅沢を極めた朝食が完成する。

● 水天宮前駅発11:24の南栗橋行きに乗る。水天宮前駅の発車時刻までわかるとは,乗換えアプリはじつに便利だよ。
 時刻表ファンというのは今でもいると思う。彼らにしてみれば,アプリが時刻表を代替することはあり得ないはずなのだが,ぼくらパンピーはアプリがあれば時刻表は要らない。

● こういう便利さに慣れてしまっているけれど,ネット以前は,こういうことって偉い人たちは秘書にやらせていたよね。つまりさ,ぼくらは秘書を雇っているのと同じだよ。
 自分だけじゃなくて,誰もが秘書を雇っているから,別に何も感じないけれども,すごいよねぇ,インターネット。

● インターネット端末は今はスマホ。常時持ち歩いている。生活インフラの筆頭だ。そのスマホ1台でいったいどれだけのことができるんだろう。GoogleやAppleをはじめとする,あの会社やこの会社の恩恵ってどれほどになるんだろう。
 自分もスマホをいじっている時間はけっこう長いんだけども,もっともっと便利にできるかもしれないね。便利さと引換に捨てるものもあるはずだが。

● LINEやメールを使えば,郵便局に行って切手を買って,その切手を貼ってポストに投函する手間を省ける。銀行に振込に行く必要もない。そういうことはスマホという秘書にやらせているからだと考えてみる。ぼくらはいったい何人の秘書をやとっているだろう。
 ぼくが思いつくのはその程度のものだから,まぁ1人しか雇っていないかな。人によっては5人とか10人雇っていることになる使い方をしているのだろうな。
 使い手の器量によって雇える秘書の数が違ってくる。スマホっていうのは,人の器量の差を拡大する器械でもあるかなぁ。

● さて,その前に,ラウンジで一口大の柏餅を4つ食べた。よもぎ餅もあったよ。全然帰りたくないけれども,帰らないとなぁ。
 ぼくに使えるお金が月に百万円もあれば,仕事なんか放りだして,好きなだけ泊まっていくんだが。悲しいかな,その百万円の金がない。

● 一昨日と同じコースを辿って南宇都宮に戻ってきた。車中,何事もなかった。一昨日は,文化会館から南宇都宮駅まで歩くのに,だいぶ遠回りをしてしまったらしい。

2019年5月5日日曜日

2019.05.05 昼間の人形町をウロウロする

● ホテルラウンジで朝食。今回,朝カレーというのがあって,喰っちまった。トマトの利いた酸っぱいカレー。グリルしたトマトもあり。
 が,これは失敗だった。カマボコ,漬物,味噌汁でご飯を食べるのが,ぼく的には正解かと。

● ホテルの売りはたぶん洋食かと思うんだけど,ぼくは和食を勧める。おそらく,人形町のどこかから仕入れているカマボコと漬物。あえて大げさな物言いをするけれども,これを食べないでは損をする。
 カマボコは当然ながら醤油をつけて食べる。しかし,ホテルには醤油しかない。つまり,ワサビや柚子コショウは置いてない。毎回,持ってくればよかったと思う。が,必ず忘れる。
 しっかりしたカマボコなら,ワサビなんか入れずに,醤油だけで食べた方が旨いんだろうか。

● スタッフが紫色の野菜ジュースにミルクを混ぜたものを持ってきてくれた。まろやかになって旨いんだよ,と言う。世話好きなスタッフがいるのだが,彼の名をつけて,わが家ではこれをト○タ・スペシャルと呼んでいる。
 これはぼくはアリだと思った。奥様の評価は???だったのだが,ヨーグルトに近い味になる。甘みはジュースにたっぷり載っているので,さらに味を加える必要はない。

● 11時過ぎに再びラウンジに。今年初の柏餅にありついた。言うまでもないだろうけれども,味はホテル水準。ひと口で食べられる大きさ。甘さ控えめ。
 率直に言うと,このラウンジでホテル水準に達していないものはお客だけだ。もちろん,ぼくらを含む。

● 人形町をフラフラと歩いてみた。水天宮を覗いてみたり,いきあたりばったりに路地に入ってみたり。
 そんなことをしていたら甘酒横丁に入っていた。ここをまっすぐ進むと,“谷崎潤一郎生誕の地”に至る。至ったところで,そこに何があるわけでもないのだが。

● 昨夜入れなかった「兔屋」。13:30頃だったが,5人ほど店外で並んでいた。こういうところにも女性の1人外食派がいる。
 前回はつけ麺を食べたので,今回はラーメン。大盛りで980円。豚骨&煮干し。麺は浅草開化楼のストレート麺。汁がかなり濃厚だから,縮れ麺はあり得ない。旨いラーメンを食べたと思った。

● 17時からラウンジでカクテルタイムが始まる。が,「兔屋」で大盛りラーメンを食べているのだ。とても飲める胃袋じゃないわけで。缶のお茶を飲んだだけだった。
 その後は部屋に戻ってベッドでウツラウツラ。何もしないですごした1日だった。いいもんだ。徹底して“何もしない”ができるのが,ホテルの功徳の第一だと思う。

2019年5月4日土曜日

2019.05.04 東武電車でロイヤルパークホテルへ

● この日,宇都宮市文化会館に行った。で,その用事がすんでから,南宇都宮に東武線で東京に向かう。というのも,黄金週間の終盤にロイヤルパークに安い宿泊プランが出たのを奥様が発見されたからなんだが。
 2日前に奥様がおっしゃるのだ。
 やい,謹んで拝聴しやがれ。ゴールデンウィークの終盤に安いプランが出たぞい。どうする? 行くか行かないか。行かないなら1人で行くがな。
 行きます,行きます,どうぞお連れください,とぼくは答えたのだった。

● が,ぼく,素足にサンダルなんだよね。この陽気じゃ靴下なんかはきたくないし,ましてそれを靴で覆うなんてまっぴらだ。それはいいとして,これでホテルに行くのはね。
 といって,今から家に帰ってってのはありえない。素足にサンダルのままで向かうことにした。

● 東武なので直通はない。栃木と南栗橋で乗り換えることになる。が,乗り換えはスムーズ。南栗橋からは黙っていても半蔵門線に乗り入れて,最寄駅の水天宮前まで連れて行ってくれる。
 ロイヤルパークホテルを定宿にするようになってから,東武線がかなり身近になった。

● ここから押上まで1,200円。押上から半蔵門線に入り,水天宮前まで170円。JRよりだいぶ安くなるのもありがたい。
 しかも,だ。JRより安いのにJRより長く乗っていられるのだ。ぼくは乗っているのが好きなので,こういうのは大歓迎だ。

● だったら,毎回東武を使えばいいじゃないかと言われるか。それはダメだ。宇都宮はJR駅と東武駅が離れているのだ。北極と南極ほども離れている。
 わが家の最寄駅はJRなので,宇都宮で東武に乗り換えるのはあり得ない。今回はたまたま宇都宮市文化会館にいたので,東武駅が近かったというだけのことだ。

● 東武線の魅力はほかにもあって,東京に入ると主には墨田区を走ることだ。元日にはわざわざ玉ノ井や鳩の街をウロウロしてみたのだが,東武ならわざわざ行かなくても,曳舟で停まるのだし,各停に乗り換えれば東向島はすぐそこ。
 となると,なかなか行かないけどね。いつでも行けると思うと,行かないものだな。

● というわけで,快適な東武の旅でロイヤルパークホテルに到着。水天宮前駅から直結なのだから,じつにもってどうしようもなく便利。
 最近,ロイヤルパークに傾きっぱなしなのは,この駅直結も大きな理由だ。以前は,東京駅から歩いたり,上野駅で日比谷線に乗り換えたり(人形町で降りて少し歩く),同じく上野駅で銀座線に乗り換えて,三越前でさらに乗り換えるなんてことをやっていたのだが,久喜か栗橋でJRから東武線に乗り換えてしまった方が,駅直結の利便性がさらに活きることを発見。

● とにかくホテルに着いた。奥様は先に着いて,ラウンジでぼくをお待ちだ。
 素足にサンダルでラウンジに行った。あまり動き回らないようにした。本当はさ,サンダルも脱いじゃって素足で歩き回りたいよね。こういうところに小石はないんだからね。

● ラウンジでやることは,いつもと同じ。ハイボールを飲む。いつもはトリスだけれども,ここではスコッチのバランタインという違いがあるだけだ。が,ハイボールで飲むのであれば,トリスだろうとバランタインだろうと,大した違いはない(と,ぼくは感じる)。
 いつもはない肉団子が今日はあった。それでグイグイ飲んだ。

● ところで,ラウンジは満席だった。これほど混んでいるのには初めて遭遇する。これなら安いプランを出さなくても埋まったのじゃないかと思うんだけど,そこは長年のデータに基づいてプロがやっていることだし,その安いプランが出たために,今,ぼくはここにいられるわけだから,この点については,疑問を挟まないことにする。

● 夜の人形町を歩いてみた。「兔屋」に行った。が,閉店後。22時頃だったか。「兔屋」は21時までの営業なのだった。
 ので,「いなせ」で500円ラーメンを。ここは2度目。お客さんは若い人が多い。

● 女性も1人で来てたりする。女性の1人外食,普通になったよねぇ。昔前とは隔世の感がある。
 四半世紀前,初めてシンガポールに行って,ホーカーズでご飯を食べた。そのときに,若い女の子が1人で食べているのを見かけた。そんな子が何人もいた。
 それがすごくかっこよく見えた。自立しているというか,自分の生活を自分でコントロールしているというか。1人だけど何か問題でも,という風情をぼくは勝手に感じ取って,かっこいいなぁと思ったんだよね。

● 当時の日本では女性の1人外食はほぼなかった。それは落後した女性のシンボルのようなものだった。1人なのに家ではなく外で食べているのは,寂しいことであり,女子力(当時はそんな言葉はなかったと思うが)がないことの表明と受けとめる空気があったのではなかったか。
 今は,吉野屋でも駅の立ち食いそばスタンドでも,女性が1人で食べている光景を普通に見かけるようになった。これひとつ取っても,時代は確実に進歩しているのだと判断していいと,ぼくは思う。