● ワープロ専用機ができたときから,それを秘書になぞらえる言い方がされた。たとえば,西尾忠久『ワープロ書斎術』(講談社現代新書)に,その言い方が出てくる。
が,当時はその秘書がやってくれることは,文書の保管と必要に応じて取りだすというくらいのものだった。それだけでもありがたいが。
● 現在は違う。インターネットが普及し,そのネット端末がいつも持ち歩いて使えるスマホになった結果,秘書は何人でも好きなだけ雇えるようになった。
文書の管理でいえば,ブログにしてクラウドにあげておけば,Googleの検索エンジンを使って全文検索ができるのだ。大量の文書を隈なく探して,必要なものをピックアップしてくれる。そんなことを生身の秘書にやらせたら,嫌気がさして辞めてしまうかもしれないが,ネット上の秘書は文句ひとつ言わずに,しかも高速で処理してくれる。
● ワープロ専用機の時代にも同じことはできた。保存媒体がフロッピーしかなかったから,フロッピーを差し替えなければならないという手間があったのと,検索速度が今とは比較にならないほど遅かったということを別にすれば。
文章を書くことを仕事にしていた人なら,ワープロ専用機の登場とインターネットがあたりまえになったことを比較すれば,ワープロ専用機の登場により大きい衝撃を感じたと思う。
● しかし,現在の利便性は当時とは比較にならない。端末に縛られなくなった。どこからでも同じ文書にアクセスできる。ゆえに,どこにいても同じ作業ができる。パソコンで作ってスマホでブラッシュアップすることができる。
インターネットの恩恵だ。昭和に大きくなった老人から見ると,これは途方もないことだ。
● ともあれ。今はスマホでできることが増えた。ぼくはAndroidユーザーなので,Google Play でどんなアプリがあるのか眺めることがある。とんでもない数があって,いったいスマホでできることがどれだけあるのかと唖然とする。自分はスマホ能力のほんの一部しか使っていないなと思う。
必要なものだけ使えばいい。自分に合わせて使えばいいだけだ。それはそのとおりで,百パーセント間違いない。
● 当然,人によって使い方が違う。その違いが何を語るかというと,スマホは(インターネットはと言い換えてもいいわけだが)個人間の能力格差をさらに増幅する器械だということだ。
能力のない者がスマホを使うことによって能力ある者に追いつけるなどということはない。スマホを使うと個々の処理能力が大きく増幅するわけだから,元々の能力が格差が何十倍かに拡大されるだろう。
● 人によって使い方が違うというときに,その違いがつまり能力の違いだ。スマホの使い方が能力を作るのではない。能力がスマホの使い方を決めるのだ。
結果,能力のある人は,秘書を5人も10人も雇っているような使い方をする。中には小さな会社を自分のために作ったのと同じ効果をあげている人もいるかもしれない。
● ここで能力とは,人と関われる力とでも言っておこうか。コミュニケーションがどれだけできるかということだ。
連絡する,指示するということを含めて,たとえばLINEを使い倒している人は,じつに自分の能力を大幅に拡張しているといえるのではないか。
つまり,能力とは対人間で発揮されることが多いものだ。そのためにスマホを使っていないとなると,なかなか能力を拡張することにならない。
● SNSをヘビーに使っているかどうかではない。SNSっていうのはTwitterにしてもFacebookにしても,コミュニケーションよりもじつは引きこもるための道具なのではないか。そういう使い方をしている人が多いのではないか,というのがぼくの印象だ。
っていうか,自分がそうなのだ。Facebookはやめたが,Twitterは今も使っている。しかも,けっこうヘビーに使っている。しかし,ログを残すためだ。コミュニケーション欲求ほほぼない。この態度は引きこもりに近いものだと,自分では分析している。
● 個人のログ,あるいはたんなる意見表明ということならば,特徴ある発信ができる人には,ネット以前から手段は与えられていた。
それができない人は,ネットによって発信手段は与えられたものの,発信しても誰も読まない(つまり,誰にも届かない)という結果になるだけだ。
● それでも,手段を得たことは大きい。それは実感している。けれども,ぼくのような使い方(多くの人がそうだと思うのだが)だと,能力が拡張したという実感は持ちにくい。
もともと能力がない場合は,どんなツールができようと関係ないという冷厳な事実があるようだ。
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