● JRで飯田橋。神楽坂を登ってみた。ぼくは地図を読めない男で,神楽坂への入口を通り過ぎて,しばらくウロウロしてしまった。
小雨が降っていたってのもあるかな。傘を持っていなくてね,けっこうイライラというかバタバタというか,前へ前へと急いでいたのもある(ということにしておきたい)。
● 初めての街に行ってそこに何を見るか。それは,その人の興味や関心のありかによって違ってくる。ひとりずつ見えているものは異なっているはずだ。
ぼくにはまず「富士そば」が見えた。神楽坂にも「富士そば」があるんだな,と。「富士そば」はまこと,首都圏における麺供給の不滅の法灯と言うべし。
● 神楽坂というと,古式ゆかしきロマンの聖地というイメージを持ちがちだ。ぼくなんかはそう思ってしまう。神楽坂じたいより,神楽坂に交差している路地に入ってみると,その聖地がわかりやすく残っていたりするのかもしれない。お金をたんまり持って路地に入ってみると面白いのかもしれない(面白くないかもしれない)。
どっちにしても,それは夜でなければいけないのかもしれないのだが。
● 昼間の神楽坂は,チェーンの飲食店や回転寿司店が普通にある,普通の街で,普通の生活が営まれている。それはそうだ。普通でなければ永続性がない。
職住が分離した街がある。丸の内や大手町がそうだろうし,虎ノ門や霞が関もそうだ。吉原(千束)も同じ。つまり,住がない。ヨソから通ってくる人たちで成立している。昼だけ,あるいは夜だけの街だ。神楽坂はそうではない。
● 16時過ぎの神楽坂。何とはなしに風情を感じる。何かあるはずだぞ,ここには,という気分にさせる。ただ者ではない感が漂いだす。
虚飾のない街は面白くない。虚飾とは発散だ。無駄な発散。余った生命力を意味なくまき散らすこと。その発散を支える仕組みが街には必要で,それが何かといえば,エロと酒と歌と踊りだ。
● 年寄りがつまらなくなるのは,発散できなくなるからだ。品行方正の優等生がつまらないのも同じ理由による。
文学も芸術も発散から生まれるのだろう。文学や芸術の父は過剰な生命力だ。傍目には過剰どころか過小にしか見えない過剰もあるが,過剰でなければ文学など作れまい。
文学も芸術も虚飾の仲間だ。したがって,それらは農村よりは都市との相性がいい。
● 喉が渇いたので,飲み物を買おうとコンビニに入ってみた。スタッフもお客さんも外国人。ここだけ日本じゃないみたいなだ。
日本の未来図を見たような気もする。この光景は日本国内のあちこちで見られるものだろう。外国人が日本国内で外国人を相手に商売をする時代が普通にあるようになるのだろうな。しかし,日本の商慣習は基本的に維持されるだろう。
● 彼らが日本で子供を産んで,その子供が日本で育ってくれれば。日本人とは何かといえば,日本語でものを考える人,日本語を母語とする人,ということになる。肌の色や髪の色はどうでもよい。それは先日のラグビーのワールドカップで多くの人が感じたことだろう。
もしそうなってくれれば日本の勝ちだ。外からやってきた人たちを日本人にできれば,日本の勝ちということ。
この戦いには勝たなければいけない。負ければ日本が消滅する。消滅したっていいじゃないか別に,という考え方もあるとは思うけどね。
● 赤城神社。北区の王子神社もいいけどね,ここもなかなか風格のある景観になっていると思った。風格を作るのは余計なものがないということ。本当はお社さえなくてもいいのかもしれない。
が,そこまで行ってしまうと,神社は商売ができなくなる。商売ができなくなれば,その場所を守ることもできなくなる(たぶん)。
こういう場所ってやっぱり必要だよね。現世利益を祈願する図々しさを満たせる場所は,人が生きていくのになくてはならないもののひとつでしょ。その図々しさってのは,可愛らしさ,健気さにも通じるものでね。人間ってそういうものだよね。
● 神楽坂はもっと時間をかけて歩いてみたいところだ。が,神楽坂がぼくを受け容れてくれるかどうかはわからない。
たぶん,ひとりではダメだ。連れが必要だろう。その連れは女性でも男性でも良いと思うが。
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