2018年10月31日水曜日

2018.10.31 iPhoneは年寄りの心の友になる

● 相方がめでたくiPhoneXRのユーザーになった。その相方,Siriを知らなかったようだ。ので,教えてあげたんだけど。大きな声で命令(?)していた。めでたく使えるようになったようだ。
 今朝は,ピアノの鍵盤を入れてと言っていた。Siriは「それは無理です。入りません」と答えるかと思いきや,ちゃんと鍵盤アプリをインストールしてくれたようだ。

● 歳をとった人の話し相手になってくれるかもしれない。現状ではお喋りはとても無理だけれども,Siriはどんどん進化していくのだろうから。
 リアルのコミュニケーションが減ってきたときに,Facebookが代用になるかもしれない。ぼくはやめてしまったクチだけども,うまくやれば代用品として使えるかもしれない。

● Facebookはゴミの山で,Facebookを始めるっていうのは,そのゴミの山に分け入っていくことだ。けれども,それはリアルのコミュニケーションでも同じこと。
 どうでもいいことのやりとりがつまりコミュニケーションであるわけで,どうでもよくないことをやりとりしなければならないとなると,大なり小なり緊張感を強いられるはずだ。ときには胃が痛くなるような局面もあるだろう。どうでもいいことをやりとりするから,コミュニケーションは快適なのだ。
 どうでもいいことをやりとりするという点では,Facebookとリアルに変わりはない。

● そこにSiriが話し相手になってくれるとなれば,iPhoneがあれば老後はだいぶ紛れるのではないか。iPhoneは年寄りの心の友になる。
 AndroidのGoogleアシスタントはどうなんだろうか。どうなんだろうかって,ぼくのスマホにも入っているのだから,試してみればいいだけだな。

● SiriにしてもGoogleアシスタントにしても,使い手の情報をたくさん参照できれば,それだけ気の利いた対応ができるはずだろう。
 スケジュールがぜんぶiPhoneかiCloudに入っていて,撮りためた写真もiPhoneに保存されていて,何をするのでもiPhoneアプリを使うようにして,テキストでも何でもiCloudに保存しておくようにすると,Siriって賢いやっちゃなってことになるんだろう。

● SiriはだからiPhoneのヘビーユーザーを作る。ぼくらはますますスマホから離れられなくなる。AppleやGoogleは今よりも多くの個人情報を収集できるようになり,ビッグデータが充実する。いいことじゃないか。っていうか,いい悪いを論じてみても仕方がない。
 個人情報をさしだすことに抵抗はないのかと言われれば,ぼく一個は特段抵抗はない。わざわざぼくを特定して,ぼくの行動や好みを詮索するような暇人は,世界中探してもいないと思うからだ。

● ワープロ専用機が出たときにも,パソコンが出たときにも,これで誰でも秘書を持てるようになったと言われたものだ。そうだったとしても,だいぶ仮想的な秘書だった。姿は見えない,声も聞こえない。
 けれども,Siriは声で話すのだ。性別や方言を選べるのだ。リアルの秘書にだいぶ近づく。

● 紙の手帳やノートだって,声を持たない秘書かアシスタントのようなものだ。ぼくは,目下のところは,そっちの秘書をメインに使っていこうと思っているけど,リアルに近づいた秘書にも魅力を感じる。面白い時代に生きていると思っている。

2018年10月28日日曜日

2018.10.28 iPhoneXRがわが家に来た。ただし,ぼくのじゃない

● 相方のiPhoneXRが届いた。SIMフリー版をApple Storeに注文したらしい。
 が,デザインが気に入らないとか,厚みがあるとか,XSにすればよかったかなとか,罰当たりなことを言っている。iPhone5Sのときも,廉価版の5Cが出たけれど,XSとXRもそれと同じような関係なんだろうか。
 おまえの使い方で何でXSが要るんだよ,と思うけど,黙っている。

● 彼女は6S Plusからの乗換え。しかも,乗換えの理由は6Sを水没させたことだ。なくてもいい出費だったなぁ。
 君の亭主はASUSのZenFone 3Maxを使っているんだからな。値段がどれだけ違うのかわかってるのか。

● 色はコーラル(オレンジ)。本当は赤が良かったらしい。が,職場の隣の人が8plusの赤を使っているので,自分はオレンジにしたという。その色にも不満があるようだ。
 で,ぼくに赤を買えと勧めてくる。iPhoneは使いやすいよ,と。

● ぼくがAndroid派であることは,もちろん知っている。相方はAndroidからiPhoneに移った。そのうえでiPhoneは使いやすいと行っているんだから,たぶん本当にそうなのだろう。
 ただし,相方にとってはそうだということだ。使いやすいも何も,iPhoneに気が行かないんだから仕様がない。

● 以前は音楽もスマホで聴いていた。そのままならハイレゾ対応のスマホじゃないとイヤだとダダをこねたかもしれないけれども,ウォークマンに移行したので,そこはどうでもよくなった。
 昔はワンセグにこだわったりもしていた。が,テレビを見なくなった今は,ワンセグなど邪魔なだけ。

● というわけで,スマホはありきたりのものでいい。バッテリーがさらに保つようになってくれればいいとは思っているけど。
 そりゃ,Galaxy Note9のようなハイスペックがいいに決まっている。でも,自分の使い方はネット閲覧とTwitterにツイートする程度のものだ。ハイエンドマシンは必要ない(あってもいいんだけどね)。

● 相方はスマホで動画を見まくるタイプで,そういう人はハイスペックじゃないと困るかもしれない。その典型はゲームで,要するに遊びに使う方がスペックを要求する。
 昔からそうで,パソコンだって仕事にしか使わないのならMS-Officeが動けばいいんだから,大した性能は要らない。

● ちなみに,新しいiPhoneは反応が速くなったらしい。喜んで使っている。
 妻の喜びは夫の喜びである。めでたし,めでたし。

2018年10月27日土曜日

2018.10.27 宇都宮散歩 JR駅~東武駅

● JRの宇都宮駅から東武駅まで大通りではない道を歩いてみようと思って,実行に及んだ。宮の橋を渡ってから,大通りを南に折れてみる。
 とはいっても,まったく初めての道に遭遇するかというと,なかなかそういうわけには行かない。

● かつて,自分が最も詳しいエリアは泉町だった。給料の大半を飲んじゃってた頃。もう,そんなことはしたくでもできない。
 馴染みの店もすべてなくなっている。泉町に関しては,ぼくはもはや浦島太郎だ。釜川は変わりなく流れているし,建物自体は昔のままだいぶ残っているんだけれども,人は儚いものだなぁと思う。

● よく,人が死んだあとも,残された人たちが自分を憶えていてくれる限り,その人の中で自分は生き続けるのだ,ということが言われるけれども,その人たちもいずれ死ぬ。
 自分が死んだときがすなわち死なのか,自分を憶えてくれている人たちが死に絶えたときに自分も死ぬのか。いずれであっても,さしたる違いはないように思われる。

● そんなことを思いながら,裏通りを歩いている。こちらの感性の問題もあるのかもしれないけれども,特に何を感じるでもない。
 大昔には,このあたりはオカマの娼婦(?)が出没したとか,そういう話を聞かされたことを思いだすんだけど,当時の面影が残っているわけではない。
 今のパルコがあるあたりは,かつては映画館が軒を連ね,屋台が出ててね,などという話も聞くのだけれど,つまるところは年寄りの昔話にすぎぬ。だからどうしたという話だ。でも,場にはそれぞれの力があって,それぞれに相応しい様相を呈するものだという人もいる。

● 三番町,二番町,中河原町,中央本町,宮園町を経由して宇都宮東武百貨店に到着した。
 噂に聞く焼きそばの「石田屋」はここにあったのか,っていうような発見もあった。その発見に何の価値があるのっていうのは,言いっこなしってことで。

● 復路はオリオン通りから大通りを通ってみた。夜の10時。
 数年前は幽霊が出そうなほどにガランとしていたと記憶してるんだけど,いやいやいや,今は賑わっているんでした。しかも,若者が多い。飲み屋にもお客さんがちゃんと入っている。活気がある。景気が良くなっているんですかねぇ。けっこうなことだ。
 大通りは依然として人通りがなく,ひどく暗い。ひょっとすると,オリオン通りの印象も大通りのそれとこっちゃになっていたかもしれない。

2018年10月25日木曜日

2018.10.25 宇都宮散歩 帝京大学~宇都宮美術館

● 宇都宮美術館で開催中の「篠山紀信展 写真の力」を見てこようと思う。宇都宮美術館はわが家からわりと近い。岡本を経由していく。
 宇都宮市街を通らずにすむ。宇都宮市街に出てしまうと三角形の2辺を通る形になる。

● その2辺を通ってみることにした。美術館だけ行ってハイさよならってのも何だし。
 美術館なんてのは,自分の生活には縁がないところで,それでいいと思っているんだけども,宇都宮美術館には一度だけ行ったことがある。

● 宇都宮駅周辺でいくつか用事をすませてから,帝京大学行きのバスに乗った。運賃は片道360円。
 美術館まで行くバスもあるんだけど,本数が少なくなるのと,美術館までバスで行ってしまうと運賃が少々お高くなるので,雨でも降ってない限りは帝京大から歩くのが吉。

● 前回行ったのは休日だった。平日の帝京大のキャンパスはどんな感じなのか,少し楽しみだった。若さが横溢していて,圧倒されるんじゃないか。気持ちよく圧倒されたいものだ。
 が,閑散としている。平日なのに学生さんはあまりいない。ひょっとすると,学生はみな授業に出ているのかもしれないんだけど,それにしてもキャンパスを人が歩いていない。

● 学生1人あたりの敷地の広さは,その辺の国立大学より広いと思う。建物は多いのだが,学生が少ないようなのだ。キャンパスに活気がないという印象にもなる。
 大学の周りに何もないのがちょっと可哀想かな。昔なら“閑静で勉学に好適な環境”ってことになったのかもしれないけれど。

● 帝京大のキャンパスを横切って宇都宮美術館に向かうのは,けっこう上質な散歩道になる。山林を切り開いている。気分がいい。
帝京大から宇都宮美術館に
 ただし,余計なことも考える。このあたりは分譲住宅地でもあるのだが,高島平や多摩ニュータウンと同じで,50年後にはどうなっているか,と。
 子供は1人か2人だろう。その子供たちがここに住むことはない。一代限りの家だ。パパやママは申しわけないけれども,50年後には生きていない。人が住まなくなった家はあっという間に朽ちる。この辺は幽霊屋敷の集合体になるのだ。
宇都宮美術館
 いや,人ごとではなくて,わが家もそうなのだ。そうなる前に処分して,アパートにでも住めればいいと思うのだが,一般住宅など買い手がいまい。

● さて,宇都宮美術館。「篠山紀信展 写真の力」だ。1,000円でチケットを買って入館。
 写真集ですでに見ているものもけっこうあった。なんてったって,篠山紀信だからね。
 写真は写真集で見てもいいわけだ。絵画のように原画と複製という関係には立たない。展示されている写真も複製なのだから。違うのは大きさだけ。“だけ”といっても,大きさの威力というのはあるわけだが。
 圧巻は最も地味な東日本大震災後の被災地の人たちのポートレートだ。そうと知って見るせいもあるのかもしれないけれど,頭の上の空気が重くなったような気がした。

● 入館者の多くは年寄り。平日なのだ。来れるのは年寄りか専業主婦しかいない。その年寄りもそんなに多くはない。それでも通常の企画展よりは多いだろう。
 絵画よりは馴染みがある。人は知らないものより知ってるものに惹かれる。知らないものを知りたいと思うことはないが,知ってるものならもっと知りたいと思うことがある。

● 企画展の他にコレクション展も見てみた。パウル・クレーの絵が5点あった。
 こういうものは出会い頭で勝負が決まるものだと思っているのだけど,ぼくには歯が立たなかった。猫に小判もいいところなのだろう。
 そばに寄って描画の詳細を見てみたんだけども,ぼくが見ても何もわからない。美的感覚がどうのこうのの前に,色の識別能力がまるでなってないんだと思う。

● 帰りも帝京大からバスに乗った。学生さんが10人くらい,バス停のベンチに座っていた。よくいえば静かだ。静かなのは,昔と違ってスマホがあるからだ。それぞれ,無言でスマホをいじっているので,会話が発生しない。
 意地悪い言い方をすれば,パワーを感じない。若くして悟りを開いちゃったのかと訊きたくなる。

2018.10.25 久しぶりにモス

● 宇都宮駅構内のモス。ここ以外のモスに行くことはないから,モス自体がけっこう久しぶりだ。
 そうなった理由は,いくつかある。チーズバーガーのポテトSセットを注文することが多いんだけど,それば660円なのだ。最近はこれを高いと思うようになってしまった。してはいけない贅沢をしている気分。これが第1の理由。

● モスでスマホではなくノートを開くのも久しぶりだ。だいたいはスマホをいじって過ごすようになっていた。ノートに書くくらいなら,スマホでツイートしちゃった方が早いもんな,とか思って。
 ノートを開くんだったらテーブルが必要だから,モスに入る理由がある。でも,スマホなら立ってでも使えるからね。スマホしか使わないなら,モスの必要なし。これが第2の理由。

● で,今日はなんかノートに書きつけたい気分だったので,モスに入ってみたんだけど,モスの隣が吉野家なんだよね。吉野家で注文するのは,牛丼並と生卵に決めていて,これだと440円なんですよ。
 でもって,ぼくはパンも食べるけれども,基本,ご飯粒がいいなぁと思うタイプで。しかも,吉野家の牛丼より旨いものなんてそうそうないぞと思っていて。

● というわけで,660円でグダグダ言ってるヤツって,ねぇ,ケツの穴が小っちぇーなー。

2018年10月22日月曜日

2018.10.22 TDLでハロウィンな人

● 職場での雑談。20日にTDLに行った人がいた。激混みだったらしい。こってりとハロウィンしてる人ばかりで,“みんな,自分が大好きなんだな”と思った由。
 自分を好きなのはいいことだけどね。その表現の仕方に知性の欠落を感じるというだけで。そこから受ける印象は“付和雷同”だからさ。皆がやるから自分もやる,という。

● でも,大勢が集まってワイワイ騒ぐのは楽しいことだし,同じ嗜好を持つ仲間意識も味わえるだろう。自分の工夫を互いに見せ合って,Facebook的な「いいね!」を無言のうちに出し合う。疑似コミュニティができる。
 つらつら思うに,そうした一時的なコミュニティが,これからは重要になるかもしれない。長く続くコミュニティの閉鎖性に穴をあける役割を果たす。安定は必ず閉鎖性を随伴する。この閉鎖性がいろいろと悪さをする。

● 他者がとやかく言うことではない。好きな人が集まってやっていることだ。そういうがイヤな人は,その種の場所に行かなければいいだけのことだ。
 みんな違ってみんないい,というのとはちょっと違うけれども,いろんな人がいていいわけだ。いかにこってりとハロウィンしようと,別に人に迷惑をかけているわけじゃない。
 他者が自分と違うことを責めてはいけない。そう言うおまえは何様だ,ということになる。

● 以上を認めた上で言うんだけれども,それでもあの光景はぼくには異常に映る。何かを捨ててしまった人たちのように見える。
 って,その光景をぼくは見たわけではないんだけれども。

2018年10月20日土曜日

2018.10.20 東京散歩 大手町

● 大手町に行く用事があって出かけた。これまで,まったく縁がなかったエリア。地下鉄の大手町駅で降りたことは二度か三度はあったと思うんだけど。
 そこから東京駅まで歩いたことも一度かニ度はあるかもしれない。が,記憶からは脱落している。

● ビジネス街というか,いろんな企業の本社があって,ビジネスの頭脳の集積地というか。ストレスフルな場所だなぁとしか思ってないもんね。
 エスタブリッシュメントなところ。そういうところで働くことへの憧れなんて若い頃からなかったもんね。それ以前に,そこで働くことに自分が耐えられるとも思えないわけでね。20代の頃はまだ自分に幻想を抱いていたから,そうでもなかったのかもしれないんだけどねぇ。

● 東京駅に到着。まず地下街をフラフラしてみた。「いろり庵きらく」があったので,ここで昼食。東京に来てまで「いろり庵きらく」かよ。
 そうなんですよ。勝手知ったるところじゃないと,臆してしまって,入れないんだよ。東京だからということじゃなく,どこへ行ってもぼくはそうだ。
 ともあれ。ミニかつ丼セット。630円。食べすぎた。歳を考えろ,俺。

● 普段はエリートビジネスマンが闊歩してるんだろうけど,土曜日の今日は,ぼくを含めてお上りさん(観光客ともいう)が多い印象。
 田舎者に言わせればね,こういう光景を見ると,あぁ東京だなぁと思うんですよ。ビルの間にカフェや軽食を食べさせる店があって,半分公園のような広い歩道があって。うわっ,すげぇ,とか思うわけなんですよ。

● 大手町の由来は,当然,千代田のお城の大手門から。千代田城の正面玄関。国道1号線もここから西に延びている。
 いや,ウソ。国道1号線の起点は日本橋。そこから大手町を経て,大阪に至るわけなんだけど,ここが起点でも全然おかしくないという気がする。っていうか,その方がシックリくる。皇居の正面玄関が国道1号線の起点っていうのはわかりやすいもんね。

● 気がついたら雨。でもね,ビルからビルへ,地下鉄の通路を通って,東京駅まで濡れることなく到着できたんでした。
 もっとも,ぼく一人だったらこの行路は択れなかったろう。人の後に付いて行ったら,そうなったっていうことね。
 あいやー,たまげたわぁ。ダンナさぁん,まるで中国みたぁい。
 いや,中国のことは知らないんだけど,今の上海や北京は未来型都市で,当然にしてそうなっているのだろうと思っているわけなんですが。

● ただし,東京駅に着いたら,総武線改札からでも京葉線改札からでも,ともかく駅に入るべし。ここから迷うからね。田舎モノはね。
 地下街って方向感覚がおかしくなる。それでなくても方向オンチなんだから,テキトーに歩いてると,南に向かったつもりが北に来ていたり,西に行ったつもりが東に出ていたなんてことになる。
 駅に入ってしまえば,現在地を特定することはできる。さすがにその程度には東京駅に馴染んでいる。

● とにもかくにも,新橋駅に。が,この雨では,手も足も出ず。傘ないし。あっても,傘なんかさして歩きたくないし。
 というわけで,そのまま帰途に着いた。高崎線の籠原行きに乗った。とりあえず,大宮まで行って乗り換えようと思って。でも,大宮での乗換えるより,さいたま新都心で乗換えてしまった方がストレスが少ないと思って,さいたま新都心で降りてみた。
 さいたま新都心には停まらない電車ってあったっけなぁ。快速だと停まらないのがあったか。

2018年10月13日土曜日

2018.10.13 居酒屋の快

● 久しぶりの外飲み。こちらの店に行くつもりだった。ところが,予約なしじゃ入れず。土曜の夜なのに。
 ここは新橋じゃないのだ。田舎なのだ。予約なしでは入れないほどに混んでいる居酒屋は珍しい。金曜の夜ならあるんだけど。

● 商売繁盛でけっこうなことだ。が,予約することにはけっこう抵抗がある。特に少人数の場合は。
 だいたい,高級レストランじゃなくて居酒屋なのだ。フラッと入ってフラッと飲み始めたいのだ。事前の手続きが必要になるのは困るのだ。

● と言ってみても仕方がない。ので,こちらへ。
 こちらで2時間近く飲んでから,先ほど入れなかったところへ移動。今度は入れた。

● 予約というのは,店側でも歓迎できないところがあるのではないか。つまり,時間と人数がグループごとに違うわけで,どうしたってデッドスペースとデッドタイムができてしまうからだ。ピースがピタッとはまることなどない(と思う)。
 予約なんか受け付けないことにして,来たお客さんからどんどん入れていく方が,かえってムダを出さずにすむかもしれない。流行っている店ならば。

● いや,そういうものじゃないね。やはり予約してもらった方が合理的だよね。事前に概要がわかるし,心構えも作りやすい。
 お客も予約してあれば安心だ。長い目(いや,中くらいの目)で見れば,店の評判や信用を増すことにもなるんだろう。

● 流行っている店には流行っているなりの理由がある。出てくる料理が旨くて安い。儲けてやろう感がない。
 それ以前に,空気がいい。空気の核になるのは店主の欲と人がらだろうか。欲というのは,不転退の決意と言い換えてもいい。自分はこれでやっていくんだという覚悟のようなもの。
 どうもこの空気というのは,作為して作れるものではないようだ。したがって,この商売は息子が後を継いでもたいてはうまくいかないだろう。世襲に馴染まない。一代限りの仕事だ。

● 空気の核になるのは店主の欲と人がらだとして,それを分厚く覆うマントルになるのはお客だ。狭くない店内にしっかりお客さんが入っていて,そのお客さんの顔がとてもいいのだ。
 笑顔が多い。そちこちから笑い声が聞こえてくる。無遠慮に見つめてしまうほどだ。というか,見惚れてしまうほどだ。

● 寄席の笑いとは別種の笑いだ。文字どおり,人間(じんかん)から出てくる笑い。うぅ~む。これほどの笑い声を作り出せる場というのは,そうそうないのじゃないかなぁ。
 いいお客さんが多いということでもあるし,酒が介在する悦楽だからでもあるし,店がいいというのでもある。店(店主)がそれに相応しいお客を呼ぶのだろうし,お客が店を作るのでもあるだろう。
 ともかくこういう場を提供できている。この店の社会貢献度は相当なものだと思う。

● ぼくは飲食もひとりですることが多いので,ラーメン屋でも居酒屋でも,テーブル席を減らしてカウンター席を増やせばいいのにとしょっちゅう思っているんだけど,この店はカウンターはちょっとしかない。テーブル席と座敷席で埋まっている。
 酒はひとりで飲むものではないという店主の思想(?)の反映というのではなく,一人で来るお客さんはほとんどいないのだろう。

● ぼくはチェーン店というのを否定しない。大いなる工夫が詰まっている。すこぶるお世話にもなっている。居酒屋にもチェーン店があっていいと思う。
 が,居酒屋だけは個人経営の店の方がいいような。個人に向いている,あるいは個人を表現しやすいのが,居酒屋という業態であるような気もする。

● もうひとつ,感じることがある。居酒屋では地域一番店というのがあって,その一番店に一極集中,二番店以下は青息吐息という状況がだんだん鮮明になってきているのではないか。勝ち負けの差がくっきりしてきている。地方の場合ね。都会は知らない。
 で,いったんそういう差ができてしまうと,それを逆転するのはほぼ不可能。

2018年10月12日金曜日

2018.10.12 株式市場の下げ

● 右は今日の下野新聞。アメリカ発の株価下落。東京でも1,000円下げた。
 だから何だというのだ? たかだか4%下げただけではないか。この程度の下げでガタガタ騒ぐな。

● これは台風が来たようなものだ。本物の台風と違うのは,兆しを見せずにいきなり現れることだ。しかし台風だ。いつまでも居座る台風など,あった試しがない。必ず通り過ぎるのだ。しかも,短期間で。
 歴史というのも大げさだけれども,今までの株価の動きをざっと振り返ってみるがいい。株式市場はジリジリと上げるのが常態で(選手の入替えはあるが),下げは,1929年の暴落を含めて,一時的な変調にすぎない。もはや盛りを過ぎて,18世紀以前の状態に戻りつつある(つまり,世界の田舎に戻りつつある)欧州の株価だって,いまだに上げているのだ。

● 上げているときは常態だから,誰も騒がない。下げると異常事態だからニュースになる。それだけのことだ。
 したがって,下げた局面は常に必ず絶好の買い場だ。弾がないときは,慌てず騒がず淡々としていればいい。じきに戻る。

● こういうときは悠然見南山を決めこむに限る。自分の座標位置をそこからずらすからいけない。
 どうしたら株で損をすることができるのか。短期で10倍にしようとしたり,50倍にしようとして,バカな手を打つからではないか。浅知恵丸出しでチョコマカチョコマカ動くから。
 信用の人やレバの人は,ビルの屋上から飛び降りるなり,線路に飛びこむなり,好きにすればいい。

2018年10月11日木曜日

2018.10.11 自然災害は自然災害なのか

● 右は今日の下野新聞。
 災害で失われたのは“経済”だけではない。どれほどの人命が犠牲になったか。今年の西日本の大雨だけではない。毎年,自然災害で死者が出る。

● それほどの自然災害がなぜ起こるようになったか。河川改修は着々と進んでいるはずだ。それでも捌けないほどの大雨が降る。
 地震を除けば,災害の原因は温暖化だろう。温暖化が進むと,気象は荒れると言われる。シベリアのツンドラがなくなるのではないかと思われるほどの今夏の猛暑は,荒れた気象の象徴ではないのか。

● そうだとすれば,人類の択るべき喫緊の対策はただひとつ。化石燃料を燃やすのをやめることだ。火力発電を全廃して,原発に置き換えることだ。自動車もサッサと電気自動車にして,その電気は原発で作る。
 自然には甘く,人工物には厳しすぎる風潮を改める。自然に奪われた人命が,人工物で犠牲になった人命より軽いわけではないのだ。自然が相手じゃ仕方がないね,ではない。今の自然災害は人間がわざわざ拵えているようなものではないのか。

● という意見は,しかし,素人の戯れ言の域を出ないものだ。ひとつは,火力発電でのエネルギーの取りだし方が格段に効率化していること。熱を余さず吸収してエネルギーに変換できるようになっているようだ。
 もうひとつは,二酸化炭素の増加と温暖化は関係ないという意見があること。どうなんだろう。地球自体が温暖化に向かっているんだろうか。化石燃料云々とは関係なく。

● 技術の進歩,技術革新のみが,解決法になるのだろう。今この瞬間にも,そのために昼夜を分かたず献身している人が大勢いるのだろう。
 何もわからない素人がノイズを垂れ流しても仕方がない。

2018年10月9日火曜日

2018.10.09 Google+ がなくなる

● ネットのニュースで知った。驚く人はあまりいないだろう。いずれこうなることは誰にとっても想定の範囲内。いずれ来ると思っていたものがとうとう来たか,という感じ。
 サービスを開始したときは,Facebookが大きく先行していた。よほどのことがなければ逆転は難しい。そのよほどのことは起きなかった。

● ブログはGoogleのBloggerを使っているので,その流れでSNSもGoogle+から入った。2ヶ月くらいだったかな,Google+をいじった後に,TwitterとFacebookに移った。
 Facebookのコンセプトは明解だった。友だちを作って,友だちとのコミュニケーションを楽しむ。ほぼ,それに尽きる。Facebookでできることは広範にあると思うんだけども,基本は友だちとのコミュニケーション。「いいね!」やコメント,シェアもそのための手段だ。

● その分,Facebookには閉鎖性を感じた。フォロー(するだけ)という形で友だちの外に出ることはできるんだけども,Facebookユーザーの外にでることはできない。
 タイムラインの流れも遅い。頻繁に投稿する人はそんなに多くない。文字数の制限がないのに,ごく短い投稿が多い。スマホを使っているからだけれども,これだとFacebook本来の面目はだいぶ損なわれるような気がする。

● けれども,長文投稿は歓迎されない気配がある。連投も嫌われるのではないか。そんなところでも気を遣わなければならない。
 友だちに正面切って反論するのも憚られる。逆に,反論される可能性の高い,先鋭なというか,とんがった意見は投稿しづらい。友だちを戸惑わせてしまうからだ。
 そうしたものは歓迎されない空気がある。場を乱さないような,あたり障りのない,正論的な,したがって情報量を持たない,投稿が横溢している。

● それらを互いに発信しあい,受信しあって,「いいね!」をしあって,愚にもつかないコメントをしあって,仲間内から一歩も出ずに,同じループを回っている。
 友だちの友だち,そのまた友だち・・・・・・というふうに6回ジャンプを繰り返すと,世界の誰とでも接触できるという理論? が出たことがあった。が,そんなものはまったく現実的ではないことは,Facebookを少し体験すればすぐにわかる。

● 2年半ほどFacebookにかかずらってみたが,結局,これという使い方を見いだせないまま,Facebookからは退くことにした。数ヶ月前にアカウントを削除した(完全には削除されていないようなのだが)。
 しかし,自分には向かなかったが,Facebookは良くも悪くも性格がはっきりしている。

● 対して,Google+は茫洋としていて,こういうものだと大きく掴むことができない。Facebookだと,友だち申請→承認,というひとつの儀式というか関所がある。これがFacebookの性格を大きく規定しているのだが,Google+にはそういうものはないようだった。
 Google+は字数制限のないTwitterなんだろうか。

● Twitterのキーワードはフォローだ。そのフォローは無言フォローが原則だ。フォローするかしないかは自分で決められる。相手方の承認を得る必要がない。
 Twitter人気の理由の大きなひとつは,この敷居の低さにあると思う。

● その代わり,TwitterはSNS的な色彩は薄いような気がする。誰かがコメントをしても,それに対して返信しなければいけないという縛りも感じない。
 フォロー返しという言葉はあるけれども,それが暗黙のルールにまでは行っていない。そこも各人の勝手たるべしという空気がある。勝手にフォローすればいいし,フォローされたからといって義理を感じる必要もない(感じてもいい)。それぞれが勝手にやっている。
 字数制限があるためか,連投したければしたいだけどうぞという感じ。タイムラインの流れも速いから,連投されてもどんどん流れていく。留まらないから邪魔にならない。

● 総じて,Twitterの基調は自由さにあると思う。では,Google+にそうした解放感があるかというと,どうもそうではない。けっこう,構えさせるところがある。投稿する前に推敲させる雰囲気というかな。そういう重さがある。
 結局,Google+はユーザーに何を提供するつもりだったのか。どう使ってもらいたかったのか。

2018年10月8日月曜日

2018.10.08 一流品が似合う男(女)になれ?

● 右は今日の読売新聞。一流品が似合う人間になる。魅力的なテーゼだ。なぜ魅力的かといえば,自分もなれるかもしれないと思うからだ。
 で,形から入る。まずは時計でもバッグでも,一流と目されている製品を持ってみる。

● でもね,それそのものがダサくなっているかもしれない。そういう考え方をしちゃうってことが,すでにダサい。
 それにね,そうしていると一流貧になってしまうかもしれないよね。

● かつてのお金持ちの生活様式というのが,どうも吸引力を失っているように思えるのでね。ベンツに乗ったり,休日のたびにゴルフに出かけたり,高級レストランで食事をしたり,ブランド品をまとったり,鮨やワインの蘊蓄をたれたり,そういうものがことごとくダサいのひと言で片づけられるようになっている。
 いや,まだなっていないのかもしれないけれども,なりつつあるようには思われる。

● なぜそうなったかといえば,そういうものが格好いいと思われなくなったからだ。では,なぜ格好いいと思われなくなったかといえば,個人の内実と無関係だからだ。要は,お金にモノを言わせれば誰でもできるものだからだ。
 お金が格好いいものではなくなった。お金持ちも,それだけでは崇拝される対象ではなくなった。

● 貧富の差が拡大して,大雑把にいうと貧乏人が増えた。その貧乏人の自己防衛,自己正当化がそういう価値観になっているのかもしれない(そうではないのかもしれない)。
 一時の揺り戻しで,いずれは元に戻るのかもしれないけれども,戻らないかもしれない。ぼく一個は戻らないのではないかと思っている。
 つまり,お金持ちがそれだけでは崇拝される対象じゃなくなるのは,健全だと思うからだ。健全化の過程が進行している。健全なんだから,そう簡単に元に戻ることはないだろう。

● これからお金に代わって若者を惹きつける的になるのは,「カッコイイ」だ。格好良さはどの分野,どの職業,どの階層にも偏在する。
 サラリーマンをやっていたのでは大金を得ることは不可能だ。が,格好良さは得られるかもしれない。得られるというと正確ではない。格好良さを演じる機会は与えられるかもしれない。
 それで充分だ。いい時代になったと思う。

2018.10.08 良くも悪くも,注目される中国人

● 右は今日の読売新聞。各国の中国大使館が中国及び中国人のイメージを毀損し続けているという記事。

● 来日する中国人旅行者の質は,短期間のうちに格段に上がった。銀座の中央通りを歩いてみると痛感する。
 短期間でここまで変わるのかと驚く。ひょっとすると,旅行者の層が入れ替わっているのではないかと思うほどだ。

● さらにそのずっと昔,TDLにいる中国人を見ると,植民地時代に欧州人が「犬と中国人,入るべからず」とやったのは,人種差別では片づけられない理由があったのだなと思わせられたものだった。
 彼らと来たら,ドヤドヤと割り込んでくるし,静かにしていることができないし,撮影禁止のアトラクションで写真を撮りまくるし,列に並んでいる最中に煙草を吸うし,その吸い殻をその場に捨てる。
 傍若無人を絵に描けばこうなるという生きた実例ばかりだった。社会の中の個人という観念がないように思われた。世界は自分だけでできている。したがって,何をしてもいい。
 日本人も昔はそうだったのだろうと思って我慢するしかないな,と思ったものだった。

● それがここに来て急激に変わってきた。中国にも品という言葉があったんだ,と。
 が,なかなかね。国は広いのにケツの穴は極端に小さいのが中国人。っていうか,これは人民に対する中央の慰撫なのか,中央に対する不満をそらすための。でなければ,中央の統制が末端大使館に届かないほど,タガが緩んでいるのか。

● ほんとにねぇ。信用を築くには百年かかる,それを壊すのは一瞬でできる。そのことを中国の跳ねっ返りに教えてやりたいよねぇ。
 いや,ひょっとすると,単純にバカなんだろうか。国対国で自国が優位だと思うと,個人対個人でも同様のふるまいをしてしまうという。
 これも中華意識というやつかい。中華意識というのがもしあるとするなら,どう考えても中華意識じたいがバカの代名詞なんだけどなぁ。

● ま,でも記事中の中国人というのは,ほんの一部なんでしょうね。これが中国人の本流なら,国境に「犬と中国人,入るべからず」という立て札を立てなければいけなくなるからね。

2018.10.08 東武線の旅

● 2泊3日の3日目。何もしなくていい時間はすぐに過ぎる。歳を取ってもこれは変わらない。
 “何もしなくていい”のと“やることがない”のとはぜんぜん別。何もやらないのは同じなんだけど。退屈を楽しめるようになれば,人生の達人といっていいのだろう。

● ともあれ,ラウンジで朝食。ぼくはこれで帰途につく。相方は正午までホテルで過ごす。スーツケースは宅配便にまわす。

● 東武電車で帰ろうと思っている。1年前,浅草から乗ろうとしたら,スペーシアしかなかった。半蔵門線が乗り入れて,運転系統が変わったんだろうか。
 押上からは間違いなく各駅停車や急行があるんだけど,押上~浅草間にだって,スペーシアが停まらない駅はあると思うんだが。

● と思って時刻表を見てみたんだけど,特急以外の電車も浅草から発着してるねぇ。1年前はたまたま特急が続けざまに出る時間帯だったんだろうかなぁ。
 ぼくが乗ろうとしているのは東武日光線だ。東武線の運転系統を見ると,伊勢崎線が本線で,東武動物公園から日光線が分岐し,さらに新栃木から宇都宮線が分岐する,という感じ。
 日光まで直通するのはスペーシアしかないので,スペーシア以外に乗るときは,必ず乗換えが必要になる。まして,宇都宮に行こうとするときは,複数回の乗換えが必須。ゆえに,分岐点は押さえておかないとね。

● 今回は1年前の経験(?)があるので,半蔵門線に乗ることにした。白金台から永田町まで乗って,半蔵門線に乗換え。東京で最も億劫なものが地下鉄の乗換えなんだけど,まぁ,しようがない。
 押上から日光線に入る南栗橋行きに。南栗橋ではなくひとつ先の栗橋まで行ってくれると,JRに乗り換えるのが楽になると思いがちなんだけど,あまり変わらない。ここでの乗換えはホーム橋を渡る必要もないし,接続は非常にスムーズ。そもそも,栗橋でJRに乗り換える人がさほどにいるとは思えない。

● 南栗橋からは新栃木行きに接続。ここも接続はきわめてスムーズ。
 押上までは,こんな調子で行ったら宇都宮までどのくらいかかるんだろうと,少々ウンザリしていたけど,南栗橋から栃木まではかなり近いのだった。地図をみれば納得する。一衣帯水といってもいいくらいじゃないか。
 途中で降りてみたくなる駅はなし。淡々と田舎を走る趣。

● 栃木で東武宇都宮行きに接続。ここでも待ち合わせ時間は長くない。栃木で途中下車してみようかとチラッと思った。昼食を食べてもいい。が,やめておく。
 東武は駅舎にお金をかけない方針のようだ。宇都宮のひとつ手前の南宇都宮で降りたんだけど,駅舎はこんな感じ。さっきまで白金台にいたのが不思議に思えるようなたたずまい。新幹線じゃなく,トロトロ走る準急や各停で来たのに,数時間でこういうふうになる。
 ちなみに,ぼくが住んでいるのはもっと田舎。

● 水天宮前のロイヤル・パークから栗橋や久喜まで東武に乗って,JRに乗り換えて帰宅したことがある。それだと,全部JRを使うのと運賃はほとんど変わらない。
 が,宇都宮まで東武で来ると,1,200円。JRよりだいぶ安くなる。時間があってお金がない人にはありがたい乗物だ。

● が,宇都宮から東京に行くのに東武を使おうというのはけっこう奇特な人かもね。沿線に住んでいる人は別にして。これだけ乗換えがあるとねぇ。さすがにちょっと億劫になるかなぁ。
 昔はね,日光から浅草まで直行する快速があって,乗車券だけで乗れたんだけどね。

2018年10月7日日曜日

2018.10.07 ホテルで小麦粉三昧

● ホテルのラウンジで朝食。朝から食べすぎ。
 特に,小さい腕に入っているうどんがねぇ。茹でたうどんに出し汁をかけて食べるわけなんだけど。ぼくにはこういうのがホッとする旨さなんだよねぇ。これ,出し汁をかけすぎないことが非常に大事。

● さて,食べたあとはすることがない。風呂に入って,昼寝でもするか。
 っていうか,これって怒られそうなほどに贅沢な状況だなぁ。罰があたりそうだ。そう思ってしまうのも,貧乏性のゆえかもしれないんだけどねぇ。

● 風呂には入ったけど,昼寝はしなかった。そしてまたもや,ラウンジで今度は昼食。
 焼きうどんが旨くてね。朝もうどんを食べたのに。炭水
化物王の面目,躍如たり。安上がり王でもある。

● そのあとは出かけることにした。上野から埼玉県の川口まで。用事がすんでホテルに戻ってみると,すでにラウンジのカクテルタイムが始まっていた。
 今夜はハイボール2杯でダウン。焼きうどんの代わりにナポリタンがあった。生パスタに違いないんだけど,うどんとどう違うのか,酔っ払いの舌では判別できなかった。
 っていうか,今日は朝から小麦粉ばかり食べたなぁと思った。

2018年10月6日土曜日

2018.10.06 女どうしはたやすく国境を越える

● ホテル内の某所。日本のオバチャンがたまたまやってきた外国人女性に話しかけた。
 日本語,わかります? わからないようだった。
 続いて,USA? カイロと答えた。通じた,通じた。
 次は,右手で弧を描きながら,ジェット機? 残念,通じない。

● ジェット機で来たに決まってるんだよね。わざわざ訊くまでもないんだよ。でも,わかっているけど訊く。
 コミュニケーションってそういうもん。私はあなたに関心を抱いてますよ,と伝えること。

● その後もしばらく,とにかく言葉を交わしていた。
 面白いものを見たなと思った。女どうしは軽々と国境を越える。これ,ほとんどの男はできないからね。

● 同じ光景を韓国のソウルで見たことがある。このときは当事者の一方はうちの相方。相手はアルゼンチンから来たというファミリー。その娘さんと相方が,何語かわからないけれども,とにかく話をしているのだ。
 ちなみに,相方は英語は全然ダメ。それでも,いつから友だちなのだ,君たち,と言いたくなるくらい,親しそうに何事かを喋っているのだ。

● コミュニケーションのエンジンになるのは,よくいえば好奇心。下世話にいえば,野次馬根性あるいは覗き趣味。
 野次馬根性が旺盛ならばさ,世界のどこに行ったって,押し渡っていけるよ。で,その点に関して,男は女の敵じゃない。

2018.10.06 別荘で2泊3日

● 専用バスで別荘に到着。今回は2泊3日。
 わが別荘は,こちらの長期にわたる不在期も,高度に専門的なスタッフが留守を守ってくれているのだ。事前に電気だのガスだの水道だのの手続きをしなければならないといった,面倒くささもないのだ。

● わが別荘においては,掃除や洗濯を自分たちでやる必要はない。食事は,基本,上げ膳据え膳である。
 別荘に着いたからには,付属する広すぎて野趣に富む庭
園を散歩しない手はない。ときにオーナーも立ち入れない箇
所があるんだけど,最近,認知力の低下が著しいオーナーの安全を確保するためには,やむを得ない措置であると存ずる。

● 要するに,別荘なんか持たないで,ホテルを使う方がいいよね,ということだね。何度も泊まっていれば,周囲の地理も含めて,馴染んでくる。既視感が固着する。
 そうなれば,もはや別荘だ。この方法なら持とうと思えば,世界のどこにでも自分の別荘を持つことができる。しかも,飽きたら手放すのも簡単だ。行かなければそれでいいのだから。

● ちなみに,今回の部屋は2階の233号室。例によって,相方が安い宿泊プランを見つけたわけで,費用は2泊で6万円ほど。3連休にこの料金で泊まれるとは,なるほどお得感がある。
 オリンピックが近づいているので,だんだんぼくらが泊まるのは難しくなってくるのだろうと思っているんだけども,まだそういう状態にはなっていない。

● もちろん,オリンピック期間中はぼくらが泊まれる部屋はなくなっているだろう。けれども,オリンピックの最中に東京に行くのは,バカだけだと思っていてさ。
 再来年だっけ,真夏の東京でオリンピックというのも思い切ったものだと思うが,この時期だけは地元の温泉場(那須になると思う)に避難することになりそうだ。
 えへん,那須にも別荘があるのでね。もう,だいぶご無沙汰している別荘が。

● 夜はホテルのラウンジでハイボールを3杯。酔う前に満腹になった。いかんな。
 ぼくは午後3時頃に到着したんだけども,相方は昼には着いていた。昼もラウンジで過ごしたらしい。ときどき,本格的なホテルメイドのケーキが出る。ホテル内のカフェのが余った場合に限られるっぽいのだけど。

● で,今日はそのケーキが出たんですと。12,3個。あっという間になくなるらしい。目ざとく見つけた人が一人で3個持っていった。次が相方で2個で我慢(?)したんだと。次の人は3個持っていった。その人がシュークリームを持っていかれたと延々グチっていたんですと。
 要するに,客質はそんなに高くないっていうか,この程度のものだということね。ぼくらがお客になっているくらいだから。

● 露骨にいうと,宿泊料金と客質は概ね比例するという印象をもっているんですよね。安さに引かれて来るお客って,やっぱり安い人が多いのかな,と。
 といっても,今より高いところに泊まったことはないわけなので,本当に比例するのかどうかっていうのは,確認のしようがないんですけどね。

2018年10月5日金曜日

2018.10.05 過ぎたるは及ばざるがごとし

● 右は今日の朝日新聞。世界の富豪。IT関連が多いね。ほとんどを占めている。
 いいのかね,こういうことで。って,いいも悪いもないですな。

● にしても,とんでもない資産家だねぇ。ここまでになってしまうと,寄付(か寄付的投資)に使うしかないでしょう。
 名前も売れ,顔も割れてるわけだから,出かけるにもSPが付くとか,行動の自由も制約されるでしょ。この状態って,基本的人権が制限されるということでしょ。
 となれば,彼らより自分の方が幸せだと思う。

● 一生懸命に働き続けた結果がこれでは,まったく引き合わない。心からお悔やみ申しあげる。アーメン。

● にしても,Amazonの株価はこの1年で倍になったのかぁ。1年前に買っておけばなぁと思いますなぁ。買えないくらい高くなっているのかもしれないけれど。
 Amazonって創業以来,ずっと赤字だったじゃないですか。なのに株価は上がっている,と。こういう企業は可能性を買われているわけだから,黒字になったら(その可能性が実現されたわけだから)直ちに売れ,と言われてた。っていうか,そんなことを言っていた評論家がいた。評論家っていうのは間違えるのが仕事だね。
 そのときにAmazon株を買って,今まで持続していれば,とんでもないことになっていたよ。以上を含めて,ナントカの後知恵だけどね。

● ジェフ・ベゾスにしてもビル・ゲイツにしても,働かずにはいられない可哀想な人たちだ。泳ぐのをやめると死んでしまう鮪のようなものだ。であるなら,彼らにとっての仕事の報酬は働くことそれ自体だ。
 彼らは仕事をすることですでに報酬を受け取っているのだから,ぼくらは彼らの働きの上前を刎ねることを考えるのが正しい。つまり,株を買うということなんだけども,この簡単なことがなかなか上手く行かないんですな。

2018年10月4日木曜日

2018.10.04 鹿沼散歩

● ヤボ用(ほんとにヤボ用)があって,鹿沼に行ってきた。車で行けば造作もないんだけど,あえて電車で。
 車の運転があまり好きじゃないこともあるんだけど,電車の方が“小さな旅”感を得られる。その時間を買うために電車賃を払う。

● 電車賃だけを考えれば,わが家から鹿沼に行くのは,石橋か矢板に行くのと変わらない。石橋や矢板に行って“小さな旅”感を得られるかといえば,それはさすがに難しい。
 けれども,鹿沼は日光線に乗り換えなければならないのでね。その面倒さが“小さな旅”感を生むと思う。

● ともかく。その鹿沼。年に2,3度は鹿沼市民文化センターに行くんだけど,直行直帰。それ以外のところには馴染みがない。
 はるかな昔,川上澄生美術館に行ったことがあるだけだ。飲食店にも入ったことがない。

● で,そういう状態の自分にとっては,鹿沼のシンボルは黒川だ。その黒川に降りて,川沿いの遊歩道を歩いてみた。
 お年寄りの散歩道でもある。爺様と婆様が一人で歩いている。家ではいろいろ言われているのかもしれないし,いろいろ言って嫌われているのかもしれないけれど,それこそいろいろあった人生だったよねぇ。

● 川っていいねぇ。気持ちがせいせいする。川の効用ってたしかにあるなぁ。水が流れ降っていく音も重要だね。
 宇都宮の田川にも同じような施設はあるんだけど,田川と黒川では川の清浄さが違う。せいせいする度合いが違う。ずうっと下流まで歩いて行きたくなる。

● 鹿沼といえばもうひとつ。興文堂書店。もう40年も前になるけれど,この本屋には2,3度立ち寄ったことがある。その頃,ぼくは本を買う人だった。
 街の本屋はどんどんなくなっているけれど,この書店は「年数回,店内でライブイベントも開催。さまざまな文化の交流点として,懐かしい雰囲気が漂う町の本屋」として健在と聞いたことがあるんだけど,今でもあるんだろうか。

2018年10月3日水曜日

2018.10.03 悲劇的 3

● ウォークマン問題。とりあえず解決して,ウォークマン本来の用途に使えるようになっている。ので,休日をメインに鋭意,音楽を聴いているんですが。
 保存先がmicroSDと本体メモリに分かれているのは,プチ不便。フォルダ表示で操作しているので,最初にmicroSDか本体メモリかを選んでクリックするんだけど,これから聴こうとする曲はどっちだっけなと0.3秒ほど考えることになる。

● ので,64GBのmicroSDカードをヤフオクで購入。東芝製で2,199円。ヨドバシでは32GBで2,100円だったから,どうしてもヤフオクに走ってしまう。
 ウォークマンに挿入して楽曲を入れ直した。今回はかつてのような問題はなし。スムーズに行った。やはりSDカードの問題だった。ケチのついたSDカードは処分。

● でもSanDiskなんだよねぇ。無問題のメーカーだと思ってたんだけどねぇ。ま,全部ヤフオクで買っているんですけどね。中古品ではなかったんですが。
 どこのメーカーかわからないものにSanDiskの化粧を施しているわけでもあるまい,と思うんですけどねぇ。

● ウォークマンで使う場合は,32GBで充分。32GBを目一杯にしたら,相当な楽曲を持ち歩けることになる。1年では聴ききれない。64GBあれば充分以上の容量だ。
 最後のiPodクラシックの容量は160GBだったと思う。画像データも格納するなら,そのくらいの容量があってもいいかもしれないけれども,ウォークマンに画像データを入れても仕方がない(ジャケットの画像であっても)。ウォークマンは音楽再生の専用機だ。

● ちなみに,Amazonを覗くと,iPodクラシックの160GBモデルが20,800円で,80GBモデルは5,490円で売られていますな。中古だけど。見た目は新品と変わらないまでになっているだろう。
 でも,買わない。音質はウォークマンの方がいいはずだと思っているんで。