● 昨日からまた川崎に来ているので,川崎浮世絵ギャラリーを覗いてきた。浮世絵に興味があるのかと問われると,特に興味はないという答えになるのだけれども,川崎に来た折りには浮世絵ギャラリーを覗くのは何とはなしの習慣になっている。
なぜかというと,ひとつにはほどがいいのだと思う。何のほどがいいのかというと,物理的な大きさ(小ささ)だ。
その疲労を考えてしまうと,少々腰が退けてくるわけだ。踏ん切りが要るとはそういうことだ。歳を取るとなおのことだ。
が,ここは展示場が狭いので,疲れはするが,軽度ですむ。
● もうひとつは,自分に絵心がないことはわかっており,絵を見ても刺さって来ないことも自覚しているのだが,情報をシャワーのように浴びれば,ある日突然,視界が開けてくるような変化が訪れるかもしれないという,淡い期待もある。
その期待を自分にするには,少々以上に歳を取りすぎていることは重々承知しているけれども,ひょっとしたらひょっとするのではないかという淡い期待だ。
● 今回の展示は月岡芳年「新形三十六怪撰」。月岡芳年は前回展示の歌川国芳の弟子にあたる。
非常に細密。ここまで細かくする必要があったのか,と思うほどだ。
描かれているシーンで実話は1つもない(と思う)。すべて後世の人間が想像した(でっちあげた)ものだ。この世は想像で回っている。自然科学を除いて,リアルはさほどに重要ではないのかもしれない。
その年寄りたち,絵を見るより先に解説文を読んでいる。考え方は色々あるのかもしれないが,まず絵を見るのがいいと思う。しかる後に解説文を読みたくなったら読む(読まなくてもいい),という順序がいいのではないか。情報のシャワーを浴びるとは解説文を読むことではない。
● 浮世絵を見ると毎回思うことだが,江戸や明治初期の民衆(知識階級であったかもしれないのだが)が共通了解事項として身に付けていたであろう一般教養を承知していることは,鑑賞するための必須の道具になる。
たとえば歌舞伎のストーリーとシーンであり,たとえば浄瑠璃や文楽だ。これがないとピンと来ない。手を付けていくのはなかなか大変かもしれないけれど。
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