2020年2月27日木曜日

2020.02.27 定年後が長い件

● 今は忙しいからできないけれども,定年になって暇ができたらアレもやりたいコレもやりたい,やりたいことはたくさんある,という人がいるかもしれない。
 しかし,忙しいからという程度の理由でやらないでいられるのなら,そのアレやコレは本当にやりたいことではないのではないか。つまり,定年になっても暇ができても,やらずに終わる公算が大きいのではあるまいか。
 本当にやりたいのであれば,忙しくてもやれる範囲でやっているものだろう。我慢してやらないでいるなんてできないものだろう。

● だから,あと数年で定年とい50代の人が,仕事以外に何もしていないのだとしたら,それは危機的な状況だと思う。もしそうなら,危機感を持たなければいけない。
 いや,立派なことをやっている必要はないと思う。自分が好きなもの,夢中になれるものなら,何でもいい。他人や世間様に評価してもらう必要など端からないわけで。
 何でもいいんだけれども,何もないというのは,少し以上に困った事態になる。

● 定年後は長いのだ。残念ながら現役中にそれがわかるほど,人間は賢くない。いや,知ってるよ,現役時代の総労働時間を超える自由時間が定年後にはあるんだよね,会社のライフプランセミナーで教わったよ,と言う人もいるかもしれないが,それは頭で知っているだけだ。
 頭でなら誰でも知っている。が,身体でそれを実感できるようになるのは,実際に辞めた後のことになる。

● できれば定年前に辞めたいよ,定年までやれば充分だよ,それ以上サラリーマンを続けるなんてとんでもないよ,それじゃ俺の人生何だったんだよ,と言いたい人もいるだろう。
 残念ながら,それも現役だからこその発想だ。実際に定年を迎えて,その後の途方もない長さを実感した後に同じように考えることができるのなら,その人はある意味,人生の達人であるかもしれない。

● 会社や役所はお金もくれるがストレスもくれる。とりわけ,人間関係という煮ても焼いても喰えないストレス源を提供してくれる。人生はまさしく苦であることを思い知らせてくれるのだ。
 しかし,50代のオッサンに20代の娘さんと話す機会も提供してくれていたのだ。会社に行けば自分の身の処し方を自分で考えなくていいという省エネ環境も与えてくれていたのだ。
 朝起きなければならない理由も作ってくれて,決まった時刻に電車に乗って出かけるという規則正しい生活を保証してくれてもいた。同僚や取引先という交際相手まで用意してくれていた。

● 定年後は自由を手にすることができるんだけれども,それは会社が提供してくれていたものを手放すこととバーターだ。それらを失った跡を何かで埋める必要は必ずしもないだろうし,埋めないでいられるのが理想だと思うのだが,たいていの人は埋めずにはいられない,あるいは埋めるものだと思っているだろう。
 だから,たとえば会社時代の同僚や後輩とFacebookでつながろうとしてみたり,同期生との飲み会を画策してみたり。

● やめておくがよい。組織を去った者に組織が冷たいのは,先輩諸氏を見ていてよくわかっているはずではないか。先輩諸氏にあなたが示した態度を,後輩があなたに示すのだ。それだけのことだ。
 同期生と飲んだところで,出てくる話題は昔話だけだ。昔話のつまらなさもよく心得ているではないか。想像できてしまうではないか。同期生との話がそれなりに刺激になっていたとしても,それは互いが現役でいたからだ。

● ではどうするか。誰かと一緒にではなく,自分独りで,埋めるなら埋める,埋めないで空白を味わうなら味わう。それを基本にすべきだ。
 自分独りが原則だ。独りで遊ぶ,独りで学ぶ,独りで作業する。できるのであれば,現役のうちからそう心がけておくのがいい。職場にあまり体重を預けてはいけないのだ。

● 定年になってからでは遅すぎる。たとえば,定年になったら本でも読もうかとしたって,そんなことはできはしない。本を読むには体力がいる。その体力がないのでは,意欲だけあってもどうにもならない。
 かといって,その体力をつけるには定年後では遅すぎるのだ。結局,読書に進むことはしなくて終わる。ことは読書に限らない。
 つまり,定年になった時点で勝負はついている。この冷徹な事実は受け容れるほかはないだろう。

● 本が読みたくて図書館に行くなら,堂々と行けばいい。弁当持参もいいだろうし,近くの店で昼食を摂るのもいいだろう。その程度なら支出もしれたものだ。
 が,暇でやることがないから図書館に行って新聞でも読もうかというのはダメだ。ダメではないのかもしれないが,そこに楽しさはない。

● よく言われるような,会社の次は地域での付き合いに力を注げ,あなたの経験が役に立つ局面がある,ただし昔の自慢はするな,という助言を真に受けてはいけない。地域活動,自治会活動に自分を向かわせることにはまったく賛成できない。少なくとも,ぼくはそういうものをやる気はない。
 理由は単純で,地域活動を是として現にそれをやっている人は善意の人だからだ。申しわけないが,善意は馬鹿と表裏なのだ。善意と善意が対立してしまうと,馬鹿なだけに,収拾がつかなくなっていたずらに消耗するばかりだ。

● ぼくもあとひと月で毎日が日曜日になる。ぼく一個に関していえば,インターネット(パソコンとスマホ)と図書館と少しのお金と歩ける足腰があれば,この先もやっていける。
 趣味のひとつが音楽を生で聴くことなんだけど,4月からは東京まで聴きにいくことは経済的に厳しくなる。少しの預金はあるので4月早々からそうなるというわけではないが,基本的には地元に向かう。その代わり,地元開催分を取り落とすことはなくなるだろう。その方がPVも増えるかもしれない。
 ストレスが減るので,自ずと禁酒にも至るのではないかと思う。いや,逆にストレスフリーの状況で酒も煙草も嗜みたいとも思うのだけど,さてさてどうなるか。そんなことを考えると,4月からが楽しみだ。

● 定年を迎えた時点での自分のポジションを同期生と比べて,自分は上手くやったとか,職業人としては失敗だったとか(ぼくはこれに該当),まぁこんなものかとか,色々と思うところがあるだろうけれども,そんなことはどうでもよい。「現役時代の総労働時間を超える自由時間が定年後にはある」ことを実感すると,これまでの人生はリハーサルで,本番はこれから始まるのだと自然に思えるようになる。
 まだ始まっていないのだから,成功も失敗もないのだ。現役時代に受刑経験があったとしても,理屈は同じだ。そんなものはすべてチャラである。御破算で願いましては,だ。

● しかし。仕事以外にやっていたことがまったく何もないというのはダメだ。それだけはダメだ。膨大な自由時間を持て余すことになるだろう。そこには小さな喜び,小さな幸せがない。
 独りで遊べるもの,たとえば詰将棋を解くというのでもよい,盆栽でも絵を描くのでも家庭菜園でも山芋掘りでも何でもよい,そうしたものを現役のときからひとつかふたつ,自分につないでおく必要がある。

● それから,これも大事だと思うのだけど,インターネットを自分の味方につけること。世界に向けて情報を発信するなどと力むことはない。ネット上の“絆”なんぞは基本的には絵空事だ。そういうものに期待してはいけない。
 受信専用でかまわない。ネットは映画館であり,コンサートホールであり,図書館であり,美術館であり,ビジネスセンターであり,あなたの私書箱であり,場合によってはあなたの秘書にもなる。
 電車の時刻や乗り継ぎも言いつければ調べてくれるし,航空券やホテルの予約もしてくれるし,そんなに時を経ないで暇つぶしのための話相手にもなってくれるだろう。

● ネットの恩恵は享受すべきだ。そのためには,自分には要らないなどと言ってないで,スマホを持つべきだ。初歩的なレベルでかまわないから,デジタルリテラシーを身につけておくこと。
 もっとも,この部分は会社や役所に強制されて,否応もなく身につけている人が多いだろう。とすれば,それもまた会社のありがたいことのひとつだったことになる。

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