2014年6月1日日曜日

2014.06.01 計画的であることへの疑問

● 国とか自治体とかでナントカ5ヵ年計画とか,10ヵ年計画っていうのをたくさん作る。法律で策定を義務づけているものも多いらしい。
 無駄を義務づけてどうするんだと思うことがある。計画といいながら総花的だし。こういうことをすべてやめれば,行政のスリム化にも貢献するのじゃないか。

● 計画信仰のようなものがあるように思われる。個人でも計画的であることを推奨される。
 計画というからには,達成すべき目標があるはずだ。衝動や欲望を抑えて,その目標にスムーズに到達するために計画を立てるのだろうから。

● 計画の前提は現状が変わらないこと。現状をそのまま延長して,その前提で何をどうするかという話だろう。
 現状をそのまま延長していいのは,せいぜい2年じゃないか。それを超える計画は現実の変化についていくことができない。変化を織りこむ計画もあるんだろうけど,織りこんだとおりに現実が変わっていったことなんてあるのかね。
 そうした計画を律儀に実行するのは,東京から大阪に行こうとして,東に向かって走っているようなものじゃないか。いつかは着くはずだと思って。

● 計画の射程距離はかなり短いものになるはずだ。短期計画しかあり得ない。中長期計画というのは語義矛盾というか,拠って立つ基盤を持たないはずだ。
 10年先を見通すことなどできるはずがないからだ。見通せないんだから,目標は立てられない。

● 計画が実効性を持つのは,せいぜい受験勉強くらいのものではなかろうか。
 最近だと定年退職後のライフプランなんかが大真面目に取りあげられるんだけど,その発想,ダメでしょ。
 計画的といういい方は理性的でクールな響きがある。視野を広く持っているというような。が,じつは愚劣で思考停止的なのではあるまいか。

● ではどうすればいいか。人生なんて目先の連続だと達観して,よろしく泥縄で対応すると決めてしまうことだと思う。目先よければすべてよし。あとはなるようになる(なるようにしかならない)。
 実際の話,勉強だって泥縄が一番身につくではないか。あらかじめ備えておくための勉強って,身が入らないでしょ。身が入らない状態でいくらやったって,そっくり時間のムダでしょ。泥縄で間に合わないことって,そうそうないような気がする。

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