● もうひとつ,考えなければいけない問題がある。知的障害者の社会参加だ。今の福祉の施策における社会参加は,つまるところ知的障害者をお客さん扱いしている。知的障害者はお客さんでなければならない。
そうではなく,社会や世間の一員として,生産活動に参加できるのが理想だ。
● もちろん,障害の程度はあるから,ここで想定しているのは境界層の知的障害者だ。その程度の障害者っていうのは,ぼくが子供の頃の田舎には地域で生きていられたように思う。所帯を持って暮らしていた。
普通に山に入り,田んぼに出ていた。大した稼ぎにはならなかったと思うが,その頃はたいていの世帯が貧乏だったので(当時の暮らしを今やれば,間違いなく生活保護に該当するだろう),さほど目立ちもしなかった。
が,山の仕事にも田んぼの仕事にも機械が入ってくる。そうなると彼らはついていけない。どうなるかといえば,居場所がなくなる。
● ワープロが職場に入ってきたのは昭和60年頃だったと思う。当時50代だった人たちは,ワープロに触ろうともしなかった。そのまま定年まで持ちこたえたはずだ。
パソコンが配備されたのは平成10年頃か。一人一台になったのはもう少し後だったと思う。LANが組まれ,紙の書類の代わりに電子ファイルが来るようになった。そうなってもなお,パソコンを開こうとせず,定年退職して行った人たちがいる。
● 今はそんなことはない。そんなワガママは通用しなくなった。誰もがパソコンを叩いて仕事をしている。
何が言いたいのかというと,普通の仕事,普通の事務というときの“普通”の水準がこの20年,30年で大幅にきり上がっているということだ。
● 生産性は大きく向上しているのだろう。一人でできることがパソコンやインターネットのおかげで飛躍的に増えた。間違いない。
けれども,それは“普通”の足切線を大幅に引き上げることによって,それに届かない人たちを排除してきたことと表裏だ。
● この“普通”に境界層の知的障害者がついて行けるはずがない。ならば,向上した生産性の果実によって,排除されてきた人たちを養わなければならない。それが当然だ。
が,現実がそうなっているとは思えない。
● 知的障害者に限らない。若いときにパソコンなんかない時代を生きた高齢者もそうだ。外に出たがらない高齢者がいる。体力的な問題以外に,自動券売機で切符を買うことができないからっていう理由もありそうな気がする。
都会の高齢者はそうでもないだろうけれど,田舎にはこれがけっこう多いのではないかと思っている。歳をとってから,環境が大きく変化するのは辛いものだろう。
● 地銀以下の金融機関はこれからリストラを迎えるらしい。経営統合をしないと生き残っていけないと言われる。
そのときにまず行われるのは,ATMの機能強化と拡充だろう。ATMを相手にお客がセルフでやる。現行の窓口は全廃する。そうなるのじゃなかろうか。
そうなると,困る人は大勢いそうな気がする。都市銀行はそれでいいのであるけれども,地銀や郵貯や信金や農協がそうなったら,途方に暮れる人たちが,かなりの数,発生するのではないか。
● 年金がきつくなって,70歳定年制っていう話も聞こえてくるんだけれども,現実問題として彼らにできる仕事はけっこう限られてくるんじゃなかろうか。
その年齢になってなお,“普通”の水準をキープできているだろうか。
● 自分には知的障害者でもいし,年寄りになるのははるか先だから関係ないよ,という話ではない。ぼく一個も,今のところは何とか“普通”について行けているけれども,もう一段この環境が高度化したら,ついて行けるかどうかまったく自信がない。
それでも若い人たちはスイスイやっていくのだろう。つまり,それが“普通”になり,ぼくは“普通”から落ちこぼれることになる。
● 生産性を上げるのはけっこうなことだし,必要なことだと思う。が,光と影の影のところに少し光をあてないといけない。
生産性向上の果実をそこにそっくり注ぎ込むわけにはいかないけれども,何らかの工夫が必要になる。しかも,福祉という範疇には属さない方法で。
● “普通”が切り上がったために,かえって生活コストが増大しているようにも思える。その代表は教育費かもしれない。大学なんかそれそのものがムダという意見もある。
● 要は,誰もが普通に暮らせればいい。電車の切符を買えない,銀行でお金をおろせない,といったことなく。
ではさて,どうすればいいのか。ぼくら一人ひとりが自分で考えて,他におもねず,自分で立つこと。それが出発点だとまとめる人がいるかも。だが,それは相当に難易度が高いことだ。ITの高度化について行くよりも難しいだろう。
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