2019年3月17日日曜日

2019.03.17 年寄りよ,ああ年寄りよ,年寄りよ

● Twitterで面白い記事を発見した。藤原智美『この先をどう生きるか』(文藝春秋)を紹介するもの。見出しは「老人はコールセンターにすがりつく…。肩書を失ったエリートほど“寂しい老後”が待つ現実」。
 自分もそういう年齢になったので,他人事ではない。良記事だと思ったので,ご紹介に及ぶ。ただ,ぼくはいかなる意味においてもエリートだったことはない。

● 「今は仕事で大きな成功を収めていても,孤独と無関係そうなエリートほど“寂しい老後”が待っているかもしれない」というわけだけどね。老後って寂しいものなんじゃないの。
 寂しくない老後を送った人なんていたんだろうか。昔の3世代同居があたりまえだった時代だって,同居だからこそ,寂しさを先鋭に感じるってことがあったんじゃないのかね。

● 「現代の老人たちはネットが大好きだ。総務省の2016年度の調査によると,60代のネットの利用率が75%に達し,さまざまなトラブルに遭う高齢者が増えている」とのこと。
 「エリートな人生を歩んだ人ほど,自己評価が高い」「有能な自分が騙されるはずがないという思い込みを生む。そこへ詐欺師から「あなたの豊富な人生経験を見込んで正しく導いてほしい」という“エリート心”をくすぐるメッセージが届くと,コロッと騙されてしまう」。
 ごめん,これ,たんなるバカだよ。バカの比率は,エリートでもノンエリートでも同じようなものだ。ノンエリートにも同じような詐欺は舞い降りているはずだ。騙される比率もさほど変わるまい。

● 老いると交友関係が減り,したがってコミュニケーション能力が落ち,詐欺に逢いやすくなる,というのは身につまされる。他人事ではない。
 かといって,現役世代がそんなに賢いかといえば,これはどうなんだろうね。彼らが大きな詐欺に遭わないですんでいるのは,日中,家にいないからという,それだけの理由による。違うかね。
 とはいえ,加齢に伴う判断力の低下というのは明らかにある。そこにつけ込まれて被害を受けることは自分にはない,と言い切る自信などない。

● 「アダルトサイトに関するトラブル相談は,60代が最も多く,次いで70代なのだとか」というのも,これで老人を代表させてしまうのは,老人一般に申しわけない気がする。
 「アダルトサイトに依存してしまった高齢男性が,息子夫婦が心配して家を訪れても,われ関せず無心で動画を延々と見続けるエピソードが記されている」らしいんだけど,これの何が問題なのだ。どうして「恐ろしい…」のだ。
 いいじゃないか,アダルトサイトを見続けるくらい。その先を勝手に妄想して,ひっかき回す息子夫婦に問題があると思う。

● 「コールセンターにすがりつく」老人や「コールセンターで暴言を吐く老人」は困ったものだ。メーカーのコールセンターが老人福祉施設の機能を担ってしまっている。こういう例はわりと多いと思う。じつは昔からあった。
 コールセンター側で対策を立てるしかないでしょうね。バカは治らないから。電話番号を記憶させておいて,その番号をブロックできるようにするとかね。そうするとバカは騒ぎだすだろうけれども,自社社員を守るために,その程度のリスクはとるべきだろうよ。

● そういう「暴走老人」を「虚栄」だけで説明するのは,ちょっと無理じゃないかと思う。要するにバカなのだ。「虚栄」はバカを顕在化させるきっかけのひとつにはなるかもしれないけれども,暴走の究極にあるのは虚栄ではないと思う。
 さて,これに対する対策はあるか。バカが治らないものである以上,対策はない。暴走の被害を受けるのは,立場的に反論できない位置に置かれる,デパートやショッピングセンターのスタッフが多いのだろうが,あんたに売る商品なんかねえよと啖呵を切ってもいいと会社側が認めれば,問題はだいぶ解決する。
 そうしちゃえばいいじゃん。バカはバカとして扱わないとつけあがるばかりだ。その被害を従業員に負わせて何の手も打たないようでは,経営者なんか要らないだろう。

● 「豊かな老後を過ごすためには,孤独を避けなければならない」というのだが,これには2つの反論が可能。ひとつは,「豊かな老後」って何なんだってこと。もうひとつは「孤独」は老後の本質なんだから,避けようはないということ。
 したがって,この命題は無意味だ。正しいか間違っているかではなくて,無意味だ。

● 「しかし打算で作った友など役に立たない」。あたりまえだ。友はできるものであって,作るものではない。
 「ちまたでは孤独を賛美する書籍が数多く出回る。しかしこれも藤原氏に言わせるとアテにならないという。孤独を賛美している人ほど,強靭な精神力を持つ作家や思想家の傾向にあり」「老後の途方もない「寂しい孤独」に勝てる人は少ないのだ」という指摘も,そのとおりだろう。
 しかし,難しかろうが何だろうが,孤独を敵に回しては老後は成立しない。孤独は克服すべき敵ではなくて,相和すべき友だちだ。

● と,ぼくはどうしても突き放してしまいたくなる癖がある。いけないところだ。しかし,藤原さんはそこで放りだしたりしない。「だからどうするべきか」を述べている。
 「1つは書くことだ」。「書くことは,一人でいることが多く他人に言葉を発する機会が少ない人ほど必要な,自己との対話になります。孤独は書くことで救われる。私はそう考えています」。
 賛成だ。これは決定打かもしれない。今まで書く習慣がなかった人が,老いてから書くようになれるかという問題はある。しかし,そういう方法があるということは知っておく価値があるし,その程度には自分を変えようと慫慂することは許されると思う。

● “書く”は孤独と相和すための最もいい方法だ。少なくとも,Facebookを始めてネット上の友だちを作ろうなとという試みに比べれば,格段に格調が高い。
 Facebookを始めましたという人には,ある種の軽薄さを感じる(といって,ぼくもやったことがあるんだけどさ)。人がやっているから自分もという,流行の尻馬に乗った感じを与えるからだろう。Facebookの流行はもう過ぎていると思うのだが。

● 「もう1つが,「土台の心」を作り上げる「暮らし」を充実させること」で,つまり「しっかり家事を行うことで生活の基盤を強く」することだ。「暮らしの充実は,心の充足につながる」というわけだ。
 これも至言だと思う。老後問題は男性問題だ。と言っては言いすぎになるが,男性にとってよりハードルが高いのは間違いないだろう。女性は世間という広いフィールドでずっとやってきている。男性は自ら仕事に逃げることを選好してきた。その逃げ場がなくなったわけだから。
 まずは拠って立つ場所である“家内”を耕さなければならない。

● しかし,そういうことができるくらいの人は,そもそも暴走老人にはなっていないかもしれない。結局,老後をどうするかというのを老いてから考えても手遅れだということだ。
 老いを実感できる50代になったあたりから,ポツポツと考えて,それを実践している必要がある。本当に老いてからその実践が役に立つかどうかはわからないが,それでもそうしておく必要がある。

● 基本,年寄りは世の中に対して慎んでいなければいけないはずだ。モノを申してはいけない。今までの経験を活かして社会貢献したいなどというのは,社会にとっては最も迷惑かもしれない。
 年寄りが彼の考えの骨格を作ったのは半世紀以上も前の話だ。それをそれをそのまま平成も終わろうとしている現在に適用するのは,そもそもが無理筋だ。時代が変わっても変わらない原理原則など,ないと思っていた方がよい。
 ゆえに,50代になったらモノを申さない訓練を始めていなければいけない。

● 書くことと家事だな。他人事と思わないで,ぼくも憶えておこう。などと暢気に構えているのは,この2つは何とかクリアできていると思っているからだ。
 この本は年寄りにではなく,中高年の男性に充てられた本なのだろう。ので,ぼくが読んでももう遅すぎるのかもしれないんだけど,これから読んでみようと思う。

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