しかし,だから都市の優位性がなくなったかというと,そうとも言えないところがある。音楽をライヴで聴くということなら,現在でも地方と東京の違いは圧倒的だ。美術館や博物館も同じ。
● 仮にモノと情報に関して都鄙の差がなくなったとしても,人はおそらく都市を造ることをやめないだろう。情報収集や情報処理がネットだけで完結するわけでもない。人と人が会うことの意味や効果は,消滅しない。
それ以前に,人間は集まって住むのが本然的に好きなんだと思う。東京は人口減少の影響を最も受けないらしいし。満員電車のすさまじさを経験すると,そうはいってもものごとには限度ってものがあるだろうと思うのだが,それでも人は都市を造って集住するのだ。
● そのように考えないと,土地などいくらでもあると思える北海道に札幌や旭川があることの説明がつかないし,ましてオーストラリアのようなところにシドニーやメルボルンがあるのはなにゆえかとなる。
それに,集住した方が環境への負荷も少なくできるだろう。集中はメリットが大きい。
● 右の写真はロイヤルパークホテルに置かれていたもの。都立の美術館のパンフレット。写真美術館,東京都美術館,江戸東京博物館,江戸東京たてもの園,庭園美術館,現代美術館が紹介されている。
他に,トーキョーアーツアンドスペース,東京文化会館,東京藝術劇場。演劇や音楽を発信する施設だ。
● 東京には都立以外にも国立や私立の美術館や博物館が集中している。これだけでも,東京に住む意味があるのではないかと思えるほどだ。
政治家や官僚は東京にいるからこそ,政策を立案できるのだろうし,企業は東京に本社があるからこそ経営戦略を考えることができる。地方にもキラリと光る企業はあるに違いないけれども,それとはちょっと次元の違う問題だ。
● 上のパンフレットの表紙は篠原ともえ。こんな大人になっていたんですな。
その篠原ともえのインタビューが巻頭記事になっている。そこからいくつか転載しておく。
私はアート作品を見る時は,楽しむ気持ちと同時にじつはジェラシーがあるんですね。「私だったらこう撮るな」と気持ちが掻き立てられる。そのジェラシーが沸く時って作り手としてすごく刺激を受けている瞬間。(p4)
若い時は自分の感じた感情がそのまま作品になると思っていましたが,やっぱりデザインすることを職業として気持ちを切り替えた時に,自分のアーカイブが作品に反映されると思うようになりました。(p5)
西洋の印象派も見れば,浮世絵や写真展,バレエ,歌舞伎も見ます。多ジャンルに触れることで自分の好みが浮きだってきますし,見ていない世界は表現できない。ですので,見ることは宝物と思っているんです。(p5)● ぼくは音楽は多少聴くけれども,美術館に行くことはまずない。画集を見ることもほとんどない。モナリザの本物を見ても,何も感じないタイプの人間だ。
こういうのって刺激を与え続ければ,何かが変わるんだろうか。たぶん,10代で感応しなかったような人はダメだと思っているんで,特に何かをしようとは思っていないんだけどね。
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