2019年10月31日木曜日

2019.10.31 氏家の「みやこ家」

● 相方にせがまれて,氏家の「みやこ家」。今回は,まぜそば(並盛)とご飯。まぜそばを食べて,残った具をご飯に載せて食べる。このご飯が旨い。
 というわけで,この食べ方はこれまでにも何度かやっているのだ。

● でも,これは今日を限りにやめることにした。歳を考えろってことだ。こういう食べ方を年寄りがしてちゃダメだ。身体が持たない。糖尿一直線だ。
 いや,本当だ。炭水化物の摂取過剰もいいところだ。今日より以後は,「みやこ家」でご飯ものを食べることは考えないことにしよう。麺オンリーにする。

● いやほんとに,今回の収穫は自分の老いを知らされたことだ。かつてはつけ麺の特盛りまで完食したことがあるのだ。さすがに,今は食べてみようとは思わなくなっているので,自分も歳を取ったのだなと思ってはいたのだよ。
 が,今日,このままの食生活を続けていたら,とんでもないことになるかもしれないと腹にズシンと来た。

● しかし,これを善転するきっかけにしないとね。要は,消費カロリーを増やさないといけない。昨年5月から中断している自転車を再開しないとなぁ。要は自転車が事故車になっているわけで,そこから手をつけていかないといけない。
 そんなところまで考えさせてくれる,今日のまぜそばとご飯でありました。

● ところで,まぜそばの麺は平打麺だった。先日の“みやこ家若大将”(つけ麺)の麺は極太でも平打でもなく,もっと細めの麺だったのだが,平打麺は健在だったということ。

2019年10月29日火曜日

2019.10.29 GoogleとiPad

● 書店で買おうかと思った書籍が2つある。ひとつはGoogleサービスの解説書。数年前にサラッと読んだことがあるんだけど,こういうものはアップデートしていかないとね。
 何だかんだいって,パソコンでもスマホでもGoogleへの依存度が最も高い。検索エンジンはGoogleだし,スマホはAndroidなんだから,自動的にGoogle命になる。

● Googleには日々お世話になっている。ありがたいことだ。となれば,Googleが提供しているサービスについて承知しておくことは必要だ。
 現状でともかく使えているものだから,それで良しとなりがちなのだが,もっと楽にもっと便利に使えるものを,知らないがゆえに意識できずに我慢していることが,けっこうあるかもしれない。

● 特に,最近,気になっているのがGoogleカレンダーだ。来春,仕事を完全引退するのを機に,手帳を紙からデジタルに替えようかと思っているからだ。忙しい人は紙の手帳の一択だろうけれども,暇人はデジタルでOKだ。
 時刻目盛りに関係ない覚書を残しておくことができるかどうかを知りたい。ジョルテのような手帳アプリを入れればできるのだろうけども,それをやると広告が表示されてしまう。Googleカレンダーのみでやりたい。
 あと,同一月日を過去3年分とか5年分を並べて表示できるか。そういうことを知りたいわけだ。

● もうひとつはiPadの取説。従来,iPhoneとiPadは同じiOSで動いていた。が,9月にiPad専用のOSが出たらしいのだ。iPad0S13というらしい。
 それによって,iPadの使い勝手が大きく向上し,MacなしでもiPadだけでかなりことができるようになったとの触れこみだ。

● 最近,相方がiPad Pro を買い,間を置かずにiPad mini に乗り換えた。Proはあなたのために買ったのよなんぞと言い始めている。
 俺のために? だったら買う前に俺に言えよ,ってなもんだが,ということなのでiPadがちょっと気になっているのだ。

● でも,正直,iPadにはあまりそそられていない。自分でも2台のChromebookとWin10のタブレットPCを扱いかねているのだ。
 ありていに言うと,使わないのに買ってしまったのだ。なぜそうなるかといえば,自分を過大評価するからだ。それらをバリバリ使って生産性を上げている自分をイメージしちゃうからなんだよなぁ。
 ま,そういうわけだから,iPadを引き受けても,たぶん使いようがないはずだ。

● いまどき,スマホであらかたできちゃうでしょ。スマホを入力マシンとしても使いたいのなら,BTキーボードを用意すればいいだけでしょ。
 モバイル用のノートパソコンやタブレットは要らないということに,ようやっと気がついたよ。

2019.10.29 昭和人間,Suicaの人になる

● 百周遅れ。最寄駅の自動券売機でSuicaカードを買って,Suicaの初利用。
 「青春18」とか「休日おでかけパス」といった,トクトク切符しか使わないから,Suicaなんか要らないと思ってたんだけど,チマチマと短距離を電車で移動してたんでした。

● バスカードは5,000円のを買うと5,700円分乗れたんじゃなかったっけ。Suicaの場合はどうなんだろ。間違いなくあるのは時間節約効果。この節約効果だけでもかなり大きいんでしょうね。しょっちゅう,乗る人はね。
 問題はチャージの残金がいくらなのかわからないこと。ピッとやるときに残額が表示されるんだろうけどね。あんまり見ない人が多いと思うわな。

● 相方は以前からSuicaを使っていて(電車に乗る頻度はぼくよりずっと少ないはずだが),東武鉄道でも東京メトロでも使うことができることを彼女から聞いていた。SuicaはPASMOエリアでも使用することができるってことですね。
 そんなこともSuicaを使ってみることにした大きな理由。本当はスマホのモバイルSuicaにしたかったんだけども,ぼくのスマホはお財布ケータイに対応していないので,それができない。

● キャッシュレスの流れに乗っていきましょうということなんだけど,チャージの手間を省ければもっといい。モバイルSuicaならそれができるわけだが。
 とりあえず,3千円を投入してカードを入手した。2万円までチャージできるらしいので,帰りに限度までチャージしとこうと思った。が,任意の額をチャージすることはできないのね。1万円とか5千円とかチャージできる額が決まっているんだ。何だこれ,と思ったんだけど。

● あと,ぼくの最寄駅から宇都宮駅までは240円なんだけど,Suicaだと242円になるのね。こういう逆転現象も起きるわけだ。
 困るのは,この240円の利用が頻度的には最も多いってことだな。ま,うまく付き合っていこうと思う。

2019年10月28日月曜日

2019.10.28 八千草薫さんが亡くなった

● 八千草薫さんが亡くなったとTwitterで知った。彼女の主演映画やTVドラマをそんなにたくさん見たということはない。 
 記憶する限り,2017年の2月3日に日テレの金曜ロードショーで見た「ツナグ」が直近になる。

● 自分が勝手に抱いている八千草薫のイメージというのは2つあって,ひとつは絶世の美女ということ。この世のものとも思えない整った容姿の美しさ。異論は認めぬと言いたいわけだが,そもそも異論なんて出るわけもない。
 その中でも右の写真は忘れることがない。あまりの美しさに呆然とする。「蝶々夫人」ね。DVD持ってるもんね。

● 入手したのはもうだいぶ前。で,まだ見てない。結局ね,「蝶々夫人」は何度か舞台で見ていてね,ストーリーは知っているし,ここでこういう台詞を言うというのもわかっているわけで。
 じゃあそれを八千草薫はどうやっているのかを確認してみようということになっていない。
 映画だからね。1955年。さすがのぼくもまだ生まれていない。歌はもちろん口パクでしょうね。

● イメージの2つめは,美人なのに敵が少なそうな印象ってこと。実際は知らないけれど,印象はそう。どうしてそういう印象になるかというと,やはり理由は2つあって,ひとつは“整った”容姿の美しさによる。
 美がとんがっていない。全体として整っている。整っているから落ち着いている。無闇に他人を刺激しない。

● あまり自分を主張しない性格のように見受けられたことが,理由の2つめだ。環境に合わせるタイプのように思われた。他人と対立することによって自己を際立たせようとするタイプとは対極にいた人。
 要するに控えめってことなんだけど,とはいうものの,舞台や映画を作る側の人なのだから,しかもその仕事を長くやってきたわけだから,自分の演技論がないはずがない。けれども,自分の演技論に過度に縛られる愚かさからも自由でいた人のように思える。

● 女性の美貌なんて年齢とともに衰え,40歳になると横一線になる。そこからは中身の勝負だなんて書いてある本を読んだ記憶があるんだが,嘘こきやがれ。まったくそんなことはないわいな。美しい人は老いてなお美しいんだわ。
 もっとも,「老いてなお美しい」を維持できたのは,やはり女優を貫いたからでしょ。見られる側に立ち続けたこと。見る側は勝手なこと(しばしば的外れなこと)を言うけれども,それを含めて「見られる」を引き受けたこと。

2019.10.28 学び直し

● 学び直しという言葉がある。その際,放送大学,大学院の学生になるというのは,最も手を出しやすい選択肢だろう。
 が,22歳で就職したとして,30代で学び直す,40代で学び直すのはあるかなと思うのだが,還暦を過ぎての学び直しは基本的にない。

● 第一,学ぶというときに,人の話を聞く,教科書を読む,学校に通うと発想してしまうようでは,いささかいかがなものか。学び=座学,と考えてしまう時点で,やや前時代的かなぁ,と。
 もちろん,座学を楽しいと感じる人が一定割合でいる。そういう人はやったらいい。楽しいんだから。

● が,老いて学ぶのは世間的に評価されることだ,やるべきだという,べき論から入ってしまう人は,度しがたいバカに数えて差し支えない。
 還暦過ぎの爺や婆に金持ちはいるかもしれないが,時間持ちは一人もいないはずだ。まもなく死ぬのだ。我慢して何かをする時間などないはずだ。
 楽しいと思うこと以外はやってはいけないと律することが必要なのでは。座学に向かうのは誰でもできるが,ここを律するのはかなり難しい。難しい方に挑戦するべきではないか。

● むしろ,今まで学んできたことを外に出すことに意を用いた方がいいと思う。自分は何も学んで来なかったと言いたくなるだろうが,そんなことはない。意識していなくても相当なものが貯まっている。
 それを何らかの形で外に出した方がいい。論文とかエッセイとかいう堅苦しい言語表現ではなくとも,表現の方法はあるだろう。

● 世間や社会に受け入れてもらえそうな一般経験,他者と共有できる範囲が大きい経験,は外に出すに及ばないかもしれない。そうではなくて,これは自分の胸に収めておきたいと思うようなものを棚卸しすると面白いのではないか。
 そのまま出しては差し障りがあるだろうから,そこを巧く料理してサラッと差しだす。その方が放送大学や社会人大学で“学ぶ”よりもよほど高級だと思う。

● あるいは,自分(だけ)の好みを徹底して追求してみること。世間や他人からの評価はどうでもいい。つまらない,取るに足りない,と思われるようなことでいいのだ。それでいいというより,その方が望ましいのだ。
 それを追求していって,その結果をアウトプットする。そっち側に行くべきではないか。還暦を過ぎてまで,自分の外に評価基準を求めているようでは情けないと喝破すべきだ。

2019年10月27日日曜日

2019.10.27 東京ステーションホテルに初めて宿泊

● 東武電車で押上から半蔵門線に入り,大手町で下車。大手町を通過して着いたところが東京駅。東京ステーションホテルに初めて泊まるのだ。楽しみだ。
 丸の内北口の近くに専用エントランスがあるんだけども,ここを通過するには部屋のカードキーが必要。最初は南にある入口から。

● 相方が先に着いていて,チェックインをすませていた。何しろ,彼女が契約当事者なのだ。ぼくは彼女の言うがままに動く,ほとんどロボットだ。
 部屋は3016号室(3階)。天井が高いっす。丸の内北口の様子が窓から見える。

● 宿泊費は朝食付きで58,000円。わが家史上,最高料金。
 いわゆるエグゼクティブラウンジはない。したがって,ラウンジを使わない料金であっても,わが家史上最高ということ。

● 部屋の特徴は天井が高いこと。天井が高いからシャンデリアが映える。
 シャンデリアが吊り下げられている部屋に泊まったことは過去にもあるけれども,そのシャンデリアが邪魔に思えたり,威圧感しか感じないことが多い。要するに,シャンデリアなどない方がいいのではないかと思うわけだ。今回はそれがない。
 外国人スタッフを見かけない。掃除スタッフは日本人のおばちゃん。しかも,品のいい人が多い。日本人スタッフしかいないんだろうか。まだよくわからんが。
 相方によると,部屋をチェックして掃除をやり直したくなることが全くなかった初めてのホテル,ということになる。それだけでかなり得点が高くなるらしい。

● 東京駅の2階と3階が客室。北口から南口まで,延々と廊下が続く。ただただ長い。外から見た感じでは,2階はさらに天井が高いのではないか。
 松本清張が好んだのは2階のホームが見える部屋だったらしいが,現在は駅のホームが見える部屋はなくなったようだ。

● ホテルのB1階にスパとフイットネスジムがある。3階から直通するエレベーターはない。1階まで行って別のエレベーターに乗換。悪くいえば不便だが,良くいえば雅びだ。
 1階のラウンジやレストランとB1階のスパは誰でも利用できる。客室階との間をブロックしているわけだ。

スパの入口
● 1階とB1階にあるカフェとレストランの数はけっこうなもので,そっか,セレブはこういうところを使っていたのかと思った。
 東京のガイドブックを子細に見れば,たぶん掲載されているんだろうけど,知る人ぞ知るの印象がある。むしろ,それ以外の人たちに邪魔されないように隠しているのではないかと思える。
 ところで,スパ。ここは東京駅なんだよな。東京駅の地下にこんな施設があったのかと,不思議な気分になった。海の底に来たかと思えるほどに照明を絞っている。ヒーリング効果がいや増すように思われるが,実際のところはどうなんだろ。

● 大丸でローストビーフと缶ハイボールを買ってきた。夜は丸の内北口の人の行き来を眺めながらハイボールを飲む。が,意外につまらないんだな,これが。
 土曜の丸の内北口は行き来自体があまりないのと,ざわめきが一切聞こえてこないからだ。ホームが見えれば感興がまるで違うんだろうけど,それは望めなくなっている。

● 夜,東京駅の周りを歩いてみる。この時間帯,宇都宮の大通りは真っ暗で歩いてる人なんていないんだけどね,さすがに世界の東京はそんなことにはならんのですなぁ。
 シャングリラがあったので,次はこちらにするかというと,東京ステーションホテルの倍以上するらしい。話にならん。

● 一夜明けて(よく眠れた),ホテルの朝食。場所は4階の“アトリウム”。屋根裏空間に位置するらしい。
 全部を確認したわけじゃないけれど,これほど品数の多いビュッフェスタイルの朝食は初めてだ(相方によると,品川のマリオットがここより多かったというのだが)。朝からお造りまであるのだ。どうすれば朝食開始時刻までにこれだけのものを用意することができるのか。
 別料金になるが,朝から日本酒を飲むこともできる。肴も充分だ。JALのラウンジを思いだしたが,たぶん,トータルクオリティはこちらが(圧倒的に)上かと思う。カレーはないけどね。

● すでに食事中のお客さんを見て,なんだ普通の人じゃんと思ったんだけど,どうも普通の人じゃないようなのだ。
 まず,ガッツかない。もし,今まで泊まったホテルのラウンジの朝食にお造りがあったら,あっという間になくなりそうな気がする。ここではそういう現象が起きない。
 皆さん,鷹揚で品がいい。金持ち喧嘩せずとはこういうことか。

● 和食をメインにしたのだけど,注目は赤だし味噌のキノコ汁。味噌のほかに醤油を加えていたかもしれない。長芋のトロロもあった。ご飯が進んで困る。
 お粥にシラスをどっさり載せて,削りたての花鰹を載せて醤油をかけてガーッと食べた。困るのだ。炭水化物を際限なく食べてしまうのだ。
 トラフグの焼売なんてのもあったので,ひとつ食べてみた。メロンのほかにスイカもあったんだけど,どこから手に入れてくるのかね。

● ホテルの廊下に飾ってあったポスター。朝鮮半島の京釜線,満州鉄道から,シベリア鉄道に入って,パリまでの2週間に及ぶ旅。旅というか冒険でもあったのかもしれない。
 ごく一部とも言えないほどのわずかなお金持ちしか縁のなかった旅行ではあったろうけど,こういうことができたんですな。

● 腹ごなしにまた東京駅の回りを一周してみることにした。まずは,朝の東京駅前広場。平和,のんびり,憂いがない,日本中の幸福をここに集めた,といった感じ。台風19号や昨日の千葉,福島の豪雨の惨禍はかけらも届いていない(残っていない)。
 ベートーヴェンの第9交響曲第3楽章をWALKMANで聴きながらここに座っていると,ぼくもまたこの空気に溶けこんでいきそうだ。そのとき,この空気ではなく,WALKMANというブツに感謝したくなったのは,われながら不思議というものだ。

● 八重洲口に回ると,丸の内口のたゆたうような少し眠くなるような空気は消滅する。ベートーヴェンでいえば5番の第2楽章が似合いそうな。
 が,こちらには八重洲ブックセンターがあるし(丸の内には丸善があるんだが),京橋も近い。シャングリラもフォシーズンズもこちら側にある。

● 丸の内側に戻ってくる。南口のさらに南側ははとバスエリア。ここはここで幸せ感に溢れている。はとバスには20年前に一度乗っただけなのだが,愉快な仲間と一緒で楽しかったな。
 快を提供する企業として,はとバスは吉本興業を凌いでナンバーワンの位置にいるかもしれぬ。もっとも,東京あってのはとバスであるわけだが。

● さらに腹ごなし。海の底にあるようなスパで“サウナ+水風呂”を4セット。37度の風呂で整えて終了。
 奥様はずっと部屋で過ごした。お姫様になったみたい,と。58,000円で姫気分が買えるなら,安いかもなぁ。どうせお金は墓場には持って行けないんだから。生きてるうちに使ってこそ,初めてお金になるっていうかさ。
 すでに次の予約を入れてるらしい(年末)。ドームサイドにこだわる必要はなし。ビューはどうでもいい。

● 今まで泊まったホテルの中で最もコンサバというか,カジュアルじゃないというか,人手が多いというか,つまり高級だ。それは感じた。
 その高級さ,決して冷たいものではないんだけれども,迂闊に手を出すとピシャッと叩かれそうな,何となく畏れ多いもののように思われた。

● 正直,弾かれてる感じがある。ここはおまえのような者が来るところじゃないと,ホテルから言われているような。
 もちろん,こちらが勝手に幻影を作っているのだ。それはわかっているのだけれども,ここで浮くことなく違和感を覚えることなく動き回れるようになるには,少々の時間を要するかもしれない。
 わが家の東京の定宿は,ロイヤルパーク→ウェスティン→インターコンチネンタル東京ベイ→シェラトン都→ロイヤルパークと変遷してきてるんだが,こういう気分になったのは初めてだ。帝国ホテルはどんな感じなんだろうね。

2019年10月26日土曜日

2019.10.26 「筑紫樓」のフカヒレラーメン

● 東京駅地下街の「筑紫樓」で食事。奥様はここのフカヒレラーメンを食べてみたかったと言う。息子が小さかった頃,この店の前を通った。息子がフカヒレラーメンを食べたがったらしい。
 そのときは,我慢させたらしいのだ。ホテルに着けば美味しいものを食べられるんだから我慢しなさい,と。

● 息子がフカヒレラーメンを食べたがることはもうないのだが,以来,気になっている店のようなのだ。
 で,今日,その思い残しを消すことにしたということ。

● この店ではフカヒレラーメンを頂上ラーメンと呼んでいるらしい。その頂上ラーメンのセットを注文。ラーメンに半ライス,海老マヨと杏仁豆腐が付く。
 相方が塩で,ぼくが醤油。塩が2,000円で醤油が1,900円。セットもののラーメンは小ぶりになるのだが,300円追加すると普通盛りになる。当然のごとく,300円追加。

● ビールも追加してもらった。600円もするので1杯でやめておいた。が,パリパリカリカリの海老マヨで飲むビールはけっこうなもんでやんした。
 半ライスが付くのは,残ったフカヒレスープをご飯にかけて食べるためだろうと思われた。これが一番旨かったっす。

● 貧乏性の自分が2,000円もする食事を普段するわけがない。っていうか,できるわけもない。
 駅の地下街にあるような飲食店は基本,大衆的なものになるのだと思う。「筑紫樓」も大衆店であるのかもしれないのだが,大衆の意味合いがぼくの地元と東京ではだいぶ違ってくるんだろうか。

2019.10.26 東武で行く東京までの旅

● 今回も東武の南宇都宮駅から東京に向かう。わが家からJRの宇都宮駅に出て,バスで文化会館。そこで野暮用をすませて,南宇都宮駅まで歩くというパターン。
 文化会館から南宇都宮駅までの最短経路がやっとわかった。

● その南宇都宮駅。駅舎はこんなだけど,構内のトイレは清潔だよ。最近,改修したんだと思うんだよね。
 浅草までは20円高くなって,1,220円。んでも,東武は安い。安いから乗る。栃木,南栗橋で乗り換えることになるんだけどさ,安さは正義だから。それに接続がいいから,乗換えはあまり気にならないんだな。

● 南栗橋で乗り換えてしまえば,東武線→メトロ半蔵門線→東急田園都市線と串刺しにして走るので,助かるんだよね,これが。
 水天宮前のロイヤルパークホテルによく泊まるようになってから,東武線の便利さを実感するようになった。半蔵門線は錦糸町→日本橋→大手町→渋谷とつなぐので,都心の移動にはかなり便利。
 でもって,東武線は墨田線だからね。旧花街とか,少し歩くけれども山谷とか,そういった社会の裏面史の舞台を歩いてみたくなったときは,東武線が頼りになる。

● 栃木駅。東武の特急,Revaty。行先は同じだけど,ぼくが乗る列車ではない。ぼくが乗るのはこれなのね。はい,チープトレイン。
 東武の特急には一度しか乗ったことがない。浅草から新鹿沼まで。これだって,特急以外の電車の切符売場が見つからなかったからという理由だ。

● 栃木で乗り換えると,東武日光線では唯一の群馬県にある駅,板倉東洋大前に着く。じつは東洋大前とはいいながら,ここに東洋大学のキャンパスなんてないんじゃないかと思ってたんですよ。
 駅のほんとの周辺しか見ていなかったからで,少し歩くと生命科学部と食環境科学部のキャンパスがあるんでした。

● 関東平野を坦々と走るので,車窓を眺めていても特に面白いことはない。JR線でも同じだけど。
 面白くなるのは,春日部から先,都市部に入ってからかなぁ。西新井駅のホームにラーメンの立ち食いスタンドがあるのを発見。そんなのが面白いのかと言われると,ちょっと困るんだけどさ。
 東武日光線最大の駅は北千住でしょ。先日,ここで下車する機会があったんだけど,駅の周辺ではなくて構内を隈なく探索するために,もう一度下車してみたいかな。

● 押上から半蔵門線に入る。大手町まで運賃は200円。大手町をすり抜けて東京駅まで歩くつもり。

2019年10月19日土曜日

2019.10.19 東京散歩 大手町

● 東京の中でも自分には最も似合わないと思われる大手町に来たのだ。なぜ似合わないかといえば,この街は日本企業の中枢が集中しているところというイメージがあるからだ。
 こんなところで働いたら絶対に鬱になる。鬱になる自信がある。

● ところが,ここで働きたい,地方に出るのはイヤだという人もいるらしい。特にOLさんにそういう人が多いらしい。
 というのは,もう今は昔のことになっているんだろうか。今でもそうなんだろうか。
 おそらくだけど,今は一層そうなのではないか。東京の地方に対する相対的な魅力は,昔より今の方が高まっているだろうから。

● ぼくは東京が好きだ。今のところは東京以外のところで泊まってみたいとは思っていない。札幌,福岡,仙台,金沢,大阪など魅力的な街はいくつもあるけれど,東京に比べたらわざわざ交通費を払ってまで行きたいとはぼくは思っていない。
 けれども,それはたまにしか来ないからそう思うのだということもわかっている(つもり)。たまに来るから東京は面白い。当事者じゃないから。

● 東京に住む,東京で働く,ということになったら,さて東京を好きでいられるかどうか,まったく自信はない。逃げだすかもしれない。
 大手町を歩くとそう思うのだ。けれど,一方でここじゃなきゃヤダという人もいる。人間は多様だと思う。いや,正直に言うと,ここじゃなきゃヤダという人の強さが羨ましい。

● 東京駅丸の内口の前。東京の中心部。台風でいえば目にあたる。台風と一緒で,このエリアは無風だ。都会の雑踏はない(朝と晩にはあるんだろうけど)。
 都会のオアシスといった風情だよね。ぼくは新橋のSL広場の方が心休まるけどさ。

● 厳密にいえば東京の中心部は千代田のお城であって,そこはいつも無風だ。そのお城はいたって開放的だ。
 雑踏に疲れたとき,ここに来れば,立ち直れるだろう。30分か1時間はまた雑踏に立ち向かえるだろう。

2019年10月18日金曜日

2019.10.18 最近,マメ。氏家の「みやこ家」

● 奥様と氏家の「みやこ家」へ。ここのところマメ。ぼくらだけじゃなくて,はっきりお客さんが戻って来たという印象。以前の活気が復活しつつある。
 理由もはっきりしていて,値下げしたからだ。つけ麺で約100円の値下げ。お客さんは正直なのだ。ゲンキンとも言うが。

● 今日も待ち人多し。けっこう待たされた。人手不足でお客が去ったあとの片づけに手間取っていたのもあるかもしれないが,お客が戻ってきているのだ。
 さくら清修高校の生徒たちもいた。部活帰りなのだと思うが,高校生が来ているのは長らく見た記憶がない。これも値下げ効果ではないか。

● 相方が「みやこ家」に傾倒するようになったキッカケは,本人によると,喉が痛かったときに濃厚つけ麺の熱い極太麺が喉を焼いてくれて楽になったことだという。
 そんなことがあるのかと思うが,彼女は今日も喉が痛かったようだ。「みやこ家」のつけ麺でガツンと喉にショックを与えたいということだった。

● というわけで,相方は石焼き濃厚つけ麺。ぼくはあっさりつけ麺。濃厚とあっさり,どちらが旨いかといえば,たぶん濃厚の方だ。濃厚を注文する人が多いはずだ。
 が,あっさりにはあっさりの主張があってね。ぼくは最近,こちらを注文することが多い。

2019年10月15日火曜日

2019.10.15 台風19号

● かなりの傷跡を残した。死者は90名に迫る。東日本大震災とは比較にならないが,これだけの死者を出す台風はめったにない。

● 被害の大半は雨によるものだ。風ではない。堤防の決壊,住宅への浸水,土砂災害。
 こうなってくると,これだけ大型で強い台風だったのだからしょうがないね,ではすまなくなる。実際,すませるべきではない。

● 群馬の八ッ場ダムが脚光を浴びている。民主党政権の凍結を跳ね返して,完成したばかりの八ッ場ダムが台風の豪雨を受けとめて,一晩で満水になった。それによって救われた命がどれほどあったろうか,と。
 まったく民主党政権があと1年長く続いていたら,どうなっていたろうか。脱ダムを進めた(進めようとした)民主党や田中康夫(元長野県知事)は責められることになる。

● 二子玉川も被害を受けた。堤防がない箇所があったらしいのだ。住民が景観が悪くなるからとか,堤防から家が覗かれるからという理由で,治水事業に反対していたらしい。
 こちらはしょうがないねという話にしかならない。身から出たサビというやつだ。
 というわけで,大衆のバカさ加減が表に引きずり出された部分もある。

● ところが,ここでも民主党の蓮舫さんが,ここに堤防を造ろうなんて本気でお考えですか,と見得を切っている映像がネットに流れている。先見の明がない政治家の代表というイメージを極限まで高めてしまっている。
 さっさと復興予算を決めて,衆議院を解散したらどうか。旧民主党のバカをまとめて葬れるのじゃないかね。いや,それでも蓮舫さんは当選しちゃうでしょうね。選挙民がバカなんだな。

● かつて脱ダムを進めた人,それを支持した人の心性には何があるんだろう。民主党の「コンクリートから人へ」というスローガンをもっともだと思ってしまった人たちの心性。
 情緒で判断する,事実を見ない,勉強しない,そういうところは当然として,“母なる大地”観というか,自然を信頼するというか,自然にしたがっておけば自然は悪いようにはしないという,根拠のない善自然観(?)の持ち主が多かったのかも。

● 地球史をひもとけば,地球上のすべての生物が絶滅するという天変地異が複数回起こっているという。自然はけっして優しい存在ではない。
 人間はコンクリートに守られないと生きていけない。これからもそうだ。人間が造るコンクリート製の建造物は,自然が造ったものに比べると圧倒的に寿命が短いのだから,次々に造り替えていかなければならない。

● 自衛隊の存在感はますます大きくなった。対して,東京消防庁の失態。
 自衛隊の隊員がプライドを保ちやすくなるのはいいことだ。危険な場所で不眠不休でやっても,手当はそんなに出ないのじゃないかと思う。たとえば,超過勤務手当が全額出ているかと言えば,おそらくそうじゃないだろう。そもそも自衛隊に超過勤務という概念があるのかどうかも,ぼくは知らない。
 彼らには金銭よりも名誉をもって報いるべきかもしれない。そういう職業なのだと思ったりもする。

● 山を背負わないとか,川の近くに住まないとか,考えてできることもあるが,どんなことをしたって100%大丈夫ということはない。台風だけじゃない。地震もあるんだし。
 ないけれども,伝統的な住まい方がベストではないことは知っておくべきだと思う。日本の原風景などと言われる里山の光景は現実世界にも存在するものだが,まずはいつまでも田舎に住んでいてはいけない。限界集落がどんどんできて,人の住まないエリアがもっとたくさんできるべきだと,ぼくは本気で思っている。
 風水なんてのもそうで,それにしたがうと危険なこともあるのではないか。戯れもほどほどにすべきだ。

2019年10月14日月曜日

2019.10.14 “みやこ家若大将”を食す

● 昼時に氏家の「みやこ家」へ。何を食べようかとメニューを見ていたら,新メニューが出ていた。“みやこ家若大将”という。
 どんなものなのか。まずは食べてみなければ始まらない。ので,それを注文。ロートルが“若大将”を注文してどうするんだという話。

● つけ汁の背脂と麺に載っているニンニクが特徴。麺は極太麺ではなく,かといって中太麺(平打麺)でもなく,もっと細い。平打麺からこの麺に変わったんだろうか。
 モヤシ,キャベツ,ニンジンもどっさり付いてくる。モヤシが多いわけだが,たしかにこれは“若大将”向けなのかな。

● 今まで「みやこ家」で食べてきたものをモノサシというか絶対善にして,新しいのを判断しちゃうから,新メニューというのは,新メニューであるというそのことによってハンディを負わされている。
 それを前提に言うのだが,これより旨いのが「みやこ家」にはあると思った。いや,“若大将”も旨いのだ。旨いのだが・・・・・・。

● 「みやこ家」は客足を落としてきた。が,今日はかなり店内に活気があった。まぁ昼飯時だったからね,少し待たされるくらいにはお客さんがいて不思議はないっちゃないんだが。
 それでも,お客が戻ってきている気配を感じる。あくまで気配を感じるというにとどまるんだけど。

● 理由があるとすれば,値下げだ。消費税が10%になる今月から税率以上に本体の値段を下げた。
 やっぱりお客さんってね,金なんかいくらでええよという人はいなくてさ,品物と値段の見合いで,安いか高いかを決める。
 「みやこ家」ほどにオリジナルがあるつけ麺を出していても,その例外にはならない。なるほど,時代はデフレなのだなと思う。

● デフレなのに値段を上げるのは,かなり勇気が必要な決定だろう。その勇気をふるってきた企業のひとつに東京ディズニーリゾートがあるけれども,そのTDRにしてもこれ以上の値上げはおそらくできない。TDRといえども消費者のデフレマインドから自由でいられるわけがないからだ。
 入場料を上げて入場者が減ってしまったら,物販や飲食,宿泊のすべてに響いてくるのだ。むしろ,入場料は引き下げる方向に動くのではないかと思っているのだが。

2019年10月9日水曜日

2019.10.09 日本はこのままダメになってしまう? そうじゃないでしょ

● 夕方,田中泰延さんの次のようなTweetに接した。
「みんな揃って決まりを守れ」「人に後ろ指さされるな」「いい子にしてたら褒めてもらえる」日本人が大切にしていること。これ、よく読むと奴隷のルール。なぜ日本が先進国からこぼれ落ちていっているか。「人は人、俺は俺」「決まりは自分が作る」という人種の奴隷になりつつあるからである。
● ここで論点は2つある。ひとつは奴隷のルール。もうひとつは,日本が先進国からこぼれ落ちているということ。
 昔は強調できることが日本(人)の強みだと言われていた。よく言われるように,これは千古不易の日本人の美徳ではなく,工場生産に最適化する人材を作るために,主には戦後に流布した人工的な徳目に過ぎない。
 かつて,円高や貿易摩擦に対応するために,工場はどんどん海外に移転した。しかも,モノは効率的にどんどん生産できるようになり,人手が要らなくなり,雇用面でも生産比率においても,サービス業のはるか後塵を拝するようになった。

● サービス業といっても,代行業はネットでできるようになったので,基本的に要らない。金融も同じ。振込,支払がネットできるようになったのだし,株や債権もネットで売買できるようになったのだから,銀行や証券会社の窓口に行く必要はない。たまにATMで現金を補給するくらいの話だろう。
 接客も相当な水準にあるのでない限り,必要とされない。接待がないというのがサービスになる業種もある。その典型が回転寿司だ。あれは,安くて旨いのほかに,店員と口をきかなくてもすむからというのが,客を集める理由になっているはずだ。

● だから,これからのサービス業は,アイディアを出す類の仕事になる。その典型例をひとつ挙げてみろと言われれば,たとえば無印良品だ。あれは頭を使わないと出てこない製品群だ。
 無印は自分たちが考えた製品を他社に委託生産してもらっているが,この頭を使うサービス業というのは,じつは製造業の研究開発部門,企画部門でより求められるものかと思う。

● ともかく,もはや工場労働者の時代ではない。どの分野でも現状を変えられる人が求められる。現状を維持するだけの仕事ならAIやロボットがやるようになるだろう。いや,もうそうなっているのだが,ぼくらの常識は時代より遅れて生成する。
 だが,さすがに時代は大きく変わっていたことを受け入れざるを得なくなった。もはや,協調性は美徳ではない。協調性しかない人には,生きづらい時代だ。

● 人を傷つけることを過度に怖れる心優しい人もダメだろう。何らの波紋も起こさないような発言に,発言の意味はない。現状を変える,前に進む,というのは,必ず誰かを傷つける。現状が変わることで,職を失う人もいるはずなのだから。
 だからといって,それを怖れて言うべきことを言えないのではどうにもならない。

● そういうことだから,協調性第1主義は奴隷のルールというのは心から賛同する。
 ぼくも自身の認知に長いタイムラグを作ってしまった。奴隷ルールでやってきてしまった。大切な何かを捨てて捨てて捨て続けてきた感がある。
 修正を要する。かといって,奴隷のルールしか知らないんだよなぁ。誰かの奴隷にはならないと自分に言い聞かせることから始めるしかないだろう。
 奴隷にならないとは,しかし,勝手気ままにやっていいということではない。自由を回復するということだ。その自由を自分で律する必要がある。勝手気ままでは誰にも相手にされなくなるだけだ。

● 日本が先進国からこぼれ落ちているというのも,いろんな人が言うようになっている。その認識がどこから来ているのかというと,第1に日本はIT化に遅れたように見えることではないか。キャッシュレスが進まないのが,その筆頭だ。なぜそう見えるか。主にはここ10年ほどの中国の変化と比較するからだ。
 それから給料が上がらない。春闘の賃上げもわずかだ。民主党政権下では下がっていたのではなかったか。
 生産性も先進国中最下位と言われる。イタリアよりも生産性が低いのだ。どうなっているのか(って,理由はひとつしかない。やらなくてもいいことを大量にやっているからだ。したがって,生産性を向上させるのに業務を効率化するという発想ではダメだ。やらなくてもいいことを効率的にやっていたのではどうにもならない。やらなくてもいいことはまるごとやめるのが唯一の解だ)。

● 経済成長率も同じだ。先進国中,最も低い。最近は韓国が迷走して,あらぬ方向に向かっているが,その渦中でも,日本よりは韓国の方が成長率は高いのだ。
 物価が安い国になったことがあるかもしれない。とにかく,香港やハワイに行ってみると,自分の給料ではとてもここでは暮らせないと実感することになる。外国の物価はとんでもなく高くなっていた。給料もあがっているはずだ。なるほど日本人は貧乏になったのだなと思う。

● 吉野家の牛丼が380円で食べられるのが奇跡のように思えてくる。アメリカだったら,これで1,500円以下はあり得ないのではないか。
 これでは,日本に来る外国人観光客は増えるはずだ。逆に日本人はあまり海外には出なくなるだろう。海外ではお金が文字どおり飛んでいくわけだから。

● しかし,これは日本が貧乏になったということなのか。いいモノが安く手に入る素晴らしい国になったのではないか。日本人の実質可処分所得はかなり多いとも考えられる。
 まずいヌードルが1,000円もするアメリカでは,日本の倍の収入があったとしても,あまり嬉しくない。アメリカで稼いで日本で使うのなら最高だが,普通のアメリカ人がそんなことをするわけにもいくまい。

● 現在の日本が抱える天井に頭をぶつけている感,閉塞感は,経営が拙いからだ。ピラミッドの中位以下は減っているのに上が減らない。漕ぎ手は減っているのに船頭は全然減らない。そのうち,船頭が漕ぎ手を上回るのではないかと思うほどだ。
 しかも,船頭があっちだこっちだと勝手なことを言う。言わなければ自分の存在価値がないと思っているのだろう。もともとないのだから,黙っていてくれるとありがたい。

● しかし,この状態がいつまでも続くわけではない。少子高齢社会はずっと続くが,これほど上が詰まっている状況がいつまでも続いたら,それこそ日本は終わってしまう。
 終わってしまうんだから,ここはメカニカルに矯正される。それがどういうところに出ているかというと,たとえばTwitterでインフルエンサーと呼ばれている人たち,堀江貴文閥に属する人たち,田端信太郎さんとか箕輪厚介さんとか西野亮廣さんとか,従来はありえなかったような人たちが各界で陸続と誕生していることだ。
 その人たちの影響力を軽く考えない方がいい。そのあとに若い人たち,女性が続けば,日本はまだまだ行ける。ぼくは日本の将来についてはわりと楽観的だ。

● だいたい,世界の政治家,一国のリーダーの中で,安倍総理ほどの人物はそうはいないように見える。韓国は論外としても,英国のメイさんやジョンソンさんはどうか。
 バブル崩壊後の失われた20年は,じつはデフレ対応に必要な20年だったのではないか。対応した結果が今の日本だ。

● 欧米はまだデフレに対応しきれていないのだ。そうすることを迫られていない。それは政治や経済の宜しきを得たからではなく,日本に比べて遅れているからだ。
 Amazon,Apple,Facebook,Googleは日本からは出なかった。でもね,諸行は無常だからね。失われた20年はむしろ日本の強みというべきで,これから態勢を逆転できる余地はいくらでもあると思う。
 治安の良さは保たれているし,文化の堆積も揺るがない。逆転に必要なインフラは毀損されていない。

● いやいや,日本がどうなるかじゃなくて,自分はどうするかなんだよね。考えるべきは,国のことじゃなくて自分のことだ。
 自分の居場所を日本という国に限定する理由は少なくなっている。自分の居場所は世界。若い人はそのくらいに思っていた方がいいと思う。

● でもって,そのためには日本的奴隷根性は克服しなきゃいけないものだろう。協調できるのは今でも日本人の武器だと思う。が,協調しかできないのではダメだってことだよね。なぜって,それじゃ世界を居場所にすることはできないから。
 ではそういうお前はどうするのかと言われると。もうサラリーマンはやめるんだ。隠居するっていうかさ。奴隷のルールから少しは自由になれると思うんだよね。自分の努力によってではなくて,環境の変化によって。

2019年10月8日火曜日

2019.10.08 林葉直子さん

● ネットで林葉直子さんに関するエッセイを読んだ。書き手は大崎善生さん。

● 父親が彼女の稼ぎを全部使ってしまっていたことは,この記事で初めて知った。
 余命1年を宣告されてからすでに5年生きている。肝臓の数値も良くなっているらしい。禁酒と薬物療法による。
 ケラケラと笑うのは,今も変わらない。

● 休場騒動から彼女が“没落”するのはかなり早かったような記憶があるのだが,休場のときは大崎さんが間に入って,ちゃんと事前に休場届を出したようだ。
 決定的なのは中原誠永世名人との不倫をマスコミに告白したこと。それをすれば将棋界に居場所がなくなることはわかっていたはずだから,すでに将棋などどうでもいいと思っていたんだろうか。
 そのあとは,ヘアヌードの写真を出して,酒浸りになって。

● いろんなものを背負っちゃったようにも思えるし,10代であまりにも有名になってしまったために(アイドル的な売れ方をしてしまった),商業主義の大人たちにいいように使い捨てられたようにも見える。
 どう生きても一局の人生ではあるのだが,振幅の大きすぎる人生はしんどいだろう。実際にやってみればそうでもないんだろうか。

● ぼくなんかは典型的な安定志向だったから,彼女のような破滅型の人生はやれと言われても絶対にできない。ぼくに限るまい。彼女のような人生は送りたくても送れないのが普通の人としたものだろう。
 誰であっても他人の人生に口を出す資格などないわけだが,才能と美貌があっても人生は難しい。

● あの休場のときにもう少しゆったりとできていれば。なぜあそこまで性急に思いつめる必要があったのか。ということは,少し思ってみたりする。
 彼女の唯一の後悔は,もっと将棋を一所懸命やっていれば,ということらしい。

2019年10月6日日曜日

2019.10.06 小山散歩

● 小山に来た。何度となく来ているけれど,用事があるところに行って,終わったらすぐ帰るというふうだったので,線や面として小山を知っているかというと,まるでサッパリ。
 駅ビルに進駸堂があった頃は,ここで時間調整をしたりしてたんだけど,進駸堂がなくなってからは駅ビルにも行かなくなった。

● 久しぶりに行ってみたら,駅ビルからROBLEに行けるようになってた。ROBLEのTSUTAYAが面白くて,ここだけで半日は過ごせそうだ。
 文具売場を丹念に見て歩いて,書籍や雑誌を見て,CDやDVDを物色するとなると,半日でも足りないかもしれない。

● 活気もある。宇都宮より小山が面白いかもしれない。土日2日使って,駅周辺を探索してみる価値があるかもな。
 東口には白鷗大学がある。白鷗大学の学食は学外者にも開放されている。若い学生さんに混じって定食(安いんだろう)を食べるのも楽しいんじゃないか。となると,土日じゃなくて平日に来ないとか。

● 近くにイトーヨーカドーもあるので,このあたりのアパートを借りて住めば,すこぶる便利。新幹線も停まるわけだから,東京に出るにも絶好のロケーションだ。
 まずもって文句のない立地。小山ならどこでもいいというわけではなく,駅の周辺に限られるが。

● 今住んでいる持ち家を売り払って小山に引っ越せれば,とけっこう本気で考えた。夫婦2人で住むには,今の家は広すぎる。何でこんな家を建ててしまったのか。
 まぁ,時代背景もあるので,あんまり自分を責めてもしょうがないのだが,快適に住まうには適度な狭さが絶対に必要だ。掃除の手間だけ考えても,広さは忌避すべきであるのは明らかだ。

● かつ,家を所有しないこと。わが家はぼくら夫婦亡きあとは廃屋になる運命だ。それでは近隣の人たちに迷惑をかける。可能であれば生前に処分しておきたいのだが。
 家を持つことは大荷物を抱えることだ。持ち家は資産ではなく負債として捉えるべきだ。持ち家でいいのは,都内の一等地に限られる。

● そのうえで,最寄駅から徒歩圏内であること。コンビニとスーパーが近くにあること。つまり,都市部に住むことがこれからは必須だ。田舎に引っ込んで晴耕雨読の暮らしをするなんてのは,ほとんど地獄だろう。そんなものは昭和の終焉とともに消え去るべきだった。
 インターネットによって都鄙の情報格差はなくなったとはいっても,人は情報だけで生きるにあらず。物流もAmazonで買えないものはないくらいになっているのは確かだけれども,人は物流だけで生きるにあらず。

● 車がなくても暮らせるところでなければならない。歩いて行ける距離に病院もあった方がいいのだ。
 わが家では風呂は灯油で沸かしているのだけども,歳をとって車の運転も覚束なくなったら,どうやって灯油を買ってくればいいのかと今から心配している。配達してくれるところは激減しているだろう。高齢化がさらに進めば,そういったサービスが復活するのかもしれないけれど。
 君子の交わりは水のごとし,を実践するにも都市の方が都合がいい。

● 人工的に作られた住宅団地やニュータウンもダメだ。ああいうところは一世代過ぎるとゴーストタウンになる。少子化が顕現する態様の代表的なものだろう。住宅地としての寿命が極めて短い。そんなところに住むべきじゃない。人の流れがあるところじゃないと。
 小山駅周辺はこれらの条件をすべて満たす。あとは財布との相談だ。それが問題なわけだが。

● もうひとつ。現代では県域なんて何の意味もないなと思った。いや,昔からそうだったのだろうけどさ。
 小山市民の過半は宇都宮なんかどうでもいいと思っているのじゃないか。関心は南に向いているだろう。それだけ東京の牽引力が強いということなのだが,小山市在住の東京都民が多いのじゃないかなぁ。
 これは足利においてより顕著だと思う。宇都宮ってどこにあるの? ってなもんじゃなかろうか。早い話,作新と桐生が甲子園で対戦することになったら,足利市民は桐生を応援するよね。それが自然ってもんでしょ。

● “オールとちぎ”という言葉を聞くことがあるんだけども,それって宇都宮中心主義というか,宇都宮をセンターに置く考え方で,もう維持できないものだよね。
 ぼく一個は維持する必要もないと思っている。成立しないものを成立させようとしても,いいことなど何もない。県域はもっとバラけた方がよい。県対抗の発想からもそろそろ抜け出さないとね,ぼくら。

2019.10.06 読書について

● 右の本は昨日,宇都宮の八重洲ブックセンターと喜久屋書店で購入したもの。
 長谷川慶太郎さん亡き後,何を道標にしたらいいだろうかという問題がある。お釈迦様の仰る自灯明だけで行くには,ぼくの頭は粗雑に過ぎる。
 長谷川さんと同じように統計を渉猟し,キーマンを含む人的情報も駆使して,具体の問題に具体をもって答える踏込みの良さを備えた人。

● となると,渡邉哲也さんかな,と。渡邉さんはTwitterでも相当な情報を出しているし,「教えて! 渡邉さん」でまとまった情報を発信しているから,それで足りてしまうかもしれないのだが,考え方の体系的なところまで知ろうとすると,書籍に勝るものはたぶんない。
 統計を読み込んで何らかの仮説を引きだす作業は,自分でやるから楽しいんじゃないかと言われるかもしれないが,その道のプロに任せて,上澄みを戴くのが,ぼくの流儀。
 その方が効率的だし,自分でやるより圧倒的に間違いが少ない。その代価として1,500円なんてのは,笑っちゃうほど安いと思う。

● それって渡邉さんを執事にしてるのと同じだ。辛気くさいデータ処理を,自分よりはるかに優れた技能の持主がやってくれて,美味しいところを摘出して差出してくれるわけだから。
 1,500円で有能極まる執事を雇っているわけだよ。読書ってそういうもん。お得過ぎる。執事の選定さえ間違えなければ。

● 本は買って読むか、借りて読むか。かつては,ぼくは前者だった。図書館で借りて読むのは,知に対して吝嗇だと思っていた。軽蔑に値するくらいに考えていた。
 書庫を造って数千冊は収納できるようにした。いくら買っても大丈夫。これは,本は保存するということを前提にしてもいる。蔵書という言葉に憧れていたっていうかね。渡部昇一さんや井上ひさしさんに憧れたっていうか。

● が,東日本大震災であっけなく考えが変わった。わが家もけっこうな被害があって,靴を履いたままじゃないと家に入れない状況になったのだが,このとき,本に限らず,モノは持たないに越したことはないと強く思った。
 タンスも食器棚もすべて倒れて,相方はタンスの位置がもう少し違っていたら,下敷きになって負傷したかもしれないという目に遭った。

● 本など借りて読めばいいのだ,と宗旨を替えた。読み終えた本をとっておくというのもやめた。書棚から崩れ落ちた本のかなりの部分をゴミステーションに捨てた。
 図書館から借りて読むということを始めてみると,なかなか都合がいいことに気がついた。返却期限があるから,それまでに読むようになる。積ん読が大量にあったのだけども,借りたものは全部ではないにしても読んでから返すようになる。
 返すのだから,読んだあとにブツが残らない。これがとてもいい。捨てる手間がいらない。
 図書館をそっくり自分の書庫だと考えればいいのだ。しかも,専門のスタッフが管理してくれているのだ。自宅に本を溜めこむよりよっぽどいい。

● もうひとつ。ぼくが読むような本に稀覯本はない。図書館に入らないことなどあまりないのだった。だったら借りるのが正解。
 とは言っても,買うこともある。すぐに読みたい新刊書もあるからだ。稀にだが図書館に入らない本もある。リクエストもできることは知っているが,そんなことをするくらいだったら買った方が早い。
 この場合も“読んだら捨てる”が鉄則。例外は作らない。ぼくは地元の図書館の放出棚にこっそり置いてくることにしている。持ち帰ってくれる人がいなければ回収するしかないが,今のところ,そうしなければならなくなったことはない。

2019年10月5日土曜日

2019.10.05 栃木市までの旅

● ヤボ用あって,南宇都宮駅にいる。今日はこれから栃木に向かう。運賃は420円。
 JRで行くと宇都宮から680円かかる。不便でも安い方を選んじゃう。

● サッとJRで行けるようになったときが,ぼくが富裕層の仲間入りをしたときだ。富裕層とは何かといえば,どこかに移動するときに最短ルートを躊躇なく選べるだけのお金を持っていることだ。最短ルートって,時間的に最短という意味ね。
 富裕層か否かを分ける基準はそれかよ,と言われそうだけど,これってモノサシになりません?

● たとえば,東京に行くときに新幹線を使うなんて,ぼくは考えたこともない。在来線に決まっている。上野東京ラインができて便利になったこともあるけど,それ以前から在来線しか使ったことがない。新幹線で行くのは,ごく稀な例外だ。
 特急料金なんか気にしないでサッと新幹線に乗れるようになったら,ぼくは富裕層の仲間入りをしたことになるんですよ。宇都宮から東京まで新幹線だけで行けるだけで富裕層かよ,と言われますかね。

● まぁ,新幹線って乗っててもつまらないし,電車の中というのは貴重な読書タイムでもあるので,あんまり早く着いてもらっては困るという事情もある。
 しかし,それが新幹線に乗らない第一の理由だとは,自分でも思っていないわけでね。

● 途中,東武電車に乗ってきて,すぐにバッグから文庫本を出して読み始めたお嬢さんがいた。20歳くらいの。
 他の人はスマホをいじっているか居眠りをしているかだから,それだけですごく目立つ。恰好いい。魅力的に見える。
 どんな人なんだろうと知りたくなる。少々失礼になるかと思うほど,チラ見してしまった。
 ちなみに,ぼくは今日はずっとWALKMANで音楽を聴いている。ずっと。

● 宇都宮を過ぎ,壬生を過ぎ,野州大塚なんぞという駅を過ぎ,めでたく栃木に着いた。栃木は遠いところだ。
 JR宇都宮線が走っているところは近い。だから,小山は近い。のだけど,そこから外れる栃木は心理的にけっこう遠いところ。
 最近,東武電車に乗る機会が多くなった。ひとえに半蔵門線の水天宮前にあるホテルに泊まる機会が多くなったことによる。東武線が半蔵門線に乗り入れているので。
 ので,栃木で東武日光線から宇都宮線に乗り換えることになるわけだ。けども,栃木で降りるというのはありえない選択。通過するだけ。心理的な遠さというのは解消されないで残っているのだ。

● ところで,何しに栃木に来たのかといえば,栃木文化会館で催行される演奏会を聴くためだ。栃木駅から文化会館までは近いというべきなのか,少しあるねというべきなのか,微妙なところだ。
 そのどちらにしても,歩くしかないので歩いて行った。栃木の街はたしかに古都の趣があるように感じる。足利には負けるけれど,この街を歩くのはけっこう気持ちがいいのだ。
 っていうか,ぼくは車で栃木市内を移動すると必ず迷う。最後は現在地がわからなくなる。ナビは必須といえるだろう。栃木は歩くのがよい。

● 文化会館には何度か行ったことがある。NTTのところを右に曲がって,裁判所を過ぎればすぐだ。で,ぞうさなく到着した。
 ところが。目当ての演奏会が今日じゃなくて明日だった。会場に着いてから勘違いに気づいた。虚しかった。
 何もしないで帰ってくる身のアホらしさ。誰のせいでもないのがせめてもの救い。

● さて,せっかく来たのだから,栃木で遊んでいくか。といって,何をすればいい? まだ昼なのだ。明るいうちから酒を飲むわけにもいくまいし,昼から飲ませる店が栃木にあるのか。
 巴波川に行ってみるか。ふーむ。これという案が浮かんでこない。ガックリ来た気分の切り替えもなかなかできない。

● で,どうしたかといえば,東武電車で宇都宮に舞い戻ったのでした。お粗末を極めた栃木市までの小さな旅。

2019.10.05 日本海側の食文化に対しては,劣等感しか感じない

● 右の写真はJR駅に置いてある観光パンフ。「日本海美食旅」とあるが,新潟の食はこんなに凄いぞという内容。
 いやいや,わかってますよ。新潟にしろ秋田にしろ,奥が深いんでしょ。秋田は一度か二度,奥深さのほんの入口のところを味わったことがある。
 が,新潟は通過したことはあるんだけど,街に降り立ったことはない。

● 日本海側の食というか食文化に対しては,劣等感しか感じない。海を抱えているのだから食材からして違いすぎるのだ。
 しかも,年季の入り方が違う。北前船で賑わっていた。明治維新時の人口は新潟が江戸より多かったらしい。大勢の人の舌で鍛えられてきたはずだ。端倪すべからざるものがあるに違いないのだ。

● ところで,ぼくの祖先はその明治維新のときに,新潟からやってきたらしいのだ。食い詰めたのか。ぼくの実家のあるあたりは,新潟に限らず,富山など北陸からの移住者が多いんですわ。
 ちなみに申すと,御本家というのがあって,ありていにいうとすっかり落ちぶれているのだが,今でも墓を直すときなんかは御本家の許可が必要なのだと,母が言っているのを聞いたことがある。どんだけ田舎なんだよっていう話だけどさ。

● じつは,日本列島の中では大昔からダイナミックな人口移動が続いてきたのではないか。何せぼくらは,あり得べからざるグレート・ジャーニーを敢行した祖先を持つホモサピエンスなのだから。
 おそらく,日本全国のたいていのところでは,ずっとそこに住み続けている家系なんてひとつもないのじゃないか。そっくり入れ替わっているような気がする。

● とにかく日本海側の食文化は羨望の的だってことね。まずは魚。したがって鮨。
 何かひとつ突出した食を持っているところが,それひとつで終わるわけがない。一点突破全面展開ということがあるだろう。
 新潟は米どころでもあるのだ。日本酒でも頂点に位置する。ほぼ天下無敵のはずだよね。

2019年10月4日金曜日

2019.10.04 また,氏家の「みやこ家」

● 今週も氏家「みやこ家」。海老つけ麺が始まっていた。秋冬限定のメニュー。
 相方はその海老つけ麺を大盛りで。ぼくは濃厚つけ麺の並盛りを。相方が残すに決まっている麺を引き受けなければならないわけで。
 が,今日はそんなに麺を残さなかった(ような気がしたっす)。旨かったんでしょ,海老つけ麺。

● 「みやこ家」は基本,つけ麺の店だから,つけ麺を食べることになるんだけども,ラーメンもある。つけ麺に比べると麺の量が少ないので,それだけではもの足りない。
 で,セットメニューというものがある。ミニチャーハンセットとか,ミニチャーシュー丼セットとか,餃子ライスセットとか,賄いめしセットとか。
 次は,煮干しラーメンにまだ食べたことのないミニチャーシュー丼セットを付けてみるか。

● 消費税10%に合わせて価格を下げている。税込みで計算すると変わらないのか。それ以上に下げたようにも思えるんだが,まぁ,税込み価格の上昇を避けたということでしょう。
 昭和時代のオイルショックのときに流行った便乗値上げという言葉が,今でも使われることがある。そういうことが全くないとまでは言うつもりもないけれど,税のアップ分を最終価格に転嫁できるお店や業界はそうそうないと思うわね。

● デフレのこの時代,売り手にとって,値上げは怖いものだろう。オッカナビックリのはずだ。本体価格を下げることによって,税率上昇分を吸収するところは多いだろう。
 そういうのと無縁なのは公共料金くらいのものではないか。

2019.10.04 老後の話相手はスマホ

● 10年後,20年後(生きていれば)は,たぶん,SiriやGoogleアシスタントが徒然を埋めるための話相手になってくれそうな気がする。
 この分野の進歩,変化はとんでもなく速いから(というか,凄いから)2,3年でかなり状況に違いが出ているのではなかろうか。

● 生身の人間の話相手がいなくなっても,スマホと話ができるかもしれないと考えると,それだけで愉快だ。
 スマホと楽しく話をするためには,スマホにこちらのことをよく知っておいてもらわないといけない。自分の趣味,自分の好み,どんなことをしてきたか,何を大事にして今まで生きてきたか。そういうことをスマホが全部知っていて,そのうえで話題を選んでくれたり,応答を決めてくれれば,人生の最終盤を退屈しないで過ごせるのではないか。

● だから,スマホを良き話相手に育てるためにも,自分をそっくりネットに移すというくらいの勢いで,ブログでもSNSでもやった方がいいと思う。
 世界に向けて自分を発信するといった大仰なことではなく,ネットを利用して知らない人とコミュニケーションを図るといったことでもなく,スマホを良き話相手に育てるために,自分の老後のために,SNSやブログを始めてみてはどうか。そうしてずっと継続すること。
 自分をネットに移せばそれでいい。他人様の評価は二の次三の次だ。っていうか,そんなものはどうでもよい。

● 夢物語だろうか。しかし,夢物語というなら,インターネットも個人がコンピュータを持つことも,いや日本語をキーボード入力することすらも,かつては夢物語だった。
 いやいや,夢にもならなかった。想像すらできないことだったから。
 それに比べれば,スマホが話相手になるというのは,だいぶ現実的なものに映る。いや,マジで,老後の話相手を育てるために,SNSやブログを“質よりも量”感覚でやっていこうと思っている。

● SNSやブログで公開するわけにはいかないことも,ネットにあげることは可能だ。たとえば,すべてのメモやノートは Google Keep に書いておく。手帳はGoogleカレンダーを使う。G-Mailをデータの貯蔵庫として使う。
 自分の端末のSiriやGoogleアシスタントは,それをも瞬時に渉猟・分析して,話者としての性能を高めてくれるだろう。
 ま,手書きも楽しみたいので,そこまでするつもりはないけれども,ちょっと以上にワクワクするんだよね。SiriやGoogleアシスタントがどう変わっていくのかを考えるとね。

2019.10.04 飲むなら横丁の居酒屋

● 右の写真は最近出たムック本。昭和の空気を吸って大きくなった者としては,こういうところにたしかにノスタルジーを感じる。
 たぶんに虚構というか,実体験に基づくよりはメディアによって洗脳されたノスタルジーであるとは思うんだけどさ。

● であっても,飲むならこういうところで飲むのがいい。出版社もそういう人たちをあてこんでこのムックを作ったのだろう。
 正真正銘の昔のままではお客は来ないから,トイレなど変えるべきところは変えているはずだ。

● 東京に限らず,たいていのところには,ノンベ横丁とか親不孝通りと呼ばれる通りがあるに違いない。その多くは寂れているだろうけども,かつては酔っ払いたちがたくさんあるいていた。
 そうした通りの生存率が高いのも東京で,そういうところも東京の底力というか,大都市の魅力というかなぁ。

● ざっくり言ってしまうと,横丁とは飲み屋街のことだ。飲み屋街とは,屋台に毛が生えた程度の赤提灯の店や蕎麦屋やスナックが軒を連ねているところだ。
 で,そういうところにノスタルジーを感じるほどの人ならば,レストランでワイングラスを持って気取るとか,こ洒落たパブで談論風発に及ぶなんてことを毛嫌いするはずだ。居酒屋の方が居心地がいいと感じるはずだ。

● しかし,こういうところの唯一の難点は,常連さんが幅を利かせすぎているところだ。一見客は身の処し方をどうすればいいのか途方に暮れることになる。
 しかし,この常連性も昔よりはだいぶ薄くなっているように思う。個人の生活空間が広がっているからで,最近では常連になることを避けようとする人もいるかもしれない。
 常連性は定住性とセットになる。定住性というのが都市部においては弱まっているというか,店の入れ替えも激しくなっているというか。

● ま,ぼくとしては女性と飲むときでも,居酒屋で飲みたい。そんなとこじゃイヤという女性だったら,一緒に飲んでもらわなくてもいいと思っちゃう。
 ゆえに『東京カレンダー』は腐脳男が読む雑誌だと云々。

● もし,女性を誘って東京で飲むとしたらどこに行くか。まずは新橋。浜松町の界隈もいい。北千住,曳舟,人形町もありか。浅草の中心部は避けて,吾妻橋や本所がいいだろうか。
 早稲田や神田はどうなのだろう。早稲田はぼくにはほぼ未知のエリアだ。今の学生街には学生の存在感があまりないとも聞く。
 銀座とか赤坂はあり得ない。ま,お金の問題もあるんだけどね。

● しかし,田舎の在に住むぼくが東京で飲むことはまぁないと考えていいだろう。もっと,地に足をつけて,宇都宮で飲むとしたらどこがいいかなという話になる。
 東武駅の近く,オリオン通り,江野町,JR駅の近辺,駅東,県庁の近く・・・・・・結局,横丁にもこだわらないってことになる。

● ま,飲むなら居酒屋。サッと飲んでパッと切り上げるのもいいし,ダラダラと飲み続けるのもいい。スタイルを作らないで,気分次第で変幻自在というのがあらまほしい。
 そういう飲み方ができるかというと,それには酒に強くなければいけない。ぼくはもうダメだ。