2020年3月18日水曜日

2020.03.18 “毎日が日曜日”になることへの覚悟が決まらなくて,ウダウダと考えている

● 働ける間は働いた方がいいという意見があって,これがなかなか説得力を持つ。そう考えている人は多いのじゃなかろうか。ぼくもそう思っていた時期があった。
 働くということは単に仕事をするというだけではない。生活が規則正しくなる。毎日,他人に囲まれることになる。これが耐え難い苦痛をもたらす元凶にもなるんだけども,単調に墜ちることを防いでくれる防波堤にもなる。

● 特に若者と接することができるのなら,社会から遊離することも防いでくれるかもしれない。ネットでは得られない類いの情報に接することができる
 そういうものには間違いなく価値がある。その価値を重く見るなら,70歳まででも働けるなら働けばいい。

● 一方で,働ける間は働いた方がいいと考えがちなのは,経済問題を別にすれば,環境の激変を避けたいと身構えるゆえであるかもしれない。
 自由に使える時間で日々が埋まるとなると,自分の人生観,自分は生涯で何をどうしたいのかという根本的なところを考えることを余儀なくされる。定年後あるいは再就職後,いつその幕を引くかは,そこのところにかかってくる。それを無視しては成り立たない。
 特にやりたいことなどないというのであれば,働ける間は働こうとなる。何もしないでボーッとしているのは,働いているよりも消耗するかもしれない。

● もっとも,今どきは,文字どおりにボーッとしていることは難しくなった。インターネットのせいだ。勝手に情報が入ってきてしまって,ボーッとさせてくれないようになっている。
 が,それもボーッとしている範疇でしょうけどね。働くよりも消耗するのはその場合も同じでしょ。

● しかし。やりたいことがないからとりあえず働こうというのも,何か違う気がする。自分が感じる楽しさが働くことの中にあるならいいけれども,そんなことはまずない。今まで働いてきたのだから,そんなことは百も承知,二百も合点のはずだ。
 働くことの中にはない,自分にとっての楽しさを追求してもいいんじゃなかろうか。ぼくらは年金には間に合った世代だ。厚生年金を受給できるのなら,世間ではいろいろ言われているけれども,とりあえず老夫婦が暮らせるだけの費用は賄えるだろう。東京で借家に住んでいるのでもない限り。

● 問題は自分にはやりたいことがあるのだろうかってことだ。自分は何に楽しさを感じるだろうかと突き詰めることだ。
 自分はどうも人づきあいを望んではいないようだ。それがいいか悪いかを評価してはいけない。いいも悪いもない。自分はあまりコミュニケーションの場にいたくないタイプなのだ。それをそのまま受容しないといけない。この歳になってなお,苦手を克服しようなどとするのは,滑稽の極みというべきだ。

● 1人遊びは得意な方だ。人づきあいを避けたいというのは,子供の頃からそうなのだから,勢い,1人でいる時間が長くなる。いやでも1人で時間を埋める方策は身につく。
 読む,聴く,見る,の受動態の趣味は作れている。受動態だからと舐めてはいけない。たとえば,定年になるまで読書をしたことのない人が,暇になったから本でも読むかとなったところで,読めるわけがないのだ。本を読むための体力がないからだ。その体力を定年後に付けようとしても無理だろう。
 老後を持て余さないだけの受動態の趣味をどうにか作ってこれた。これは自分の強みだと秘かに思っている。

● が,働くことを拒否して,すべての時間をそこに注ぎこみたいとまで思っているわけではない。なぜというに,若い頃から職場に体重を預けることはしてこなかったからだ。仕事が自分の最大の関心事であったことはない。といって,では何が関心事だったのかとなると,そんなものはなかったような気がするのだけど。
 受動態の趣味を,やれる範囲でずっとやってきた。その範囲を狭めようとする要因に対しては,基本的に戦う姿勢だったと思う。職業人としては落第であろうが,働き方改革なんぞという言葉を聞くと,時代が自分に追いついてきたと思ったりもする。

● というわけで,これまでもけっこうやってきたのだ。だから,その時間をさらに増やしたいとはじつはあまり思っていないのだ。
 思ってはいないのだけれども,もう人の中にいるのはいいかなぁ,と。苦を遠ざけて楽に没入したいかな,と。だってさ,この世の中にある仕事のかなりの部分はなくてもいいもの,ひょっとするとない方がいいもの,のような気もしていてさ。
 ま,その真偽はさておいて,自分中心の世界,自分しかいない世界に移行しても許される年齢になったよね,と思いたいっていうかね。

● アンチエイジングにはムダが多い。そういうことには興味がない。そこは自然体でいるのがいいと思っている。のだが,精神は若々しくありたい。若々しさの基になるのは好奇心だろう。その好奇心を涵養することは大切だと思っている。
 自律的に,内発的に,それができるかどうか。自信はない。出口治明さんが言う,本・人・旅の3本柱の中で,今日以後の自分がどうにかこうにか維持できるものは本くらいのものか。
 それだけでも維持できればたいしたものだと思うが,好奇心を刺激するに,人と旅を欠いては致命的かもしれない。

● しかし,旅といっても大きな旅でなくてもいいような気はする。「角の煙草屋までの旅」とは言わないまでも,小さな移動も旅に含めていいのではないか。というか,そう考えた方が自分にとって都合がいいので,そう考えておくことにしたい。
 人もそうで,友人は多くなくてもいい。完全に1人というのはどうかと思うが,極端な話,配偶者以外に1人か2人と,年に1回か2回話す程度でもいいとしておこう。
 本(とインターネット)を味方につけるという前提で,旅と人についてはその程度に考えておいてもいいのではないか。わずかな人とのお喋りと小さな移動で,好奇心を刺激し続けることはできると思いたい。

● であるからして,4月以降,誰かとツルんだり,群れたりする可能性はない。もともと,放っておくと群れから離れるタイプなのだし。
 したがって,たとえば老人大学校やシルバー大学校と称される高齢者のサークルに入るなどということは,まずもってあり得ない。群れないと大きなことはできないのかもしれないが,そんな大きなことをやりたいともやれるとも思わない。

● 誰かと一緒じゃないと動けない,何をしたらいいのかわからないというのでは,その歳になるまで何をしてきたのかということになる。歳を取ったからといって賢くはなっていないのが普通だろうが,それでもリスクを覚悟して,1人で見切り発車ができるようになっていることは,年寄りの必須徳目のひとつだろう(ちなみに,必須徳目にはもうひとつある。若い人たちがやることにダメだしをしないということだ)。
 いや,それは取って付けた理屈だ。結局,コミュニケーションにあまり興味がないというわけで,これは持って生まれた性格だ。それがつまり,完全引退を自分に選ばせた究極の理由だ。ぼくは人と一緒よりも,1人でいることが好きなのだ。

● 堂々巡りをしているのだが,働き続けることと,働くのをやめて毎日を日曜日にするのと,どちらが自分に向いているか。本当はどちらを自分は望んでいるのか。
 正直,自分でも判然としないので困るのだが,おそらく後者であろうかという程度のことなのだ。かくなるうえは,せめてKKO(キモくて金のないオッサン)と呼ばれないように,精進しなくてはならぬ。

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