2019年3月31日日曜日

2019.03.31 川崎散歩

● 川崎には何度も行っているが,いつもミューザにしか行かない。あとはLoFt川崎か駅ビル「アトレ」に入っている書店で文具を見るくらいだ。
 東口つまり川崎の旧市街(?)に出たことはない。が,今回初めて,そっち方面を歩いてみた。

● 川崎というと,どうしても持ってしまいがちなイメージがある。歓楽,風俗,ダフ屋といった言葉に代表されるイメージだ。
 で,歩き始めると,そのイメージはあながち間違いではなかったのかもと思えるシーンが展開する。ホームレスにも出くわすし,安そうな飲食店が続くエリアもある。新宿と池袋を足して2で割って,3倍に薄めた感じ?

● 都市はカオスを抱えていなければいけない。カオスのみでは困るが,カオスを抱えていて欲しい。
 若者がタムロしていなければならないし,失業者も都市の景観の重要な構成者だ。不本意極まる人生を自分は生きているという人が多くいるに違いないのだが,それも都市には不可欠のエレメントだ。無責任な第三者的見方にすぎないわけだが。
 赤坂や白金台のような高級エリアはそのカオスがまったく足りないから,歩いていてもあまり面白くない。対して,川崎の街のたたずまいは,ぼくには好ましいものとして映った。

● 市役所前の通りをズンズン行くと,稲毛神社がある。さほど大層なお社ではないのだが,ここでも桜が満開で,穏やかな空気が流れている。
 市役所の先には裁判所や検察庁があり,その先には大きな体育館や音楽ホールがあり,なんと道路を挟んだ対面には競輪場がある。おぉぉ,川崎だぁ。
 待て待て。競輪も芸術ではないか。いや,芸術ではないかもしれないが,エンタメという並びでは同じものではないか。音楽ホールの対面に競輪場があるのは,別に不自然でもないのかも。

● 雨が降って来ちゃったよ。ビルの軒下で雨宿り。
 雨の中を行き交う人たちを見るのも,雨に濡れるビル群も,それなりに風情はある。自然の絶景だけが見ものというわけではないのだ。

● と思いながら駅に戻ってきた。構内にあった八王子ラーメンのスタンド「直久」がなくなって,「いろり庵きらく」になっていた。
 これでいいのか,ここのラーメン,けっこう旨かったんだけどね。

● ぼくは,横浜よりも川崎に圧倒的に居心地の良さを覚える。上野東京ラインができて川崎が近くなったのは,ぼくには相当な福音。
 上野東京ラインって,開通前は自分には関係ないと思っていたけども,とんでもなかった。川崎に乗換なしで行けるようになったのと,新橋に停まるのは,ほとんど神の如し。

● 南武線は川崎を縦断する路線なのだが,ローカル線の趣が濃い。川崎は南北よりも東西の動きが大きいのだろう。多摩川の向こうは東京,西隣が横浜。市としての求心力,完結力が川崎の街にあるとは正直思えない。川崎都民が多いはずだ。
 が,それで何か困ることがあるのかといえば,たぶん,なさそうだ。そういう発想をしてしまうのは,現行の自治制度を前提にしてしまうからだ。

2019.03.31 久しぶりにシェラトン都に宿泊 2

● 朝,ロビーに行ってみると,ホテルは眠らないことが実感としてわかる。自分にホテルスタッフが務まるかといえば,自信がない。

● ホテル内の「四川」で朝食。ここでもロイヤルパークと比べてしまう。ロイヤルパークのラウンジの朝食(和食)は,品数は少ないものの,いいものが並んでいる。こちらは品数は圧倒的に多い。
 どちらがいいかという話だ。いくら品数が多くても全部を食べるわけじゃない。とはいえ,品数が多いことのアドバンテージもある。
 「四川」の場合は,ハラールコーナーに
あるひよこ豆のカレー。これが旨いんである。自分以外に食べてる人がいなかったのは不思議である。次はこのカレーだけをたらふく喰ってやろうかと思った。












● 食後は庭園を散歩した。チリひとつ落ちてない。わが別荘は,すべてにおいて完璧である。
 散歩の後はサウナ。優雅なものだ。前後に休憩室で週刊
誌を見るのが楽しい。寝そべって週刊誌を見る。
 2時間近くいたのに,サウナに入っている時間は15分に満たない。サウナの不思議。











● そうこうしているうちに正午になった。ラウンジに行ってしまう。帰る前のお茶と洒落こみたいのだが,この時間帯には肉まんや焼きそばがあるので,食事になってしまうのだ。もちろん,ありがたいことなのだが。
 シェラトン都,久しぶりだったけど,いいホテルだと思った。まとめておこう。
 1 部屋の掃除に抜かりが(あまり)ない。
 2 ロビーでくつろげる。
 3 館内の空気が柔らかい
 4 東洋系外国人の生態を観察できる。

2019年3月30日土曜日

2019.03.30 久しぶりにシェラトン都に宿泊

● 地下鉄で白金台に。久しぶりになるのだが,東京の別荘すなわちシェラトン都に泊まることにしている。
 最近はもっぱらロイヤルパークに軸足が移っていて,シェラトン都は別荘ではなくなってきてるんだけど,目黒通りの光景もホテル内の景観も,すっかり馴染んでいる。懐かしいという感じがしないほどに,既視感に取りこまれているんでした。

● ホテルの敷地入口にある桜も満開だ。こういう季節になった。桜をあと何回見れるだろうかと本気になって思うほど年をとっているわけではない。とタカを括っているのだが,さてあと何回見れるかね。
 桜が咲き誇っている様は理屈抜きにいいものだと思うが,桜の下で酒を飲むという嗜好はぼくにはなくて,花見というのはもう何十年もやったことがない。

● 相方はすでに到着していた。ぼくもLINEは使っているが,そのLINEで友だちになっている唯一の人物が相方だ。電話は嫌いでめったに使うことはないのだが,プライベートでは相方にしかかけない。それもLINEの無料通話ですむ。ぼくのコミュニケーションはLINEに支えられている。
 で,ここでもLINEでやりとりをしたわけだけど,2階のラウンジにいるというので,ラウンジで合流した。

● けっこう長くいるらしい。なぜかというと,部屋がまだ用意できていないらしいのだ。そのまま,カクテルタイムに突入した。
 部屋の用意ができていなか
ったのは,ホテル側の落度ではなくて,予約時に相方が付けた注文が通っていなかったので,ホテル側が修正を申し出た結果。12階を希望していたのに11階の部屋が用意されていたらしい。
 でもって,予めホテルが用意した部屋の方が良かったようだ。つまらぬ注文は付けぬが吉,ということ。11階か12階かなんてのは,どうでもいいんだからね。

● その部屋,1254号室。スイート。この部屋には何度か泊まっているから,やはり既視感がある。帰ってきたという感じがする。
 文句なしに快適だ。これなら長期にわたって住むこともできる。それができるだけのお金が自分にあればなぁと思わぬでもない。

● スイートになぜ泊まれるかというと,安かったから。5万円で少しお釣りが来る。かなり前に相方が予約をしていた。1週間前には10数万円になっていたらしい。それを知ってウシシと喜ぶのも,育ちの悪さを表すもの。
 今夜はロイヤルパークの普通の部屋でも5万円では泊まれないらしい。ぼくらにとっては安さが正義。で,安いプランを見つけるために労力を惜しまないのが相方の流儀というわけなのだ。

● 桜は満開なのだが,今日は肌寒い。ホテルの庭園を少し歩いてみたが,小雨がパラついてきた。

● 今回はChromebookを抱えてきた。宿泊を伴う外出の際に持ちだすために買ったんだけど,2,3度持ち歩いただけで,使わなくなった。
 理由はスマホで足りるから。スマホに折りたたみ式のBTキーボードがあれば,パソコンを持ち歩く必要はないという結論に至った。最近では,BTキーボードも要らないとなって,スマホ単体ですんでしまっている。Twitterにメモ代わりのtweetをするだけなのでね。スマホ単体で実際には足りちゃう。
 持ち歩かなくなったもうひとつの理由は,スマホをつないだときに,スマホで撮った写真のサムネイル表示に時間がかかりすぎることだ。スマホはAndroid。AndroidとChromebookは相性がいいはずだと思うんだけども,ここは何とかならないのかと思うところだ。

● なのに,今回,Chromebookを持ってきたのは,夜も部屋から出ずにAmazonプライムビデオを見ようと思ったからだ。
 せっかく東京にいるんだから家でやっているのと同じことをしてもつまらないと長らく思っていたんだけど,同じことを場所を変えてやるのも楽しいものだと思うようになった。
 けど,結論からいうと,Amazonプライムビデオを見ることはなかった。ホテルからは一歩も出ないで過ごしたけれども,プライムビデオは見なかったよ,と。つまり,無駄になったってことですね。

● シェラトン都とロイヤルパークを比べた場合,ロイヤルパークが明らかに勝っているところが,少なくとも1つはある。ラウンジに幼児が来ることを事実上認めていないところだ。
 今回も小さな子供を連れてラウンジに来ている夫婦がいた。外国人にも同様な例はあるのだが,どういうわけか外国の子供は静かだ。日本人の子供は騒ぐ。理由はわからないが,どうもそういう傾向がある。
 これはやはりイヤなものだ。静謐を破るからだ。

● もっとも,静謐を破るのは子連れに限らない。隣に東洋系外国人の夫婦(たぶん)がいた。夫の方がスマホでキンコンカンコンと音を立てていた。
 うるさい,このボケッ,静かにしろ,と怒鳴りつけてやろうかと思ったのだが,ちょっと強そうなヤツだったので思いとどまった。

● ラウンジの価値は静謐にある。静かにしてるんだったら,パソコンを持ちこもうが居眠りをしようが,何をしたっていいと思う。
 が,静謐を破る行為はすべて悪だ。大声での駄弁りもダメだ。これができないヤツもけっこういる。
 カクテルタイムにはアルコールが入るわけだが,大声になってしまうほどに飲んではダメだろう。居酒屋じゃないんだから。

● が,ラウンジの使用料は宿泊料に上乗せされているものの,居酒屋より安いかもしれない。ゆえに(と,つないでいいのかわからないが)大衆が集まってしまうのだ(おまえが言うな)。ひょっとすると,日本には大衆しかいないのではないかと思うほどだ。
 シェラトンクラスのホテルだからそうなのだろうか。超の付く高級ホテルになると,また違うんだろうか。

● いったん引きあげて,部屋の風呂に小1時間。喉がかわいたので,寝る前にまたラウンジに言ったんだけど,今度は高齢のカップルが目立っていた。男は70代。後期高齢者になっているかもしれない。女の方は50代後半か。どういう関係なのか。会社の役員と秘書? 夫婦でないことは明らかだが,愛人というふうでもない。
 ホテルのラウンジにいるのだから,今夜は泊まるのだろう。不倫だろうと何だろうと,そんなのはかまわない。自己責任で好きにすればいい。ひょっとすると,妻に先立たれているのかもしれないし。

● しかし。うるさいんだ,おまえら。完全に2人の世界に入ってしまって,周囲があることを忘れている。
 居酒屋ならそれでもいいのだ。居酒屋はそういうものだと思って,お客も店に来るし,店側でもそれを前提に構えを設えている。最近は半個室が流行りだ。
 が,ホテルのラウンジでこれはダメだろ。いい年こいて何をしているんだ? バカなのか,おまえら。部屋で騒げ,部屋で。

● でもね,70代になっても50代の女性に付き合ってもらえるとはなぁ。彼女は立場的に付き合わざるを得ないのかもしれないけれども,それにしたって羨ましい話だ。頑張れ,ジジィ。
 ま,こういう光景を見れるのも,ホテルに泊まる余録の1つなんだよね。仕事でいつもこれを見なくちゃいけないとなると,余録じゃなくなるだろうけどさ。

2019.03.30 錦糸町散歩

● 錦糸町には何度も来ている。駅前のカプセルホテルに泊まって,錦糸町から東武スカイツリー駅まで歩いたこともあるけれど,基本,駅の近辺しか知らない。
 その近辺も当然ながら隈なく知っているわけではない。目下,それで困らない。錦糸町で用があるところは限られている。

● とはいっても,できれば点を線にして線を面にできれば,それにこしたことはない。今回,そのように動いたわけでもないんだけど。
 ここでも区界を頭に入れるのが難しい。錦糸町は墨田区だけれども,お隣の亀戸は江東区だ。錦糸町駅の南口を出て少し歩くと,やはり江東区だ。区界なんてどうでもいいとも思うんですけどね(たぶん,昔の人が便宜的に決めたんだろうから)。

● 墨田区っていうのは,都内で最も美人比率が高い区だと思っているんですよ。江東区とは一衣帯水の関係だと思うんだけど,墨田区の方が美人が多い。
 もちろん,向島芸者云々という故事来歴とは関係ないと思う。東京で代々同じ場所に住んでるってこと自体,あまりないと思うしね。というわけで,どうしてかわからないんだけども,墨田区は美人比率が高いように思える。

● 錦糸町に出るときにもずっとJRを使っていた。が,数ヶ月前に久喜で東武電車(半蔵門線直通)に乗り換えると楽に行けることを発見(?)した。JRよりいくらか安くなるうえに,乗換が1回ですむ。
 JRだと上野,秋葉原で乗り換えるか,東京駅で総武線の地下ホームに降りていく鬱陶しさを我慢しなければならない。久喜で乗り換えてしまった方がずっと安直だ(栗橋で乗り換えてもいいんだけど,これだと乗換えが1回増える)。

● 錦糸公園にさくら祭りの看板が出ていた。写真には撮ったけれども,中に入っていくことはしなかった。そのときは中に入るなど思いもしなかったんだけども,今思うとそこが自分のダメなところかなぁ。
 野次馬精神の不足。野次馬精神とは好奇心の別名ではないか。好奇心とは読んで字のごとく,奇を好む心だ。自分にとっての奇を排除してしまっては,世界が縮まるばかりだ。
 というか,排除するまでも行かない。奇を感じないわけだから。野次馬になるよう自分を駆りたてることは,ひょっとすると自分にとっては最大の課題かもしれない。

● 錦糸町駅前の吉野家。ひとりで東京に行ったときに入れる店は,吉野家が富士そばのいずれかだ。あとは怖くてダメだ。
 で,東京で吉野家に入ると,宇都宮と値段が同じなのが,奇妙なことに思えてくる。あたりまえなのに不思議な気分。地代がだいぶ違うはずなのに,価格が同じなんだからね。その分,回転が速いんだろうかね。
 で,ぼくのように外食は吉野家か立食いそば,着るものはユニクロだけっていう暮しなら,都会の物価は決して高くないと思うんだよね。唯一,家賃だけだ(それが大きいわけだが)。
 都会に住めば公共交通機関だけで動けるし(車を持つ必要がない),なんだかんだで安あがりのような気がするんだよなぁ。

● 都会に住んだことがないので。元日に玉ノ井を歩いてみたんだけど,古い木造アパートがあって,空き室アリ枡の貼り紙があった。ここなら4,5万円で借りられるかねぇ。
 ここに住んで,時々,近くのスナックに飲みに行く。そのスナックは婆さんがひとりでやっていて,その婆さんと茶飲み友だちのようになる・・・・・・という昭和レトロな暮らしを妄想してみたんだけど,まぁ,無理だね。その4,5万円が出せないもの。

● ま,錦糸町や墨田区に限らず,東京は時々遊びに行くところだね。その方が東京の魅力が色褪せないだろうしね。

2019年3月28日木曜日

2019.03.28 氏家の「むらかみ」で思ったこと

● 相方と氏家の「むらかみ」。1,100円のランチ。タレはレモン汁+塩。ずっとこれ。白いご飯に合いますなぁ。
 焼き肉でビールはもちろんありなのだが,ぼくは白いご飯に合わせるのがベストマッチだと思う。

● 1,100円で贅沢気分を味わえる。この内容だと昔なら5,000円はしたような気がする。お金が使いでのあるものになっている。
 しかし,トンチンカンなことを言うかもしれないのだが,供給側は大変でしょ。これだけ安く提供する秘訣ってのは何なのかね。素人にはわからない何かがあるんだろうかね。

● 安くするには人件費をいかに抑制するかだとぼくなんぞは思ってしまう。正社員を少なくしてバイトでまかなう。バイトの粒をいかに揃えるか。
 かといって,人件費抑制のみに突っ走ってブラックの汚名をきた「すき家」の例もある。それ以上に人手不足でバイトが集まらない。集めようとすれば最低限,時給を上げなければならない。このあたりがどうなっているのかとても気になる。

● 人件費から離れると,たぶんアルコールで儲けるのだろうと思う。アルコールを売りたい。しかし,東京ならいざ知らず,このへんで昼から飲む人はいない。お客も家族連れが多い。昼は飲む感じではない。
 ランチってのは餌撒きなんだろうか。夜の来店を促すための。ランチ単独で儲けは出ているんだろうか。

2019年3月26日火曜日

2019.03.26 個対個のコミュニケーション・ツールとしても,スマホってほんと便利だね

● 個(人)対個(人)のやり取りに使っているスマホアプリは,LINEとViber。が,その個というのは,ぼくの場合,両方併せてわずかに2人。個対個のやり取りは煩わしさを生む元凶でもあるので,会社の同僚とか学校の同窓生とか単なる知人とか,そういう人たちとLINEで“つながる”つもりはサラサラない。
 ではあっても,個対個のコミュニケーション・ツールとしても,スマホってほんと便利だね,と今更に言ってみる。

● 即時に届くというのは,電子メール以来,それがあたりまえになってしまったから,別に何とも思わないで使っているけれども,とてつもないことですよ。
 惻隠の情を届けたり届けられたりするのに,こんないいものはありませんよ。

● しかし,便利でハードルがないに等しいほどに低いから,つい過剰に使うということがあるのではなかろうか。つまり,つながりすぎ。
 気をつけるべきは,ここのところだ。君子の交わりは水のごとし,というのは古今を問わず真理であって,濃すぎる交わりは忌むべきもののひとつだ。

● つながりの数が多すぎるのもよくない。LINEの友だちが多すぎる人は,相当な時間を棄ててしまっていないかどうか,顧みた方がいいのではないか。中小企業の社長が仕事に使っているという場合を除いて,LINEの友だちはいいところ30人ではないか。
 FBのMessengerを使っている人も多いと思うが,ぼくには無用のもの。グループ機能など必要を感じたこともない(個対個でやり取りする相手が2人しかいないんだから,それが当然なのだが)。

● 通話も Viber out ですませている。電話って年に数回しかかけないから,通話SIMは要らない。3大キャリアもMVNOも通話料が利益の源泉のようで,通話SIMの利用が端末割引の要件だったりする。が,ぼくのような人間には電話などそもそもが不要だ。
 が,水のごとき淡いつながりしか持たなくてすむのなら,多くの人とつながってみたいとは思う。

● でも,ま,淡いつながりというのは,“つながっていない”に限りなく近いもので,そうであるなら,現状ですでにその状態は実現されているとも言える。

2019年3月25日月曜日

2019.03.25 Twitterはやめられない

● Facebookはやめたけれども,Twitterはやめられないでいる。なぜやめられないかというと,Twitterでtweetするのは,相手のいない雑談をしているような気分だからだ。
 ぼくの場合,仕事を完全引退すると(ひょっとすると1年後かもしれない),話相手は配偶者だけでになる可能性が高い。リアルの話相手はそれで充分だと思うが,配偶者では話相手にならない話題をtweetする。そういう効用がある。

● Twitterは独り言をつぶやくのに適したネット上のツールで,今のところ,これは手放せない。
 独り言といっても,tweetするのは虚空に向かって言葉を発するのとはだいぶ趣を異にする。どこの誰かは知らないけれど,何人かには届いているという実感が持てる。

● Google+はサービスをやめ,FBもひょっとしたらその後を追うのではないかと思わないでもない。近い将来の話ではないが,いずれそうなりそうな。
 先駆者の若い人はあらかたやめているだろう。次は中高年が去って行く番だ。文化は若者から発祥して,それが上の世代に浸潤していくものだとすれば,FBを始めるのもそうだったように,FBをやめるのもまた,これから上の世代に浸潤していく段階だと思えぬでもない。

● Instagramにはぼくは興味がない。芸能人がファンサービス・ファン獲得に使うにはいいかもしれないと思うが,始める人はすでに始めていて,ここから先さらに大幅にユーザーを伸ばすことにはならないと見る。
 FBに続いて衰退に向かうのではないかと推測する。インスタ映えという言葉は半ば死語になっている。今,この言葉を使うのは少し恥ずかしくないか。
 FBもInstagramもアカウントはそのままにしていて,事実上使うのをやめている人がかなりの数いるのではないか。主催者発表の数字は大本営発表であるというのは,この分野でも同じだろう。

● マストドンもひと頃騒がれた後,どうなっているのだろう。500字まで投稿できるといっても,500字もあったのでは,そもそも読む対象から外されてしまうのでは。長い文章は本で読めばいいので,SNSではなかなか。
 500字を書くくらいなら,もうひと踏ん張りして,ブログにした方がいいような気がする。ブログなら長いものだと読む側も思っているだろうからだ。マストドンはSNSとブログの鵺的な存在という印象。まったく使ったことのないままで言っているわけだが。

● 結局,残るのはTwitterだけのような気がする。140字という字数制限(といっても,140字といえば400字詰め原稿用紙で7行分。けっこう長いのだ)と無言フォローで問題ないというのが,Twitterの生命線。つながりとも言えないかすかなつながりが,Twitterの空間に広さと開放性を与えている。
 FBには濃密感があって,これが鬱陶しい。LINEもおそらく同様だろう。鬱陶しいのはリアルだけでたくさんだ。

● で,このTwitterが娯楽にもなり得る。こちらの気持ちが落ちこんで活性度がかなり低下しているときでも,Twitterなら使える。
 それゆえ,放っておくと始終Twitterに触っていることになりかねない。その取扱いには工夫と克己が必要かもしれない。
 が,FBはアカウントを消してだいぶ経つけれども,Twitterは当面持続という方向。

2019年3月23日土曜日

2019.03.23 何もやる気がしない1日

● 今日は寒くなった。感の戻りというか。そのせいではないと思うのだけど,まったく何もする気がしない。身体を動かすのがとにかく億劫だ。

● ただし,こういうときでもできることがある。ネットだ。Twitterで何もやる気がしないとtweetすることはできる。こういうことは,かなりエネルギーレベルが低下してもできることがわかる。
 本を読むのもダメだし,Amazonプライムビデオすら見る気にならない。なのにネット閲覧やTwitterはできるのだ。

● 朝ごはんは相方の分も作って食べた。7時に起きて,ここまで2時間が経過していた。そのあとも,一切何もやる気がしない。唯一,風呂には入れた。2時間近く長湯した。

● が,午後2時を過ぎたあたりから,動けるようになった。相方と車で外出した。
 墓参り2つ。実家に顔を出した。帰りにスタンドで灯油を3缶買って,風呂のボイラータンクに給油した。やれやれ。
 これでもし,明日の朝も活性度が今日程度に下がることになると,プチウツの心配をしなければならないかも。

● ま,そういうことにはなるまいと思うが,こういう日もあるってことだね。あまり身体や気持ちに鞭を入れない方がいいと思う。
 1日を棒に振ることくらい何でもないんだから,何もしないで部屋の片隅でジッとしていて,そのまま寝るのがよろしかろう。明日は明日の風が吹く。吹かないかもしれんが。

2019年3月21日木曜日

2019.03.21 植木等の「花と小父さん」

● 昨夜,帰りの車の中でNHK-FMの「夜のプレイリスト」を聴いていたら,植木等が歌う「花と小父さん」が流れてきて(これが2回目だ。ひょっとすると再放送だったかも)。何だか泣きそうになってさ。
 浜口庫之助の歌詞が何でもないようでいて,いいよねぇ。よく思いつくよなぁ。

● どこがいいかっていうと,第一に中年男の潜在願望をうまく掴んで言葉にしたことだ。「小父さん,あなたは優しい人ね」なんて言う“花”なんかいないわけだよね。まして,「私を摘んでお家に連れてって」なんていうのはさ。
 あったらいいなぁという,市井の小市民の願望はわかりやすく存在するけれども,それを野の花に託して,上手に言語化したよね。

● 第二に,完結した物語に仕立ててあること。自己主張しない“花”が主人公だ。しかも,“小父さん”もとてもいい人だ。美しいストーリーに仕上がるのだ。
 第三に,乙女願望も掬い取っていることだ。「どうせ短い,私の命」という儚さへの誘惑。いつかはオバサンになってしまう。乙女でいられるのはほんの束の間だ。乙女は儚いものだ。
 しかも,オバサンになっても,女性はどこかに乙女を隠し持っているらしい。“儚い私”への憧憬があるらしい。そう見えるときがある。

● というわけだから,男にも女にも刺さる歌詞だ。といっても,男により多く刺さるだろう。
 YouTubeをあたってみたら,植木等が歌ってるのは見つからなくて,その代わり,西田敏行&安倍なつみのと畠田理恵のがあって(他にもいくつかあったけど),この2つを何度も聴いた。安倍なつみ,年を取ってもかなりいいなぁ。でも,やっぱり植木等で聴きたくてさ。Amazonだと250円で買えるんだな。
 たぶん,いっときの熱で,明日になればもう聴かないだろうなと思うんだけどね。

2019年3月20日水曜日

2019.03.20 氏家「みやこ家」vs人形町「兎屋」

● 氏家の「みやこ家」で煮干し濃厚つけ麺の大盛り。少しづつ値上げされてて,930円。

● 16日に人形町「兎屋」のつけ麺を食べたとき,盛り付けはこちらの方が上品だけれども,味は「みやこ家」かなぁと思ったんだよね。で,確認してみるかと思ったんでした。「兎屋」に近いのは煮干しつけ麺というわけで。
 値段はほぼ同じだから,ガチンコで味勝負。で,どうもわからなくなった。どちらが旨いのか。というか,どちらがぼくの好みに合うか。わからない。

● 味というのが他と切り離されて屹立して存在するものなのかどうか。そのときのこちらの体調や腹の空き具合,気分,そのときの店の混み具合,その他いろんなことが味を作りだすんだろう。
 単純に比較しようというのは意味がないというより,できない相談かもしれないのだ。

● 東京のトップと地方のトップを比べれば,おそらくは東京のトップが勝るのだと思うが,東京には,これでよく金が取れるな,これでよくお客が来るな,と思うような店もある。言っちゃなんだけど,人形町にもある。
 東京の最下位と地方の最下位を比べると,たぶん東京の最下位が下だろう。東京は幅がすごい。

● という状況を踏まえると,あるいは踏まえなくても,地元に「みやこ家」のような店があるのは嬉しいことだ。
 東京に出しても上位に食い込むだろう。車で10分も走ればその麺にありつくことができるのだ。

2019年3月19日火曜日

2019.03.19 賢く生きるためのキーワード-所有しない

● 生来のケチ根性で,タダで手に入るものはタダで手に入れればいいと単純に思っている。で,ありがたいのは,娯楽にお金がかからなくなったこと。というより,お金をかけずにかなり高度な文化生活(?)を維持することができるようになったことだ。
 日本国憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」というのは,もう死語にしてもいいのではないかと思うほどだ。

● たとえば。図書館で借りたクラシック音楽の楽曲紹介の本を読んで,紹介されている楽曲をチェックした。手元にないもの(CD)は図書館にあるかどうかあたってみようと思う。図書館もネットで確認できるのは便利だ。ムダ足をしなくてすむ。
 あれば借りる。借りたCDはパソコンにリッピングする。昔はカセットテープにダビングしたものだが,リッピングならものの数分で終了する。

● インターネットのおかげだ。インターネットにつながっているパソコンとスマホがあれば,タダでいくらでも娯楽を享受することができる。しかも,それをブログやSNSで公開することまで無料でできる。
 1月22日以来,Amazonのプライム会員になって,プライムビデオを見られるようになった。さらにその感を深くしている。

● 本も音楽も映画もタダ同然で無尽蔵に読み,聴き,見ることができるのだ。それ以上のものをぼくは望まない。
 しいていえば,他に求めるものは手書きの楽しさくらいのものか。紙に字を書くということ。これは百円ショップが満たしてくれる。紙もペンも高いものである必要は全然ないのだから。

● しかも,インターネットの効用は,ブツが残らないというところまで行き渡る。買うと使用後もブツが残る。借りるのはレンタルショップまで出向く手間がかかる。
 が,ネットで映画を見るのは,手間が一切かからず,見終えたあとに何も残らない。何も残らないが,もう一度見たければ見ることができる。

● したがって,散らからない。こんないいことはない。
 本とCDは図書館まで借りに行く手間,返しに行く手間がかかるが,これは仕方がない。将来はこのあたりも変わってくるのかもしれないが,現状では仕方がない。
 が,読んだあと,リッピングを終えたあとは,ブツを返却するのだから,ブツが手元に残ることはない。これだけでも“借りる”は“買う”に勝る。

● 図書館は本やCDを皆でシェアしているようなものだ。所有する必要などない。
 ぼくはもう間に合わないが,不動産も借りてすますのが賢い。土地を買って家を建てるのではなくて,貸家ですます方が圧倒的にいい。
 ブツがなくなる(要らない)のだから,広い家はお荷物でしかない。アパートでもいいだろう。アパートは持ち家に住めない人の仮の住まいという図式は昔のものだ。賢者は借りて住まう。

● 自動車だって所有するのかいいのかどうか。食料品も日用品も,衣類もそうだが,大衆品のレベルが切りあがっている。ユニクロの貢献が大きいと思うが,着るものなど全部ユニクロかシマムラで用が足りる。
 今どきブランド品に惹かれるというのは,愚鈍の象徴のような気がする。

● となれば,不動産もブランド品も価値を下げる。価値を下げたものはさらに見向きされなくなる。そのループに入っていく。
 総じて,価値はモノからお金にシフトする。価値とは稀少価値のことだからだ。稀少であることが価値の源泉だ。その稀少価値を持ち続けるのはお金だけになる。動産も不動産も,モノみなすべて,稀少性を失った。
 で,そのお金がなくても娯楽を享受できるようになったのだ。お金と所有にも価値がなくなるとなると,これはもう究極かもしれない。

● ちなみに,稀少性を失ったのはモノだけではない。大学の価値はガタ下がりだ。大学が発行する学士や修士の価値も同じ。学歴にももはや価値はないだろう。大学が提供している程度の教育機能は,ネットでタダで手に入る。それを使った方がよほど効率的に学べる。
 “勉強ができる”の価値もだいぶ下がっているのではないか。が,“頭がいい”には価値がある。稀少性があるからだ。つまり,“勉強ができる”と“頭がいい”は別物。

● では,クリエイターは儲けのタネがなくなって生きていけなくなるのかというと,そうはならない。音楽でいえばライヴで稼ぐ。映画なら新作で稼ぐ。しばらく待てばタダで見られるようになるとわかっていてもすぐに見たくさせるような話題を作れればいい。
 モノ書きは専業で喰っていくのは難しくなるかもしれないが,これは昔から難しかったのだ。それに,本が売れなくなったといわれる現代でもベストセラーは出るのだ。

● それに,だ。いつの時代だって,バカが圧倒的多数なのだ。
 たとえば,宇都宮の例でいえば,二荒山神社の参道の脇に高層マンションが建った。完売だと聞く。が,そこに住んでいる人は少ない。
 投資用資産として購入した人が多いというわけだろう。誰かに貸して家賃を得ようと考えたのだろう。
 が,借り手がいるのか。いなければその資産価値はゼロだ。理論値がいくらになろうが関係ない。マーケットで売れなければ価値はゼロ。おそらく,借り手はそんなに現れないと思う。宇都宮でも人口は減少し,空室率は上昇しているはずだ。
 要するに,金はあるが頭はない連中が,こういうものに手をだす。

● すっかり色褪せた大学に子供を行かせようとして,教育費が大変だとアクセクしている親が大半だろう。隣がカラーテレビを買ったからうちもという,半世紀以上も前の自他比較思考から抜け出せない人が多数派だろう。でもって,そのことの言い訳はいくらでも編みだす。
 ことほどさように,世の中はバカで満ちている。費用負担はバカにさせればよい。バカに負担させて,ぼくらは軽装でお金をかけずに生きていく。
 そう割り切る。そうして,ぼくらはお金から自由になる。

● 貧富の差なんてもうどうでもいいのではないか。無料でできることがこれだけ多くなると,お金の限界効用は大きく下がる。
 したがって,これからの時代を賢く生きるためのキーワードは“所有しない”である。所有していいのは現金性資産に限られる。その現金性資産も多ければ多いほどいいという時代ではすでにない。
 それを可能にしたのはインターネットだが,その起業家たちが世界を代表する富豪になっているのは,ぼくに言わせれば皮肉だ。ご苦労なことだ。

2019年3月17日日曜日

2019.03.17 絵画とか写真って,全然わからないんだよね

● ネットが普及して,昔は都市に出ないと買えなかったものが,向こうから運ばれてくる。しかも,ポチッとしてから1日か2日で届く。情報も同じだ。都鄙の情報格差はインターネットによって,ほぼ埋まったのかもしれない。
 しかし,だから都市の優位性がなくなったかというと,そうとも言えないところがある。音楽をライヴで聴くということなら,現在でも地方と東京の違いは圧倒的だ。美術館や博物館も同じ。

● 仮にモノと情報に関して都鄙の差がなくなったとしても,人はおそらく都市を造ることをやめないだろう。情報収集や情報処理がネットだけで完結するわけでもない。人と人が会うことの意味や効果は,消滅しない。
 それ以前に,人間は集まって住むのが本然的に好きなんだと思う。東京は人口減少の影響を最も受けないらしいし。満員電車のすさまじさを経験すると,そうはいってもものごとには限度ってものがあるだろうと思うのだが,それでも人は都市を造って集住するのだ。

● そのように考えないと,土地などいくらでもあると思える北海道に札幌や旭川があることの説明がつかないし,ましてオーストラリアのようなところにシドニーやメルボルンがあるのはなにゆえかとなる。
 それに,集住した方が環境への負荷も少なくできるだろう。集中はメリットが大きい。

● 右の写真はロイヤルパークホテルに置かれていたもの。都立の美術館のパンフレット。写真美術館,東京都美術館,江戸東京博物館,江戸東京たてもの園,庭園美術館,現代美術館が紹介されている。
 他に,トーキョーアーツアンドスペース,東京文化会館,東京藝術劇場。演劇や音楽を発信する施設だ。

● 東京には都立以外にも国立や私立の美術館や博物館が集中している。これだけでも,東京に住む意味があるのではないかと思えるほどだ。
 政治家や官僚は東京にいるからこそ,政策を立案できるのだろうし,企業は東京に本社があるからこそ経営戦略を考えることができる。地方にもキラリと光る企業はあるに違いないけれども,それとはちょっと次元の違う問題だ。

● 上のパンフレットの表紙は篠原ともえ。こんな大人になっていたんですな。
 その篠原ともえのインタビューが巻頭記事になっている。そこからいくつか転載しておく。
 私はアート作品を見る時は,楽しむ気持ちと同時にじつはジェラシーがあるんですね。「私だったらこう撮るな」と気持ちが掻き立てられる。そのジェラシーが沸く時って作り手としてすごく刺激を受けている瞬間。(p4)
 若い時は自分の感じた感情がそのまま作品になると思っていましたが,やっぱりデザインすることを職業として気持ちを切り替えた時に,自分のアーカイブが作品に反映されると思うようになりました。(p5)
 西洋の印象派も見れば,浮世絵や写真展,バレエ,歌舞伎も見ます。多ジャンルに触れることで自分の好みが浮きだってきますし,見ていない世界は表現できない。ですので,見ることは宝物と思っているんです。(p5)
● ぼくは音楽は多少聴くけれども,美術館に行くことはまずない。画集を見ることもほとんどない。モナリザの本物を見ても,何も感じないタイプの人間だ。
 こういうのって刺激を与え続ければ,何かが変わるんだろうか。たぶん,10代で感応しなかったような人はダメだと思っているんで,特に何かをしようとは思っていないんだけどね。

2019.03.17 年寄りよ,ああ年寄りよ,年寄りよ

● Twitterで面白い記事を発見した。藤原智美『この先をどう生きるか』(文藝春秋)を紹介するもの。見出しは「老人はコールセンターにすがりつく…。肩書を失ったエリートほど“寂しい老後”が待つ現実」。
 自分もそういう年齢になったので,他人事ではない。良記事だと思ったので,ご紹介に及ぶ。ただ,ぼくはいかなる意味においてもエリートだったことはない。

● 「今は仕事で大きな成功を収めていても,孤独と無関係そうなエリートほど“寂しい老後”が待っているかもしれない」というわけだけどね。老後って寂しいものなんじゃないの。
 寂しくない老後を送った人なんていたんだろうか。昔の3世代同居があたりまえだった時代だって,同居だからこそ,寂しさを先鋭に感じるってことがあったんじゃないのかね。

● 「現代の老人たちはネットが大好きだ。総務省の2016年度の調査によると,60代のネットの利用率が75%に達し,さまざまなトラブルに遭う高齢者が増えている」とのこと。
 「エリートな人生を歩んだ人ほど,自己評価が高い」「有能な自分が騙されるはずがないという思い込みを生む。そこへ詐欺師から「あなたの豊富な人生経験を見込んで正しく導いてほしい」という“エリート心”をくすぐるメッセージが届くと,コロッと騙されてしまう」。
 ごめん,これ,たんなるバカだよ。バカの比率は,エリートでもノンエリートでも同じようなものだ。ノンエリートにも同じような詐欺は舞い降りているはずだ。騙される比率もさほど変わるまい。

● 老いると交友関係が減り,したがってコミュニケーション能力が落ち,詐欺に逢いやすくなる,というのは身につまされる。他人事ではない。
 かといって,現役世代がそんなに賢いかといえば,これはどうなんだろうね。彼らが大きな詐欺に遭わないですんでいるのは,日中,家にいないからという,それだけの理由による。違うかね。
 とはいえ,加齢に伴う判断力の低下というのは明らかにある。そこにつけ込まれて被害を受けることは自分にはない,と言い切る自信などない。

● 「アダルトサイトに関するトラブル相談は,60代が最も多く,次いで70代なのだとか」というのも,これで老人を代表させてしまうのは,老人一般に申しわけない気がする。
 「アダルトサイトに依存してしまった高齢男性が,息子夫婦が心配して家を訪れても,われ関せず無心で動画を延々と見続けるエピソードが記されている」らしいんだけど,これの何が問題なのだ。どうして「恐ろしい…」のだ。
 いいじゃないか,アダルトサイトを見続けるくらい。その先を勝手に妄想して,ひっかき回す息子夫婦に問題があると思う。

● 「コールセンターにすがりつく」老人や「コールセンターで暴言を吐く老人」は困ったものだ。メーカーのコールセンターが老人福祉施設の機能を担ってしまっている。こういう例はわりと多いと思う。じつは昔からあった。
 コールセンター側で対策を立てるしかないでしょうね。バカは治らないから。電話番号を記憶させておいて,その番号をブロックできるようにするとかね。そうするとバカは騒ぎだすだろうけれども,自社社員を守るために,その程度のリスクはとるべきだろうよ。

● そういう「暴走老人」を「虚栄」だけで説明するのは,ちょっと無理じゃないかと思う。要するにバカなのだ。「虚栄」はバカを顕在化させるきっかけのひとつにはなるかもしれないけれども,暴走の究極にあるのは虚栄ではないと思う。
 さて,これに対する対策はあるか。バカが治らないものである以上,対策はない。暴走の被害を受けるのは,立場的に反論できない位置に置かれる,デパートやショッピングセンターのスタッフが多いのだろうが,あんたに売る商品なんかねえよと啖呵を切ってもいいと会社側が認めれば,問題はだいぶ解決する。
 そうしちゃえばいいじゃん。バカはバカとして扱わないとつけあがるばかりだ。その被害を従業員に負わせて何の手も打たないようでは,経営者なんか要らないだろう。

● 「豊かな老後を過ごすためには,孤独を避けなければならない」というのだが,これには2つの反論が可能。ひとつは,「豊かな老後」って何なんだってこと。もうひとつは「孤独」は老後の本質なんだから,避けようはないということ。
 したがって,この命題は無意味だ。正しいか間違っているかではなくて,無意味だ。

● 「しかし打算で作った友など役に立たない」。あたりまえだ。友はできるものであって,作るものではない。
 「ちまたでは孤独を賛美する書籍が数多く出回る。しかしこれも藤原氏に言わせるとアテにならないという。孤独を賛美している人ほど,強靭な精神力を持つ作家や思想家の傾向にあり」「老後の途方もない「寂しい孤独」に勝てる人は少ないのだ」という指摘も,そのとおりだろう。
 しかし,難しかろうが何だろうが,孤独を敵に回しては老後は成立しない。孤独は克服すべき敵ではなくて,相和すべき友だちだ。

● と,ぼくはどうしても突き放してしまいたくなる癖がある。いけないところだ。しかし,藤原さんはそこで放りだしたりしない。「だからどうするべきか」を述べている。
 「1つは書くことだ」。「書くことは,一人でいることが多く他人に言葉を発する機会が少ない人ほど必要な,自己との対話になります。孤独は書くことで救われる。私はそう考えています」。
 賛成だ。これは決定打かもしれない。今まで書く習慣がなかった人が,老いてから書くようになれるかという問題はある。しかし,そういう方法があるということは知っておく価値があるし,その程度には自分を変えようと慫慂することは許されると思う。

● “書く”は孤独と相和すための最もいい方法だ。少なくとも,Facebookを始めてネット上の友だちを作ろうなとという試みに比べれば,格段に格調が高い。
 Facebookを始めましたという人には,ある種の軽薄さを感じる(といって,ぼくもやったことがあるんだけどさ)。人がやっているから自分もという,流行の尻馬に乗った感じを与えるからだろう。Facebookの流行はもう過ぎていると思うのだが。

● 「もう1つが,「土台の心」を作り上げる「暮らし」を充実させること」で,つまり「しっかり家事を行うことで生活の基盤を強く」することだ。「暮らしの充実は,心の充足につながる」というわけだ。
 これも至言だと思う。老後問題は男性問題だ。と言っては言いすぎになるが,男性にとってよりハードルが高いのは間違いないだろう。女性は世間という広いフィールドでずっとやってきている。男性は自ら仕事に逃げることを選好してきた。その逃げ場がなくなったわけだから。
 まずは拠って立つ場所である“家内”を耕さなければならない。

● しかし,そういうことができるくらいの人は,そもそも暴走老人にはなっていないかもしれない。結局,老後をどうするかというのを老いてから考えても手遅れだということだ。
 老いを実感できる50代になったあたりから,ポツポツと考えて,それを実践している必要がある。本当に老いてからその実践が役に立つかどうかはわからないが,それでもそうしておく必要がある。

● 基本,年寄りは世の中に対して慎んでいなければいけないはずだ。モノを申してはいけない。今までの経験を活かして社会貢献したいなどというのは,社会にとっては最も迷惑かもしれない。
 年寄りが彼の考えの骨格を作ったのは半世紀以上も前の話だ。それをそれをそのまま平成も終わろうとしている現在に適用するのは,そもそもが無理筋だ。時代が変わっても変わらない原理原則など,ないと思っていた方がよい。
 ゆえに,50代になったらモノを申さない訓練を始めていなければいけない。

● 書くことと家事だな。他人事と思わないで,ぼくも憶えておこう。などと暢気に構えているのは,この2つは何とかクリアできていると思っているからだ。
 この本は年寄りにではなく,中高年の男性に充てられた本なのだろう。ので,ぼくが読んでももう遅すぎるのかもしれないんだけど,これから読んでみようと思う。

2019.03.17 ロイヤルパークホテルに投宿

● 16日。2週間ぶりでロイヤルパークに投宿。まっすぐラウンジに。ここで連れあいと落ち合って飲み始める。今日のラウンジは比較的空いていた。
 今日は立食いそばしか腹に入れてないし,喉は乾いているし,ハイボールがスイスイ入る。ま,酔っぱらえば部屋に戻って寝ちゃえばいい。電車にもタクシーにも乗らなくていいんだもんね。
 他のお客やスタッフから話しかけられることもない。ホテルで飲むのは家飲みと同じだ。まぁ,気楽だ。

● ところで,ラウンジにこんなものがお目見えしてた。お客さんから要望があった? まさかね。これを飲んでる人はいなかったし。タダでいいから置いてくれ,とメーカーに頼まれた?
 これ,普段,飲んでるやつだしね。ここではやっぱり,バランタインをソーダで割って飲みますよ。

● 連れあいと人形町を歩く。ネットで知った「兎屋」に行ってみた。カウンター席だけのラーメン
屋。メニューはラーメンとつけ麺の2種のみ。美味。鋭角的にガツンと来る旨さではなく,全体的に品がある。器もなかなかいいと思った。麺は「浅草開化楼」
のものを使っているようだ。
 前回の横浜家系の店とは比べものにならない。のだが,氏家に「みやこ家」があることがありがたいとも
思った。地元であのつけ麺を食べることができるというのはね。「みやこ家」でここに最も近いメニューを選ぶとすると,“煮干し濃厚つけ麺”になるかな。

● 飲んだあとに食べると,どうしたって胃袋がヘタる。ホテルに帰着後は,そのまま寝てしまった。歯も磨かず,家から持参したサプリメントも飲まず。
 しかも,上着も着たまま。さすがに,これは目が醒めたときに脱いだけど。

● 翌朝(今朝),ロビーに降りてみると,カフェにけっこうお客さんがいた。午前中から披露宴があったっぽい。遠くから来る人たちが,時間に余裕をみて到着したのだろうか。
 ラウンジで朝食を食べていると,男性スタッフが声をかけてきた。ここのところ,週末にこのホテルに泊まることが多くなっているので,顔は憶えてもらえたらしい。けっこう,面白い話を聞いたのだが,個人情報にわたる部分もあるので,ここでは省略。

● ロビーをまたウロウロしてから風呂に入る。ぬるめの風呂に長く浸かっていた。やっと下着を替えて,歯を磨いた。
 贅沢をしているなぁと思う。その程度で贅沢と言うなんて,おまえは何なんだよ,と言われるかもしれないけれども,これを贅沢と思わなくなったら,人間としては堕落したということではないか。

● 今回は外には出ずに,ずっとホテルにいた。11時半に最後のラウンジ。桜餅があった。桜あんパンも。連れあいは,このあんパンの餡がよほど気に入っているらしい。
 まだ正午前だからアフタヌーンティーとは言わない。これはもう立派な昼食であるわけで,つまりは3食付きだ。
 今回は,いつもより1万円ほど高いプラン(内容は同じ)。それでも,1人1万6千円ほど。高いか安いかなら,明らかに安い。この分野でも価格破壊が進んだってことですか。

● 部屋は1618号室だった。この部屋にあたることが多い。わが家に帰ってきたって感じになる。交通費をかけてたとえば京都に行きたいとはついぞ思わないのも,そういう理由による。
 だって.わが家から京都まで新幹線で往復すれば,交通費だけで2人で4万円になるんだよ。東京までなら新幹線を使わないから8千円ですむ。その差,3万2千円。ちょうど今回の宿泊費に相当する。
 その額を新幹線に乗ることに充てるか,ホテルの宿泊費に充てるか。ぼく的には検討の余地がないんだな。もし京都に行くんだったら,最低1週間ほどはないと交通費の元が取れないと思っちゃってるんですよ。

● あと,東京の面白さ。大学を地方で過ごしたせいか,まだ東京に飽きていない。
 東京って面白いと思っているんですよ。こんな面白いところ,世界のどこにもないんじゃないかって。面白さを支える前提に,治安の良さ(安全)と日本語が通じるってことがあるんだけどね。
 ニューヨークにもロンドンにもベルリンにも台北にもバンコックにもマニラにもイスタンブールにも上海にもコルカタにもサンパウロにもナイロビにも行ったことはないんだけど,それらのどこよりも東京が面白いんじゃないかと妄想している。

2019年3月16日土曜日

2019.03.16 駅そば

● 宇都宮駅,7,8番線ホームにある立食い蕎麦で遅めの朝食。昔は,もっとしばしばお世話になったものだが,今は駅構内に「いろり庵きらく」ができ,駅ビルには「丸亀製麺」ができ,なにより「吉野家」があるので,利用頻度は減った。
 とはいえ,立食い蕎麦は日本では昔からあるファストフードだ。在来線に特急や急行が走っていて,やたら特急待ちや急行待ちの停車時間があった時代は,立食い蕎麦のスタンドも活気があった。車内持ち込みができなくなったのはいつだったろう。

● はるかな昔。東北本線の各駅の立食いそばを食べ比べてみようと思ったことがあった。どのくらい昔かというと,宇都宮駅に立食い蕎麦スタンドが3つあった時代。器がプラスチックではなく陶器だった頃のことだ。
 上野から青森まで。公平を期すために,(当時の言葉で)天ぷらそばで比べる。立食い蕎麦スタンドがある全駅で食べたわけではなかったけどね。
 上野,赤羽,大宮,古河,小山,宇都宮,西那須野(ここはホームではなくて,改札を出たところにあった),黒磯,白河,郡山,福島・・・・・・。

● 結果,宇都宮駅のが断トツで旨いと思った。東北に入るとそばは旨くなるだろうと思いこんでいたのだが,そんなことはなかった。
 当時だって,地元のそば粉を使ってなんてあり得なかったからね。だいたいチェーンが多かったし。東北はこけしマークの店が多かった。麺も汁もまとめて作って,各駅に配送していたのだろう。

● ただし,はるかな昔のこと。宇都宮も3つが1つになってしまったけれど,立食い蕎麦がなくなった駅もある。黒磯もそうで,黒磯駅のナメコうどんも旨かったな。

2019年3月14日木曜日

2019.03.14 大衆化

● 職場の同僚が宇都宮市に新しくオープンしたジムに行くようになった。24時間営業。利用者(会員)には鍵が渡されるらしい。
 月額7千円で利用できるんだそうだ。その代わり,トレーナーは常駐していない(いる時間帯もあるらしい)。そんなに安いのかと驚いた。

● 上三川には公営のジムがあるんだそうだ。日額350円で利用できる。すごいな,上三川。日産のおかげだろうけどね。
 ジムっていうのは貴族のものだと思っていた。運動のための運動ができる時間を持てるのは貴族。ジムの会員になるのもそういう人で,したがって会費も月に数万円はするものだ,と。

● 昔はそうだったらしい。が,今はそうじゃない。大衆化しているのだね。ジムに限らない。何でも大衆化している。
 牛肉も昔はお金持ちしか食べられなかったものだしさ。ビフテキなんていう言葉があった頃。それが今はどうだ。焼肉だのしゃぶしゃぶだの,食べ放題まである。安い料金で食べたいだけ食べられる。輸入自由化の恩恵といえばそれまでだけど,とにかく庶民でも食べたいときに食べたいだけ食べられるものになった。
 寿司もそうだ。これは回転寿司に象徴される。ありがたがる食べものではもはやない。

● クラシック音楽のコンサートもそうだ。かつてはヨーロッパの貴族の娯楽だった。日本でもつい最近までは深窓の令嬢的なイメージがあった。
 ホールの数が増えて,アマチュアオーケストラの活動が活発になったゆえかとも思われるのだけども,ともかくクラシック音楽はすっかり大衆化した。聴くのも大衆なら演奏するのも大衆だ。

● 以前,雑誌(『GOETHE』だったと思う)で読んだのだが,郷ひろみはパークハイアットのジムの会員になっているらしい。こういうジムだと,入会金が2百万円で,保証金が3百万円で,年会費が百万円くらいになるようだ。
 多くは法人会員の利用になっているのだろうけど,これがなかなか入会できなくて,キャンセル待ちになっているのだとか。

● 5つ星レストランと街の大衆食堂の違いが,こうした分野にも(というか,どんな分野にも)ある。大枚を積まなければ食べられない牛肉もあるわけだし,回転寿司がいくら増えても,銀座の「久兵衛」がなくなったわけではない。
 大衆化というのは,大衆化する以前の状態のままで拡散するわけではない。大衆化に相応しい形になって拡散する。それに乗るのを潔しとしない人たちの居場所はきちんと用意されている。

● しかし,サプライヤーとすれば,少数の貴族を相手に高額品を商っているより,大衆相手の薄利(?)多売の方が儲けるチャンスは多いだろう。高級ホテルよりカプセルホテルの方が儲けが大きい。
 大衆化には乗ってみるものだと思う。大衆は金離れもいいし,商売しやすいのではないか。まったくの素人の感想だが。

2019年3月13日水曜日

2019.03.13 投稿が消えるSNS

● Snapchatは「写真や動画を個人かグループに送信する」アプリであり,「1秒から10秒の間で閲覧時間を設定」できる。「閲覧している間,受信者は端末のタッチスクリーンを触り続けなければなら」ず,「閲覧時間の終了後,写真はアプリ上から見ることが出来なくなる」(Wikipedia)という,写真共有を主目的としたSNS。
 Instagramに似ているが,見たら消えるというところに特徴がある。類似のアプリにSNOWがあって(消えるからSNOWという名前にしたのだろう),こちらはLINEと同じ韓国生まれ。日本を含む東アジアではSNOWの方が普及しているらしい。

● 見たら消えるんだから,それについてコメントをやりとりすることはできないのだろう。そういうことを目的とするのではなく,「これ,ヨクネ? 笑ってよ」と道化を演じたり,刹那を伝えるためのものなのだろう。
 だから,SnapchatにしてもSNOWにしても,不特定多数に公開するものではなく,限られた仲間内の中でのやりとりになるのか。といっても,不特定多数を相手にそれをやってはいけないということもない。たぶん,それもできるのだろう。

● そうか,今の若者はアーカイヴされるものではなくて,すぐに消えるものに惹かれるのか。ストックにあまり興味がなく,フローがすべてということか。と,とりあえず思った。
 であっても,ぼくは自分の投稿なりツイートをストックしておきたいという欲望(?)から自由になれない。データベース幻想を棄てきれない。

● データベース化するのがいいのか,読まれたらすぐに消えてしまうのがいいのか。こういうふうに二者択一で考えてしまうのが,すでにしてオヤジ思考なのだろうな。
 若い人は多様化を受け容れているのだろう。すぐに消えるものを受け容れたからといって,従来型の残るものを棄てるわけではない(たぶん)。SNOWを受け容れるけれども,LINEも使い続ける(中高年にとってLINEといえばチャットだけれども,若い人はSNS機能を活用しているらしい)。

● ぼくらロートルは,すぐに消えてしまった方がいいものはネットに出さないようにしている(それをしないヤツが,特にFBには多い印象があるにはある)。セーブをかけている。
 それが習い性になっているから,今さらSnapchatやSNOWを与えられても,使いこなすことはとてもできないと思う。

● こうして中高年は時代のメインストリームから離れていくのかもしれないけれど,何でもかんでも若者のマネをしなければいけないというものではない。自分の流儀で進むしかない。そう居直ることにしよう。
 が,自分の流儀が正しいとか,それがすべてだと考えないようにしないとね。そこは最低限だ。中高年はそうなりがちだから,注意しないといけない。

● 多様化とはいっても,重心は消える方に移行していくのではないか。若者の間では。
 つまり,中高年に新しいものは作れないということだ。中高年はそのことにも自覚的であるべきだと思う。

2019年3月12日火曜日

2019.03.12 Instagramはどうなるか

● 若者がFBから逃げだしている,逃げだした先がInstagramだ,と言われだしたのは数年前。今はどうなっているんだろうか。同じ傾向が続いているんだろうか。
 ひょっとすると,若者はInstagramからも逃げだしているのではないか。ユーザー総数も減っているのではないか。インスタ映えという言葉もあまり使われなくなったような気がするし。

● 素人が撮ったスナップ写真が星の数ほどになったところで仕方がない。しかも,その多くはリア充自慢に属するものだろう。もっとも,誰もがリア充自慢をしなくなれば,SNSはすべて消えてしまうかもしれないのだが。
 Instagramもいずれは飽きられるはずのものだ。飽和点に達するのはFBよりずっと低い水準だと思う。

● すでに年寄りがかなり増えていて,そこに企業が顧客獲得のために参入してくると(もうしていると思うのだが),Instagramからの若者逃亡が本格化するだろう。
 そうなると,年寄りのリア充自慢なんかに誰も付き合いたいとは思わないから,Instagramは一気に衰退に向かう。

● と書いたところでググってみたら,Instagramはまだユーザーを増やしているらしい。本当かね。が,さほど遠くない将来に頂点を付けると予想しておく。
 ただし。FBはそっくり消えるだろうと思っているのだが,Instagramは下降期に入っても長く残るかもしれない。

● FBに対するTwitterの利点は,言いっ放しが許される雰囲気があることだ。コメント(返信)が付いても,わりと気軽に無視できる。
 FBではそうはいかない。“友だち申請→承認”という前段の手続きがものを言っている。拘束感が強くなる。そういう世界は,バカが1人でもいると村社会になってしまう。
 Twitterにはそれがないから,つながりの具合が緩やかだ。この点において,InstagramはTwitterに近い。

● もう一点。“ストーリーズ”の存在だ。「写真または動画の投稿から24時間で非表示になる」というサービス。これが若者をつなぎとめるかもしれない。
 スナップチャットに学んだものだろうか。消えてしまうものがなぜ人気なのかといえば,リアルのコミュニケーションに近いからだと思う。リア充自慢にウンザリすることからも解放される(すぐに消えるSNSでそんなことをするバカはいないだろう)。

● 今どきの若者は“世界に向けて発信”などというアホらしいコピーに踊ることはないのだろう。仲間内に届けばよい。仲間内なのだから届けば用済みだ。その後も残っている必要はない。むしろ残らない方がいい場合が多い。後顧の憂いなく,アホな自分を演出できる。
 ともあれ,アクティブユーザーほどストーリーズの利用率が高いらしい。年寄りの侵入を防ぐのにも都合がいい。

● ぼくもInstagramに登録だけはしているが,投稿したことは一度もない。フォローしている人もいない。
 Instagramを見るのは,測量野帳やトラベラーズノートの使われ方の実例を見たくなったときだけだ(そのためにInstagramが適当かどうかは別の問題)。月に1回あるかないかの頻度。
 そういう使い方しかしてないなら,IDを持っている必要はない。で,ぼくのような人がけっこういるのではないかと思うわけだ。そういう人もユーザー数に含まれている。

2019年3月7日木曜日

2019.03.07 本好き,あるある

● 宇都宮駅東のうさぎや書店に立ち寄った。ほぼ日文庫の『小ネタの恩返し』4巻を購入するため。「ほぼ日」に連載された読者投稿をまとめたもの。
 同じ趣向の『恋歌,くちずさみながら。』が面白かったので,同じ読者投稿を編集したこちらも読んでみることにした。2016年の発行。もっと前かと思っていた。
 「ほぼ日」のサイトでも読んでいると思う,たぶん。が,パソコンやスマホの画面で読むのと,紙の本で読むのとは,まったく別の体験だと,最近,痛感するようになった。

● 「ほぼ日」の書籍が置いてあるコーナーは,上野駅構内にあるANGERSの書籍コーナーとほぼ同じテイスト。暮らし関連のもの,料理や衣に関するものが置かれている。暮しの手帖社の出版物や,伊藤まさこさんのものなど。

● その中に手作り豆本があった。本好きあるある的な短文をまとめたもの。“本好きはたいてい散歩好き”とか“買った時点でとりあえず満足”とか“本で金欠”とか。
 ぼくはすでに本好きという範疇に入るほど,本を買わなくなって久しい。が,その感覚は憶えている。けっこう共感できるのだ。

● 買って帰ろうかと思った。のだが,その豆本は「みほん」がひとつあるだけなのだ。それをばらして栞にしたものが,1枚200円で売られている。これでは手が出なかった。

● ところで,この売場のテイストについて,だ。以前は,こういうデザインされたコーナーがあるとオヤッと思ったものだが,最近はやや食傷気味。
 この書店ではこういうコーナーもあるというだけで,売場の大半では通常の並べ方をしている。が,中にはデザインされたコーナーが売場の100パーセントという書店もあるらしい。
 そういう書店に行ってみたいとはあまり思わないし,そういう書店で本を買うこともたぶんないと思う。

● あまり大きな書店ではできないけれども,宇都宮にあるような規模の書店なら,時々は売場の全部を歩いてみる。女性誌の売場も含めてだ。
 発見があるときもあるし,ないときもあるが,オッと思ったものを購入する。Amazonは買いたい本がピンポイントで決まっているときには便利極まりないと思うが(といって,Amazonで本を買ったことは一度しかないのだが),たいていは現物に触発される。

● 触発されるときに,妙にデザインされたコーナーだと,こんなものに触発されてたまるかと思ってしまうんだな。妙に人の手が入っているのはイヤだと思ってしまう。機械的に並んでいるのがいい。
 機械的といったって,本の並べ方が完全に機械的になるはずがないので,バラツキは出る。で,バラツキなんてその程度で充分だ。わざわざ醸されたテイストには,ぼくは拒否反応を示してしまう。

2019年3月5日火曜日

2019.03.05 韓国は大丈夫なのか

● 右は3月2日の下野新聞。韓国の文在寅大統領が対日批判を転換したと報じている。しかし,日本側の反応は冷ややか。
 状況の変化に応じてカメレオンのようにクルクル変わるという印象しか持たないもんね。状況に応じて態度を変えることすらできないのでは話にならないのだけれども,それだけだとまた状況が変われば対日批判を繰り広げるのだろうとしか思えない。
 約束を守らない(したがって交渉ができない)大統領という抜きがたい不信感を,ぼくなんぞも抱いてしまっている。

● SNSには国交を断絶しろなどと威勢のいい意見が飛び交っている。日本政府は冷静に対応するだろうけれども,そうはいっても韓国が自壊するのは止めようがない。
 そろそろ,韓国の株とウォンの同時暴落を視野においた方がいいんだろうか。つまり,そうなったときにサッサと買い出動できる態勢を整えておいた方がいいのかということ。

● 一国のトップがここまでノータリンだと,他国に無限の富をもたらす源泉になるんじゃないかと思ったものだからね。
 暴落したところでサムスンでも何でも韓国企業の株を買っておけば,株と為替の往復ビンタで儲かるんじゃないかなぁ,と。

● 両班文化の名残なのかね。文班,武班の2つで両班。文班が格上。そういう学識を備えた文人が政治を担うべしという。
 その当時だって学識で政治ができたとは思えない。まして21世紀の現在,文人政治家ってのは害しか為さないと思うんだが。
 日本でもそうだ。政治家をマスコミが批判するが,そのマスコミ人はたぶん文人気取りなのだろう。文人を気取れるのは判断基準を少ししか持たない単純バカだからで,そのへんが見透かされているから,新聞は部数を大きく減らしているし,テレビはそっぽを向かれるようになった。

● 素人考えながら,政治というのはつまるところ現状分析ではないだろうか。現状を細かく分析してどう動くのが自国の利益に叶うのかを考える。短期,長期に。終わりのない現状分析と近未来の予想が政治の仕事だ。
 理想というテーゼにてらして是非を決めるのは,つまりイデオロギー優先ということ。自称文人に決定的に欠けているのは細かい分析を避けて通ってしまう知性の欠如だ。頭が(いいとか悪いとかではなくて)弱いことだ。

● 韓国のまともな経済人は苦虫を噛み潰しているのじゃないか。外界と不断に接している人なら,夜郎自大の危うさくらい,すぐにも気づく。危機感を持っていると想像する。
 が,トップと大衆がバカなんじゃ,手の打ちようがない。大衆がバカなのは世界共通だから仕方がないとして,トップがバカではどうにもならない。

● というと,おまえの国でも鳩山某とか菅某というバカをトップにしたではないかと言われるかも。唯一,そこだけが反論できない日本の傷であるわけだが。

2019年3月4日月曜日

2019.03.04 痛恨の凡ミス

● 先週の金曜日,3月1日のこと。帰宅してから胸騒ぎが始まった。
 1日作業したパソコンのデータをセーブしないで,シャントダウンしてしまったかもしれないのだ。かもしれないじゃない。たぶん,間違いない。
 けっこうな時間をかけたのに,その過程で一度も保存していなかったっぽい。

● Chromebookとは違うんだよ,Windowsなんだよ。ひっさしぶりの大ポカだ。もう一度,同じ作業をしなければならないとしたら,首をククリたくなるぞ。
 いや,普段はある程度のところでセーブしてるんですよ。その日に限ってそれをしなかったんだな。してるつもりだったんだけど,ほんと,つもりに留まっていたんだ。

● 何だろうなぁ,こういう日もあるんだな。ボーッとしてたつもりはないんだけどな。
 にしても。シャットダウンする前に保存するのを忘れていたとは。その作業のあとに何かをやってしまったからだな。だから,作業中であることを忘れてしまった。

● こまめにセーブしておくことが大切だとはよく言われることだし,当然,ぼくも知っていた。で,実際にそれを実行できるのは,やっている作業との間に距離があるときなんだよね。
 作業にのめり込んじゃうと忘れるんですよ。没頭してしまうと,パソコン操作の基本事項から離れてしまうことになる。

● 翌日も翌々日も,データを保存しないで,パソコンをシャットダウンしてしまったショックがけっこう残っていてね。
 プライベートではChromebookで,会社ではWindowsって人,やっちまったことはないですか。クラウドに保存するときは,そもそも保存というアクションはないもんね。スマホが典型的にそう。
 Chromebookに慣れた人がWindowsを使うと,わりとやりそうな気もするんだけど。いや,そんなトンマなヤツはいないか。

● ぼくはWordって使わなくてね。“メモ帳”で全部書いて,印刷が必要なものだけ(それが大半なんだけど)Wordにコピーして形を整える。パソコンが非力だった時代の習性を引きずっている。
 その“メモ帳”での作業を終えたところでシャットダウン。ので,自動保存はされていないと思うんだよね。

● むむむ,次に起ちあげたときに,データが残っていないか。わずかな期待をこめて,今朝,職場のパソコンを立ちあげてみたのだが,やなり期待は虚しかった。
 いや,それを期待といっちゃいけないね。真夏に雪は降らない。年末ドリームジャンボ宝くじで10億円があたる可能性はゼロではないが,このデータが残っている可能性はゼロなのだ。

● “メモ帳”の場合,作業ファイルは作成されない。データはすべてRAM上にある。したがって,電源を落とせばその瞬間にこの世に存在しないものになる。
 いったん保存したファイルを誤って削除してしまったのなら,復元ソフトを使えば救いだせるかもしれないが,RAMから消えたものは存在が消失したのだから(いや,存在に至らなかったのだから),復元ソフトを使ってもどうにもならない。復元すべき対象がないのだから。
 という理解でよろしいのでしょうか。

● 復元可能なテキストエディタもある。が,職場のパソコンだからね,勝手にインストールはできないようになっている。
 最初からWordでやっておけばよかった。ぼくはプログラマーでもないし,今のパソコンならWordでもサクサク動くんだから。
 というわけで,今日はほんとにブルーマンデーだ。記憶力を頼りにやり直しだ。すぐにその作業にとりかかる気にはとてもなれなかった。

2019年3月3日日曜日

2019.03.03 ロイヤルパークに投宿

● 3月2日,川崎の溝口に行った。帰りは東急田園都市線で。渋谷から半蔵門線に入るので,乗換なしで水天宮前へ。
 というわけで,今週もロイヤルパークホテルに投宿。

● 相方とラウンジで落ち合って,遠慮なく飲み始める。
 雛祭りなのだな。ラウンジにも桜あんぱんと金平糖と雛あられが用意されていた。桜あんぱんは数量限定で,ぼくは食べられなかったのだが。
 他のメニューはいつものごとし。ハイボール3杯で部屋に戻る。

● 外に散歩に出るつもりだったが,横になったら意識を失ったらしい。20時にはなっていなかったと思う。
 0時過ぎに目が醒めたので,洋服を脱ぎ,しかしパジャマは着ないで,歯を磨いて,もう一度寝た。
 翌朝(つまり今朝)起きたのは7時過ぎ。1日の半分を寝て過ごしたわけだった。さすがにこれだけ寝れば気分爽快。矢でも鉄砲でも持って来やがれ。

● ホテルのラウンジで朝食。いつもの和食。
 写真の昆布巻き蒲鉾の他に,普通の蒲鉾もあるんだけど,それが今日はスーパーで売られているのと同じ水準だった。いつものは品切れだった? が,ここの売りは(たぶん)洋食にあり。

● 前回から,2人用あるいは4人用のテーブル席では亡くて,カウンター席というか,大人数で囲む大きなテーブル席の隅っこに席を取るようになった。その方がテーブルを広く使えるからだ。
 今回,子連れは皆無。外人さんが多い。対面も男性2人連れの外人,隣も外人。で,彼らの食事の様をジロジロと見てしまった。
 パンを箸のように使うのだな。という言い方では何のことかわからないが,皿のうえで散らばった食べものをまとめたり,汁がこぼれないように押さえるのにパンを使うのだ。なるほどと思った。

● 今日は雨。これでは散歩も叶わない。が,それで困ることは何もなかった。
 昨夜のうちにやっておくべきことをした。歯を磨く。風呂に入る。下着を替える。それで半日終わり,チェックアウトの時刻になったからだ。

● で,ラウンジでチェックアウト。桜あんぱんを食すことができましたよ。
 対面に50歳前後とおぼしき女性が1人でいて,ThinkPadとSurfaceを同時に開いてお仕事中。iPhoneのイヤホンを耳に突っ込んでいる。
 大したことはしちゃいないと思う。集中している気配はない。集中するならラウンジではなく客室でやるだろうしね。人に見せるためにやっているのが見え見えではある。が,何だか孤高の趣があってカッコいい。つまり,見せることに成功している。
 写真撮らせてください,と頼んでみようか。ま,そんなことはできるはずもなく。

● というわけで,今回はホテルから出ずに過ごしたのだが,寝ている時間が長かったためか,いつも以上に時間が早く過ぎた感じ。

2019年3月2日土曜日

2019.03.02 溝口(川崎市高津区)を散歩

川崎駅 南武線ホーム
● 南武線の武蔵溝ノ口に向かう。上野東京ラインで川崎まで乗って,乗り換えるわけだ。こういうとき,上野東京ラインができて便利になったなぁと思うわけだが,今日に限っては湘南新宿ラインでも問題はない。
 湘南新宿ラインは武蔵小杉に停車する。その武蔵小杉は南武線の駅なのだ。
 川崎に出る際も,武蔵小杉で乗り換える手間を厭わなければ,湘南新宿ラインでも所要時間はそんなに違わないかもしれない。といっても,その手間を厭うわけだが。

武蔵溝ノ口駅南口
● 武蔵溝ノ口,初めて降りる駅だ。川崎市高津区になるらしい。
 武蔵野の面影が残っていると思って見れば残っているようにも見え,すっかり開発されてしまったと思って見ればそのようにも見える。
 が,街としての落ちつきはあって,いいところではないかと思えた。

● 最近では,武蔵小杉が東京への通勤者に選ばれているようで,高層マンションがどんどん建ち,混雑も大変なものになっているようだ。そういうところは,第2の高島平,第2の多摩ニュータウンになりそうで,将来を憂えたくなる。
 が,高島平や多摩ニュータウンは,そっくり人間が描いた設計図によって造られたのに対して,武蔵小杉の場合は自然にそうなったということかもしれない。だとすれば,しぶとく残るだろうか。

● が,東京に通勤するのだとしても,一歩退いて溝口にした方がいいのでは。こちらは東急田園都市線が動脈になるから,東京といっても,小杉とは系統が違ってくるのかもしれないが。
 もっとも,ぼくにはどっちにしても無理だ。こういうところに住める強靱さは持ち合わせていない。もし住むなら,電車に乗らなくてすむ区役所で働きたい。

● さて,武蔵溝ノ口駅,メインは北口らしい。たぶん,区役所もこちら側にある。賑わいもこちら側が南口側を圧倒する。
 が,ぼくがとりあえず降りたのは南口の方だ。最初に落ちつきがある街だと感じたのも,南口に出たからかもしれない。

洗足学園
● 南口には洗足学園がある。この落ちつきを作っているのは,洗足学園の存在が大きいのかも。
 音大を訪ねるのは,藝大に次いでこれが二番目になるのだが,藝大はかなり狭い。上野のあの場所にあれ以上の敷地を望むのはそもそも無理かと思うんだけど,建物がかなり建てこんでいるという印象を受ける。
 対して,洗足学園のキャンパスはかなり広い。附属高や附属中もここにまとまっているようだ。
 都心によくある高層の校舎ではなく,低層の建物がいくつかあって,しかも名のある建築家がデザインしたものなのだろう,キャンパス全体が公園のようだ。
 学生にとってどちらがいいのかはわからないが,地元民にとっては,洗足学園のこのあり方はかなりありがたいのではないか。

● 良さげな非チェーンの居酒屋もあって,事情が許せば飲んで行きたい。そういう街はいい街に決まっているのだ。と,飲ん兵衛は思う。

● たぶん,ここの住人は南武線で川崎に出るよりも,田園都市線で二子玉川や渋谷に出ることが多いだろう。ちなみに,小杉の住民も自分の顔を川崎には向けないだろう。自分のフランチャイズは恵比寿や渋谷だと思っているのでは。
 もはや川崎市という実態はあるのかというくらいのものだが,しかし,そういうこととは関係なく,溝口という街は存在していて,良さげな雰囲気を放っている。