2018年6月9日土曜日

2018.06.09 「住めば都の高根沢」の迷惑

● 「住めば都の高根沢」というプロモーションビデオができたようで,だいぶ前から,宝積寺駅の改札口の隣にあるディスプレイで再生されている。
 それは別にいいんだけれども,今日は駅のホームの拡声器から大音声でエンドレスに流されていた。これはどうなんだ? ぼくは公害レベルの騒音だと感じたんだけれど。

● 駅のホームには多数の人が集う。電車を待ちながら静かに本を読みたい人がいるだろう。「住めば都の高根沢」ではない自分の好きな楽曲をiPodやスマホで聴きたい人がいるだろう。友だちとお喋りに興じたい人がいるだろう。ボーッとしていたい人がいるだろう。
 この大音量とエンドレスは,そういうことを一切許さない凶暴性を帯びる。暴力を超える暴力だと感じた。普通,暴力の対象は個人だが,これは多数に一気に働きかける。働きかけられた側には,それを防ぐ術がない。無抵抗を余儀なくされる。

● ひょっとしたら,スヤスヤと眠っている乳児を連れた母親だっているかもしれない。その母親と乳児にとって,この大音量ははっきり拷問である。
 そういうことに思いが及ばないのだとすれば,いくら何でも想像力の欠落がすぎる。

● 「住めば都の高根沢」をホームで流すことをやめるわけにはいかない事情がもしあるのであれば(可能ならば,やめてもらいたいのだが),音量を抑えてもらいたい。
 歌を聴くには,それに適した音量というものがある。それを超えた音量にしてしまっては,歌を殺してしまう。
 その適切な音量からさらに一段絞ることだ。駅のホームでは利用者が思い思いに過ごす。その“思い思い”を邪魔するようなことが絶対にあってはならない。
 過ぎたるは及ばざるがごとし,ではない。この局面では,及ばざるは過ぎたるに勝れり,が正しい。

● それでなくても,駅には“騒音”が多いのだ。1番線に下り列車が来るだの,危険だから黄色い線の内側に下がれだの,列車遅れまして申しわけございませんだの。
 それらのアナウンスは,意味がゼロではない。だから我慢もする。しかし,駅のホームで大音量の「住めば都の高根沢」を聞かされることを我慢しなければならない理由は何か?

● しかも,「住めば都の高根沢」は高根沢町へ移住してねという内容なのだから,町内で流しても何にもならないではないか。町外でプロモーションをかけるのでなければ意味がない。
 宝積寺駅には町外の居住者もやってくるからか。たしかに。が,その人たちの大半は通勤時間帯にやってきて,退勤時間帯に帰って行くだろう。したがって,その時間帯に流すのでなければ,これまた意味がない。
 が,混みあうその時間帯にこんなものを流したら,苦情が殺到するのではないか。苦情がこない時間帯を選んで流しているのだとすれば,何のために流しているのかわからないことになる。

● じつははるか昔に,これと似たような状況に遭遇したことがある。40年も前になる(国鉄だった頃)。岡山県の某駅で,当時ヒットしていた山口百恵「いい日旅立ち」をやはりエンドレスで延々と流していたことがあったのだ。おそらく,その某駅だけじゃなくて,全国のそちこちの駅で同じ現象が見られたのではないか。
 ぼくは山口百恵のファンだったけれども,エンドレスで延々というのには辟易するしかなかった。なるほど,国鉄の現場は頭を使うことを極端に忌避するのだなと思ったことだった。
 まさか40年後に同じ情景に出遭うとは思わなかった。

● こういう馬鹿以前の試みを,JR側が発案したとはさすがに思わない。思わないが,ここは発案者に対して,民間企業の矜恃を示してもらいたい。
 民間企業の矜恃とは何か? 利用客の方を向いて仕事をするということだ。

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