● 死別か離別か知らないが,1人で暮らしている女性がいる。子供も大きくなって巣立っていった。寂しいのでパートナーが欲しいという。
男は孤独になる時間がないと男を維持するのが難しくなるが,女はずっと孤独だと女を維持することは難しい,と言われる。たしかになと思う。女からお喋りを取りあげるのは,女じゃなくなれと言うに等しい。ほとんど拷問に近いのではないかと思う。
● そのことと1人では寂しいからパートナーが欲しいというのは,つながりそうだが別の話ではないかと思う。
これに対する自分の意見を本人に告げる必要はないが,たぶんそれではダメだと思う。寂しいという観念的というか一般状況がまずあって,それを埋めるための道具としてのパートナー。そもそもダメでしょ。動機が不純すぎる。その寂しさは引き受けるしかないものでしょ。
● 寂しさを他人に埋めてもらおうというのはダメ。人は自分の道具ではない。人に対する操作主義は排さないと。寂しさは自分の行為によって埋めるものだ。
まずあるべきなのは,この人となら一緒にいたいと思う,具体的な“この人”だ。それが出発点のはず。20歳でも60歳でも,そこは同じだろう。
● 恋愛するにも能力が必要だ。恋愛能力。その能力は若い人が多量に保持している。経験が少ない分,簡単に異性に幻想を持てるということもあるだろう。年を取れば,どうせ男はこんなもの,しょせん女はそういうもの,という的確な見切りができるようになる。性欲も若い頃に比べればないに等しい。
そういう状況で恋愛するのは困難だとは思うけども,しかし,それなくしてパートナーとの共同生活はない。
● だから,まずやるべきなのは,出会いを増やすこと。そのためには,とにかく外に出ないと。人が集まっているところにひょっこり行ってみること。打席に立つ回数を増やすこと。
で,“この人”と出会えるか出会えないか。それはわからない。わからないけれども,人事を尽くすとはそういうことだと思う。
● 寂しさを埋めるためのパートナー探しも同じ方法でやるしかないわけだから,方法論は共通だ。じつは結果もさほど変わらないかもしれない。それでも,出発点が“寂しい”なのか“この人”なのかは,人品骨柄にまで影響しそうな気がする。
理想をいえば,打席に立つのは自分で寂しさを埋めることができた後にするのがいいんじゃなかろうか。寂しくはないけれども,好きな人と一緒に暮らしたいという,マイナスではなくゼロ地点に立ててから,打席でバットを振るのがいいのかもなぁ。
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