2018年7月4日水曜日

2018.07.04 社会人が大学に行くのはマイナスではないか

● 右は放送大学の勧誘リーフレット。
 元祖である英国のオープン・ユニバーシティやお隣の韓国放送通信大学校に対して,放送大学の特徴は,印刷教材に加えて,すべての科目についてテレビかラジオの放送講義があることだ。
 が,インターネットの普及でその特徴も色あせてしまったかも。ぼくも放送大学の卒業生なのだが,放送大学はその役割を果たし終えたような気もする。

● 社会人大学や社会人大学院というのも,ひと頃の勢いはなくなっているように思える。
 化けの皮は剥がれるものだ,と言ってしまっては酷にすぎるか。

● かつてMBAがもてはやされた時期があったのも,今となっては往時茫々の感がある。大金を使ってアメリカのビジネススクールに留学した人が少なくない数いるはずなのだが,さて,元は取れただろうか。
 国内でもビジネススクールがポコポコできた。県内でも作新学院大学がビジネススクールを開設していたことがあるのだ(宇都宮駅ビルで授業をしていた)。ビジネススクールバブルがあったのだ。

● 法科大学院も崩壊したといっていいだろう。法科大学院を修了して,司法試験に合格した人もけっこうな数になるはずだ。
 そうした人たちに訊いてみたい。ちゃんと喰えていますか。

● 教職大学院というのがまだ残っているが,同じ運命を辿るはずだ。教職大学院を現場は評価しないだろう。そんなものが現場で使えるはずもないからだ。

● 良くも悪くも,正義は現場にある。だいたい,ビジネススクールに行こうと考える時点で,ビジネスマン失格のような気がする。資格を取ろうとするのも同じだ。その時点でダメ。
 仕事での付加価値は仕事で付けるしかない。ビジネススクールや資格に行くのは,おそらく逃げだ。リアルの人間関係が辛いから,SNSで理想的な関係を作ろうとするのに限りなく近いように思える。出発点で間違っている。
 ビジネススクールで3年かけて教えているようなものは,本気で仕事をすれば3ヶ月で身につくという人もいる。ぼくもこちらの説を採りたい(自分がそうしたということではまったくない。言うまでもないだろうけど)。

● 要するに,これらは大学側が社会人を相手にして儲けるための装置だった。
 そういう装置に乗せられて,お金を払って,社会人をやりながら学生になって,自分は一歩高い位置にいると思っていたような人は,ネギを背負ったカモになることを自ら志願したようなものだ。それ以上ではない。いわゆる“意識高い系”と同じ愚鈍さを免れないように思える。

● 身も蓋もない言い方になるのだが,地頭の悪い人が,時間とお金をかけて勉強しても,たぶん何も変わらない。そっくりムダだからやめときなと言いたい。その時間とお金がもったいない。それを遊びに使ったら豪遊できるじゃないか。
 もうひとつ,大学や大学院に行くということは,“教えてもらう”を前提にしていそうだ。“学ぶ=教えてもらう”ならば,いつまでも学んでいてはいけない。ある時点で切りあげないと。その時点というのは,大学卒業時(22歳)ではすでに遅いかもしれない。

● 知は力なり,というときの知は,少なくとも知識ではない。知識は図書館に行けばいくらでもある。それ以上に,今ならネットにある(ただし,英語を読めることが前提)。
 それを自分の脳内に移行するだけなら,大学に行くのはまったくのムダ。図書館やネットはタダなのだから。移行作業はひとりでやった方がハカが行く(やろうとする人はいないだろうけど)。

● もはや,大学や大学院に対する社会の信認もかすかにあるという程度ではないか。最上級に賢い高校生は大学を避ける時代なのではないか。
 それなのに,社会人になってからも大学に行こうとするのは,大学が高価な希少材であった時代の尾ひれを付けすぎている気がする。

● 大学は大衆が行くところ。社会人大学や社会人大学院もその例にもれない。大衆と同じことをやっていたらカモにされるに決まっている。
 と,地頭の悪さを何とかしようと放送大学に行ってしまったり,いろいろとカモにもされてきたぼくが言う。

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