2018年3月11日日曜日

2018.03.11 大学はなくてもいい???

● 大学という名が付く学校を卒業してしまった(しかも,2つも。アホか)。ので,大学のいい加減さはわかっているつもり。そういう前提の話だ。

● 右の写真は2018年度のNHKテキストナビ。メインは語学。
 ○○外語大学というのがいくつかあるけれど,NHKのラジオとテレビの語学講座でちゃんと勉強すれば,そんなところを卒業した学生のアベレージよりもはるかに上になるのじゃないか。
 どうだろうか。これに対する異論はあるだろうか。外語大学でやっているのは語学のスキルを高めることだけじゃないよ,その国の歴史や文化,あるいは国際関係論まで視野に入れてるんだよ,そこはNHKの語学番組ではカバーできないだろうよ,と言われるだろうか。

● よろしい。そのとおりだとしよう。しかし,そういうものは書店と図書館でやれないか。山川出版社の「世界各国史」の中から該当する1冊を読むのと,外語大学でやっている対象国の歴史の講義を聴くのと,さてどちらが有益だろうか。いや,有益という言葉は不適当かもしれない。どちらにより実益があるだろうか。
 たぶん,考えるまでもないんじゃないだろうか。「世界各国史」はゆっくり読んでも3日もあれば読めるだろう。それでたぶん,大学の講義を聴いた学生のアベレージはやはり超えることになるだろう。他も同じだ。

● インターネットが普及するはるか以前にその状況はできていたのだ。ことは外国語に限るまい。
 まして,今はネットがあるのだ。大学の講義そのものがどんどんネットで公開されている。なんだったら,アメリカの大学の講義も聴ける。
 こうなると,大学の役割とは何なのかということになる。学士号を授与する権限があるということだ。しかし,今どき学士号などに何の意味があるのか。

● 大学に行くのは,よほど考えた方がいい。貴重な若いときの時間とお金をドブに捨てる結果になるかもしれないのだ。少なくとも,大学を卒業したことは何の箔にもならない時代にすでになっている。
 理工系はまだ存在意義を保っているかに見えるけれども,いわゆる文系学部は原則廃止してしまっていいのじゃないかと,かなり本気で思っている。そうされて困るのは,大学の禄を食んでいる教職員だけだろう。

● 年代を問わず,勉強するのはとても大事なことかもしれないのだが,その手段として大学を選択するというのは,それ自体が大衆性の発露でしかないような気がする。
 かつては大学に知が集中し,大学は知の殿堂であったかもしれない。が,今はそうではない。大学にあるものの多くはネットにもある。
 勉強は一人でできる。一人でできるものは一人でやった方がよい。しかし,多くの人は群れから離れることはしない(できない)だろう。大学はこれからも残っていくだろう(数は減るだろうが)。

● そもそも,大学は勉強をするところではなく友だちを作るところ,一生分のバカンスを前払いで取得するところ,社会に出る前に遊べるだけ遊ぶところ,という受けとめ方をされているかもしれない。
 そう割り切って大学に行くのは悪くない。勉強しようと思っていくのは感心しないけれども,遊ぶために行くというなら反対しない。そういう人たちに老爺心ながらアドバイスがある。

● 東京の大学に行くべきだ。もちろん自宅から通うのは不可。アパートを借りること。自宅から通っていたのでは,大学に行ったことにならない。
 それも多摩の山奥というか閑静なところにある大学じゃなくて,山手線の内側にある大学に限る。どこでもいい。遊びに行くんだから,偏差値を考えてたら逆におかしい。若いときの4年間を都心で過ごすのと,地方で過ごしてしまうのとでは,おそらく大きな差がつく。センスの鍛えられ方が違ってくるだろう。
 都内の大学の定員を抑制する動きがあるが,そんなのはものともせず,都心の大学に行くべきである。

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