● 大昔。社会人となって4年後。大学にいたのと同じ年月が過ぎてしまったのだなぁと,いささか感慨にふけったものだった。
いつだったか,母を連れて大学のある街を訪れた。夜,一人で大学周辺を歩いてみた。頬ずりしたくなるほどの懐かしさを感じた。
● その後,大学の記憶は急速に薄れていった。今,行っても,何の感慨もないだろう。地方都市のひとつとして受けとめるだけだろう。
それはそういうものだし,それでいいと思っている。自分の過去を相対化するっていう大げさな話じゃなくて,(時間的に)あまりに遠く隔たった自分はもはや他人になる。
● 大学は知の殿堂でありリスペクトできるものだと,30代の半ばまで思っていた。今はインターネットに知が詰まっている。スマホでアクセスできる。誰でも掌に大学を載せているのだ。
オックスフォード大学やハーバード大学や東京大学といった組織体は,極端にいえば,なくてもいい。驚くべき時代になったものだ。
つまり,その気になれば大学に行かなくても,大学生がやっているような勉強を大学生がやっているようなやり方で勉強できる時代だ。
● 大学の機能はもはや学士や修士の学位を発行することだけになっている。その学位なるものの価値は,絶賛暴落中だ。暴落するとどうなるかというと,基本の部分,つまり地頭の良し悪しが喫水線の上に浮かびあがってくる。
大学に行こうが学位を取ろうが,バカはバカだよね,ってことになる。
● その暴落したものにまだこだわっている人がいる。くだらんことだ。
現状では医者になろうとすれば大学に行くしかないし,学校の先生になりたい場合も同様だけれども,さてさて,こうした制度もいつまで続くか。
医師や教師にこだわらないのであれば,大学に行ってしまうのは4年間をドブに捨てるのと同じかもしれない。本当にデキる高校生は,すでに大学を見棄て始めているのではないかと思う。
● ちなみに,大学に限らないが,卒業証書などというものは,とっくの昔に処分している。ゴミに出した。保存しておく理由がない。
インターネットやITが普及する前から,卒業証書の賞味期限は長くて10年と言われていた。そりゃそうだと納得した。
● ああいうものは,生きている間に自分で処分しておくべきものだ。残してしまうと,遺族(たいていの場合は奥さん)が処分することになる。亡くなった夫の卒業証書を処分するのがイヤじゃない奥さんはいないだろう。かといって,自分がやらなければ子供にツケを残すことになる。複雑な気分を抱えながら処理することになるだろう。
そういうことを自分以外の人間にさせてはいけない。自分でやっておくべきだ。
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