2014年11月20日木曜日

2014.11.20 ステータスとか“押し出し”とか

● ステータス。自分の地位とか力とか富とかを誇示するための象徴となるモノのことでしょう。そうした意味でのステータスを求める人はいるんだろうか。たとえば,家とか車,洋服,鞄,靴,時計といったもの。
 ひと頃,日本人の間をブランドブームが覆った感があったけれども,それは小なりといえどもステータスを求めた結果なのだろうか。単純に良いモノを持ちたいと思っただけなのか。あるいは,もっと単純に横並びの発想によるものだったのか。

● ぼくはそういうモノに意識が向かなくなっている。それがいいことなのかどうかはわからない。
 高価なモノを高価だからという理由で欲しがることは絶無だ。恥ずかしながら,若いときにはあった。誰でも同じだろうが,高価=高品質という前提(あるいは思いこみ)があって,その品質の方に憧れたのだと思う。
 それがなくなったのは,低価格でも高品質なモノが出てきていることにあるかもしれない。衣料品のユニクロに代表されるような。

● いや,時代の空気のようなものですかね。今はわりとブランドとかステータスといったものに,時代が冷淡になっているのかも。
 いくら高齢化社会だといったって,時代をリードするのは常に若者だ。その若者が高級車や豪邸を見捨て始めている。どうせ無理だからと諦めているんじゃなくて,見捨てているように思われる。

● 斎藤一人さんが言われる“押し出し”は生きていくうえで大事な技術だと思うけれども,そのためにヴィトンのバッグやロレックスの時計が必要かどうか。
 それに,ヴィトンもロレックスも普及しすぎた。押し出しの道具としての神通力はだいぶ弱くなっているのではないか。
 理想的には,自分の内部に押し出せる糧になるものがあることだろう。内なるパワーというか,オーラのようなもの。

● 言っちゃなんだけども,ぼくは全身ユニクロで,どんなところにも行ける(でもないか。いざその局面に立たされると臆してしまうか)。来られる方は迷惑かもしれないけど。
 同じモノをまとっていても,それしか持てない(買えない)からと思っている人と,それをあえて選んでいる人,あるいはそもそも拘泥していない人との差はあるに違いない。つまり,モノが自分を押し出してくれるわけではない。自分の中の気分が問題だ。

● ステータスという考え方はそもそも成立しづらくなっているのだろうな。遠い将来はどうか知らないけれど,今のところは,その考え方じたいが時代遅れのように思う。

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