2016年2月22日月曜日

2016.02.22 自分がSNSに手を染めることになるとは

● SNSに対してはぼくはずっと消極的だった。なぜかといえば,個対個のコミュニケーションなんてネット上でもやりたいと思わなかったから。リアルでもあんまり得意じゃないことを,なんでわざわざネットでやらなければならないのだ?
 とまぁ,ずっとそう思っていた。

● ネットでやれることは情報収集と他との交流だとすると,ぼくは前者をメインに考えてきた。後者の潮流に乗るのは大きく出遅れた。
 ブログを始めたのも2012年の3月だった。周回遅れもいいところ。

● それも,コミュニケーションを欲しなかったからだろう。興味のキの字もない
 が,ブログだったら,言いたいことを言いっ放しにしてればいい。書きたい人が勝手に書き,読みたい人が勝手に読む。コメントやトラックパッドなんぞという機能はあるけれども,それはツイデのようなものだろう。

● それが昨年12月にGoogle+を始め,Twitterに移り,今度はFacebookまで始めてしまった。
 で,今のところ,個対個のコミュニケーションは発生していない。依然として言いたいことを言いっ放しにする段階で止まっている。

● いやいや,言いたいことを言っているんじゃないな。だって,言いたいことってあまりないからな。もっとずっと卑近な,今日は何を食べたとか,何時間寝たとか,そういうことをツイートしているだけだ。
 そういう卑近すぎることを写真を撮ってツイートすることが楽しいのだ。これは,ちょっとした発見だと思っている。

● ブログを始めてから,じつはパソコンをネットにつないでいる時間は減った。極端にいうと,ブログをアップするときだけネットにつなぐというような感じ。
 つまり,自分でブログを書くようになると,人のブログは読まなくなった。ネットから情報を取るということをしなくなった。

● ところが,今はしょっちゅうTwitterを見ている。自分の自分に関する卑近すぎるツイートはそのままライフログになる。卑近すぎるゆえにそれまではメモにも記録にも残さなかったものが,ネットに残っていく。しかも,写真付きだ。そのことが楽しい。
 しかも,わずかな数だけれども,読んでくれている人がいるらしい。

● ブログを書くようになると人のブログは読まなくなった。が,Twitterでつぶやくようになると,多くのひとのつぶやきを読むようになった。
 ブログはつまらないけれども,つぶやきは面白い。その理由も卑近さにあるように思われる。それぞれ自らを語っている。自らゴシップを振りまいている,というのとはちょっと違うけれども,高いところからモノを見てっていうのではない語り口だ。

● 個対個のコミュニケーションはなくても,それだけでその人と対話しているような気分になれる。その錯覚は,なかなかの快感なのだった。
 そこにFacebookが加わるとなると,仕事や生活に支障を来す。Twitterだけでもその気配があるんだから。
 つまりですね,コミュニケーションには至らない,著者-読者の関係的な関係を自分の好きな人と持てるという,そこがTwitterやFacebookの醍醐味なのかもしれないんですね。いずれ飽きるかもしれないんだけれども。

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