● パソコンを叩きながらつらつら惟るに,かつては記憶容量が40MBもあれば一生ものだと言われたものだった。ハードディスクの価格は1MBにつき1万円だった。一生ものの40MBハードディスクは40万円。
当時は扱うデータがテキストだけだったからで,テキストなら1.4MBの2HDフロッピーディスクにかなりの量を保存できた。自分が一生の間に生産するテキストが40MBに達することなどあるまい,と思われた。
● 当時の基準なら,現在のPCは100億円はすることになる。そのパソコンを今は誰もが使っている。実売価格は10万円ほどか。
これほど短期間にこれほどの価格下落が起きることを,身近で体験できたのは幸運だった。
● 価値っていうのは,それ自体に内在するものではなくて,他者(社会,時代)との関係性によって決まるものなんでしょうね。
他者との関係において,稀少だからこそ価値がある。何事もだ。
● 稀少性がなくなれば価値もなくなるとすれば,人間(個人)の価値は下がっているはずだ。ここまで平均寿命が延びてしまえば,下がらないはずがない。
特に,年寄りの稀少性はゼロに近づいている。したがって,年寄りの価値もまたゼロに近づいていると思わなければならない。古希などという言葉は,はるか昔に死語になっている。
● 娘=乙女=若い女性,が珍重されるのは,人類の発生以来だと思うんだけど,それも若い時期がごく短くて稀少だからだ。あっという間にオバサンになってしまうから。
おばちゃんたちが一生懸命若作りをしていて,もしこぞってそれに成功するようなことがあれば(ないと思うが),若く見えることに価値がなくなるだけのこと。
● ダイエットもそうだ。現状ではダイエットに成功する人がほどんどいないから,スリムやスレンダーに価値がある。スリムがあたりまえになってしまえば,スリムであることの価値は暴落する。
はやい話が,よほどのデブでもない限りは,デブであることに健康科学上の問題はないだろう。メタボの基準にエビデンスがあるんだったら,ぜひとも教えてもらいたい。
● “稀少性が下がる”とは“大衆化する”いうことだ。大衆化してしまったものに価値はない。
この伝でいえば,日本ではエルメスやヴィトンにもはや価値はない。持ちたい人は持てるようになっている。したがって,ブランド品に耳目を惹きつける魅力は失せた。
ブランド品はさすがに良くできているから,大事に使えば一生もつ。それが年々生産されて積みあがっていくわけだから,稀少性はなくなって当然でもある。
昔,シャネラーと呼ばれる人たちがいて,特に芸能人の女性がシャネル製品を集めに集めて,それがテレビで放送されることがあったけれども,今それをやっても笑いの対象にしかならないだろう。バカか,こいつ,としか思われない。
● 東大卒の価値も下がっているし,総じてインテリの価値は,大幅に下落している。これも知の稀少性が減ったことによる。知へのアクセスが簡単になったからだ。
しかし,東大はまだいい。誰でも入れるわけではないから,稀少性は保たれている。かわいそうなのは東大以外の大学生だろう。誰でも大学に行くとなれば,しかも誰でも入れる大学となれば,そんなものの価値はその辺に転がっているゴミと同じだ。
● 自転車による世界一周なんてのも,その価値は大きく下がっている。多くの人がやるようになったからだ。
テレビに出るというのもそうかもしれない。それ以外にも数えあげれば,星の数ほどもありそうだ。
● ぼくらがやっていること,やろうとしていることは,その「こと」の価値を下げることでもある。
となってくると,さて,ぼくらは何をやればいいんだろう。
● 稀少性だの,価値だの,そんなことは考えずに,やりたいことをやるのがいいのだ,となるだろう。おそらく,それしかないはずだ。
ただし,その結果どうなるにしろ,それは自己責任だよ,と。
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