2018年4月30日月曜日

2018.04.30 また新橋

● 錦糸町に行く用事があった。往きは「上野→秋葉原→錦糸町」という経路で。復りは横須賀線直通の電車で新橋に出た。
 復りは新橋に出ることが多い。上野東京ラインの列車が新橋に停まるので,かつての上野駅のターミナル機能がそっくり新橋に移行した感じなのだ。
 東京でもいいんだけど,新橋の方がこぢんまりとしていて,駅として使い勝手がいいというかね。ので,新橋。

● 駅構内の「かのや」で遅い昼食。こういう大衆店は高級レストランなどより粗利がずっと多いんじゃないかと思う。商売は少ないお金持ちよりも,多数の貧乏人を相手にすべし。
 といっても,なかなか大変だろうかね。吉野家や回転寿司だって赤字を出すことがあるもんね。でもああいうのは,スケールメリットを追求しすぎた結果というか,大きすぎるゆえに小回りが利かないってのも理由じゃないのかね。そんなことはない?

● 中国人(たぶん)の女の子がずっとアルバイトを続けている。だいぶ慣れたようで,中で日本人店員(店長だろうか)に話しかけたりもしている。
 日本語にも慣れ,仕事にも慣れたんだろうな。余裕をかましている感じだ。で,凄いなぁと思うわけです,こちらは。
 つまり,自分が中国に行って同じことができるかといえば,まったく自信がないのでね。3日ももたないや。尻尾を巻いて逃げ帰ることになりそうだ。

● 今回も銀座に出る気力はわかなかった。銀座に用なんてないしね。行っても外国人ばかりだし。昔はその外国人が珍しかったけれども,今は雲霞のごとくいるからな。
 あと,あれだ,ぼくひとりで東京に出たときは,ほんとにお金を使わない。今回も電車賃のほかには,「かのや」の690円だけだ。そういう人間が銀座ってあり得ない。

● 最近の変化。復りの車内で酒を飲むことがなくなった。コンビニで缶酎ハイ・缶ハイボールとつまみを買って,車内で飲んでたもんだ。“動くパブ”だなんぞと。それをしなくなった。
 じつは家で飲むことも少なくなっている。最近までほぼ毎日だった。今は平均すると2日に1回くらい。酒を欲しなくなっている。おそらく,社会や世間から一歩引いた位置にいることができるようになったからでしょうなぁ。
 ずっと前から一歩引いてたじゃないか,おまえは,と間違いなく言われそうなんだけどね。

2018年4月29日日曜日

2018.04.29 烏山線沿線ウォーク

参加証のピンバッジ
● 「烏山線沿線ウォーク」に参加。宝積寺駅から烏山駅まで,烏山線に沿って歩くという催し。
 2012年には中止になった。その後,ずっとやってなかったので行事じたいをやめたのかと思ってたんだけど,そんなことはなかったんでした。去年もその前の年も催行されたっぽい。ぼくが知らなかっただけで。
 で,2011年以来の参加になった。9時から受付開始。参加料は300円(保険料)。

● が,今回は午後から用事があったので(自分で勝手に作った用事だけど),烏山駅まで歩くのは最初から諦めていた。大金駅までは行けるかなと思ってたんだけど,時刻表を確認したら,大金発の上りは,10:45のあとは12:49までないのだ。12:49発では午後の用事に間に合わない。10:45までに大金まで歩くのは無理。
 ぼくは歩くのがあまり上手じゃないのだ。速く歩けない。相方と出かけると,あんまり遅いからあなたに合わせるとかえって疲れてしまう,と言われる。
 ま,行けるところまで行くことにする。

● 前を歩いていたのは中年のご婦人の二人連れ。歩く気があるのかないのか,よくわからない歩き方をしている。要するに,やたらに止まっている。道端の草花を愛でているらしい。食べられる草があるらしいのだ。あそこにも,あら,あそこにも。完歩することを第一には考えていない様子だ。
 対して,男性には黙々と歩く人が多い。もちろん風景を見てはいるのだろうが,そのために歩くことをやめることはない。

● これを即,男女の性差に持っていっていいのかどうかはわからないけれども,持っていきたくなる。
 男はその催事のタイトルに縛られる。“ウォーク”なんだから,歩くことが第一だとサッと決めてしまう。そのために参加したんだよ,と。
 一点集中だ。視野狭窄ともいう。だから,途中にあるものを見逃しやすい。

● 2011年まではこの“ウォーク”は3月下旬に行われていた。この時期は生命の芽吹きが一斉に始まる時期なのだろう。歩いていると,だいたいは雑草なのだが,草花の命の上昇気流のようなものをそれこそムワッとするほど感じる。呆然となるほどだ。
 が,4月の下旬ともなると,芽吹きは終わって,安定期に入っているようだ。目眩がするような,空気が重く感じるような,凶暴と言いたくなるような,禍々しさは感じない。
 “Before-After”の違いの乖離ではなく,変化の渦中にこそ勢いは宿るものだ。という,あたりまえのことを思った。

● 下野花岡駅の近くに立派なお寺(地蔵寺)がある。立派かどうかは見る人によるかもしれないけれども,ぼくには立派に見える。
 集落にお寺は欠かせないものだ。人は必ず死ぬ。残った人に落とし前をつけさせる装置として,現状では寺は欠かせない。しかも,これから団塊世代が死亡適齢期を迎える。お寺(と葬儀屋)だけはこれから本格的な繁忙期を迎えることになるわけだ。

● さらに行くと,立派な門構えの豪邸が見えてくる。蔵もあるようだ。もと庄屋の邸宅だろうか。こういうのがいくつもある。庄屋が何人もいたのかね。
 しかし,時代には残酷なところがあって,こういう邸宅を負の遺産にしかねない。外華内貧(という言葉があるのかどうか知らないが)は淘汰される時代に入っている。
 これらの邸宅の内側が貧だと言うのは失礼千万な話であって,内も華かもしれないんだけれど。いや,華に違いないんだろうけど。

● 仁井田駅前の広場に雷の直撃を受けたとおぼしき桜の木があった。枯れてしまったわけではなくて,ちゃんと葉を繁らせている。
 徳俵に足をかけて,かろうじて残っているような様にも見えるが,雷による破損など歯牙にもかけていないようにも見える。にしても,植物をやっていくのも楽じゃないなと思った。

● 結局,その仁井田駅までしか歩けなかった。宝積寺から二駅分を歩いたにすぎない。今回は午後を費やすわけにはいかないのだ。じゃによって。舩山二等兵,ここで戦線を離脱します。
 でも,それなりに面白かったよ。大勢で歩くって楽しいんだわ。別に誰かと話をするわけじゃなくてもね。っていうか,一人で烏山線の沿線を歩いてみたって,面白くも何ともないよね。サイクリングは一人でOKなんだけど,長距離を歩くには今回のような催しを掴まえた方がいいような気がする。

2018年4月28日土曜日

2018.04.28 藤井六段の対局

● 藤井六段の対局のハイライトがいくつもYouTubeに上がっている。わからないくせに,ついつい見てしまう。
 解説者の岡目八目がないような気がするね。対局者ほど読めていない。藤井六段の読みについていけてないっていうかね。

● 終盤では詰将棋で鍛えた読みの力がモノを言うんだろうか。見落とさないんだよね。
 定跡とか常識とか,あんまり藤井六段には関係ないような気がする。そういうものに囚われない人なのかも。人間の思考の癖をわかっていて,そこから自由でいる,という感じ。
 対局態度が図々しく見えるのも特徴。もちろん,感嘆した言い方だ。これなら上位者に臆してしまって普段の力が出せないなどという,素人が考えてしまいがちなことはないんじゃないか。

● 史上最年少のタイトルホルダー,史上最年少の永世称号保持者になるのは,ほとんど間違いないような気がしてきた。最速なら今年中にタイトルを取るかもなぁ。
 負けるとニュースになる棋士になった感がある。29連勝を達成した頃は,勢いがある,調子がいいという見方があったし,ぼくもそう思っていたのだが,もうそうじゃない。これは地力だ。

● おそらく,只今現在,最も強い棋士は藤井六段なのではあるまいか。まるで14歳のときの浅田真央みたいだ。

2018年4月25日水曜日

2018.04.25 食生活 茨城vs栃木

● 宇都宮の餃子が他に比べて特に旨いわけではないように,水戸だからといって納豆が特に旨いわけでもないだろう。もし旨い納豆があるとすれば,よほど丁寧に作っている小メーカーがなければならないが,なかなかそういう小メーカーが生き残れる時代ではない。水戸でもそこは他と変わらないだろう。
 多くの水戸市民,茨城県民はタカノフーズの“おかめ納豆”を食べているに違いない(“天狗納豆”はこちらでは見かけることがない)。ぼくら栃木県民があずま食品の“朝めし太郎”を食べているがごとしだろう。

● ひょっとすると,一人あたりの納豆消費量は栃木が茨城を凌いでいるのではないか,と思ったりもする。海を抱えている茨城には,旨いものがたくさんあるのじゃないかと思うのだ。納豆に頼る必要はさほどにないのではあるまいか。
 栃木はそういうわけにいかない。その昔,下野国の食生活はごく慎ましやかだったのではないかと想像する。ありていに言えば貧しかった。栃木には食文化と呼べるものは育たなかったのではないか。
 それが今でも尾を引いていて,餃子のような安価でそれだけで腹にたまるものや,大豆と納豆菌でできる納豆が好まれているということではないか。

● “しもつかれ”という料理がある。これは鮭を頭まで食べるための工夫だ。鮭の頭を食べるための料理だ。それほどに魚(動物性蛋白質)が貴重だったのだろう。
 ぼくの記憶にも,文字どおり塩の中に漬けこまれた鮭が残っている。塩を落とすなんてことはせず,そのまま焼いて食べた。信じられない塩っぱさで,切り身の4分の1でご飯が1杯喰えた。当時の大家族でも切り身が3つもあれば,おかずはそれで足りたろう。

● 率直にいう。“しもつかれ”は人間が食べるものではない。見かけの問題ではない。それ以前の話だ。そうまでして鮭の頭を食べなくたっていいじゃないか。
 もちろん,今の市販されている“しもつかれ”には,旨くするための工夫がこらされているだろうし,洗練を施されてもいるだろう(ぼくはここ40年ほど“しもつかれ”を食べたことがないので,想像で言っているのだが)。いずれは栃木の観光資源として確固たる地位を占めるのかもしれない。
 が,“しもつかれ”を産んだのは貧しさだ。素寒貧の食生活だ。

● 昔はワラビやゼンマイを摘んで食用にした(今から考えれば贅沢なものを食べていたことになるのかもしれないが)。あとはぜいぜい蕎麦か。祖母がよく蕎麦がきを作っていた。砂糖醤油で食べると旨かった。
 なので,こと食に関しては,栃木県民が他県に対してもの申す的な言い方をしてはいかんと思う。

● その点,茨城には魚があった。生でよし,焼いてよし,揚げてよし。今でも冬の鮟鱇鍋をはじめ(鮟鱇のほとんどは北海道から持ってきたものだとも聞くが),春夏秋冬,食卓が寂しくなることはなかったろう。
 ファストフードがご馳走に思えた人の割合は,茨城よりも栃木が高かったはずだ。栃木にはこれという郷土料理もないのだ。茨城vs栃木となると,茨城の圧勝,栃木の完敗である。

● 一応,念のために申しあげておくけれど,今の栃木に旨いものがないというわけではない。いくつか例をあげよう。
 ひとつは,今市のたまり漬け。たまり醤油で漬けたキュウリや茄子。絶品といっていい。ご飯に載せてよし,日本酒の肴によし。他県から来た人の栃木土産として,もっと使われてもよいのではないかと思っている。
 佐野ラーメン。ラーメンには御当地ラーメンがいくつもあるが,佐野ラーメンが少々以上に地味な存在に甘んじている感があるのは,すこぶる残念だ。佐野の周辺地域が佐野の足を引っぱっているのではないかと思うほどだ。博多や札幌,何するものぞ。喜多方など佐野の足下にも及ばないと思うのだが,いかがか。
 蕎麦。旨い蕎麦は全国にあるものだとは思う。が,ぼくは長野県で蕎麦を食べて旨いと思った記憶がない。栃木の蕎麦は旨い。ここでもぼくは今市を向いてしまうのだが,茂木や烏山,真岡などに,水準を抜く店をいくつか知っている。ダメな店もそれ以上に知っているが。

2018年4月24日火曜日

2018.04.24 中禅寺湖畔

● 右は最寄りのJR駅にあった日光の観光PR紙。栃木県の全国区といえば,はやり日光か。
 このPR紙に写っているのは,旧英国大使館別荘。英国大使が避暑のために住んだのだろう。たぶん,英国大使以外にもそういう人はいたはずで,中禅寺湖畔はセレブが集う場所だったのだろう。これはつまり,場が持つ力であって,その力は現在でも保たれているはずだ。

● 現在の中禅寺湖畔はその力を活かせていない。どこにでもあるような土産物屋と観光客めあての大衆食堂が軒を連ねている。二流の観光地の趣だ。
 が,リッツ・カールトンが開業することが決まっている。中禅寺湖畔が変わるかもしれない。地元では変えることはできない。よそから来た人たちが変えてくれる。
 これ以上悪くなりようがないのだから,良い方向にしか変わりようがない。というわけだから,希望が持てる。

● そうした場の力が感じられるのは,栃木県では2つしかない。ひとつは中禅寺湖畔だが,もうひとつは那須。御用邸があるあたりだ。御用邸を引っぱってこれるのが,場の持つ力だろう。
 ここには「山楽」や「二期倶楽部」など,全国区の高級旅館・ホテルがある。おそらく,“高級”というのはホテルにしても他の施設にしても,施設単体では成立できない。それに適した場がないといけない。

● といって,中禅寺湖まではあまり行ったことがないなぁ。たぶん,十指に満たないだろう。小学校の遠足や,昔あった職場の1泊旅行とか出張とかを含めても。っていうか,自分で行こうと思って行ったことは,一度もない。
 秋の紅葉を見に行くなんて,ぼく的にはあり得ない。殺人的に混む時期に,何でいろは坂をウロウロせねばならんのだ?

● とはいえ。いつか自転車で行ってやろうと思っている。いろは坂を使わないルートで。
 具体的には栗山から戦場ヶ原に出る。が,その後がどうしようもない。片道はいろは坂を通らざるを得ないですねぇ。

2018年4月22日日曜日

2018.04.22 久々の富士そば

● 富士そば池袋西口店。富士山盛り。3玉分。600円。これが完食できるうちは健康だということ。
 そうではあるのだが,いつまでもこういうものを食べていてはいけないな。抑え気味にしていきたいよ。

● 知らない店に入るのは苦手。その苦手度合いがやや極端だと自分では診断している。ので,一人で東京に来て入れる店というと,富士そばか吉野家になってしまいがちだ。
 それではせっかくの機会を取り逃がしているのではないか。自分ではあまりそういうことは考えたことがない。富士そばも吉野家もそこそこ旨い。そこそこ旨ければそれでいいじゃないか。

● 富士そばの全メニューを食べ尽くした,東海林さだお『偉いぞ! 立ち食いそば』はまだ読んでいないけれども,そこそこ派の背中を押してもらえそうなので,いずれその機会を得たい。

● けれども,立食いそば(ここは座って食べる方式だけど)のお世話になるのは,以前に比べると,減っていると思う。理由は単純。家で作った方が旨いと思うようになったからだ。
 なぜそうなったかというと,市販の汁が良くなっているからだ。特にストレートで使うタイプの汁はかなりいいですなぁ。

● 特にこれからの時期,冷やして食べるのならば,セブンプレミアムのストレート汁で問題はほぼ解決する。麺はスーパーで普通に売っている乾麺で問題ない。原価150円で富士山盛りが食べられる。

2018年4月21日土曜日

2018.04.21 週刊誌を読んでみた

● 久しぶりに週刊現代と週刊ポストの今週号を読んでみた。で,感じたこと。
 この両雑誌の読者層は相当に高齢化しているのか。ジジイ御用達の雑誌になってしまったのか。

● なぜそう思ったかというと,高齢者向けの記事が多いのだ。60代や70代になってもHの現役でいるためには,とかね。
 昔は20代の男性にも読者がいたと思うのだが,既存の読者が歳を取るにつれて,読者層が高齢化してきたのだろうか。つまり,読者の新規参入がないようなのだ。

● となると,ジジイが死に絶えれば両雑誌の命運も尽きる。週刊新潮や週刊文春もおそらく同じだろう。
 しかもだ。ジジイになってなおこんなものを読んでいるんだから,読者層の知的水準にも疑問を呈したくなる(→おまえが言うな)。
 紙の男性週刊誌はもう半ば終わっているという印象を受けた。今更の感想かもしれないけれど。

● 総合月刊誌と呼ばれるものはとっくに終わっている。各出版社の顔だったものだから,今でも残っているものもあるんだけれども,かろうじて残っているだけで,世間や社会に爪痕を残すだけの力は失っている(いや,そんな力を持ったことなんて過去にもあったろうか)。図書館が購入をやめたら,即,引退に追い込まれるのではないか。
 週刊誌もそれに続いてしまうんだろう。これ,そっくりネットに移してもダメだと思う。たぶん,読まれない。ネットに移って無料で読めるようになっても,たぶん読まないと思う。そう考える根拠は,自分が読まなくなったことだ。

● 楽天やdocomoが,月額400円とか500円で雑誌読み放題というサービスを提供しているけれども,これだっていつまで存続できるか怪しいものだ。
 じつは,このサービスに食指が動いたことがあった。でも,雑誌を読むだけで1日が終わってしまいそうだと思ってやめたのだ。
 実際はどうだったろう。読むことはなかったかなと思う。

2018.04.21 シェラトン都ホテル

1254号室
● 白金台のシェラトン都ホテルに投宿。何度も泊まっているので,目黒駅からホテルまでの光景はすっかり馴染みになった。気分としては,ここがわが家の別荘になった感がある。
 白金台という場所も,以前は何もないところだと思っていたんだけど,別荘地だと思えばなかなか以上に快適なエリアだ。場所への愛着もできつつある。

これでハイボールを
● この別荘のいいところは,事前に電力会社や町役場に電話して,電気や水道を通しておいてもらう手続きが要らないことだ。
着いた当日と翌日に大掃除をしなければ住める状態にならない,なんてこともない。
 フラッと行っても,準備万端整っている。帰るときもそのまんまでいい。何の手間もかからない。

きれいどころ
● さらに,掃除や食事の準備も自分たちでする必要がない。上げ膳据え膳,掃除付き。何度も行けば,こちらの癖も憶えてもらえる。
 本格的なサウナやプールまであるのだ。その管理も自分たちでやる必要はない。専門家が全部やってくれるのだ。プール付きの別荘を持ってるなんて,かなりの富裕層でも稀なのではないか。太陽王と呼ばれたブルボン王朝のルイ14世ですら,ここまで至れり尽くせりのサービスを受けていたかどうか。

● まだあるぞ。この別荘なら,自分の好きな場所にいくつでも持つことができるのだ。那須にも持てるし,ハワイにも持てる。沖縄や北海道にも。
 不動産取得税がかからないのだ。用済みになったとしても,売却する必要がない。そのまま放っておくだけでいい。

「四川」の朝食
● では,どこに別荘を持つかといえば,ぼくの場合は,まず東京ということになる。東京は栃木の奥座敷なのだ。この座敷にはないものがない。ひじょうに便利に使える座敷なのだ。
 大事なことは,座敷にあるものをリビングに移そうなどと考えないことだ(つまり,東京にあるものは栃木にもあるべきだなどど考えてはいけないということね)。リビングはシンプルに保っておくべきだ。
 せっかく座敷があるんだから,座敷に置けるものは置きっぱなしにしておくのがいい。必要に応じてその座敷を使えばいいだけだ。

夜の日本庭園
● その東京の別荘も手放さなければならないかもしれない。というのは,今回もスイートの3食付きで1泊5万円という宿泊プランで泊まっているんだけれども,催行主の相方によれば,もうこんな料金のプランは出ないだろうということなのだ。
 これより以降は10数万円になっているらしい。さすがにぼくらには手が出ない料金だ(が,以前の常識に照らしてみれば,その10数万円が妥当な料金のように思える。サウナやプールまで使えて5万円というのは,安すぎるのだ)。少なくとも,東京五輪が終わるまでは,破格のプランは登場しないだろうと思われる。

焼きそばを侮る者は地獄に堕ちよ
● つらつら考えるに,関係者が騒いでいるほどには五輪の経済刺激効果は大きくないと思うんだけれども,それでも五輪の小判鮫たちが入れ代わり立ち代わり,大挙して東京にやってくるだろう。人のお金で泊まる連中だから,しみったれた使い方はしないだろう。
 ホテルとしてはここでしっかり稼がねば。いや,稼いでほしい。

● 黄金週間中にもこのホテルに2泊の予定。なんだけど,さすがにスイートというわけにはいかない。
 その後はもっと安いホテルを探すことになるだろう。

きれいどころ 2
● そうまでしてホテルに泊まらなければいけないのかといえば,全然いけなくないんだけど,相方にはそれが最高の癒やしになるらしいのだ。人生に癒やしは必要だからね。
 特に女性の場合は,大人になると人にほめられることが極端に減るはずだから。まして中年と呼ばれる域に達した女性は,よほどの容姿か才能をまとっているのでない限り,そもそも人の目に留まらない存在になりがちだ。
 女はほめられ続けていないと女を全うできないところがあるように思われる。それが失われれば,それに代わる癒やしの場が必要になる。それをも取りあげるのは酷に失する。

2018.04.21 新宿散策

● 右の写真は新宿のサザンテラス。こんなものができたおかげで,新宿駅で迷うようになったのだ。動線が大きく変わったからな。まぁ,いい。

● このエリアに小田急ホテルセンチュリー サザンタワーがあることは知っていた。そのホテルを初めて見た。といっても,36階のビルの高層階がホテルになっているわけで,そこまで行ったわけじゃない。
 ここがそうなのかと思っただけだ。用もないのに高層階にあるホテルフロントまで行く度胸は,ぼくにはないのだ。

● JR東日本の本社ビルがここにあるのも初めて知った。こんなところ(高層ビル)で働いたら十中八九ウツ病になるな。つまり,田舎者だからなんだが。
 ぼくからすると,建物はせいぜい9階までで(つまり,一桁),それを超えると,建物の威圧感が勝りすぎて,そこで働く人にはストレスになる。ホテルならもっと高くてもいい,少なくとも宿泊客にとっては。
 が,毎日通う職場となると,高層建築物というのは異物なのだ。タワーマンションなんてのもどうなのかと思うのだよ。

● ところが,それを良しとするというより,それを望む人の方が多数派らしいのだ。ぼくからするとじつに不可思議なんだが。
 つまり,そうしたところが,ぼくは根っからの田舎者ってことなのだろうと思うんだけどね。

● マイクを持った外国人女性に何語かわからない言葉で話しかけられた。ぼくが知的なナイスミドルに見えたのだろう。無理もない???
 その何語かわからない言葉で懸命に対応したことは言うまでもない(→ウソ)。女性から期待された役柄にはともかく対応するのが,ジェントルマンの責務であろう。

● っていうか,これ,マイクの女性とビデオカメラの男性が一組になってるんだけど,いわゆるキャッチの類であろうな。外国人にやらせるバージョン。色々と新手を考えるものだ。
 無視して通り過ぎるのが上策かと存ずる。ぼくもそうした。っていうか,ほとんどの人はそうしている。
 新宿って,東京の中でも田舎者が多いところで,たまに応じている人がいるのだが,田舎からの上京者であろうと思う。いや,ぼくも危ういところではあったんだけどね。

● けっこう新宿駅周りをうろついたので,地理のおおよそは頭に入ったと思う。では,今後は新宿で迷子になることはなくなるかといえば,そういうわけには参らない。
 なぜかといえば,現在地を失認するからだ。現在地がわからなくなったのでは,頭の中の地図も役に立たない。

2018年4月20日金曜日

2018.04.20 SNS雑感

● TwitterもFBも使い方は人それぞれだ。それでいいわけだ。決まった使い方などない。自由に使えばいいわけだ。
 たとえば,自転車を趣味としている人は自転車のことしか書かないとか,音楽をやっている人は音楽のことしか書かないというのが,けっこうあるようだ。ブランディングというと大げさだろうけれども,最もアピールしたいことに特化した使い方。

● 一方で,何でもありという人もいる。ぼくもその派に属する。日記のようなもので,その日の出来事ややったこと,食べたもの,思ったことを時系列であげている。
 TwitterもFBも写真が使えるのだから,日記として使う場合でも,より詳細な記録を残せるだろう。

● そうした使い方をすると,まとまりがないというか,とりとめがないというか,散漫というか,ツイート(投稿)の水準が揃っていないというか,そういうものになる。特に,FBではこんなもの書くなよと言われることもあるかもしれない。
 が,そうしたバラツキはあっても,全体として自分の水準や性格が現れたものになっているだろう。

● SNSはリアルの交際と同様に(ひょっとするとそれ以上に)飾りや気取りはそれとバレる。飾る人だ,気取る人だ,とバレてしまう。リア充自慢も自慢だとわかってしまう。
 知らぬは本人ばかりなり。お里は知れるものなのだ。ここは隠しようがない。SNSでは自分の素が晒される。そういう意味でSNSは怖いものだ。
 その怖さに無頓着だと損をする。場合によっては取り返しのつかない結果を招くことがあるかもしれない。バレバレなのにバレていないと思って演じているなぁ,と思えてしまうのに,時々出くわす。

● ぼく一個は,サラリーマンの場合は,仕事のことは書かない方がいいと思っている。職場の誰かを告発することが目的でもない限り,仕事や職場のことはSNSにはあげないと決めておいた方がいい。
 書いてはいけないことを書いてしまうかもしれないからだ。何が書いてはいけないことなのかは,事前に決まっているわけではない。書いて問題になった後に,書いてはいけないことだったのだとわかるのだ。というか,書いてはいけないことだったことにされるのだ。会社とか世間というのは,そうしたものだろう。

● が,その怖さよりも,自分を晒すこと,自分を語ることの快感の方が勝るのだろう。少なくとも,ぼくはそうだ。その誘惑にはなかなか抗しがたい。
 ここまでSNSが普通になると,個人情報の保護というのは,もはや過去のものになったと考えるしかない。自分から積極的にばらまいているんだから,それはもはや保護するに値しない。個人情報の保護,思えばはかない寿命であったな。

2018年4月19日木曜日

2018.04.19 ガリガリ君シーズン到来

● 真冬にも食べてはいたんだけど,本格的なガリガリ君シーズンの到来。ガリガリ君の特徴は永遠の未完成。ディズニーランドと同じだ。いつもどこかをいじっていて,“これで終わり”がない。
 ガリガリ君も次々に新製品が出る。これがガリガリ君の全容だというのは,いつになっても現れない。

● 面白いのは,これはないだろうというのも出ることで,たとえばナポリタン味。これはダメだろうとたいていの人は思ったはず。実際,ダメだった。だからすぐに撤退した。
 が,そういうものでも出してみるっていうのが赤城乳業のいいところというか,凄いところというか。こういう会社って文具業界のキングジムと氷菓業界の赤城乳業が双璧ですかねぇ。

● ぼくはガリガリ君の史上最高傑作は“スイカ”だと思っているんだけど,相方はこの“九州みかん”だという。これで相方もガリガリ君を食べるようになった。めでたし,めでたし???
 でも,これ,同じメーカーの“ガツンとみかん”と競合するかも。っていうか,“ガツンとみかん”の方が旨いんだよね。だから,ガリガリ君の史上最高傑作は“スイカ”であるべきなのだ???

● ガリガリ君はスーパーで大人買いする。定番のソーダ味やコーラ味,グレープフルーツ味はたいていあるんだけど,それ以外は店によってあったりなかったりする。
 ので,どこに何があるかを把握しておく必要がある。わが家の近くだと,“九州みかん”は「とりせん」にある。

2018.04.19 「みやこ家」の濃厚つけ麺

● 氏家「みやこ家」の石焼き濃厚つけ麺を食す。「みやこ家」の定番。大盛りでごわす。昔のモノサシではあり得なかった濃厚すぎる濃厚が,今では普通になった。
 こういうのは振り子のようなもので,いずれまた濃厚は廃れるのだろうと思っていたが,今のところ,その気配はない。

● 相方も大盛りを注文。当然,食べきれなくて残す。何度も同じ失敗(?)を繰り返している。学習しないヤツだなと思うんだが。
 相方に言わせると,並盛りだと気持ち少ないんだそうだ。中盛りがあるといいと言っている。たしかに,以前に比べると盛りが少なくなったかも。

● 最近(といっても,けっこう前だが)唐揚げセットというのができた。鶏の唐揚げとご飯とお新香。単品で注文すると500円。一度は食べてみようと思う。500円で一食まかなえれば安いもんなぁ。
 麺と一緒に注文すれば350円なんだけど,そこまでガツンと喰えるのは若い衆に限られるだろう。

● 「みやこ家」はガッツリ系だから,外食店には珍しく,男性客が主体になっている。仕事帰りの男性が一人で来る。ので,どうしても雰囲気は地味になりがちだ。
 女性にアピールしようと,メニューにも工夫を加えている。その努力はわかるんだけども,注文している人を見たことがない。ガッツリ系が「みやこ家」のイメージとして定着しちゃっているからですかねぇ。

● 数年前は,夏場の季節限定で汁なし担々麺というのがあった。めちゃくちゃ辛い。唐辛子ではなく山椒がどっさり入っていた。口の中がヒリヒリした。文字どおりにヒリヒリ。
 当時は中学生だった息子が調子こいて注文して,完食するとどうだという顔をした。
 その汁なし担々麺の衣鉢を継ぐメニューもある。が,注文することがあるかどうか。「みやこ家」はつけ麺の店なのだ。

2018年4月16日月曜日

2018.04.16 歳をとっても若い人

● 右は今日の下野新聞。70歳を過ぎてから蕎麦打ちを始め,83歳で4段を獲得(蕎麦打ちにも段位もどきがあることを初めて知った)。
 分野を問わず,超高齢者が活躍している記事を見ると,サッと反応してしまう歳になったのだなぁ,とちょっと悲しい。

● この方のすごいところは,20歳も年下の男性から教えを乞うことができたことだ。70歳を過ぎてから始めているんだから,そうならざるを得ないわけだけれども,できない人,多いんじゃないかな。
 男性の場合,相手が女性であれば,年下であっても嬉々として教えてもらうことはできる。男は単純にできているからな。が,年下の男性からとなると,仕事であればまた別だけれども,けっこう抵抗を覚える人が多いんじゃないかと思う。

● この方,見た目も若い。83歳には見えない。見た目が若いってことが,つまり,若いってことなんだよね。考え方の柔軟度とか,運動能力とか,体力とか,活動性とか,そういうものを総合したものが見た目なんだと思う。
 外見と中身を分ける考え方は,少なくとも高齢者には適用できない。外見がすべてだ。

● っていうか,高齢者に限らず適用できないね。内面の最も表層が外見なのだ,とはよく言われることだけれども,そのとおりだと思う。
 外見がオバタリアンと化した女性は,100%の確率で正真正銘のオバタリアンだからね。オッサンもまた同じ。少なくとも,ぼくはまだ例外を知らない。

● それ以前に,外見を通さないでダイレクトにその人の中身を認識することはできないわけでね。外見を通して中身を推測する,外見に現れたところの中身をみる,そういうことしかできないはずだ。
 中身と外見を分けて考えてしまうのは,少々以上に幼稚であるのだろう。

● もちろん,ここでいう外見というのは,容姿とかファッションセンスとは別のものだ。いや,センスは含まれるかもしれないけど,美人だとかイケメンだとかというのとは別ものだ。
 10代や20代前半の若い男性は,笑っちゃうほどそうしたルックスに弱いものだが,しかし,そこ止まりだろう。30歳を過ぎてもそうしたものに惹かれるのは,根が幼稚だからだ。そういう男を相手にする女性はまずいないとしたものだろう。

● しかし,ではどうすれば見た目を若く維持できるのかとなると,年下を師とできる柔軟さを持ち,努めて外に出て,身体を動かして足腰を鍛え・・・・・・となるわけだから,見た目が大事と言ったところで,それだけでは何の情報も付け加えたことにならないんだけどね。
 っていうかね,この記事で紹介されている滝沢さんは,83歳にしてはあまりにみずみずしい。そのみずみずしさを保っていられる要因は,もって生まれたもの(DNA)なのかもしれないなと思う。

2018.04.16 Twitterの使い方に変化あり

● ぼくはFBよりもTwitterが好きだ。緩い感じがあって。緩いというのは,つまり自由度が高いというか。Facebookに比べると世界が広い気もする。Facebookは閉じられた世界という感があるのに対して,Twitterは開かれているというか。
 あくまで相対的なもので,どっちも大差ないといえばないのかもしれないけどね。

● したがって,FBはコミュニケーションツールであるのに対して,Twitterは広く情報を集めるのに向いていると思う。だから,そのように使ってきた。
 興味のあるオピニオン・リーダーを次々にフォローして,彼らのツイートを読む。彼らの普段が見えるような気がして(錯覚だと思うのだが),それはそれなりに面白かった。

● のだが,最近というかだいぶ前から,彼らのツイートを読まなくなっていた。なぜかといえば,読み切れないというのがひとつ。けっこうつまらないと思ったことがひとつ。情報を自分の頭に入れるんだったら,Twitterより本の方が間違いないなと思ったことがひとつ。
 時事問題ばかりになる傾向がある。選挙のときは自民党が勝つか負けるかが微細に語られる。個々人はもちろんそうじゃないんだけど,トータルとして読むとそういう印象になる。簡単に食傷してしまう。

● こちら側の問題として,安易にリアクションしてしまうことがある。引用リツイートで疑問を呈してみたりとか。こんなことをして何になるのかと思いつつ,パパッとやってしまうんだな。
 同じようなバカがけっこういて,泥試合というのかなぁ,そういうやりとりを読ませられることもあって,こりゃ時間の無駄だわ,と。

● というわけで,彼らオピニオン・リーダーのフォローを原則すべて外した(例外あり)。スッキリした。散らかり放題のゴミをまとめてゴミ箱に捨てたような気分だ。
 以後は,Twitterはこちらが勝手につぶやくためのツールだと割りきることにする。

● また気分が変われば,フォローし直せばいい。このあたりの自在さはTwitterのいいところだ。
 今はフォローを外してスッキリしたと思っているんだから,フォローし直すなんてことはあり得ないと思っているけれども,自分の気分ってあんまり信用しない方がいい(長続きしないから)ということもわかっている。

2018年4月15日日曜日

2018.04.15 宇都宮市立南図書館

● 栃木県内で最も居心地がいい図書館は,たぶん,ここだろう。ぼくが行ったことのある図書館は,限られているんだけど。
 なぜ居心地がいいかといえば,建てられたのが新しいからだ。新しいと何が違うか。耐震構造とか表には現れない部分ももちろんあるに違いないが,まずトイレスペースがゆったりしていて清潔だということ。
 これ,大きい。ウォッシュレットがあるのはあたりまえだが(公共施設では必ずしもあたりまえではないのだが),それに加えてキツキツしていないってことね。

● この施設はコミュニティセンターの機能もあって,会議室もけっこうな数ある。たいていの図書館には会議室や談話室があるけれど,それらとは度合いが違うというか,付け足しではないというか。
 ロビーの壁では常時,何かの展示が行われている。宇都宮南高校美術部の展示会であったり,地元出身の作家,立松和平さんのゆかりの写真を展示していたり。その他の図書館にはポスターとチラシしか貼られていないのと,ちょっと違っている。

● サザンクロスホールと命名された多目的ホールがある。コンサートにも使える程度に音響の良さも確保されている。座席の勾配や前後の距離もほどよくて,ホールとしてもなかなかにいいものだ。
 ただし,この名前はいかがなものかとは思っている。雀宮からサザンクロスが見えるはずはない。おそらく,南図書館にいろんな人が集まってクロスする(交流する)という願いをこめたものだろう。いや,一般公募で決まった名前だったか。

● 「南図書館のうた」というのまである。地元出身のせきぐちゆきさんが歌っている。YouTubeで聴ける。音質にこだわるなら南図書館にCDがあるから,借りればいい。
 この歌,ぼくはけっこう好きなんですよ。ひょっとすると,ぼくは子供の心を失っていないのかもしれないと自賛するんだけど,情緒に弱いところがあると評した方が正解に近いだろう。

● その「南図書館のうた」は南図書館を“憩いの場所”と言っている。ん? 待てよ。図書館っていうのは神経を研ぎ澄ませて文献にあたる作業をするところで,憩いとは対極にあるものではないのか。
 と思わぬでもないのだが,現実の市町村立図書館は憩いの場所になっているでしょうね。つまり,図書館でそうした作業をしている人はあまりいない。
 利用者の多くは高齢者で,だいたい備付けの新聞か雑誌を読んでいる。まさに“憩いの場所”だ。幼児を連れた母親も多い。図書館は子供を連れて行ける安全な場所なのだ。“憩いの場所”だ。

● 市町村立図書館はかなりの比率で,蔵書を収納するためにスペースの大半を使っている。図書を閲覧するための机やテーブル,椅子は総じて少なめだ。
 それで利用者が不便をかこっている様子もない。図書館は本を借りるところであって(無料の貸本屋),そこで本を読むためにあるのではない,と割りきっているようだ。

● 実際,図書館の多くは本を読むには不適なところだ。騒音に満ちているからだ。
 騒音の発生源は2つある。ひとつは,前頭葉がかなり萎縮してしまっているのだろうと思える高齢者からのクレームだ。いちいち伝えるほどの内容ではないのだが,人目を憚らない大声でスタッフに噛みついている。こうした病人のリハビリまでしなければならないのだから,図書館のスタッフは大変だ。

● もうひとつは,幼児が大声を出して動き回っていることだ。親子教室的なもの(絵本の読み聞かせ,紙芝居など)が図書館の重要な業務のひとつになっているようだ(絵本や紙芝居など,幼稚園や保育所でさんざん聞かされていて,子供たちは食傷しているのではないかと思うのだが)。
 おそらく財政当局からの予算の締め付けが背景にあるのではないかと推測する。利用実績を作って,こんなに住民からの需要があるのですよと,財政当局に訴えなければならない。
 問題なのは,そうしたものを閲覧室の一画でやっていることだ。他に場所がないのだから仕方がないのだが。

● 南図書館は,そこで本を読める数少ない図書館のひとつだ。閲覧のための装置がしっかりとある。部屋数が多いので,絵本の読み聞かせはそれ用の部屋を確保できている(たぶん)。
 ぼくの知る限り,南図書館以外で館内で本を読めるのは,芳賀町図書館と那須烏山市図書館,さくら市図書館の喜連川館,この3つだけだ。つまり,図書館に関しては,都市部より郡部の方が環境的には恵まれている。南図書館も雀宮にあればこそ,これだけ充実した施設を具現化できたのだろう。

2018.04.15 「すき家」の豚丼,ただし自宅で

● 朝から「すき家」の豚丼。相方がネット通販で大量買いしたのだ。写真のダンボール箱がいくつもあるのだ。
 納豆なら毎日でもウェルカムだけど,毎日が豚丼っていうのはどうなんだ?

● 何を考えてこういう買い方をするのかってのは,長く一緒に暮らしていても,理解不能。
 っていうか,安くオファーされていたからに決まっているんだけど,安さに惹かれて大量買いするっていうのは,やってはいけないことのひとつですよねぇ。
 豚丼以外のものを食べる機会を逸失させる。大量にあると,ひとつひとつの取扱いが雑になる。
 トータルでたぶん損なんだよね。第一,(おまえが言うなって話だけど)貧乏くさい。

● ただし,こういうことに文句を言うほど,ぼくは無謀な人間ではない(つもり)。
ありがたくいただきましたよ。今日が1食目だ。

● うちの相方は買物大好き。スーパーやショッピングセンターをハシゴするのが趣味。夫婦の二人暮らしなのに,何でこんなにと思うほど買うんですよ。
 本人も,スーパーで買ってきて家で作るより,外食した方が安いって言ってる。

● 加えて,一日おきに宅配便が届く。どうしてそれほどのモノが必要なのか,ぼくにはホントわからない。
 必要だから買っているのではないように思える。買うという行為を味わいたいから買っているんでしょう,たぶん。刹那に生きている,というかね。

● もちろん,何度も失敗している。使わなくて捨てる,食べきれなくて捨てる,買ったことを忘れてて賞味減が過ぎていた,というのはわりとしばしばある。
 自分が管理できる水準を超えてしまうんですね。

● かといって,買物依存症というほど病的な水準ではないし,只今現在はぼくより彼女の方が稼いでいるので,ぼくが口を挟むようなことではない。
 かくして,わが家がどんどん倉庫化していく。どんどんモノ(特に衣料品)が増えていく。
 ああ,ありがたい,ありがたい。

2018年4月14日土曜日

2018.04.14 また「みんみん」

● この程度の餃子なら日本全国のソチコチにあるだろうなと思いながらも,「みんみん」高根沢店へ。18時頃だったんだけど,土曜日のこの時間帯は高根沢店でも待たないと入れない。
 といっても,宇都宮にある「みんみん」に比べれば,待つうちに入らなかった。

● よそから宇都宮に餃子を食べに来る人がけっこういるようだ。大通りを歩いているときに,「みんみん」本店の場所を訊かれたことがある。もちろん,親切に(?)教えてあげたけれども,ぼく自身は「みんみん」の本店に行ったことはない。
 前を通ったことは何度もある。いつも行列ができているという印象がある。宇都宮から少し足をのばして高根沢まで来れば,待たずに同じ餃子を食べられるのになぁ。

● いや,彼らにとっては宇都宮で食べることに意味があるんだろうからね。餃子を食べるのが目的じゃない。宇都宮で餃子を食べたという体験を持ち帰るのが目的なのだろうから。
 たとえ同じものであっても,高根沢で食べたのでは食べたことにならないのだ。

どんな秘密なんだ?
● 「この程度の餃子」と言ってしまったけれど,餃子といえば「みんみん」だと,ぼくも思っている。ただし,そちこち食べくらべた結果,その結論に至ったわけではない。
 まず,世間の評判があった。餃子は「みんみん」か「正嗣」だよね,っていう評判。ぼくのような「みんみん」派と「正嗣」派に分かれている。その評判に全面的に寄りかかっている。
 餃子市場に新しく参入したお店にとっては,「みんみん」の壁,「正嗣」の壁があるんだろうな。

● というわけで,告白します。高根沢町に住んでて良かったと思うことのひとつは「みんみん」があることです。
 ちなみに,ぼくは焼き以外は餃子とは認めないという偏狭な男だ。相方は水餃子を好んでいる。

2018.04.14 牛乳を飲んだ。10年ぶりか

● どういうわけだか,牛乳を飲みたいと思った。で,飲んだんですけど。牛乳を飲むなんて10年ぶりか,ひょっとして20年ぶりか。
 大人になってもお乳を飲むのは人間だけなんですよね。どうして飲みたいと思ったのか,自分のことながらわからない。

● ヨーグルトはよく食べるんですけどねぇ。ヨーグルトとかチーズとか,発酵させた乳製品は。
 子供の頃はチーズなんて受け付けなかったけど,今の子供はどうなんでしょうねぇ。どうなんでしょうねぇって,今の子は食べてますよね,普通に。マックのチーズバーガーとかねぇ。

● 発酵食品は大人のものというのは,こちらの固定観念にすぎないんですかねぇ。ひょっとすると,ぼくの身体の半分は固定観念でできているのかもなぁ。

● 牛乳は身体に悪いのだという人もいる。ぼくは食べられるもので身体に悪いものなどないと思っているので,そのとき食べたいと思ったものを食べればいいと単純に考えている。
 牛乳を飲みたいと思わなかったのは,牛乳って旨いと思っていなかったからかな。小学校のときの給食のトラウマ? あれは生乳ではなく脱脂粉乳だったのかもしれないんだけど,表面に膜が張っているのがイヤだった。

● ぼくの味覚が粗いからかもしれない。牛乳より飲むヨーグルトの方が好き。その理由はハッキリしていて,飲むヨーグルトは甘いからだ。甘いってわかりやすいからね。
 味覚が幼いというか,そういうことかもしれないんですよ。

2018年4月12日木曜日

2018.04.12 うどんは釜玉が一番旨いのではないかと思う今日この頃

● 先日,イトーヨーカドーでミツカンのこれを買った。で,目下,釜玉うどんにハマり中。要するに,卵かけうどんなんですがね。

● 数ヶ月前に釜玉用のうどんだし醤油というのがあるのを知り,そんなもん下野国では売られてないぞと思い(実際にはあるんでした。何種類かありますわ),普通の麺つゆに醤油を加えてみたりしたんですけどね。なかなかね。
 メーカーの商品開発力を侮っちゃいけませんな。大したもんですよ。自分でやっても,この味にはなりもはんで。

● 麺は何でもいいいですな。ぼくは,那須烏山市は高木食品の「高木のうどん」(乾麺)をできるだけ使うようにしているんだけど(スーパーオータニで取扱中),これはごく私的な理由によるもので,麺は何でもいいかな,と。
 ひやむぎでもいけるんだけど,ソーメンはダメっぽい。

● 一番向くのは冷凍うどんじゃないかと思うんですけどね。少し高いけど。
 でも,今の冷凍うどんは良くなってますよね。昔は「加ト吉」以外は買ってはいけないと思っていたもんです。今はどれでも大丈夫。

2018年4月9日月曜日

2018.04.09 体にいいとされるものだけを食べていても必ず死ぬ

● 昨年の秋に新米が出回るようになって,色々食べ比べているんだが,日本の米処は新潟から北海道に移ったのかも,と思っている。
 そうは言っても,地元栃木の米も食わずばなるまい。というわけで,栃木のコシヒカリ“いな穂ちゃん”を食べている。栃木の米も旨いですな。

● 米のいいところは,炊きたてならオカズを選ばないことだ。極端な話,塩をふっただけでも旨いのだ。小麦じゃ粉にするしかないだろうが,米は粒のままで旨い。
 ちなみに,ぼくは白いご飯しか認めないという狭量なタイプ。麦ご飯などもっての外だし,炊き込みご飯やブラウンライスもダメ。
 トロロだって,白いご飯にかけた方が旨い。麦とろというのは訳がわからん。体にいいからだって? バカを言っちゃいかん。旨いと感じるものが体にいいのだ。体にいいからと言い聞かせて不味いものを喰うのは,喰うことを修行にしている。修行は他のことでやったらよかろう。

● これを言うと身も蓋もないけれど,体にいいとされるものだけを食べていても必ず死ぬのだぞ。喰うことを修行にしたところで,死ぬときには死ぬのだ。
 楽行しかしなかった人に比べて,いかほどの差があるか。何の根拠もなく言うのだが,おそらく有意差はあるまい。

● さらに言うと,身土不二という考え方を,ぼくはまったく信じない。そういう人たちの中にレタスやキャベツやトマトは食べないという人はいるのか。いないだろう。言行不一致である。
 うちの畑でとれたトマトですと言ったってダメだ。トマトは外来種だ。

● 「美味しんぼ」を読みすぎて,ダシといえば自然ダシに限ると思いこみ,40歳を過ぎても「味の素」の旨さを知らないでいるのは,不幸のひとつに数えていいだろう。
 無農薬だの有機栽培だのを無条件で良しとするのは,無知もしくは勉強嫌いの証明だと思っている。日本の農薬の使用状況を知ろうともしていないのだろう。
 ま,いいんだけど。中国の野菜も入ってきているわけだしね。

2018年4月8日日曜日

2018.04.08 ベルモールの「風神社中」

● 久しぶりにベルモールの「風神社中」で遅めの昼食。なぜここにしたのかというと,相方が発見したんですよ。値下げしたって。元の値段に戻ったらしい。650円だったのが730円になって,それが650円に戻ったらしい。しかも小ライスまで付くようになったんだよ,と。
 ぼくも貧乏性でお金を惜しんでしまうタイプなんだけど,こういう変化にめざといのは女性の方かなぁ。

● そういうことだけで店を選んでいると,トータルで大損こく結果にならないかと思わないでもない。が,こういうときは決定者は相方で,ぼくは従者。
 長年そうだったから,相方とぼくの行動力にはだいぶ差がついてしまっていると思う。そうじゃなくても,ここ一番というときには女の方が強いからね。

● ともあれ。一番安い淡味。650円。替え玉をしてしまうので,750円になる。小ライスは半ライスというより,クォーターライスという感じ。テーブルに置いてある辛い野沢菜をおかずにして食べると,旨いっすね。

● ベルモールに入っている飲食店にもそれなりに新陳代謝がある。お客さんはベルモールが集めてくれる。そうではあっても,当然ながらお客に支持される店とそうではない店ができる。
 ラーメンなら堅いだろうと思うが,その分,競争も激しいだろう。「風神社中」は健闘している。

2018.04.08 スターバックスの心地よさ

● 相方とベルモールに行ったので,スタバに寄る。11時を過ぎたころだったろうか。まだ空いていた。コーヒーフラペチーノの一番でっかいやつを注文した。

● 周囲を見渡してみると,読書してる人あり,パソコン中の人あり,食事してる人あり,お喋り中の人あり。最も多かったのは本を読んでいる人だった。つまり,お一人様が多い。今さらだけれども,スタバは一人で来ている人が多い。
 これ,今ではすっかり当たり前になっているけれども,女性が一人で外でご飯を食べたり,喫茶店に入ったりっていうのが珍しかったのは,そんなに昔のことではない。年配の女性の中には,今でも一人カフェ,一人外食に抵抗感を覚える人がいるかもしれない。

● そうは言っても,女性たちは空間を選ぶだろう。どこでもいいということではないはずだ。スタバは選ばれる空間の最右翼をキープしているように思われる。
 空間の心地よさ,柔らかさ。どうしたらこういう空間を作れるのか。椅子とテーブルの広さや高さ,レイアウトの仕方など,おそらくマニュアルはあるのかもしれない。が,そのマニュアルどおりにやれば必ずこうした空間ができるのかというと,どうもそうではないように思われる。

● 特にこの柔らかさの演出というのは,ハードだけで可能なのだろうか。無理だろう。
 つまり,スタッフの優秀性を外して考えることはできないように思う。多くはアルバイトだろう。時間給は千円程度か。決してそんなにもらっているわけではないのだ。なのに,このモチベーションの高さはどういうわけなのだろう。そこが不思議だ。

● ともかく,スタバはアルバイトスタッフの貢献度が大きい。いや,スタバに限らないね。ぼくが行くような店は,どこも時給で働いている人たちが支えている。
 彼らのモチベーションの高さの理由ががわからないんだよね。いや,それが普通なのか。ぼくの認識がおかしい?

● フラペチーノは発明だと思う。アイスコーヒーとはまったくの別物。アイスコーヒーは冬に飲む気にはならないけれど,フラペチーノならあり得る。冬の寒いときでも飲みたくなることがある。商品開発力もそうだが,基本のコーヒーの味に間違いはないように思える。
 個人が趣味と実益を兼ねてカフェを経営する例はしばしばある。が,長く生き残れるものはあまりないのではあるまいか。一定数の常連を得て,その常連さんに支えられてやっていく形にならざるを得まい。広がりを欠くことが多いのではないかと思う。
 広げるばかりが能ではないから,そういうやり方でやっていくのも立派な行き方ではあるのだが。

● ところで,写真の右上に足を組んだ女性が写っているけれど,これは盗撮したわけではありません。たまたま写っちゃった。しかも,この女性,わが相方なんですよ。
 この写真を彼女に見せて,“足太ければ,足組まず”という格言(?)を進呈しようかと考えた。が,後の祟りを恐れる気持ちが勝った。でもさ,太ければ組まず,わりと大事かもしれないよね。ね?

2018.04.08 酒も煙草も女もやらず,百まで生きた馬鹿がいる

● 昔は,“酒も煙草も女もやらず,百まで生きた馬鹿がいる”という言い方をする人がいた。今は世の中(の構成員)がまっしぐらにその馬鹿に向かって進んでいるような気がする。何が楽しいのかよくわからんが。

● でも,それじゃ昔の方が良かったかというと,それは百パーセントない。今の方が圧倒的にいい。
 貧乏ゆえの喧嘩がなくなった。人びとのマナーが良くなった。女性が綺麗になった。田舎の閉鎖性が格段に低くなった。イジメにしろ虐待にしろ昔から普通にあったものが,問題点として認識されるようになった。
 衣食足りて礼節を知るというのは本当だった。というわけで,今の方がずっと生きやすい。

● なんだけど,世の中が一色に染まりすぎなんじゃないのかねぇ。もう少し世間の常識や規範から逸脱する人が増えてもいいような。特に,男性はそれがないと男として崩壊しちゃわない?
 それが酒や煙草や女である必要はないと思うんだけども,もう少し偏りというか,テンデンバラバラというか,右顧左眄しないというか,俺は俺だというか,そういうものがあってもいいようは気はしている。

● 男は仕事というけれど,多くの人はサラリーマンとして仕事に携わる。それだと,職場には同調圧力しかなくなる。
 それに呑み込まれずに個を活かして,かつ周囲と破綻を生まずにやっていける少数者はいる。そういう人が,じつは出世していくのではないかと思っている。同調するだけの人は,ま,課長どまり。
 ともあれ,課長どまりのぼくらパンピーは,公私ともに同調圧力にしか晒されていないわけで,だからこそ,どこかで逸脱できないとね。テンデンバラバラになるのを恐れないで。

● 今でいえば,“絆”とか“つながる”をどれだけ相対化できるかということでもある。“絆”も“つながる”も過ぎれば害をなすに決っているんだから。
 その“絆”とか“つながる”を象徴しちゃってるのがFBなんだよね。仲間内で“いいね!”し合い,友だちが食べものの写真を乗せれば「美味しそう」とコメントする。どこから見ようとどう見ようと馬鹿だよね。どんだけ暇なんだよっていう話。

● だから,まずはFBとも上手に距離を取るというあたりから始めるべきなんだろうなぁと思うんだけども,なかなかなぁ。
 同調圧力に抗するのは難しいや。圧力に流されるって,ある種の快感を伴うのもたしかでね。
 でもって,その快感のままに流される人たちを大衆と呼ぶ,というあたりまでは整理できるんだけどね。

2018年4月7日土曜日

2018.04.07 Facebookに「いいね!」が表示されない状態が続いている

● Facebookで友だちの「いいね!」が表示されない状態が続いている。友だちが数百人もいると「いいね!」なんか表示されない方がいいんだろうけど(もっとも,そういう人は閲覧用の“リスト”を作っているでしょうね),友だちが少ない人はスカスカ感が漂うことになる。
 いずれ唐突に復活することになるんだろうけど,その場合,友だちの「いいね!」を自分のTLに表示するかしないか,選べるようにしてくれると嬉しい。

● ぼくなんかは友だちは16人しかいない。それでも「いいね!」が鬱陶しいと感じることがあるんですよね。その場合,友だちのフォローを外すしか方法がないというのもちょっとなぁと思うので。
 と言いながら,遠慮なくフォローを外すんだけど,自分も外されているだろうなぁと思うのはあまり気持ちのいいものではない(勝手なんだけど)。だから,「いいね!」を表示するかしないか選べるといい。
 FB上の友だちでも自ずと濃淡ができるので,その濃淡に応じた取扱いを可能にしてほしいんだよなぁ。現状では濃淡に関係なく画一的な扱いしかできないわけで。

● けれども,FB運用の基本はむやみに友だちを増やさないことだよね。形だけの友だちを作らないこと。
 16人しか友だちがいないのに偉そうなんだけど,友だちリクエストの3分の2は蹴飛ばしている(出会い系FB版としか思えない女性からのリクエストがけっこうあるねぇ)。いったん友だちになった人を削除するのも,あまり躊躇しない方(ただし,こちらからリクエストした場合を除く)。

● 芸能人とかオピニオンリーダーとか政治家とか,すでに有名な人は限界の5,000人に近い友だちがいて,それ以外にフォロアーが万単位でいるだろう。
 けれども,FBユーザーのほとんどは無名な市井の人のはずだ。自分も含めて,そうした人たちにとってFBは情報拡散の手段にはならない。ならないというと言いすぎかもしれないけれど,少なくとも向かない。FBのタイムラインに書いたものは,Googleの検索をはじくんだから。

● 情報拡散とか情報収集の手段としてではなく,“友だち”という閉じた世界の中で,コメントのやりとりをするのがFBの唯一の面白さだと思う。“いいね!”じゃなくてコメントだ。
 とすれば,コメントを入れたくならないような人が友だちでいてもしょうがないし,それ以前に友だちからコメントをもらえるような投稿をしなければしょうがない。言うは易く行うは難し,だけれども。

2018年4月6日金曜日

2018.04.06 藤井六段の凄み

● 右は今日の朝日新聞。
 三段の頃は当然,中学生。中学生にして,ここまで深いメタ認知を,自分に対して発動できることに驚く。早熟というのとはちょっと違う。
 卑近な例になるけれども,受験勉強に関してこれができたら,よほどのバカでもない限り,東大くらい受かるぞ。ところがどっこい,このメタ認知ができないんだよ。少なくとも,ぼくはできなかったよ。全然できなかった。
 ん? メタ認知ができないヤツをバカというのか。

● 右は3月26日の読売新聞。
 詰将棋を解くことを推奨していたのは故米長邦雄永世棋聖。自身も若いころに,伊藤宗看「将棋無双」,伊藤看寿「将棋図巧」を解いたという。
 600手を超える長手順の詰将棋を頭の中で解いていくのだから,畏れいる。小さい頃から鍛えれば,人間の脳はそこまでのことをやってのけるのだねぇ。

● 藤井六段,その詰将棋でも棋界第一。
 ちなみに,ぼくは5手詰でお手上げだ。考える気になるのは3手詰まで。

● ほぼ間違いなく,近い将来にタイトルを取り,将棋界の顔になるのだろう(いや,もうなっているか)。
 しかし,問題はある。その頃まで将棋人気が維持されているかどうか。というより,日本将棋連盟というプロ棋士の組織が存続しているかどうか。
 でも,まぁ,仮にプロ棋士という職業が成立しなくなったとしても,藤井六段ほどの人ならば,どんな世界でもやっていけるだろう。そういうプロ棋士は,藤井六段のほかにも,多数いるのじゃなかろうかと思う。

● そのうえで言うんだけど,詰め将棋は典型的にコンピュータの領域だろう。人間はどうやってもコンピュータには適うまい。
 それは,コンピュータが得意なもの(典型的には記憶)はコンピュータに任せておいて,人間はコンピュータにできないことに特化すべきだ,と言われるのと同じ地平にあるものではないだろうか。
 もっとも,記憶をすっかりコンピュータに任せてしまうと,コンピュータができないことをできる人間にはなれないような気がするけどね。

2018.04.06 土俵の女人禁制問題

● 右は今日の下野新聞。土俵上で挨拶中に市長が倒れたので,救護のため女性が土俵にあがったところ,女性は土俵から降りろと放送したという。
 放送した若い行司を責めるのは酷だと思う。彼は,自らが属している共同体の規範にしたがったにすぎない。

● むしろ,問題は相撲協会の執行部というか情操部にあるのではないか。巡業部長が「女性が上がっているというのが,自分の頭の中でふくらんじゃったようだ」と他人事のように言っているらしいが,それ,ダメだよ。巡業部長に当事者意識がない。
 「女性が土俵に上がったことを疑問視する声が観客から出た」というけど,それを巡業部長がボーッと見ていたのなら,若い行司は巡業部長がボーッとしていたことの代償を支払わされたということだ。

● おそらく,この観客というのは爺だったに違いない。爺に限らず,その人が何を思おうとそれはその人の勝手だけれども,近くにいた若い行司に何とかしろと詰め寄ったのなら,大きなお世話だったな。
 老害だと批判されるかもな。爺になったら世間のことに口を出してはいけないんだよ。憶えておきなよ。

● 「女人禁制」を解禁するかどうかは正直どうでもいいと思う。相撲は神事だから,娑婆の大勢に関係なく,古からのルールを墨守するというのは,あってもいい。
 けれども,こういう前例のない限界事例が発生したときには,現場のとっさの対応をボーッとしていた上層部が賞罰の対象にしてはいけないものだろう。

● ついでに言うと,妙な言い方になるのだが,ここまでお粗末な上層部がこういうケースを受けて,なお“古からのルールを墨守する”という気概は示せないだろうね。「女人禁制」を廃止することになるだろう。
 もちろん,結果において妥当な決定であろうから,この場合は気概のなさが功を奏したことになるんだけどね。

2018年4月4日水曜日

2018.04.04 セブンイレブンの凄み

● 出張の途中,午後5時頃にセブンイレブンに酔った。昼飯をまともに食べられなかったので,セブンのざる蕎麦を買って,車の中で食べた。
 夜に宴席があったので,空腹のまま飲んでしまっては,あまりいいことはないなと思ってね。もうちょっと量があると嬉しいんだが,小腹ふさぎにはちょうどいい。

● このとき思った。田舎のコンビニって小さな「道の駅」ではないのか。
 駐車場が広くて車を停めやすい。セブンコーヒーを買って飲んだり,ぼくのように食事をする人もいる。敷地内に灰皿が置いてあるから,喫煙人にとってはオアシスだ。

● コンサートチケットは「ぴあ」で買うことが多い。「ぴあ」で買ってセブンイレブンで受け取ることにすると,「ぴあ」がシステム使用料で200円を取り,セブンイレブンが発券手数料で100円取る。どっちにとっても美味しいだろうなぁ。
 セブンが「ぴあ」を追い出して,自分が総取りすることを画策するような,不穏な動きはないんだろうか。セブンといえども,さすがにここは手をつけにくいか。データは全部保存してあるんだろうけどねぇ。

● セブンイレブン(に代表されるコンビニ)は昔からあった商店を軒並み呑みこんで,街の本屋を駆逐し(街の本屋の収益源は書籍ではなく雑誌だった。それをコンビニに取られたのでは虎の子を失くしたも同然),郵便局に対抗する存在になり(切手販売と公共料金の振込),宅配便も取扱い,ATMを設置して銀行を補完するというか,銀行の上前をはねる存在になり,カフェやファストフード店や弁当屋を脅かし,福祉事業にも手を染め(高齢者世帯への弁当の宅配),自転車のレンタルも始めた。観光事業にも乗りだすのか。
 今や小さな広場・たまり場の機能も備えつつある(ただし,田舎のコンビニに限る)。セブンイレブンとしては不本意の極みかもしれないけれども,ゴミ収集センターとしての機能も果たしている。

● ネットへの対応についても,早くからの試みと実績がある。が,スマホが普及して,コンビニのマルチメディア端末の利用は伸び悩んでいると思われる。チケットや航空券やホテルの予約をごっそりかき集めるのは難しくなった。
 既存業者より安い価格を提示できれば,話は違ってくるが,それもなかなか難しかろう。専門業者との棲み分けを図っていくんだろうね。「ぴあ」との連携もそれに対応した動きなのかもしれない。

● しかし,モノが絡むとコンビニは圧倒的に強い。ネットだけで完結する世界というのは,たとえば銀行振込,ホテルや航空券の予約程度のもので,あとは最終的にモノが絡んでくる。
 コンサートチケットは紙片が必要になる(将来的にはそうじゃなくなる可能性が当然あるけれども,ライブに行くのはまだまだハレの機会だから,記念になるものが欲しいだろう。この紙片は意外になくならないかもしれない)。紙片であっても,とにかくモノが絡めばコンビニの取扱いの対象になる。
 モノに関してコンビニに対抗できるのは,アマゾンくらいのものか。

● 世の中を便利にしたのは間違いない。小売店にこれほどのポテンシャルがあったとは,セブンイレブンが次から次へと実証してくれるまで,ぼくらは気づくことができなかった。
 次は何を見せてくれるのか。

● さらに驚くのは,外国人のアルバイトが日本語でそれらの業務をこなしていることだ。大したものだ。
 日本のおもてなし文化は,日本特有のものではまったくなくて,ノウハウをマニュアル化できれば,外国でも充分に成立するのかもしれない。となれば,問題はマニュアルを洗練させることだけだ。
 逆にいうと,日本のおもてなし文化は普遍性を持っているのかも。そのあたりの証明も,まずはコンビニがやってくれそうだ。

2018年4月1日日曜日

2018.04.01 新宿から新橋へ

● 新宿駅から初台まで歩いてきた。初台の「料亭よしの」で昼食。「料亭よしの」は別名「吉野家」とも言うんだけど,ここで注文するのは“牛丼並み+生卵”と決めている。卵かけ牛丼,旨いよね。
 440円でこれが食べられるなんて,日本ってほんと,ものの値段が安い国になったんじゃなかろうか。

● 夕方は新橋でボーッとする。銀座に行ってみようとは思わなくなっている。新橋でボーッとするのがいい。
 銀座に出る気がしなくなったのは,こちらの意気が上がらなくなっているからかもしれない。それ以上に,普段着で過ごせる新橋に何かホッとするものを感じるからだ。
 何なんでしょうね,この違いは。中央区と港区の違いではもちろんない。銀座は目と鼻の先にあるのに,ガラッと違うこの雰囲気。

● 上野東京ラインができる前は,ぼくらが電車で東京に出る場合は必ず上野で乗り換えた。上野から山手線や京浜東北線,地下鉄の日比谷線や銀座線に乗り換えたのだ。
 上野東京ラインができてからは,あくまでぼくの場合はってことなんだけど,上野が果たしていたターミナル機能がそっくり新橋に受け継がれた感がある。とりあえず新橋に出て,そこを拠点に行きたいところに向かう,と。

● ということは,帰途は必ず新橋に戻るということだ。新橋から宇都宮行きの電車に乗る。故郷のなまり懐かしい停車場は上野から新橋になったのだ(新橋に東北弁が溢れているわけでは,もちろんない)。
 新橋に来るとホッとするというのは,そういうこともあるかもしれない。かつて上野に感じていたホッとする感じ。

● 実際,上野東京ラインができる前は,新橋で降りるのはお台場に行くときに限られた。お台場なんて行っちゃ悪いけど,滅多に行かないところだ。銀座に行くときには,有楽町で降りた。新橋は用のないところだったのだ。
 しかし,今や,新橋は東京の中で最も近しいと感じられる場所になった。

● 新橋駅構内の「かのや」で夕食にした。ミニカツ丼セット,690円。ぼく一人で出かけるときは,だいたいこんなもん。新橋だから「かのや」だけど,吉野家と富士そばがあれば,世の中は完結するのだ。
 東京までの往復はもちろん,各駅停車のチープトレイン。新幹線を使うなんて,頭をかすめることもない。