ぼくは無に帰する存在のひとつになるわけだな。
● 養老孟司・隈研吾『日本人はどう死ぬべきか?』に次のような発言が登場する。
隈 サラリーマンが迎える定年というのは,死へのステップの一つ前みたいな感じがありますね。というか,ほとんど死と同義語かもしれないですね。養老 以前に会った福島県庁の人は,県庁を定年になて辞めた後,十年以内に半分が死にます,と言っていました。それも,なんとなく分かりますよね。生きがい,張り合いがなくなってしまうんですよ。(p74)● 本当だろうか。サラリーマンにとって定年は死への序曲なのだろうか。
いや,そうなのかもしれない。サラリーマンの多くは,仕事第一でやってきた人たちだろう。
● 家庭だの地域での付き合いだのと言われても,仕事あっての家庭であり地域であって,逆ではないというのが,彼らの本音であるだろう。
ワークライフバランスなどというのは,頭でわかるだけのシロモノに過ぎない。現実を見ろ,そんなことは言ってられないじゃないか。
● という人たちにとっては,仕事はたしかに「生きがい,張り合い」であって,定年は否応なしにそれを一気に奪う,「死へのステップの一つ前」の出来事になるのかもしれない。
そこまで仕事に体重をかけてやってきた人を,ぼくは尊敬する。皮肉でも何でもない。大したものだと思う。自分がそのようにできなかったから,いっそうそう思う。
● ぼくは定年が待ち遠しくて仕方がない。定年になって時間ができたらやりたいことがたくさんあるからというよりも,この鬱陶しさとサヨナラできるからという,わりと後ろ向きな理由によるところが大きい。
あまり仕事に体重をかけてこなかった。仕事を通じてできた友人もいないし,恒常的に飲んだりしている仲間もいないし,私淑する先輩もいないし,そういったものを欲しいと思ったこともない。
だから,定年で失うものはまったく何もない(収入がなくなるということはあるけれど)。
● 一方,定年で得られるものはある。時間と自由だ。
ぼくには孤独が寂しいという感覚があまりない。孤独はつまり自由ではないか。
人づきあいなど,自由の制約要因でしかない。だから,孤独は望むところだ。
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